第12話「ふたりで過ごした時間は、何もかも真新しいまま」
「ね、かおさん、今度の休みヒマ?」
移動教室からの帰り道、内藤叶音は近衛薫子に声をかけた。なんだか、ずいぶんひさしぶりにそんな呼び方をした気がして、唇が新鮮な喜びを感じる。
振り返った薫子の方も、糸のように細い目を輝かせて叶音を見つめる。
「ええ、大丈夫よ。もしも予定があったって、叶音さんのためなら全部キャンセルしてもいいわ」
「んな、たいした用じゃないって。かおさん、いちいち大げさなんよ」
「けれども、他ならぬ叶音さんの頼みだもの」
ふだんの叶音は、翠林ではちょっと珍しい、ギャル系のグループの中心にいる。彼女らの会話はわりとだらっとしているし、いろんな接尾語や助詞を省略してしまいがちだ。今時の女子高生なら珍しくないそうしたしゃべり方も、この清廉と節度を重んじる学院の中では、いささか浮いてしまう。
それが恥ずかしい、というわけではない。
ただ、ときどき叶音はむしょうに、薫子の言葉遣いが懐かしくなる。こうして彼女のはきはきした声を耳にするのは、心地よい。
「それにしても、誘ってくれて嬉しいわ、叶音さん。高等部に入ってからは、初めてではないかしら?」
「そだね。なかなかタイミングがなくって」
うなずく叶音の横顔に、開いた窓から春の風があたる。春、といっても空気はだいぶ暖かくなった。ファンデやチークの芳香を押しのけて、陽射しの焦げたようなにおいが色濃く伝わってくる。
季節の変化は、びっくりするような落差で突然訪れるものだ。
「かおさん、楽しくやってるみたいだしさ。恋さんとかと」
「ええ」
撫子組での薫子は、香西恋や梅宮美礼といっしょにいることが多い。その中で彼女は、ずっと変わらぬ明朗な声と物腰で、叶音が聞いたこともない漫画やアニメの話を熱弁している。恋たちはそれについていけるらしく、彼女らの話題はいつも盛り上がって、いくぶん独特な空気を醸し出している。
本来、薫子はそういう集団に属するキャラクターなのだし、そうした話題に加わっているときの方が生き生きとしているように見える。
「かく言う叶音さんも、いいご友人を見つけられたようで」
「ま、ね」
西園寺るなや春名真鈴と同じクラスになれたのは、ある意味ラッキーだった。流行に敏感な彼女たちは叶音に新しい刺激をくれるし、彼女たちのほうも叶音のこだわりに共鳴するものがあるらしい。
あふれんばかりの情報から心に刺さるものを見つける、そういうトークのできる仲間だ。
「学年の変わり目は、どうしても仕方ないものね」
「だよねー。同じガッコに10年いて、いまだに新しい友達ってのができるんだもんなあ」
そう言いながら、叶音が思い出しているのは、昨年の夏のこと。
新作のプリを探して、駅ビルのゲームコーナーに友達と出かけた叶音は、そこでたまたま薫子を見かけたのだ。中3でも同じクラスだったけれど、その日まで、話したこともなかった。
薫子はUFOキャッチャーに小銭を積み上げ、美形キャラのフィギュアを狙っていた。肩に力の入った彼女は、しかしあまり上手ではなく、小銭はまたたくまに減っていくし、配置はよけいに取りにくくなる。状況は悪化の一途をたどっていた。
見かねた叶音は、薫子に声をかけて、多少アドバイスをした。
無事にフィギュアを獲得した彼女は大喜びし、叶音に餡蜜を奢ってくれた。駅ビルのグルメフロアにある甘味処はなかなか値が張ったが、薫子は先ほどの浪費のことなど忘れたようにぽんと代金を出した。
それから、ふたりはいっしょにプリを撮った。こういうのを撮るのは初めてだ、と、薫子は大はしゃぎで、糸のように細い自分の目を思い切り大きく加工した。
それから彼女たちは、休みのたびに遊び、四六時中ラインした。薫子の家の広いキッチンを借りて、大きなガトーショコラを焼いてふたりで食べた。普段は観ないジャンルの映画のチケットを交換して、叶音は初めて女児向けアニメを劇場で観たし、薫子は海外の恋愛映画に涙した。
ふたりで過ごした時間は、何もかも真新しいまま。夏が過ぎ、秋が来て、冬を越えても、ずっと。
そして春が来て、ふたりはまた同じクラスになって、ひと月のあいだ言葉を交わすことなく、時が過ぎた。
「今度は、タルトに挑戦しようと思ってさ。かおさん家のでっかいオーブン、借りれる?」
「もちろん」
うなずく薫子の表情は、もう口の中にフルーツの味が染み渡っているみたいに、うっとりしたものだった。
「そろそろ洋菓子が恋しくなってきたところだったの。我が家のオーブンも、叶音さんに使っていただけるのをきっと喜ぶわ」
そして薫子は、名案を思いついた、とばかりに細い目を輝かせる。姫カットをカチューシャでまとめた彼女の前髪が、生き物みたいに左右に揺れた。
「せっかくですし、フルーツも取り寄せましょう。出入りの業者に頼んで、現地から直送してもらってもいいわね」
「まーた話をでっかくする……」
「私たちにはちょうどいいのよ、そのくらいが」
言い放つ薫子の自信に、叶音は半分あきれている。翠林にはこういう、金を湯水と勘違いしている類の生徒がいて、彼女たちの行動は叶音あたりの予想をあっという間に越えていく。旅行でもしたい、という叶音の言葉の翌日に、ヨーロッパへのツアープランを持ってこられたこともあった。
けれど、それだからこそ、薫子との日々はいつも真新しい。
「ま、材料は任すよ、かおさん」
「ええ。叶音さんへのおもてなしだもの」
料理するのは叶音のはずなのに、すっかり薫子のほうがホスト気取りで、取り寄せる材料を指折り数える。いつもは茶杓を巧みに操るらしい彼女の細い指が、何度も折られては伸びる。そのひとつひとつが、鮮やかな色をしたストロベリーやオレンジや、あるいはアボカドなども混じっているかもしれない。
そうして、人差し指をぴんと立てた薫子は、ふいに、ちいさく顔をほころばせた。
「ふふ」
「どしたの、かおさん」
「それ」
叶音の口元を指さして、薫子はにんまりと笑う。甘酸っぱい果汁のような声が、叶音の耳元ではじける。
「かおさん、って呼ぶの、叶音さんだけだから。いつ聞いても、すごく、真新しいの」