第204話「いいにおいがしたわ」
「あっ」
階段から下りてきた舟橋妃春が大あくびをするのをまともに見てしまって、飯塚流季は思わず声を上げてしまった。
油断しきった妃春は、ふだんは険しくつり上げている眉尻を思い切りゆるめて、口を大きく開けて、完全に気のゆるんだ様子だった。うっすら涙の浮かんだ目が、ふと、こちらを向いた。
「あ」
ばつが悪そうに、妃春はぽかんと開けた口の端からこぼれるような、間の抜けた声を出した。目元をこすり、別に乱れてもいない髪を整え、精一杯の威厳を保とうとしている様子だったが、もちろん、最初っからそんなものはみじんもない。
教室では怜悧な”ソロリティ”の一員で通している妃春だが、気を抜けばこんなものだ。
「……いま、帰り?」
流季はおそるおそる問う。完全下校時刻は間近で、廊下は薄暗い。流季のほうも、部活をさっき終えて下校しようとしているところだった。放課後の校舎にふさわしい落ち着かない静寂のなかで、流季と妃春は奇妙な間合いで向き合っていた。
妃春は、気を取り直したように足早に階段を下りてくる。
「そうなの。さすがにこの時期は生徒会関係が忙しくてね」
2学期に入ったころから、妃春は生徒会の一員という立場になった。とはいえ、特に役付きもなく、正式な執行部員というわけでもないらしいのだが、それが逆に特別な役割と立場であるように思えた。”ソロリティ”の一員にふさわしい、いってみれば、出世コースだ。
しかし、いまの妃春はほどよく気が抜けていて、そんな自身の立場の特殊性などにおわせもしない。
「眠たそうなのは、そのせい?」
だから、流季も気軽にそんなことを訊ねる。妃春は肩をすくめて首を振った。
「これはただの食べ過ぎ。”白姫さま”がおみやげいっぱい持ってきて、私に食べさせようとするのよ。孫か、っての」
「そうなんだ……」
翠林における生徒会副会長の称号を、まるで実家のうっとうしい親戚でも呼ぶみたいにこぼす妃春に、流季はなんだかあきれてしまう。一般生徒にとっては手の届かない存在も、彼女にしてみれば、めんどくさい先輩でしかないらしい。
「まあ、でも忙しいのはたしかね……」
つぶやきながら、妃春は、わずかに流季のほうに身を寄せてくる。
とっさに、流季はちょっと肩を引いて、妃春を避けた。部活の直後で、汗のにおいが残ってしまっているのが、すごく気になったせいだ。
ほかの生徒なら、女子同士の気安さもあってさほど気にならないけれど、妃春のような相手を前にすると、そういうことを、つい意識してしまう。なんだかんだいっても、彼女は”ソロリティ”の一員で、将来は生徒会執行部の首脳になるかもしれない人だ。
妃春は、じっと流季を見つめる。歩調にあわせて揺れる黒髪の下、妃春の瞳は、底深くわだかまる感情を詰め込んだみたいに深みを帯びていて、一瞬、流季は飲み込まれそうになった。
唇が、端正に引き結ばれている。さっきの大あくびのことなど忘れさせてしまいそうな、美しい直線。
「ねえ、流季さん」
その唇が、カッターナイフで割かれたように開く。
「な、なに?」
「ちょっと寄りかからせてくれない? 寝ちゃいそう」
「……本気?」
「わりと……」
はあ、と、ふたたび大きなあくびをひとつついて、妃春は、戸惑う流季の答えも待たずに肩に体を預けてくる。今度は、避ける時間がなかった。
妃春の体重にのしかかられて、流季は動けなくなる。
ふわふわとした妃春の髪が、流季の鼻先で上下に波打って、その奥からうっすらと花の香りがする。どんなシャンプーを使っているのか知らないけれど、漂う香りは、あまりどぎつく主張するでもなく、しかしたしかな存在感があって、すっきりとして、どこか鋭利でさえあった。
ほっぺたの体温が、流季のうなじに染みてきて、ぞくりとする。触れてはいけない禁忌に触れてしまったみたいな、怖さがあった。
クラスメイトだし、放課後も時折こうして話すし、そこまで遠い存在だとは思っていなかった。
なのに、こうしてほんの数秒近づくだけで、それがひどい勘違いだったように感じられる。
妃春の手が、流季の背中に回って、制服の上からわき腹に触れた。
ストレッチやトレーニングできちんと絞っているから、触られたって気にならない。
そんなつもりでいた流季の意識は、妃春の手指の繊細さに一発で壊される。
「き、妃春さん」
「もうちょっと……あと5秒だけ」
「ええ……」
困惑しきりの流季の顔など、妃春は見ていない。目を閉じたまま、安心しきった様子で、流季に自分を預けている。
たまに、サッカー部員がじゃれ合ってくるのとは、決定的に違う。
その理由が、彼女の髪の香りなのか、肌のすべらかさなのか、それとも閉じた瞼から滴のようにはねる黒くて細いまつげなのか、流季にはわからない。きっとその全部だ。
息の止まるような時間が過ぎた。
妃春は、約束通り、5秒で目を開けて立ち上がった。髪が揺れて、あのシャープな香りが遠のいていく。
悪びれもしない、堂々とした仕草で、妃春は流季を見つめた。その瞬間には、もう、彼女はいつもの妃春に戻っている。
「ごめんなさい、我慢できなくって」
「……いい、けど」
流季がどれだけ惑わされ、困り、そして微妙な感情を抱いたか、きっと妃春にはわからないだろう。彼女が鈍いわけではない。たぶん、向こうとこちらの距離感が、違いすぎるのだ。
「でも、気をつけてよ。誤解されたら大変だし」
「誤解って、どういう」
「そりゃあ……」
思い浮かぶことばはいくつかあったけれど、どれも適切でない気がした。クラスメイトの誰かと誰かの関係、彼女らのあいだにたゆたう感情、その先にあることばにしづらい事象、そういうあれやこれや。
流季は、それらをうまくことばにする方法を知らない。
妃春が、いつもの険しくて鋭い目つきでこちらを見つめた。
「大丈夫よ。ちょっと触ったくらいで、惚れたはれたの話になるほどみんなウブじゃないわ」
「わかってるんじゃないの」
思わず声を張り上げた流季を、妃春は愉快そうに眺めてクスクス笑う。
「だって流季さんが案外、純粋だから」
「子ども扱いしてるでしょ」
「別に私だって大人じゃないし、対等に思ってるだけよ」
しれっとした妃春のいいぐさに、流季はいよいよあきれて、一人勝手にすたすたと歩き出す。妃春は、焦りもしないで、悠然と後ろから追ってくる。彼女のほうが足が長いから、あっというまに追いつかれてしまう。
後ろから、耳元に迫るみたいに、妃春の声がする。
「大丈夫よ、流季さん」
「……なにが」
「いいにおいがしたわ」
流季は振り返った。妃春が、目と鼻の先で、いたずらっぽく笑っている。
「顔、真っ赤」
「あんたのせいでしょうが!」
廊下の端から端まで響く声で、流季は叫んだ。




