第13話「チェストパスってのは、胸をめがけて投げるべきでしょう」
「鼻血くらいで保健室なんて、大げさじゃないの」
鼻に詰め物をしていると、自然と声が低くちいさくなる。阿野範子は、異物感に顔をしかめながら、すぐ隣に立った高良甘南の顔を見上げた。
「ついてこなくてもよかったのに」
「だって心配だったんだもの。女の子の顔に傷が残ったら、一生賠償しなきゃ」
なかば本気の声で言いながら、甘南は範子の額に手をさしのべる。
「痛くない? 頭くらくらしない?」
「ほんとうに大丈夫だから」
「だめだよ、頭の怪我は恐いんだから。顧問の先生にもきつく言われてるし」
「そう思うんなら、もっと加減してよ。あんなパス、取れっこないわ」
範子が半眼でにらむと、甘南は視線を逸らして照れ笑いをする。
範子が鼻血を出す羽目になったのは、そもそも甘南のせいだった。体育のバスケの授業中、甘南のパスを受け取りそこねた範子の顔面に、バスケットボールが直撃したのだ。
とはいえ、範子は自分のせいだとは思っていない。バスケ部員の甘南が本気で投げてきたパスを、素人の範子が取れるはずはないのだ。しかも、ボールが顔に真っ直ぐ飛んでくるなんて。
「チェストパスってのは、胸をめがけて投げるべきでしょう。その名の通り。それこそ顧問の先生に教わらなかった?」
ぶつくさと範子は甘南に皮肉をぶつける。あはは、と笑ってごまかしつつ、甘南はこめかみを指でひっかく。その頬に汗がつっと流れるのは、運動のせいではないかもしれない。
「部活の先輩、みんな背が高いから。それに合わせたパスってちょうど、ほら」
「ちっちゃくて悪かったわね」
ふてくされなくてはいけないほど、範子の背丈も低いわけではない。しかし、身長のせいでこんな事故が起きるのではたまらなかった。
ため息をつく。鼻が詰まっているせいで、口からこぼれる吐息がいっそう重たく感じられた。
範子の憂鬱を吹き飛ばすように、甘南が笑う。
「この際、次の授業も休んじゃえば?」
「自分がさぼりたいだけじゃないの」
「……範子さん、怒ってる?」
ふいに甘南の声が、不安げに変わった。
カーテン越しの昼下がりの陽射しで、室内は淡い色だ。清潔な保健室の白さと、薬品戸棚の薄暗さが溶け合って、何もかもがぼんやりとしていた。緯度の高いヨーロッパの外光というのはきっとこんな感じで、だから印象派の絵はあんなにおぼろげなのだろう、と、範子は取り留めもない思いに駆られる。
本で読んだような理屈が、唐突に腑に落ちるのは、こんな何気ない瞬間だ。
「ごめんね」
「怒ってないわ」
甘南には体育館でさんざん謝られた。これ以上頭を下げられても、いまさら気持ちに変化の生じるわけもない。
「じゃあ、どうしてそんな不満そうなの?」
「……強いて言うなら、本を持ってこれなかった」
「真面目だねえ」
「そういうのじゃないわ」
自分が勤勉だとは思っていない。本を読む、というのは、甘南あたりが思うような勉強や自己研鑽のためではなく、ただの趣味であり娯楽だ。その証拠に、範子は成績も中程度だし、知識を何かに活用しているわけでもない。
「そうなの? 範子さんって寄り道もしないし、真面目なのかな、って思ってたけど」
「……甘南さんさ。けっこう、ずばずば言うよね」
「え、なんかまずいこと言った?」
きょとん、と甘南は戸惑った顔をする。この様子だと、何が問題なのか気づいてもいないらしい。
寄り道をしないのも、本に耽溺するのも、けっきょく、範子が他の趣味を持っていないだけ。退屈な人間なのだ。
そういう自覚はあるものの、はっきり言葉にするのは恥ずかしいから、範子は何も言わずに目をそらした。
「やっぱり範子さん怒ってる? ねえ、ごめんってば」
その視線を追っかけるように、甘南が膝を曲げて範子に顔を近づけてくる。
範子はさらに顔をそらす。回転椅子がくるりと動き、範子は甘南の視線から逃げる。
「怒ってない」
「それ怒ってる顔だよ、ぜったい」
「鼻が詰まってるだけ」
「あー、完全に怒ってる」
甘南はその場にしゃがみ込んだ。空気がふわっと揺れて、汗のにおいがかすかに範子の半分詰まった鼻をよぎっていく。
きっと甘南は、すごく申し訳なさそうな顔をしているだろう。範子にどうすれば許してもらえるのか、思いを巡らしているに違いない。
ボールをぶつけられたことなんか、もうどうでもよかった。
授業に真面目に出席したいわけでもない。
ただ、この思いも寄らない空き時間を、もうすこし静かに、ゆっくりと、本を読むのにでも使いたいだけ。
そう主張している範子の横顔に気づきもせず、甘南はさらに話を広げてくる。
「悪かったからさ。今度スイーツでも奢るよ、バスケ部御用達のいい店あるんだ」
「……そんなにしてくれなくてもいいってば。鼻血くらいで大げさ」
椅子をくるりと回して、範子は、ひさしぶりに甘南の顔を見た。
範子を見つめる彼女の面差しは、後ろめたさを交えながら、それでも真っ直ぐに範子を見据えていた。ずっとそうだったのに違いない。
「ほんとに、怒ってない?」
それなのに、甘南の声から不安の色は消えていない。カーテン越しの陽射しが作る薄い影のように。
パスも通らないはずだ。鼻が詰まってなければ、胸の内の空気を全部押し出すくらいに、長い長いため息をついたに違いなかった。
だってこんなに、互いの気持ちも、ろくにわかりあえていないのだから。
それでも、甘南は自分の気持ちが通じるまで、ずっとパスを投げ続けるだろう。うまく受け止めるには、どうすればいいものか。範子には見当もつかない。
範子はそんなことを思いながら、あらためて甘南の顔を見つめた。
彼女のパスに慣れるのに、次の授業までの時間で足りればいいのだけれど。