第14話「視線であたしを惚れさせなきゃ」
「過ちのないように、なんて言われてもね」
全校朝礼で伝えられた司祭の訓辞を思い返しながら、飯塚流季は思い切り背伸びをした。自然とあくびがこぼれる。司祭のありがたいお説教は、声が小さい上に長い。おまけに朝一とあっては、眠たくなるのもしょうがない。
教室に戻ってきても、頭にすっきりしないものが残っている気がした。すでに席について腰を下ろしている雪花に至っては、すでに頬杖をついてほぼ寝ている。
5月頭の陽気で、全体的に気がゆるんでいるのは事実かもしれない。高等部の1年生といっても、大半は中等部からの持ち上がりで新味もなく、暢気な学校生活の続きという気分だ。
それを引き締めるために、司祭はあんなお説教をしたのだろう。しかし、流季としては、その言葉に現実味は感じられなかった。
「だいたい、こんな田舎町で滅多なことなんて起こらないでしょ」
「わざわざ危ないところに行くような子、うちの学校にはそんないないしね」
甘南がそう言って、いたずらっぽい笑いをこぼす。
「それに、翠林生を誘うような根性ある男、この辺にはいないでしょ」
「それな」
くすくすと流季は笑い返す。平凡な地方の平凡な都市にひっそりと建つ、県内きってのお嬢様学校である翠林の女子となれば、たしかに付加価値は高いに違いないのだが、逆に言えば圧倒的な高嶺の花だ。その辺の高校生や、大人でも手を出そうとは思わないだろう。
この撫子組にも、本物の令嬢といえる存在は何人もいる。たとえば、何となく視線を移すと、近くの席で薫子が友人と話している。彼女の父親は県会議員だそうで、礼儀作法を幼いころからたたき込まれているらしい。その立ち居振る舞いはきりっとして、隙がない。
ああいう子たちの存在感のおかげで、わりと凡人である流季も、高嶺の花の一種として珍重されている気がする。
「でも、強く誘われたらあっさりのぼせちゃうかも」
「ああ、免疫ないもんね」
「男からコクられたことなんてなさそうだしなあ、みんな」
そういう甘南であるが、当人は女子からならいくらでも告白されたことがあるはずだ。何しろ運動部員は希少価値があるので、もてる。
「男に迫られたらどうするか、ちょっと予行演習した方がいいかもよ」
「お、それいいね」
甘南のたわごとに乗っかり、流季はすぐ横にいた木曽穂波に目を向けた。
「穂波さん、ちょっと男役やってもらっていい?」
「わ、わたし?」
「ほら、うちのクラスじゃいちばんだし」
陸上部員の穂波は身長168センチ、がっしりした恵まれた体格をしている。脚力では甘南や雪花に一歩譲るが、運動能力テストのハンドボール投げでは学年トップの記録を叩き出した。
そんな穂波であるが、流季の提案に困惑しきりの顔で首を傾げている。いつも困ったふうに垂れている眉の下で、目線が左右にふらふら揺れる。基本的に、弱気な子なのだ。
「何すればいいの?」
「それはあれよ、壁ドンの顎クイ、みたいなベタな奴」
ほいほい、と穂波を手招きして、流季は自分から教室の後ろに行って、壁を背に立つ。何となくついてきた、という様子で、穂波も流季と向き合う。
実際、穂波を目の前にしてみると、その迫力にちょっと気圧されるようなものは感じる。流季自身はかなり背が低くて、顔の高さは穂波の胸あたりまでしかない。蛍光灯の影になった穂波の長身は、ふつうに見るのよりよけいに威圧的だ。前と後ろ、壁で挟まれているような緊迫感に、本能的な警戒心が芽生える。
このシチュエーションに本当に追い込まれたら、怖じ気づくかもしれないな、とは思う。
とはいえ、その相手が困惑顔の穂波では、様にならない。
「で、えっと……こう?」
壁ドン、と言うよりは、壁ポン、ぐらいの勢いで、穂波は壁に手をついた。
背中を曲げ、前のめりになって、上からのしかかるように流季を見下ろしてくる。その表情には罪悪感ばかりが見えていて、どうにも迫力がない。
流季たちの様子を見た生徒が歓声を発している。しかし、当事者の流季としては、そんなに面白いものでもなかった。はたで見るほどときめくシチュエーションではない。
恋人でも何でも、他人を追いつめてあんなにえらそうな顔のできる男というのは、それだけでちょっと特殊な精神を持っているのだな、と流季は内心で何となく感心した。そんな人間でないと、少女マンガの主人公は務まらないのかもしれない。
「で……顎を、こう」
穂波の手がおずおずと伸びてくる。まるで満タンのコップを注意して運ぶウェイトレスみたいな危うい手つきで、その指が、流季の顎にふれた。
握力も高い穂波の手は、女の子としてはちょっと太い、と流季は思う。その手で顔を持ち上げられるのは、どきどきすると言うより、すこしいらっとくる。
「もっと堂々としなよ、穂波さん。そんなんじゃ逃げられちゃうよ」
「ご、ごめん」
追い込まれているはずの流季の説教に、穂波はぺこぺこ頭を下げる。胸の前で、きっちり結ばれた紺色のタイがひらひら左右に動く。
思わず、流季は穂波のタイを握りしめた。
「ほら、もっと、追いつめてくれないと」
ぐい、とタイを引っ張り、穂波の上半身をむりやり寄せた。
「ふえ?」
たたらを踏みそうになりながら、かろうじて穂波は壁に押しつけた手で体を支える。上半身だけが流季に引き寄せられ、ちょうど、顔と顔が向き合う位置になる。
流季が見上げて、穂波が見下ろす。その姿勢なのに、完全に主導権は流季が握っていた。
影になった穂波の顔は、自分の方が追いつめられたみたいに、おどおどと揺れている。間近に流季を見つめるのを怖がるみたいに、目線が左右にふらついていた。
見たくないのか、と、いっそう流季はいらだって、きつくタイを引いた。
「ちょ、る、流季さん。締まる締まる」
「うるさい。ちゃんとあたしを見てよ、それで、視線であたしを惚れさせなきゃ」
「そんなこと言われても……」
穂波の顔が赤いのは、首が締まっているせいか、それとも間近に流季がいるせいか。
いずれにしても、これでは完全にあべこべだ。
教室のどこかから、シャッター音が聞こえた。
穂波の体越しに流季が教室をのぞくと、薫子が嬉しそうにスマートフォンをこちらに向けている。彼女の左右で、恋と律が楽しげにその画面をのぞき込んでいた。
流季はタイを握った手を離して、むっとした声を出す。
「ちょっとお、撮影は事務所を通してくれなきゃ」
薫子たちは、その抗議にもあまり悪びれた様子はない。別に流季も本気で怒っているわけではなし、ため息をつくにとどめた。まあ悪用はされないだろうから、問題はない。
肩をすくめて、流季は穂波をふたたび見上げた。彼女の顔は、まだいくぶん火照って、流季を見つめる目もなんだか赤くて熱っぽい。
「……流季さん、なんだか、かっこよかった」
「そっちがときめいてどうするのよ……」
苦笑して、流季は穂波の腰をぽんと叩いた。
「穂波さんこそ、もっと免疫つけないとね。この調子じゃ、小学生にでも誑かされちゃいかねないわ」
「流季さんみたいな小学生、いないんじゃないかしら」
「……そうかもね。今の男子は発育良いし、あたしよりも背が高いもんね」
流季の冗談に、穂波はまだ赤い目をして、微笑みを返してきた。