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第11話「わたしのカレンダーで、六月だったから」

 窓際の前から二番目、自分の席に腰を下ろした小田切(おだぎり)(あい)は、なんとなく違和感を覚えた。視界に入る風景に、どこか、おかしなところがある。


 教卓、古めかしい黒板、聖書の一節が記された横長の額、時間割の貼られた掲示板、そして前の席には桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)、彼女はいつもながら気怠げに頬杖をついて窓の外を見ている。涼しげな白い制服は朝の陽射しを浴びてすがすがしくて……


「夏服?」


 気づいて、思わず愛は声を上げてしまった。まだ五月の初日、衣替えには早い。現に愛自身も冬服のままだし、周りの生徒もみんなシックなベージュ色をまとっている。

 そんな中、真っ白な装いの恵理早ばかりが、我関せずの風情。

 彼女の背中に流れ落ちるたっぷりした長い髪と、細い肩を、愛はつかのまじっと見つめる。


 と、急に恵理早が振り返った。


「わ」


 のけぞる愛に、恵理早は黒目がちな瞳を向けてきて、ぽつりとつぶやく。


「愛さんの視線、ちりちりする」

「はあ……」


 真野恵理早という人は、とかく言葉遣いが他人とずれている。これまであまり話すことはなかったが、ちょっとした会話でも愛はしばしば戸惑わされてきた。


「気になる」


 さっきの大声はスルーしたのに、視線のほうが気になるのだろうか。

 恵理早の言葉を苦労して解釈しながら、愛はどうにか口を開く。


「えっと……どうして、夏服なの?」


 恵理早はぱちくりとまばたきして、一瞬、沈黙。整った無表情をまともに向けられ、愛はなんだか自分のほうが間違えたような気にさせられ、困惑してしまう。

 それから彼女は、ヘアバンドであげた髪の生え際を、かるく指でひっかいた。


「わたしのカレンダーで、六月だったから」

「……何それ」


 いつもマイペースな彼女の頭では、暦さえ人と違うのだろうか。愛は首をひねる。


「……もうちょっと、説明を求めていい?」


 愛が言うと、恵理早は、ふわりと上目遣いで愛の頭上を見つめる。しばしして、彼女は口を開いた。


「連休」


「え?」

「連休、あったじゃない」

「あったけど」


 昨日までの三日間が三連休だった。長い連休の前半戦で、教室の空気はその頃からやけに浮き立っている。


「あのとき、わたし、ずっと寝て過ごしたのね」

「へえ……」


 まずそこに突っ込みたかったが、とりあえず相槌を打つにとどめる。


「で、起きたら月が変わってるな、って思って寝たわけ。三十日」

「うん」

「そしたら、一度真夜中に目覚めちゃって」

「寝すぎたせいだね」

「起きて、カレンダーめくらなきゃってなって、めくって、また寝た」

「ああ……」

「で、今朝起きて、またカレンダーをめくった」


 なるほど、月替わりのカレンダーを二度めくれば、たしかに今日は六月だ。六月だと思いこめば、衣替えもしてしまうだろう。日付の勘違いをただす機会も、彼女なら全部スルーしてもおかしくない。


 その理屈を、愛はどうにかこうにか咀嚼しようとしたが、いくらなんでも無理だった。


「それにしたって、まだ夏服は寒くない?」


 真っ先に出てきたのは、その問いだった。まだ花冷えの残る季節だ、いくらなんでも夏服で外を歩けば、肌寒いのはわかるだろう。

 しかし恵理早は、のんきに首をひねる。


「そんな時代なのかな、って」

「大げさねえ」


 あきれつつ、愛はあらためて恵理早の夏服に目をやる。シャツはあちこちしわになっているし、リボンタイも曲がっているし、ボタンも取れそうだ。


「それ、今朝あわてて出してきたでしょう」

「よくわかったね」


 恵理早は驚くが、たいした推理ではない。だいたい、前日まで四月のつもりだったんだから、夏服の準備なんてしているわけがないだろう。

 愛は机に身を乗り出して、恵理早の首元に手を伸ばす。一瞬恵理早が逃げるようにするが、愛はかまわず彼女のタイを直した。


「ほら、カラーのとこ。タグがついたままだよ」


 無造作に襟刳りに手を突っ込んで、クリーニングのタグを指でちぎって自分のポケットに放り込む。それから、さっきからずっと気になっていた胸のボタンにちょっと触れる。


「これ、あとで繕った方がいいね。ソーイングセット、貸そうか? それとも苦手? なら私がやったげても……」


「愛さん」

「ん?」

「愛さん、ほわほわする」

「……ほわほわ?」


 愛が顔を上げると、真野恵理早は、珍しく困ったような顔をして、自分の胸のすぐそばにある愛の頭を見下ろしていた。彼女の黒目がちの瞳が、なんだか落ち着かなげに左右上下にさまよい、態度を決めあぐねているみたいな様子だった。

 すこし、顔が赤い。


 つかのま愛がぽかんとした隙に、恵理早はちょっと身を引いて、ふう、と小さく息をついた。あっというまに、彼女の顔色はふだんの健康的な白さを取り戻す。

 そのまま、逃げるみたいに前を向こうとした恵理早は、しかし、後ろ髪を引かれたように愛に視線を戻して、言った。


「愛さんの息、ほわほわするし、温度、もにゃもにゃするし、それに、においが、くすくすする」

「……何、それ」


 愛の問いかけに答えず、恵理早は前に向き直ると、そのまま机に突っ伏してしまった。髪がふわりと波打って、まだ冷えた空気の残る教室に、真夏の波濤のような印象を残す。


 どうやら、恵理早は何も答えてくれそうにない。

 首をかしげて、愛はなんとなく、後ろの席に座っていた沙智(さち)へと顔を向ける。彼女とはこの一年撫子組で初めて同じクラスになったのだが、四月の席替えで前後ろになって以来、ずっと仲がいい。


「恵理早さん、何言ってるの?」


 愛の言葉に、沙智は眉をひそめる。


「前々から思ってたんだけどね、愛さん」

「うん」


 ため息混じりに、沙智は告げた。


「愛さんって、基本、顔が近い」

「……そう?」


 首をひねるが、沙智が言うならそうなのだろう。愛はふたたび、恵理早にちらりと目を向けた。

 彼女がはたして、困っていたのか、それとも……

 恵理早の謎めいた言葉の答えは、もうしばらく、見つかりそうにない。

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