第190話「……さびしかった」
また、夜にでも電話しますね、と告げて、初野千鳥は内海弥生に手を振った。
同じ仕草を返しながら、弥生はやっぱり寂しくなる。
釣瓶落としの秋の日はあっという間に、山の端に消えていく。地上への残照が、不気味なくらいに赤く濃く、周囲の景色を染め上げていた。
その赤黒い道の向こうに、千鳥の姿が溶けていくのを、弥生は名残惜しく見送る。
千鳥の足取りには、いつも迷いがないな、と思う。前を向いて、つねにまっすぐ進んでいく。足下に伸びる長い白線も、彼女のガイドラインとして記されたのではないか、と思ってしまう。
その背中に弥生はあこがれる。リュックサックの重さをものともしない、彼女のぴんと伸びた背筋は、決して撓むことがない。
だから、それがいつもと同じ速度で消えていくのを見ると、悲しみが胸にこみ上げてくる。
千鳥は、弥生と離れるのが、寂しくないんだろうか。
そんなことを直接、訊けるわけがない。どれだけ子供なのか、とあきれた目で見られるだけだろう。
よしんば、千鳥が優しく弥生の懸念を否定してくれて、寂しいに決まっている、と主張したところで、それはことばだけの話だ。
ずっと雄弁な千鳥の仕草やたたずまいの凛々しさの前に、ことばは色あせるだろう。千鳥の本音を、きっと弥生はそこから読みとってしまう。
だから、見えなくなるまで、千鳥の背中を見送る。
はあ、と吐息をこぼして、弥生もきびすを返した。長くもないけれど、決して短くもないひとりの帰り道が、彼女の前に待ちかまえている。ぽつぽつと立つ電信柱と、うらさびれた公園と、オレンジ色の電飾がともる家々の狭間に伸びる、静かな道筋。
この道を千鳥といっしょに歩いた日を、思い起こす。
初めて彼女を家に呼んだ一学期のあの日から、千鳥はしばしば、弥生の家を訪れてくれるようになった。特に何という用事もなく、千鳥はこの道を、ときには弥生といっしょに歩き、ときにはひとりで歩き、弥生の元にやってくる。
リズミカルで颯爽とした足音が、いまここにないのが、ふしぎに思えた。
響くのは、弥生自身のむなしい靴音だけだ。
いつかふたりで買ったウォーキングブーツに足を通すのも、だんだんまばらになってきた。
夏休みの、冒険めいたキャンプの夜。
あの夜の記憶が脳裏に満ちあふれて、泣きそうになる。永遠になりそうだった、あの夜。
幹線道路のほうに近づくと、駆け抜ける車のエンジン音とロードサイドの大規模店舗が放つ電光が目と耳に押しつけられる。日常のそれとは違う、心を塗りつぶすような圧迫感に、弥生は一瞬、歩くのがおっくうに感じられて足を止めた。
細い路地には、家屋と街灯の頼りない明かりが点々とともっている。
その光と影の単調な繰り返しは、毎日交互に訪れる昼と夜のようだ。
何もかも、思い出せば、一瞬だけのものになってしまう。
みんなとともに学ぶけだるい授業も、千鳥と過ごす大切な休息も、別れ際の切なさも、すべてがぎゅっと押し込められて、ひとかたまりの過去になって、頭の中で混じり合っていた。
胸ポケットから、スマートフォンを取り出す。あたりが次第に夜に染まっていく中、画面のまたたきは、異様なほど明確な輪郭を保って弥生の目に刺さる。
千鳥といっしょに撮ったセルフィと、彼女に連れられていった先の写真を、何気なく見返す。風景も、表情も、その時々の最高の瞬間だったり、あるいは完全な失敗作だったりするけど、どれもかけがえのないものだ。
ふたりとも半目で写ってしまってさんざん後悔した写真さえ、いまとなっては愛おしい。千鳥はポーカーフェイスで、ちっとも気にしていないようなそぶりをしていたけれど、弥生が写真を見せようとすると恥ずかしがって絶対に目もくれなかった。おもしろがって、弥生が千鳥に送りつけたその写メを、彼女ははたしてどうしているだろうか。速攻で消してしまったろうか、それとも、案外大切に保存してくれているだろうか。
写メのひとつひとつに、時間が圧縮されて詰まっている。
立ち尽くす弥生のかたわらを、自転車に乗った別の高校の生徒が走り去っていく。彼らのふざけた笑い声が、夕暮れの余韻を台無しにするみたいで、弥生は唇をかむ。
帰りたくない、と思った。
何かに導かれるように、弥生は振り返る。
そこに、千鳥がいた。
「まだこんな所にいたんですか」
いくぶん驚いたように目を見開いて、彼女は弥生を見つめていた。
まるで奇跡みたく現れた少女の姿を前に、弥生は、何もいえずに口をぽかんと開けてしまう。どうして、とか、いつのまに、とか、そんな疑問は浮かんだけれど、それがいっさい意味のないことだと彼女はわかっていた。
そんなことばよりもたいせつな、いまここにいる千鳥。
「……弥生さん?」
弥生は、千鳥のすぐそばに歩み寄り、戸惑う千鳥の額に自分の額を押しつけた。
千鳥の肌は、暖かかった。きっと、いつもよりすこし速いペースで歩いてきたのに違いなかった。冬を間近にした夕暮れの風の中、冷えていた弥生の肌が、その額の温度にふれて、ぬくもりを取り戻した。
「どうしたんですか、甘えちゃって」
千鳥は弥生を突き放したりしない。ただ、ぽん、と、安心させるみたいに背中を叩いた。
いつもリュックを携えている千鳥と違って、弥生の背中はがら空きで、だからふとした瞬間に寒気を感じることがある。そんな弥生の誰にも告げたことのない不安を知っているみたいに、千鳥の手は弥生の背中をなでる。
間近に額を触れ合わせたまま、弥生は目を閉じる。
まぶたの裏の熱さが、涙なのかどうか、彼女にもよくわからない。
「……さびしかった」
小声でつぶやいた。渦巻く気持ちを形にしたそれは、何かひどくあやふやで、うまい表現ではなかったような気がしたけれど、ほかにいいようもなかった。
「そうですか」
千鳥は、素っ気なくそれだけいった。それで充分だった、と思えて、弥生はすこし笑う。
ふたりはしばらく、その場で、そうしていた。
思い出の中ではきっと、ちいさく押し込められてしまう、何でもない時間だったけれど、それはふたりにとってたいせつな意味を持つ。弥生は、そう確信していた。