第1話「ふたりで、めいっぱい綺麗にしよう。この教室」
翠林女学院高等部、1年撫子組の教室の前方、木製の戸棚の上には、白い花瓶が置かれている。細長い瓶の口から、マーガレットの花がちょこんと顔を出す様子は、どこかほほえましさを感じさせる。ふだん強く意識するわけではないが、自然とそこに馴染む花瓶は、生徒たちの気持ちにほのかな彩りを添えていた。
けれど、当たり前のようにそこにあるものでも、誰かが手をかけなければ維持することはできない。花瓶の水も頻繁に変えなければ、濁り、腐って、花を枯らしてしまう。
だから、内海弥生は今朝も、花の水を換えるつもりでいた。生来の綺麗好きで、早起きを旨とする彼女は、中等部の頃からずっと、教室に一番にやってきて軽い掃除をするのを習慣にしていたが、高等部に入ってからは、その作業項目に花の世話が加わっているのだった。もちろん、個人的に、満足のためにしていることだから、苦にはならない。
誰もいない廊下を、弥生は軽やかな足取りで歩く。清涼な空気で満ちあふれる屋内を、まるで自分だけのものみたいにできるこの時間が、弥生は好きだった。思わず、鼻歌さえこぼれる。
流行歌を口ずさみながら、弥生は自分の教室のドアを開ける。
思わぬことに、そこには先客がいた。
「ごきげんよう」
教卓の真ん前の席にいた生徒が、弥生にぺこりと頭を下げた。弥生はどきりとして、一瞬、どう対応していいか分からなくなる。運動部の朝練よりも早く学校に来る弥生は、登校してくる生徒を待って挨拶するのが当たり前で、自分より先に教室にいる相手と向き合うのは久しぶりの体験だった。
それでも、翠林女学院の高等部1年生として恥ずかしくないよう、弥生はきっちりと頭を下げた。
「ごきげんよう、千鳥さん」
高等部の授業が始まってまだ半月だが、初野千鳥の顔は覚えている。なんとなれば、弥生の席は、千鳥の左隣なのだ。
とはいえ、同じクラスになるのは初めてで、まだ彼女の人となりをよく知っているわけではない。いつも大きなリュックを提げていて、机の横にひっかけているのが窮屈そうだ、というのが、千鳥についてのいちばん強い印象だった。
挨拶をすませた千鳥は、それで役目を終えた、とばかりに前に向き直る。その隣、自分の席に歩み寄って鞄を置いた弥生は、彼女のクールな横顔に話しかけた。
「今朝はずいぶん早いのね、千鳥さん」
冷たくあしらうかと思いきや、千鳥は弥生の方を振り返って、おだやかな表情でうなずいた。
「日課が思いのほか早く終わったもので」
「日課?」
「毎朝、1時間くらい散歩するのです」
「へえ……」
「今朝は、大函山をちょっと上ろうかと思ったのです。山小屋まで行って、そこで朝ご飯というのを目標にしていたのですが」
学院の北にそびえる大函山は、整備された山道と広大なキャンプ場を持つ、地元民にも観光客にも人気のスポットだ。弥生も初等部の遠足で上ったことがあるし、山小屋でみんなでお弁当を食べたこともおぼろげに覚えている。あのときは早朝に学校に集合して、バスも使ったけれど。
「……山小屋までって、けっこう歩くよね。それを1時間?」
「慣れれば平気ですよ。足が一度道を覚えれば、速いものです」
言いながら、千鳥は机の下で欲求不満そうに足を上下に動かしている。
「だというのに、ルートの途中でサルが出没したそうで、一時閉鎖になっていました。よくあることですし、すぐに追い払ってくれると思いますが」
「そうなんだ……」
大函山にサルが出るという情報も初耳だし、それで登山道をふさぐような事態になるのも、弥生の理解を超えている。野生のサルが餌を求めて人里に降りてくる、なんてニュースの中だけ、遠くの街の出来事で、自分とは関係ないものと思っていた。
とたんに、目の前にいる千鳥の顔が、超然とした哲学者か何かのように思われてくる。毎朝の散歩、という年寄りじみた彼女の行為も、山伏や僧侶が行う苦行に近いような気がして、つかのま畏敬の念が湧いてくる。
拝んだりした方がいいのだろうか、と一瞬悩んだ弥生を、千鳥は不思議そうに見つめる。
「そういえば弥生さんは、いつも私より早く来ていますね。毎朝ですか?」
「あ、うん」
うなずきながら、弥生はなんだか気恥ずかしくなる。千鳥の毎朝の習慣を知ったあとでは、自分の早起きなんて大したことでないように思えてきた。
「せいぜい、花瓶の水を換えたり、ちょっと掃除したりするくらいだけど」
「それはすごい!」
突然、がたんと椅子から立ち上がった千鳥は、目を輝かせて弥生に詰め寄ってきた。背丈は彼女の方がだいぶ低くて、弥生からは見下ろす形になる。けれど千鳥のアーモンド型の瞳にまっすぐ見つめられると、なんだか、自分の方が小さくなったみたいに感じられてしまう。
興奮した様子の千鳥は、波打つ髪を振り乱し、ほっぺたを赤くして言い募る。
「ちっとも気づいていませんでした。あの花瓶、いつも自然にあるものだから、誰かが世話をしているのかな、とぼんやり思っていただけで……そうですか、弥生さんが」
「い、いや、そんなたいしたことじゃ」
「謙遜しないでください。ほんとうに」
千鳥は視線を花瓶の方に向ける。ふたりの会話を静かに見守っていたマーガレットは、朝の陽射しをうっすらと受けて、慎ましやかに白い花を咲かせている。
「いい機会ですから、私も手伝いますよ。お水、水道から汲んでくればいいですか?」
「え?」
千鳥の申し出に、弥生はきょとんとする。むやみにやる気満々の千鳥は、弥生の制服の襟元あたりにぐいぐいと顔を押しつけるようにして、さらに主張してくる。
「それともお邪魔ですか? この役目だけは譲れないという拘りとか、あるいは私には真似できない秘伝のノウハウがあるとか」
「いや、そんなの全然ないけど……お水、新しくするだけだし」
「では私が花瓶を担当します。弥生さんはその間、お掃除でも。雑巾は使いますか?」
「……花瓶と一緒じゃ、落としちゃうかもだから。先にそっちだけ」
「なるほど、たしかに」
千鳥はうなずき、さっと弥生から離れて花瓶に歩み寄る。気をつけてね、と弥生が注意するまでもなく、千鳥はそっと、両手でやさしく花瓶を取り上げる。
まるで赤子を抱き抱えるような仕草だな、と、弥生は思う。
ふ、と、マーガレットの涼やかな香りを感じてか、千鳥はやわらかく目を細める。その一瞬、彼女の周囲をふんわりと、薄い色の空気が流れていったように思われた。波打つ髪と制服の隙間から、首筋がちらりとのぞく。うなじを染める健康的な肌の赤みが、ひときわ、弥生の目を引いた。
「千鳥さんって、登山とか、好きなの?」
振り向いた千鳥は、コクリとうなずく。
「歩いていくのが好きなんです。自分の足だけでどこまで行けるのか、試せるみたいで」
はにかむように、おさえた声で告げた千鳥のその言葉は、何か、祈りのように思えた。幼い頃から、礼拝堂で繰り返してきた主へ捧げる言葉とは、また別の地点に向けた声。
しかし、それを口にした千鳥の面もちは、あくまで現世的で、はじけるように強い。
「そうだ。今度どこかで、花を摘んできましょう。登山道でも、多少なら摘んでいい花もありますから。いまならカーネーションやカンパニュラ……野アザミもあったかな」
「アザミなんか飾ったら、叱られちゃうよ」
アザミは原罪と受難の象徴、ミッションスクールにふさわしい花ではない。弥生の指摘に、千鳥は肩をすくめて笑う。
眉尻を下げ、唇を持ち上げ、顔全体をきゅっと丸くするようにした千鳥の表情は、高々と両手で掲げたくなる、夏のひまわりのような笑顔だった。
ひまわりが満開になるころには、ふたりで、真っ黄色の野原に立っているのかもしれない。ふと、弥生は、そんな景色を思い浮かべる。
「花を持ってきてくれるのは、大歓迎だけどね」
千鳥の摘んでくれた花を、弥生が花瓶に生ける。それはなんだか、新しく生まれた秘密のようで、胸が躍る。秘密の花が毎朝、他の誰にも知られないまま教室を飾る景色は、どこか後ろめたくて、だからこそ甘美だ。
「ふたりで、めいっぱい綺麗にしよう。この教室」
「はい」
水場を目指して教室を出ていく千鳥の背中を、弥生はぼんやりと見送る。いつか千鳥が、手ずから集めた花々を抱えて教室を訪れるのが、弥生は、いまから待ち遠しい。