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第206話「唄ってるときは別人になるんだよね」

 放り投げられたペットボトルを、木曽(きそ)穂波(ほなみ)は胸元で受け取った。半分ほど残ったミネラルウォーターが、ぱしゃ、と器の中で跳ねる。その、嵐の海のような躍動感に、つかのま、穂波は見とれた。


 ばたん、と体育館の扉が閉まる音がした。すでに山下(やました)満流(みちる)の姿はない。これから彼女はふたたび練習に向かうのだ。

 穂波だけが、そこに取り残されていた。冬枯れの木々はすでに色あせ、前は地面を埋め尽くしていた雑草も、いまとなっては枯れ果てて、まばらに残るだけだ。寒さに覆われる季節、空気はますます寂しさを増していく。


 穂波はペットボトルを開ける。満流はきつく締めたつもりだったようだが、穂波とでは握力がまるで違うから、ふたを開けるのはかんたんだった。

 一瞬、ためらう。丸い飲み口の縁に、まだ満流の体温が残っているように見えた。胸の奥から重い鼓動が響くのは、穂波を急かしているのか、押しとどめているのか、わからない。


 つかのま、息を止めた。

 穂波はペットボトルを傾け、水を飲み干す。冷たい水がのどからおなかの奥まで一気に流れ込んで、一瞬、目の前が真っ白になったような気がした。


 はあ、と、息を吐く。気管がぎゅっと締め付けられたような気分で、すこしむせる。

 空っぽのペットボトルを見つめる。穂波の頭に残るのは、興奮と、罪悪感。

 頭の奥で、ざわざわと、熱が揺蕩っているようだった。


「……帰ろう」


 ぶんぶんと首を振って、脳裏の熱を追い払った。穂波は、ペットボトルを握りつぶそうとするようにきつく右手に力を込めつつ、きびすを返して歩き出した。いつもより早足で、彼女は、何かまるで犯罪の現場から逃げ出そうとでもするみたいだった。


 そして裏庭を通りかかえると、そこに、大垣(おおがき)風夏(ふうか)がいる。


「あ、穂波さん。また演劇部の見物?」


 花壇の前にしゃがんでいた風夏は、立ち上がって穂波に手を振った。


「なんか、すでに陸上部より演劇部って感じじゃない?」

「……我ながらそんな気がする」


 足を止め、穂波は、ペットボトルを後ろ手に隠すようにして風夏と向かい合う。


「風花さんこそ、ひとりでどうしたの」

「たまにはね」


 聖歌隊のレッスンの後、風夏が裏庭の花壇を訪れるのは珍しいことではない。ただ、いつもはたいていほかの聖歌隊員や、美化委員の誰かと一緒にいることが多いから、ひとりでたたずんでいるのはちょっと不自然だった。

 とはいえ、そういう気分になる日もあるだろう。穂波は、深く聞かずにおいた。


「演劇、すごそう?」

「っていうか、すでにすごい」


 風夏の野次馬めいた問いに、穂波はうなずく。

 穂波も、練習はすこし覗き見する程度だが、それだけでも演劇部の気迫はびりびりと伝わってくる。文化祭に向けていよいよ仕上げの段階に入っているようで、本番さながらの練習が繰り広げられ、部員たちも本番に勝るとも劣らない熱心さで取り組んでいるようだった。


「そっかあ」


 ぽわん、と空を見上げる風夏の瞳には、あこがれの色がある。


「あんまり興味なかったけど、だんだん見に行きたくなってきたよ。穂波さんから話聞いてたら、どんどん気になってくる」

「それは……」


 後ろ手にしたペットボトルを、ぽん、と手の甲で叩いて、穂波は笑う。


「なんていうか、光栄」


 そうして、穂波はかるく首を傾げる。


「そういえば、風夏さんのほうはどうなの? 文化祭、聖歌隊も出るんでしょう?」

「うん、でもそっちは本番じゃないからね。クリスマス……降誕祭、っていうのかな。そっちのステージのほうがうちのメインだから」


 気安い声でそういうものの、風夏の目にはすこしかげりがある。どちらかといえば飄然として、ものにこだわらない彼女だけれど、こと聖歌隊に関しては深いこだわりがあるようで、時折、そんな顔をする。


「まあ、気合い入ってるのはたしかかな。大変だよ」

「風夏さんも唄うんだよね?」

「もち。きついけど、何とかやんないとって必死……」


 つぶやいて、風夏は、くれなずむ空を見上げた。


「けど、それでも、つづみさんにはなかなか追いつけない」

「……仕方ないんじゃない? 高等部からだし」


 今年編入してきたばかりの風夏と、10年近く翠林に通ってずっと聖歌隊に所属していた芳野(よしの)つづみとでは、キャリアが違う。歌唱力も、レパートリーも、一朝一夕に追いつけるものではないだろう。

 風夏は、しかし首を振って、つぶやいた。


「そういう話じゃないの」


 両手をかかげ、風夏は額を覆う。そうして彼方の空を眺め渡すような彼女の瞳には、秋の色が映っている。まるで、どこか遠く、別世界の景色をとどめようとしているみたいだった。

 口からこぼれる声も、いつもの風夏より、どこかアンニュイで、重い。


「つづみさんって、こう、唄ってるときは別人になるんだよね。なんていうの、ゾーン? そういうのに入ってる、っていうか」

「スポーツなの?」


 穂波の苦笑に、風夏は思わぬ真剣さでうなずいた。


「むしろそれに近い。穂波さんのほうがわかるんじゃないかな?」

「……そう、かな」


 そういわれても、穂波は戸惑いがちの答えしか返せない。

 たしかに、いわゆる「ゾーン」に入るような瞬間を感じることもある。しかし、穂波がメインにしている槍投げに関していえば、それは槍を構えてから投擲するまでの、1,2分の出来事だ。何分も歌い続ける聖歌の間中、それを保つような感覚は、穂波にもぴんとこない。


 あの、陶酔のような、没我のような境地で、つづみは唄っているのだろうか。


 それは、あるいは。


「満流さんに聞いたほうがわかるかも」

「ああ、それはそうかもね」


 舞台上の満流が、別人になるような、そういう状態に近いのかもしれなかった。

 目を見交わして、風夏と穂波はうなずきあう。ふたりのあいだに、秋風らしからぬあたたかで気安い空気が流れた。お互いの浮かべた苦笑が、鏡写しのように思えて、それがよけいにおかしくなる。


 ふたりとも、大切な人の奥深くには、手が届かない。


「でも、つづみさんみたいになりたいんだよね、風夏さんは」

「まあね」


 首の後ろを押さえて、照れたように目をそらしながら、風夏はつぶやいた。はにかんだ彼女の笑みには、気恥ずかしさといっしょに、矜持が浮かんでいる。それは、私淑するつづみを誇りに思う心であり、それを目指して進む自分への誇らしさでもあるだろう。


 そして、風夏は視線をちょっと持ち上げて、穂波を見つめた。


「穂波さんは、どうなの? 満流さんと」


 どきん、と、体に力が入る。握りしめた右手の中で、ペットボトルが柔くゆがんだ音を立てる。


「どう……っていわれても」

「満流さんに、追いつけそう?」

「それは……きっと無理」


 首を振り、足下を見つめる。背丈ばかり高くなって不安定な体は、なんだか、油断したらすぐに倒れてしまいそうな気になる。それを支えるので、彼女は精一杯だ。

 自分の体すら持て余すのに、その先に進めるなんて思えない。


「でも」


 視線をあげられないまま、しかし、穂波は強く口にした。


「満流さんといっしょにいたい」


「……お互い、苦労するね」

「ほんとに」


 そういって、もう一度目線を交わし、風夏と穂波はいっしょに笑う。いつまで経っても追いつけそうにない相手を好きになってしまった、難儀な性格のふたりは、その瞬間、まるで共犯者のようだった。

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