第10話「ゆがんだまま冷えきった出来損ないの陶器」
「希玖さん、進路希望調査、もう出した?」
机の脇から、クラス委員の武藤貴実がおさえた声で話しかけてくる。佐藤希玖は、先日渡されたプリントのことを思い出して、あわてて振り返った。
「ああ、ごめんなさい。ひょっとしてわたしで最後?」
希玖は机の中を手探りし、クリアファイルから希望調査の紙を取り出した。とっくに書き終えていたそれを、貴実に渡す。苦笑しながら、貴実は手にしたプリントの束のいちばん上に希玖のを重ねた。
「大丈夫、まだ書いてもいない人よりは、ずっとましだから」
ちらりと教室内を見やって愚痴る貴実に、希玖も苦笑いを返すほかはない。
「でも、まあ、気をつけてね。締め切り直前なのはたしかだし」
「貴実さんさ、おきくにだけ何か甘くない?」
希玖との会話を中断されたドロシーが、おかんむりの様子で口を挟んできた。純和風のドロシーの美貌は、眉をつり上げるとなかなか迫力がある。貴実は顔をしかめ、怯みもせずにドロシーをにらむ。
「そんなことはないわよ。私は公平で公正です」
「ほんとに?」
ふたたび問われて、貴実は胸を突かれたようにちょっと身を引き、ドロシーから目をそらす。一瞬、視線が希玖とぶつかり、彼女は骨折しそうな動きであさっての方に首をひねった。
「それよりドロシーさん、その”おきく”っていうの控えなさいよ。はしたないわよ」
そう言い残して、貴実はすたすたと教室から早足で去っていく。「はあい」というドロシーの気の抜けた返事も、おそらく聞こえてはいないだろう。聞こえていたらもっと怒ったはずだ。
貴実が廊下の果てに消えていくのを無言で見届けてから、ドロシーは首をひねって希玖を見た。
「で、貴実さん、何でおきくにびびってんの? 逆なら分かるけど」
たしかに、はたからみれば奇妙に見えるだろう。
さっきだって、ほかの生徒が相手なら、貴実はもっと希玖にきつく指導したはずだ。言われる前に提出してほしい、期限には余裕を持って、字はもっとくっきり、というようなこと。これらはすべて、他の生徒に対して貴実が実際に口にした言葉だ。
それを、希玖に対してはひとことも口にしなかった。
貴実はとにかく真面目で、自分にも他人にも厳しい。自ら立候補して1年撫子組のクラス委員を引き受けただけあり、規律もしっかり守るし、他人にルールを守らせるのも手は抜かない。個性的なクラスを引き締める役割として、ある意味うってつけの存在だ。
対して希玖は、多少外見が目立つ程度で、性格はおとなしいし、成績も平凡、奇行にも走らない。他人を怖がらせる要素は皆無だ。
「まあ、初等部のころに、ちょっとあったの」
机に両肘をついて、いくぶんドロシーに顔を近づけるようにしながら、希玖は口を開いた。机に体重を載せ、声を低め、すこし長い話をすることを態度で示す。ドロシーもそれに応えるように、椅子に深く身を沈めてまっすぐ希玖に向き合う。
ドロシーのまっすぐな目は、いつも強靱で、希玖を勇気づけてくれる。
「2年の時に、いっしょのクラスで。貴実さんはむしろ、わたしに優しかったし、いろいろ気遣ってくれた」
当時の希玖は、まだ、自分の褐色の肌をすこし、受け入れかねていたように思う。
南米出身の祖父の血筋が色濃い外見と、”きく”という名前は、いかにもミスマッチだ。彼女の自己紹介を、謹み深い翠林の初等部の児童でさえ、いくらかの好奇心と笑いをもって受け止めた。
希玖は、戸惑わされはしたものの、激情を露わにすることはなかった。
たぶん、貴実の方がよほど、そのことに怒っていたのだろう。希玖を馬鹿にするような相手を教師より厳しく叱りつけもしたし、先回りして希玖を守るような態度をとることもあった。
そのことに、感謝こそすれ、希玖が怒る理由はすこしもなかった。
「習字の時間だったの。わたし、墨を飛ばしちゃって、顔が汚れたのね。それを見た隣の子が、私をちょっとからかったわけ。そうしたら、貴実さんの方が怒っちゃって」
「それは私も怒る」
「ありがとう。ともかく、それで貴実さんは、その子に、自分の硯から墨汁をぶちまけちゃったのよ」
そのときの情景を思い出して、希玖は、ため息をついた。
「それを見て、わたしは、貴実さんを怒鳴りつけた」
「……ふむ」
何を言ったのかはほとんど記憶にない。ただ、よほど激しく、厳しく、貴実を叱責したのだろう。慣れない大声でのどが痛くなっても、言葉を止められなかった。その、焼け付くような痛みと怒りの記憶だけが、色濃く希玖の身に残っている。
「それで、貴実さん泣いちゃって。隣の子も泣いちゃうし、他の子もびっくりしてるし、先生もどうしたものか分からないみたいな感じだったのかな、通り一遍の注意で終わらせて、お互いに謝らせて、それで終わり」
翠林の教師であれば、たとえ子ども相手でも、差別的な言動に対して厳しい措置をとるのがふつうだ。親を呼んで警告することさえあり得る状況だったはずが、その場で収まってしまったというのが、逆に状況の異例さを示している。
「おきくも、貴実さんには謝った?」
「頭は下げたけど、子ども同士だからね。大人の手前、表面上だけ手打ちして終わり、そんな空気」
かぶりを振って、希玖は肩を落とす。
「それで、きちんと謝れないまま、あれから1度もわたしと貴実さんは同じクラスにもならずに、ここまできたわけ」
初等部の高学年か中等部あたりで、きちんと顔を合わせていれば、話をする機会もあったかもしれない。
けれど、関係をうまく修復することのできないまま、高等部まで進んできてしまった。
貴実と希玖の関係は、なんだか、ゆがんだまま冷えきった出来損ないの陶器のようだった。
「……この話するの、ドロシーさんが初めてだよ」
「それは光栄」
おどけて笑いながら、ドロシーは希玖にさらに顔を寄せてくる。額の上で切りそろえられた彼女のまっすぐな髪が、ほんの一瞬だけ、ドロシーの頭に触れた。
「で、おきくはどうしたいの? 貴実さんと」
「……よくわからないの。どういうふうに、何を言葉にすればいいのか……どうしたいのか」
希玖は、困惑を隠せないまま、こめかみを人差し指でひっかく。生まれつき、鏝を当てたように波打つ自分の髪が、指の関節に絡まって彼女を束縛する。初等部のころは、その髪を表に出すのが恥ずかしくて、ずっと男の子のように髪を短くしていた。
「そもそも、わたし、あのときに何を怒ったのかも覚えていないのに」
「私は分かる気がする」
「え?」
「貴実さんは、そのからかった子に墨をかけたんだよね。肌を黒くしてやることで、人を攻撃した。それって、巡り巡って、おきくの外見を蔑んでるって意味になる」
ドロシーの言葉に、希玖はつかのま、息をのむ。
それから、頭の中で言葉を咀嚼し、想像し、思い出す。
目の前で、頭から真っ黒になって、ぽたぽたと墨汁を落としていた女の子。
それに向き合っていた貴実の、どこか、勝ち誇ったような横顔。
すぐそばで、それを見つめていた自分の、胸の奥に生じた不気味な熱と炎。
「……ああ」
肺の奥から絞り出されるような長嘆息は、驚きとも、嘆きともつかない、淡い響きをもって教室の隅に消えていく。
希玖の体の中で、凝り固まったものが溶けて、形を変える。ひずんだ怒りは、理屈にかなった感情として、心の底で新しい形を取る。
それは、やはり複雑で、前よりもよけいに扱いにくいものに思われたけれど。
「どうすればいいのかな」
希玖の方から謝るのは、筋ではない。
けれど、貴実に、いまドロシーが語った理路を突きつけて、何の解決になるだろう。
ドロシーはただ、首を振るだけ。
「私にはどうしようもないよ。ただ、おきくが決めることなら、私は背中を押す」
「……ありがとう」
ドロシーがそう言ってくれるだけで、希玖は救われる気がした。
初等部からの長い時間のうちに、希玖はドロシーと知り合い、友達になれた。彼女と語り合う濃密な時間は、希玖の心に新しい力を与えてくれている。
その力が、きっと希玖を前に進めてくれるだろう。時間がかかっても。
教室に、貴実が戻ってきた。希玖を避けたのだろうか、彼女たちのいるのとは反対側の扉から入ってくる。
足音を聞いて、希玖は顔を上げる。希玖の視線を感じて振り返った貴実が、はっとしたように目を見開く。
希玖は、やわらかく微笑んだ。長い時間の中で彼女の覚えた笑顔。
貴実はすこし戸惑ったように、会釈を返して、自分の席へと戻っていく。
一瞬だけ絡んだふたりの視線はほどけて、教室のざわめきの中に埋没する。
けれど、希玖は満足していた。まだ、焦らなくたっていい。




