第205話「教室は舞台ではありませんよ」
がらり、と、教室の扉を開けて、芳野つづみは廊下にたむろする生徒たちの一団を見据えた。全員、高等部の1年生だ。扉にわずかな隙間を開けて室内をのぞき込んでいた彼女たちは、驚きの声をかすかに上げて、ぎゅっ、と身を寄せ合う。寒さに震える小動物を連想させた。
「御用ですか?」
つづみの問いかけに訪問者たちは、あの、とか、ええと、とか、あいまいな声しか返せないでいる。
「そこにいると、出入りの妨げです。もし撫子組の誰かにご用事でしたら、お取り次ぎいたしますが」
けっこうです! と叫んで、訪問者たちは一目散に駆け去っていった。なんだか、こちらが脅かしてしまったようで、つづみは釈然としない。
「ごきげんよう……」
あっという間に豆粒になった後ろ姿に声をかけつつ、つづみは扉を閉めて教室に向き直った。室内は、いまの一幕などなかったような雰囲気で、昼休みは変わることなく続いている。
つづみが席に戻ろうとしたところで、すたすたと、彼女に歩み寄る影があった。山下満流だ。
「ごめんね、つづみさん」
「満流さんのお客様でしたか?」
「客、というわけでも……ないこともないけど」
満流は、彼女らしく芝居がかった仕草で首を軽くひっかいて、閉じられた扉の向こうに視線を投げかける。彼方に走り去っていった生徒たちに対して、何か後ろめたさでも感じているみたいだった。
「たぶん、演劇部のファンの子。練習、見学に来てたの覚えてるよ」
「満流さん個人のファンなのでは? でなければ、教室まで押し掛けてこないでしょう」
「かもね」
あっさりと認めて肩をすくめる満流は、しかし、あまりそのことに関心がない様子だった。つづみは首をひねる。
「どうとも思わないのですか? せっかく来てくださったのに」
「舞台とか、練習とか、熱心に見に来てくれれば嬉しいよ。でも、ごはん食べてるときに来られても、そりゃ困るでしょう」
「まあ、たしかに」
一応はうなずくものの、つづみはやはりなんだか釈然としない。
もちろん、芸能人でも何でも、プライベートに踏み込まれれば迷惑に思う気持ちの方が先に立つだろう。私的な領域の行為を妨害されて怒るのは、人の性というものだ。しかし、満流はそもそも、そんな気持ちさえ抱いていないように見えた。喜んでも、困ってもいない。
心ここにあらず、というのが、近いだろうか。
「……具合でも悪いのですか?」
「なんで?」
「いえ、何となく」
「大丈夫だよ。こんなときに、調子崩してなんていられないし」
「ああ、そういえばカタリナ祭……文化祭の公演がありますものね」
翠林の演劇部にとっては、文化祭での上演は晴れ舞台だ。その目標に向けて、彼女たちは集中しているに違いない。心はもう舞台の上に置いてきてしまっているのだろうか。
感心したようにうなずくつづみに、満流のほうが首をかしげる。
「でも、聖歌隊も何かやるんじゃなかった?」
「ええ」
文化祭の最終日には、今年も聖歌の合唱が予定されている。学院の開校以来続いている伝統で、演劇部の舞台よりも歴史は長い。
しかし、聖歌隊にとっては文化祭はあまり重視されていない。彼女たちがもっとも力を入れている行事は、あくまで1ヶ月後の降誕祭なのだった。文化祭での合唱は、それに到るまでの過程のひとつにすぎない、と考えられている。
つづみ自身、文化祭に関しては、来客をどうもてなし、誰とどこを見て回るか、そんなことばかり考えている。
「意外とのんきだね、つづみさん」
つづみのそんな内心を察したのだろう、満流が目をすがめて、こちらを見つめた。
「そうですね。演劇部のように張り詰めているわけではないですから」
ぴくん、と、満流の眉が片方つり上がる。わずかな動きだけれど、それだけで感情を最大限に表現する術を、満流は知っているようだった。そういう演技の仕方が、日常生活にまで馴染んでいるらしい。
そして、彼女はどうやら、つづみのことばにがっかりしているらしかった。
つづみはすこし、嬉しくなる。いつもは飄々としたたたずまいに隠されている、満流の感情を、のぞき見たような気がしたからだ。
「満流さんこそ、人のことなど意に介さないと思っていましたが?」
けれど、つづみの声はふだんのまま、あまり揺らがない。浮ついた空気の漂う校内でも、何か心の奥底に重しでもあるみたいに、落ち着いていた。
「空気は気になるほうなの。舞台上にいると、いろいろ見えちゃうし」
「教室は舞台ではありませんよ。もうすこし、気を抜いてもいいのでは?」
「つづみさんにいわれたくはないな……」
ため息交じりにつぶやく満流に、つづみもすこし眉をひそめてしまう。別に、つづみは演技なんてしているつもりはない。堅苦しくて、厳しくて、怒ると恐いと思われているのだって、彼女にとっては自然な振る舞いだ。
以前なら怒ってしまったかもしれないが、いまはむしろ、いくぶん面白く思える。
昼休みの教室の片隅で、つづみと満流の会話は、他の多くの会話のなかにまぎれている。誰も注意を払われていない舞台の上で、つづみと満流だけが演技を続けているのかもしれなかった。
その結末がどうなるかはわからない。そもそも、劇というものがどういうふうに決着するものなのか、つづみはよく知らないのだ。
もしもここが舞台なら、みんな、ずっと演技を続けているのだろうか?
くすっ、と、笑いがこぼれる。そんな哲学、自分にはふさわしくない。
「つづみさん?」
いよいよ不審そうに、満流が顔をこちらに近づけてくる。端整で、けれどどことなく陰のあるような満流の面差しは、なるほど、舞台の照明のような明暗の激しい場では、おそろしく映えることだろう。
彼女はきっと、虚構の中にいるのが似合っている。
そんな満流をすこしでも困らせて、リアルな顔をさせた自分が、おかしかった。
「何でもないです。ええ、何でも」
「……つづみさんも、ちょっと浮かれてるんじゃない?」
「かもしれませんね」
くすくすとつづみは笑い続ける。そのめずらしい場面に気づいて、教室にいた生徒たちもいぶかしげに視線を向けてくる。注目が、次第に自分に集まってくる気配がして、それがよけいに笑いを誘う。
かたわらに近づいてきた大垣風夏が、つづみの顔をのぞき込んで、問う。
「どうしたの、つづみさん。満流さん、何かした?」
満流がつかのま、つづみに目配せする。つづみは肩をすくめて、首を振る。
ふしぎそうな風夏に振り返り、満流が、かすかに笑って答えた。
「さあ?」
そのひとことで、ふたりの間に芽生えた感情は、永遠の謎になった。ふいに幕が下りたかのように。




