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第166話「いつからそんなでかいもの背負っちゃったわけ」

 近衛(このえ)薫子(かおるこ)がたじろぐ様子など、めったに見られない。だから、内藤(ないとう)叶音(かのん)はそれだけで、演劇部の練習の見学に満足していた。


「……はあ」


 体育館を出て、演劇部の練習の声が聞こえなくなって、いっしょに下校して、近くの喫茶店で腰を下ろしてお冷やを口にし、ようやく薫子は大きく息を吐いた。その間、彼女はひとことも喋らなかった。


「面白かった。サンキュね、誘ってくれて」


 叶音がかるくいうと、薫子はまだ呆然とした様子で、こくりとうなずく。

 彼女の黒い目は丸く見開かれたまま、宙を呆然と見つめていた。どうやら、彼女が正気に戻るまでにはしばらくかかるらしい。叶音は勝手に薫子のコーヒーも注文し、しばらくの間、薫子の回復を待つことにした。

 そのかん、叶音は、演劇部の練習の様子を思い出している。


 翠林女学院高等部の演劇部といえば、そこそこ名の知られた名門らしい。市内はもちろん、へたをすると県外からも来客があるほどの人気だという話だ。とはいえ、その大半は翠林の卒業生と、彼女たちに連れられてくる知人たちらしいのだが、何しろ翠林の関係者なのでけっこうな地位にあったりして、そうした人々の目に留まることでいろいろと事が運ぶ、なんてこともあるという噂だ。

 とはいえ、叶音にとってはその辺は興味のない話だった。そもそも、演劇自体、さほど関心があったわけではない。


 ただ、今年の文化祭で上演されるという演劇部の新作は、叶音にとっても他人事ではない。

 同じクラスの山下(やました)満流(みちる)が新人として参加するとか、新作脚本の原作がこれまた同じクラスの梅宮(うめみや)美礼(みれい)であるとか。

 その美礼の漫画を、近衛薫子が気に入っているとか。


 どうしても気になる、という薫子の要望に従って、叶音も練習を見に行くことになった。どうやら見学希望の生徒は毎年後を絶たないらしく、先輩方は慣れた様子で叶音たちのためにパイプ椅子を用意してくれた。

 山下満流は、叶音たちを見ても会釈ひとつせず、先輩たちと何か話し合っていた。もともと、さほど仲がいいわけでもないし、そんなものかな、と叶音は思うだけだった。むしろ、そんな彼女のツンケンした態度を興奮気味に見守る薫子の方が気になったくらいだ。


 練習は、白熱していた。

 発声練習や準備運動などの基礎練習でさえ、演劇部員たちが行うことで、何か別の価値が付加されているかのように見えた。彼女たちにとっては、それさえ演技の始まりなのかもしれない、と思えた。

 実際に演技の練習に入ると、それはいっそう激しいものになった。

 タイミング、台詞の強弱、身振り手振り、そういうひとつひとつに監督役の生徒のチェックが入り、それに役者がまた意見を付け加え、他の生徒も口を出し、と、たったひとつの場面、ひとつの台詞だけのために恐るべき時間が費やされた。

 山下満流も、それに加わっていた。彼女の演技は、ことに賛否両論だったが、満流自身は演技以外のことであまり喋らず、議論の行く末にさえ興味のない様子で、じっと脚本や他の生徒の演技に向き合っていた。


 練習が休憩に入るタイミングで、薫子が静かに席を立ち、頭を下げて出ていった。叶音はそのフォローをするように演劇部員たちにあわてて挨拶し、薫子を追っていった。部員たちは、もちろん満流も、ほとんど見学者の行動など意に介していない様子だった。邪魔ですらなかったのだろう。


 コーヒーが届いた。季節は坂を転げるように変わり、めっきり涼しくなったから、コーヒーもホットにした。叶音は砂糖とミルクを入れて、一口。熱くて苦いその味わいに、叶音は顔をしかめる。薫子に連れられて何度か訪れている店だが、幾度挑戦しても、まだここのコーヒーの味には慣れない。

 薫子は、コーヒーの香りを感じて我に返ったみたいに、ほぼ自動的に砂糖とミルクを入れ、コーヒーをかたむけた。

 舌の上に苦みが走って、ようやく、薫子は正気を取り戻した様子だった。ぱちり、と目を見開き、じっと叶音を見つめた。


「……ありがとう叶音さん。この店のコーヒーでなければ、目を覚ませないところだったわ」

「王子様のキスか何か?」

「それにしては刺激が強すぎかしらね」


 音もなくコーヒーカップをソーサーに戻し、テーブルの上に両手をついて、薫子はかるく息を吐いた。

 そして、ようやく、彼女は自分の感情をことばにした。


「納得できないわ」

「何が」

「演劇部の脚本よ」


 ぴしゃり、と、端的にいいきる薫子の姿は、すっかりいつもの堂々として力強い彼女に戻っていた。背筋を伸ばし、まっすぐ叶音を見つめ、拳を握りしめる。彼女のそんな剣幕が、かすかにコーヒーを波立たせた。


「あれは『天気輪』が原作だったけれど、別物だわ。箱を借りただけで、中に別のものを押し込んで作り替えただけ。原作の意図も、意味も、何も汲んではいない」

「……わかるの?」


 叶音は首をひねる。今日の練習は通し練習というわけではなく、個々の場面についてもいちいち長い時間をとっていた。だから、前後のつながりなどは叶音にはよくわからなかったし、何なら台詞の意味さえはっきりとは読みとれなかった。

 しかし、薫子はきっぱり断言する。


「わかるわよ。原作はよく知ってるし、だから原作のどの場面で、どこが脚本で改変されたかもわかる。あんなの……」


 首を振って、薫子はうつむいた。叶音は、黙って、コーヒーを口にする。


 こういうときに、いえることばなんてないのを、叶音は知っている。へたな慰めも、一知半解のフォローも、逆効果だ。薫子はただ不満をぶつける誰かがほしかっただけで、説得してもらいたいわけでも、自分の意見を認めてもらいたいのでさえない。

 ただ、胸にとどめておけない声を、吐き出したかっただけだ。

 わかる、と、うなずいておけばそれでいい。


 そのはずだけれど。


「……でも、傷が浅くてよかったじゃん」


 ただ、そこにいるだけでは、友達がいがないように思えて、ついつぶやいてしまう。

 薫子は眉をひそめて、叶音をじっとにらむ。


「どういう意味」

「本番を見て、ショックを受ける前に、気づけたわけっしょ?」


 叶音は、わざとらしく悪い笑顔でいう。


「見たくないもの、それ以上は見ないですんだ。ラッキーって思えば」

「何いってるの?」


 物わかりの悪い子どもを窘める声で、薫子は、叶音に向かっていう。


「もちろん本番も見に行くわよ」

「はあ?」


 今度は叶音が困惑する番だった。さっきあんなに不満を吐き出したというのに、それでも、まだ諦めきれていないというのだろうか。本番では、理想の作品に生まれ変わっている、とでも信じているのだろうか。

 あるいは、もっと別の意図か。


「だめ出しのために見に行くなんて、不健康じゃね?」


 時々映画の感想サイトで見かけるような言説を思い出して、叶音は低い声でいう。批判するための批判、批判するために映画やなんかを見て、喜んで欠点を連ねる類。

 そういうつもりでいるなら、さすがに薫子を止めてやらないといけないと思った。


 でも、薫子はうっすらほほえんで首を振るだけ。


「そうじゃないの。でも、見届けるのは私の使命という気がする」

「……いつからそんなでかいもの背負っちゃったわけ」

「たぶん、最初に美礼さんの漫画を読んだ瞬間からよ」


「漫画読むのって、そんな重たい?」

「私にとってはね」


 いって、薫子は苦いコーヒーをくいっと飲み干す。

 叶音にはとうてい不可能なその行為を、ぽかんとして見つめる。

 わずかに上を向いた薫子の、お下げ髪がゆらりと背中で跳ねて、一瞬、生きているように見える。まるで、何か得体の知れない幽霊でも背負っているかのよう。


 叶音には、まだまだ薫子のことがわからないのかもしれない。彼女のこだわり、彼女の趣味、彼女の価値観、叶音からかけ離れた領域にあるそれを、目の前にいる少女は、ことのほか大切にしているらしい。

 なんだか、ひさしぶりに、それを思い知らされてしまった気分だった。


「……ああ、そう」

「文化祭、叶音さんもつきあってくれる?」

「あんたがそういうならね」


 たぶん、そのときも愚痴を聞かされるのだろうな、という予感がする。きっと、微に入り細を穿つような、猛烈なダメ出しが、叶音を襲うに違いない。

 きっと、それにつきあってあげられるのは、叶音だけなのだ。


 どうやら、薫子に会ったときから背負わされた、それは、彼女の使命であるらしかった。


「……仕方ないなあ」

「イヤならいいんだけど」

「……イヤじゃないっつの」

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