第207話「センチメンタルが似合わない女の子なんてこの世にいないって」
いつもと違う帰り道をたどり、閑散とした公園に足を踏み入れた高良甘南は、錆び付いたバスケットゴールを見上げた。塗装がはがれて木目がむき出しになっているボードは、長らく使われていないのだろう。リングもほとんど錆に覆われていて、元の色が想像できないほどになっている。
ほの暗く染まった夕暮れの中に、自分ひとりだけが立ち尽くしているような気分だった。
「こんなところでシュート練習?」
声をかけられて、振り返る。クラスメートの桜川律が、公園の車止めを乗り越えてくるところだった。じゃらり、と、鞄につけたアイドルのグッズが音を立てて揺れる。
「しないよ。ボールも持ってないのに」
「なんだ」
素っ気ない甘南の答えに、律は目を細めて笑う。普段は目立たないが、よく見ると律の顔立ちはかなり整っていて、すっぴんでも通用するような美人だ。その彼女が夕焼けの中でほほえむ情景は、いくぶん幻想的ですらある。
「ダンクシュート、見れると思ったのに」
「そんなことしたらゴール壊れちゃうな」
いまにも落下してきそうに危うい支柱を見やって、甘南は肩をすくめた。歩み寄ってきた律は、ぼろぼろのゴールを見上げて、なるほど、とうなずく。
「直す人いないのかなあ、こういうの」
「誰も使わないのに、直してももったいないじゃない」
「それ逆じゃない? 直さないから使えないんだよ」
同じことを反対の側からいいあうような、律と甘南のことばは、たぶんどちらも正しいのだろう。悪循環というやつで、何かのきっかけでつまづいたものが、復活のきっかけをつかめずにそのまま転落していくようなイメージだった。
ときどき、そういうことがある。一度シュートに失敗すると、その印象をいつまでも引きずって、なかなか調子が戻らない。何度も練習して感覚を思い出そうとしたり、しばらく休んでリフレッシュしたり、何が功を奏するかはそのとき次第で、自分自身にはどうしようもなかったりする。
「でも、このまま壊れちゃうのは、なんか寂しいね」
つぶやいて、律はゴール下に近づき、リングめがけてジャンプする。重たい鞄を手にしているせいだろう、その跳躍はいかにも危なっかしくて、一瞬甘南はひやっとした。
さっ、と、ぼろぼろになったネットに律の指先がかすかに触れた。着地した律は、バランスを崩してよろける。滑りやすそうな革靴が土を蹴り、小さな土煙が上がった。
「おっとっと」
「何してるの、いきなり」
「手が届くかなー、って思ったんだけど、これじゃ無理だね。ジャンプ力にはちょっと自信があったんだけど」
「ジャンプっていっても、なんか客席で飛び跳ねたりとかそんなんでしょ?」
「正解。本格的なスポーツとは訳が違うよねえ」
甘南のことばに、悪びれずに律は笑って答えた。そして、ふたたびリングを見上げて、ふと遠い目をする。
「でも、誰かが使ってあげなきゃ、かわいそうじゃない? こいつも」
「そう? 仕方ないことだと思うけど」
「醒めてるね、甘南さん。こんなとこでぼーっとしてるから、もっと感傷的なのかと思ってた」
「感傷?」
「センチメンタルってこと」
律がそういうのを聞いて、逆に、甘南は腑に落ちるような気分だった。あまり何も考えていなかったけれど、こうして古びたゴールの前にたたずみ、よくわからない気持ちでいたのは、感傷というものだったのかもしれない。
甘南は勉強が、ことに国語はあまり得意ではない。知らない形容が、たくさんある。
「あたしとセンチメンタルなんて、結びつかない気がしてたよ」
「センチメンタルが似合わない女の子なんてこの世にいないって」
「恋さんみたいなこというね」
いちおうは翠林の生徒だから、互いの女の子らしさを慰撫し合うようなコミュニケーションには慣れている。たとえずっと運動部員で、どちらかといえば長身で、たまには”王子様”みたいなポジションに置かれるとしても、自分が女性であることを忘れることはない。
でも、女の子にだって、細やかな心遣いや、繊細な心情とは無縁な側の人間がいる。
甘南は自分が、そういう人間だと思っていた。
たとえば香西恋や棗沙智あたりが、甘南を少女のひとりとして賞賛することがあっても、違和感ばかりがあった。それは彼女の属性ではない、と思い込もうとしていた気がする。
「……まあ、でも、そんな気分かも」
「何かあったの?」
甘南のちいさなつぶやきに、律はずばっと切り込んでくる。気圧されるように、甘南は上半身をかるくのけぞらせる。その背中を押すみたいに、そっと風が吹いて、甘南の短い髪が揺れた。
さっ、と髪を手で払うと、うなじをひんやりした空気が流れていく。それだけで、何か、甘南の気持ちのかすかにくすんだ部分が洗い流されるような気がした。
「今日はさ、部活が早く終わったわけ。顧問が用事あるっていって。で、さっさと体育館から引き上げたんだけど」
ふと、甘南も、さっきの律と同じように視線を上げてみる。鰯雲の流れる夕空は、鈍い甘南にもわずかな郷愁を呼び起こすような気がした。それは、何か、彼女の知らない故郷の場所でも指し示しているかのようだ。
「演劇部の子たちが、すごい気合い入れて練習してるわけ。その声を聞きながら、帰るのって、なんか、変にもやもやしてさ」
ことばにしていくと、だんだんと、自分の心がまとまっていく。
いつもなら、仕草や態度で表していたことが、すこしずつ形になっていくような、粘土をこねるような感覚がある。
「たぶん、もっと、練習してたいって思ったんだよね。そんなこと、いままでめったに思わなかったんだけど」
「そうなの? バスケ大好きなのかと思ってた。すごいうまいし」
そういえば、体育の授業では律も甘南と一緒にバスケをしている。足が速いわけでも、ジャンプ力があるわけでもない律だが、彼女のプレーはいつもアグレッシブで、甘南もたまに感心させられる。
「うまい、ったって、他の部員とどっこいどっこいだよ。そこまで練習熱心ってわけじゃなくて」
さらっとシュートの真似事をして、甘南は肩をすくめる。目に見えないボールがどこかに飛んでいくのを、ぼんやりと眺める。
「早く帰れるときだって、その辺でスイーツでも食べて、うちでのんびりすればいいや、って思ってたのに」
空っぽの手を、握りしめる。
「時間を無駄にしてるのかな、って、思った」
恐る恐る、律のほうに目をやった。こんな話、自分がしたってめんどくさいだけだし、聞かされる側だって重たさに怖じ気づくだけじゃないか、という気がしていた。あまり付き合いもない律の前で、よけいなことを口走ってしまった後悔ばかりが、心に押し寄せてくる。
しかし、律は、ゆるやかな笑みを浮かべて、深くうなずいていた。
夕陽に照らされた彼女は、整った容貌の半分を陰に隠していた。誰も知らない彼女の謎を、一瞬、垣間見たような気がした。
「わかる。何となく、長居したくなるよ、学校」
「……そうなんだ?」
「まあ、部活にはあんまり興味ないんだけど。用事もなく、ずっと居着きたい感じ」
「それ、楽しいの?」
そこまで活発でない翠林の文化祭だが、クラスによっては展示の準備で下校時間ぎりぎりまで粘っている生徒も見かける。撫子組には縁のない結束も、その時間の楽しみなのかな、と思っていた。
でも、ひょっとしたら、そこにいるだけで幸せなのかもしれない。
「きっと楽しいよ。そういう部活、提案したんだけど、却下されちゃった」
「へえ」
「……興味ない? やっぱ、話違った?」
いいながら、ふふ、と律ははにかんだように笑う。甘南も、それを見つめて、目を細める。それは彼女が初めて見る、律の顔だ。
それを目の当たりに出来ただけで、意味がある。錆び付いたゴールも、甘南の感傷も収斂して、その笑みを形作っているのに違いなかった。
すこし、律のいいたいことが、わかった気がする。
「律さん」
だからだろうか、甘南は唐突に、口にしていた。
「ん?」
「その辺、いっしょに歩かない?」
何の目的も考えていない、理由もない、単なる散歩。
いまは無性に、そういう、無意味な時間を過ごしたい気分だった。




