第194話「髪とメイクでいちばん化けそうな子、誰だと思う?」
「「髪型変えた?」」
真木歩と棗沙智の声が、みごとなハーモニーを奏でた。
朝の教室に響いた思わぬ声を受けて、生徒たちの間に微妙な笑いがさざめく。
いきなりの洗礼を受けた阿野範子は、まあね、と適当にはぐらかした後、文庫本だけ持ってさっさと教室を出て行ってしまった。どこか静かな場所で読書に耽るのが、彼女のいつもの習慣らしいから、それは特別なことではない。
「範子さん驚いちゃったじゃない、歩さんのせいだよ」
机のそばに立っていた歩を、沙智が冗談半分ににらむ。歩も仏頂面で、両手を腰に当てるわざとらしい仕草で沙智を見据えた。
「それをいうなら沙智さんにだって責任があるし」
一瞬だけ視線が交錯し、そして、ふたりは同時にちいさな笑いをこぼした。もちろん、こんなのは軽いじゃれ合いの範疇で、本気で怒っているわけじゃない。ふしぎと、沙智と歩のあいだにはそういう呼吸が成り立っていた。
「範子さん、ずいぶんさっぱりしてたね」
沙智のことばに歩もうなずく。
「髪が多くて黒いから、ちょっともっさり気味だったのよね。もっと軽くしたら、って何度かいってたんだけど、興味なしで。でも、きょうはずいぶん梳いてたし、うなじが見えるとこまで短くしてた。美容師さん変えたのかな?」
ふだんから範子と親しい歩の観察は、評価に値する。沙智は椅子の座盤を持ち上げ、歩のほうにすこし椅子を近づけ、ひそひそ声で問う。
「色気づいたのかしら?」
「沙智さんはそんな話ばっかり」
「うるさい」
醒めた歩の視線に、思わず沙智は低い声で毒づいてしまう。歩は一瞬だけ驚いたような目をして、それから、ちょっと肩をすくめた。
「理由は何でもいいけど、範子さんみたいな子がたまにああして感じを変えてくれると、教室にも新鮮さが増すってものね」
「だよねえ。髪でも見た目でも、すこし変わればいっぺんに周囲が華やぐものだし」
「うちのクラスも、化けそうな子が何人かいるんだけど……」
鋭い目つきで、歩は教室をぐるり見渡す。沙智も、机に肘を預けながら、歩に倣う。
まだ始業時間には早いが、半分以上の生徒がすでに教室でくつろいでいる。見慣れた景色だが、さすがに学年の半分を過ぎると、すこしはマンネリを感じなくもない。
とはいえ、品定めの心構えでものを見れば、どんなものだって新鮮に映ってくるものだ。ほんのささいな同級生の指先や手の動きでも、特別に思われる。
「メイクでもすれば、一気に変身しちゃったりしてね」
「わかる」
沙智のつぶやきに、しみじみと歩がうなずいた。
伝統校である翠林だが、実は服装や見た目についてはさほど厳しい校則があるわけではない。西園寺るなや内藤叶音のように派手なメイクも、たまにシスターに指導される程度だ。生徒たちの自律に期待していればこそ、規則は必要ない、という考え方らしい。
そして実際、叶音たちのような一部の例外をのぞけば、生徒たちの外見はかなりおとなしいほうだ。
「髪とメイクでいちばん化けそうな子、誰だと思う?」
しゃがみこんだ歩が、机にのしかかるみたいにして、沙智の側に体を傾けてくる。こめかみ同士がぶつかりそうな距離だが、彼女たちはどちらも相手を見ずに、視線を教室の方に向ける。
冴えた秋の陽射しをカーテン越しに浴びた教室の風景の中で、少女たちの姿はどこか生命力と切り離された、一幅の群像のように見えた。
沙智はすこし考え、見解を発表する。
「妙さんって絶対素質あるよね」
「わかる。でも私、実は千鳥さんに可能性を見いだしているの」
「そうきたか……」
やるな、と率直に思って、沙智は歩のりりしい横顔を見据えた。ただの髪フェチかと思ったが、なかなかいい目をしている。
「弥生さんと話しているときの表情、ほんとうにいいよね」
「そうねえ。あの感じを活かして、ちょっとファンデで顔色をいじれたら、だいぶ変わる」
「……顔色っていえばさ」
沙智の視線は、教室のいちばん窓際の隅、いまはまだ空席の机に向けられた。
「青衣さん、どうよ」
教室の外での光原青衣の姿を、沙智も何度か見たことがある。全身を黒とフリルで武装したゴシックファッションは、自らの価値観とか世界観を現す手段で、そこに口出ししたところで青衣の心はこ揺るぎもしないだろう。
だからこそ、こういう休み時間の与太話にしてみる甲斐もある。
歩もどうやら、同じような気持ちを抱いていたらしい。即座に告げた。
「もうすこし髪も短くして、明るく目パチな感じにメイクしたら、華のある顔だと思う」
「そうねえ。なんか教室では、わざと野暮ったくしてるようにも見えるし」
「猫背だし」
「実は外ではぴしっとしてるよね。見たことある?」
「そりゃ目立つもの。あれはあれで完成しているから、口出しすることでもないんだけどね」
「わかってるけど。お遊びよ、お遊び」
肩をすくめ、沙智は脳内で想像した青衣の姿を追い払う。それは決して、現実にはならない。人ひとりを思い通りに変えるには、もっとずっと多大な労力が必要になるのだ。根気強くつき合って、意見を述べて、影響を与え続ける。
そして、逆に自分が変えられてしまう可能性も、覚悟する。
つまりは、友達になるってことだ。
「ところで歩さん、だいぶ凛さんにご執心じゃない?」
「……いきなり何の話よ」
めずらしく歩が虚を突かれた顔をして、机がガタンと揺れた。沙智の視線をあわてて避けるように立ち上がった彼女は、かすかに頬を引きつらせている。
机に並べていたペンケースを押さえながら、沙智は微笑を浮かべる。彼女から一本取るのはひどく難しいが、今回は有効打程度にはなったらしい。
わずかに口を開けた歩の細面は、いつもと違って、隙がある。そこにねじこむように、沙智は笑い混じりの声をささやきかける。
「凛さんを、どんなふうに変えちゃいたいわけ?」
歩は、自分の心に鍵をかけるみたいに、唇を曲げた。
「……変えたりしない。凛さんはもともとおもしろい子だから、それを解放させたいだけ」
「それが変えるってことだと思うけど」
内々にある可能性は、誰もが持っている。それを隠さない行動力や、押し込めてしまう壁、それらを含めて自我というものだ。
それに影響を与えることを、変える、といわずに何というのか。
ん、と、かすかに歩が唸るのが聞こえた。
「その程度で変化なんていってたら、人生で同じ瞬間なんてただの一度もないよ。もうちょっとことばを切り分けたい、私は」
「……頭いいねえ」
単語の使い方の違い、という話になったら、もう水掛け論にしかならない。だったら、黙って世界を眺めているだけでいい、と沙智は思う。
いまも教室には、朝のひんやりした空気が満ちて、その中を少女たちの声が泳ぐように流れていく。その波長にぼんやりと浸っているだけで、沙智の心は安らぐ。
歩の方も、またたくまにふだんの安らぎを取り戻し、これから始まる1日に意識を向けているようだった。迷いがなく、首筋から足元まで、まっすぐに芯の通った背格好。
すぐそばで見ると、思わず、息を呑んでしまう。
「……悪いね、変なこと訊いちゃって」
「疑問を持つのは悪いことじゃないでしょ。すなおに質問してくれて嬉しい」
「先生か」
「沙智さんの方が先生っぽいよ。みんなのこと、よく見てるじゃない」
しれっといって、歩は笑う。一瞬答えに困った沙智につけ込むみたいに、すい、と彼女は顔を接近させて、こそっと問いかける。
「そんなことだと、愛さんが怒るよ」
「……みんなそういうこというよ。歩さんも意外と凡人だね」
「私だって、意外と野次馬なんだから」
沙智の寸鉄を、さらりと肩をすくめてかわし、歩は笑う。やっぱり、彼女の方が一枚上手のようだった。




