第201話「100字そこそこでも書ける気しない」
「朝活の読書はつまんなかったじゃない?」
図書室の貸し出しカウンターで、ビニールで保護された古いハードカバーを受け取りながら、光原青衣は隣の阿野範子に向かってそういう。
「正直、そのころのイメージが強くて、活字の本っていまいち苦手で」
「……ああ、そう」
眉をひそめる範子に、青衣はふしぎそうな目を向けてくるだけだ。範子は唇をゆがめて、バッグを背負い直しながらカウンターの前から移動する。彼女たちの後ろにはすでに、文庫本を手にした別の生徒が並んで、貸し出し処理の順番を待っている。
いつもの図書室なら、貸し出し待ちの生徒が並ぶことなどない。ふだんはたいてい自習室代わりにされるばかりで、本を借りる、という本来の目的を行使する生徒は、その半分以下、という程度だ。
範子は、いくぶん苦々しい気分で、図書室のドアに張り出された「読書の秋キャンペーン」のポスターを見つめる。ご丁寧にマット加工されたてかてかのポスターには、萌え系のキャラクターが読書をするイラストが描かれていた。資料もなしに描いたのか、手にした文庫の背表紙はどこのレーベルにも似ていない。
ポスターの右下には、キャンペーンの内容を告知する文面が書かれている。どうやら、期間中に本を借りて感想を提出すると、抽選で景品がもらえるのだという。感想、といっても、短文SNSに載せるショートメッセージぐらいの文面でいいらしい。
正直なところ、範子は、こういうキャンペーンは好きではなかった。もので人を釣るような姿勢が図書室にそぐうとも思えなかったし、さほど貧しいわけでもない翠林生が景品に釣られて本を借りに来るのもみっともなく思えた。
何より、静かな図書室が騒がしくなるのがいやだった。
だから、図書室で、青衣が範子におすすめの本を訊いてきたときも、突っ慳貪な受け答えをしてしまった。
ただ、青衣はすこしもめげた様子もなく、しかし範子にはもう頼らないで、自分で適当な本を探して持ってきていた。範子はちらりとタイトルを横からのぞき込んで、それが、すこし前に流行った人気作家のミステリーであることを知った。映画化もされた有名な作品だが、範子には退屈だったものだ。
「感想、書くの?」
図書室を出ながら、範子は問う。昼休みの廊下の慌ただしさも、範子は好きではない。
「書けたらね」
意外にも、青衣の答えはさほど気乗りのしたものではなかった。
「そうなの?」
「そもそも、感想文も苦手なんだよね。100字そこそこでも書ける気しない。原稿用紙埋めるの、すごくきつかったし」
「……なら、どうして借りたの?」
景品目当てではないのだろうか、と、範子は首をひねる。今度は、青衣の方が、不満げに唇をとがらす番だった。インドア派の範子よりも不健康そうな青衣の唇は、リップをかるくしか塗っていないのだろう、かさかさに乾いている。
痩せた彼女は、しかし、びっくりするほど豊かな表情で、不快感をあらわにする。ぎゅっとひそめた眉間に、深い縦皺が刻まれる。
「読みたくなったから」
その低い声は、とん、と、範子の胸を押すように響いた。
つぶやいた青衣は、自分の声に迫力が出過ぎたのを反省するみたいに、こつん、と本の角で自分の額を叩いた。
「ごめん。なんか、景品目当てみたいにいわれた気がして、ちょっとむっとした」
「……ていうか、正直、そういうつもりでいった。こっちこそごめん」
青衣のほうから先に謝られて、範子は立つ瀬がない。空っぽの両手をぎゅっと胸の前でちぢこめて、寒がるみたいに、身をすくめながら歩く。
うつむいた範子を、青衣は、引っ張り上げようとするみたいに声をかけてくる。
「そういうとこ、率直だよね、範子さん」
「……そうね」
「翠林の子たちはだいたいそうだけど、あんまり自分の気持ち、隠さないね。けっこう気持ちいいよ、そういうの」
「そうかな」
青衣のことばは範子の意識を上滑りして、どこか別の世界に流れていってしまうようだった。こういうときは、作り事のことばも、会話も、何もかもが心に届いてこない。
「怒った?」
「怒ってはない」
問いかけられても、そんな、木で鼻をくくったような答えになってしまう。ときどき、そんなふうに範子は、ことばの世界から逃げ出すみたいに黙り込む。たいてい、それは、人のことばがうまく内心に響かなくて、何か遠くの出来事のように見えてくるときだ。
自分のなかのそういう、気持ちの死んでいる部分、人を信じられない部分が嫌いだった。
それからすこしの間、ふたりは、気詰まりな沈黙を引き連れて歩いた。教室に向かうはずの足取りが、なぜか、撫子組のある階を通り過ぎて、のろのろと一階まで降りていってしまう。
範子はなぜ自分がこんな所まできてしまったのか、よくわかっていない。何か、青衣の気配に引きずられたような気分だった。ふたりだけになりたい、なんて願ったわけではないし、これ以上話があるわけでもなかったのに。
横目を向けると、青衣も、どこか戸惑うような目線を廊下のあちこちに向けていた。あるいは、範子と同じ気分だったのかもしれない。
霞のかかったような淡い色に包まれた廊下の真ん中、理科の実験室のそばで、ふたりは立ち尽くす。
「……何してんだろ、私たち」
苦笑しながら、青衣はいった。彼女の目は範子のほうを見てはいなくて、ただ、窓の向こうで冴えた陽射しに照らされて白く光る裏庭の草花を見つめているだけだ。
ぽつんと発せられた彼女のことばは、やけに長々と廊下に響くようだった。いつまでも答えの出そうにない問いかけは、長らく空気中に残り続けて、心の底にいつまでも滞り続ける。忘れてしまうまで。
「ちぐはぐだよね」
「……そうだね」
そんな醒めた相づちしか返せない自分がほとほといやになって、範子は、一刻も早くこの場から逃げ出したくなった。
きびすを返し、足を踏み出し、そして範子は、バランスを崩してその場にひざを突いてしまう。脱げかけていた上履きが、べたん、と耳障りな音を立てて廊下に落下し、それから、すこし滑った。裏返しになった上履きのほうを、範子はゆっくり振り返る。
膝立ちの姿勢のまま、なにか、範子は泣きそうになる。
「……大丈夫?」
青衣がいいながら、範子の上履きを拾って、彼女の前に差し出した。のろのろと、範子はうなずいてそれを受け取り、履き直す。赤ん坊のようにゆっくりしたその仕草を見下ろしながら、青衣が、口を開いた。
「私がいうのは、おこがましいけど。でも、範子さんは、もうすこし自分をさらけ出してもいいと思う」
「……さっきといってること、違わない?」
上履きの後ろに人差し指を突っ込んだまま、範子は青衣を見上げた。
「何となく、違うの。思いついたことばを口にするのと、いいたいことをきちんと声にするのは」
「……よく、わからない」
「ごめんね。範子さんと違って、日本語、詳しくないから」
寂しげに、目尻を下げて、青衣はそんな風に謝る。結局、こちらが頭を下げられてばかりだ。ほんとうに青衣を傷つけているのは、範子のほうなのに。
範子のほうがずっと、ことばがうまくない。
範子は、肩をすくめるようなちいさな仕草で、立ち上がった。気持ちが縮こまっていると、体のほうまで萎縮して、指先も、両足も、一回りちいさくなってしまったような気がしてくる。
青衣のほうを振り向くことなく、範子は早足でその場を逃げ出した。教室に帰るわけでもなく、別の場所を目指すわけでもなく、ただ闇雲に足を動かした。
胸の奥で、ひきつるような声が出る。
ひょっとしたら泣きたいのかもしれなかったけれど、範子は、泣くことさえうまくない。
だから、かすかにけいれんする胸を押さえながら、もはや走るような速度で、どこかへ逃げていくしかなかった。