第三八話
日が昇るよりも早い時間にもかかわらず少年は目を覚ました。
時刻は午前4時、9歳の子供が起きるには早すぎる時間である。
少年の一日は、柔軟から始まる。
起きて直ぐは柔軟を開始し、身体の筋肉を十分に解す。
そして彼の師匠とのランニング、朝の修行は、彼の5人いる師匠が交代こで行い、この日は蓮白影の順番・・・のはずだったが、今日は剣の師であり、少年の叔父である清十郎が朝の修行を担当した。
少年は、珍しいと思いつつもこんな日もあるのかと、あまり気にしていなかった。
しかし、いつもと様子の違う清十郎は何かを熾輝に言いたそうにしているが中々口に出せないでいる。
かくして、少年のランニングは始まったのだが、スタートと同時に二人は短距離走でもするかの如く全力疾走を開始した。
山を下りながらの全力疾走
途中に生えている木々を交わして足場の悪い場所でさえも速度を緩める事はしない。
山を下ったら次は登りだ。
こんどは、息を整えながらと全力疾走の繰り返し。
このランニングだけで2時間は費やし、体力の限界近くまできた頃に開始されるのは、ただひたすらに行われる筋力トレーニングだ。
熾輝には、武術の才能が無い。
しかし、基礎となる身体は、どんなに才能が無くてもどこまでも鍛える事が可能だ。
ここで、余談ではあるが熾輝を構成する筋肉の話をしよう。
通常人間に備わっている筋肉には2種類の筋肉があり、それらを遅筋・速筋という。
これら二つの筋肉を簡単に説明すると
○ 遅筋(白筋)は、持久力のある筋肉
○ 速筋(赤筋)は、瞬発力がある筋肉
である。
しかし、近年これら二つの特徴を兼ね備えた筋肉が注目を集めている。
それがピンク筋と呼ばれる筋肉だ。
この筋肉の特徴は、持久力と瞬発力がある筋肉で落ちにくいと言われている。
これを聞くと、当然ピンク筋肉がすごいと思うかもしれないが、そこには大きな落とし穴がある。
仮に遅筋が持久力100の力をだせるとしよう、それに対し速筋は25の持久力、ではピンク筋は100の持久力を出せるのか?
答えは否である。
この場合ピンク筋肉の持久力は50であり、それが瞬発力でも同じく50の力しか出せないのだ。
つまりピンク筋は遅筋・速筋、両方の中間に位置する筋肉、中間筋なのだ。
では、熾輝を構成する筋肉は、どの筋肉を主体に作られているのかだが、それはピンク筋(中間筋)である。
しかし何故、熾輝の師匠達がそのような中途半端な筋肉を造り上げているかというと、ここには、少年の師匠の中で、唯一武の心得を持たない東雲葵の存在が大きく関係していた。
ここに葵が書いた論文がある。
その一部を抜粋するとしよう。
中間筋肉は、文字通り遅筋・速筋の中間に位置する筋肉である。
それ故に特化した二つの筋肉とは違い、平均的な力しか出せない。
しかし、同じ量の遅筋のマラソン選手が持久走をしたとき、その結果に大きな開きが生まれる。(別紙データ1参照)
同様に同じ量の速筋の重量挙げの選手が競技を行った際も結果は大きく変わってくる。(別紙データ2参照)
これは、選手の体調などが原因と考えられてきたが、果たしてそれだけであろうか?
仮に遅筋・速筋の量が同じでもその質が違えば引き出せる力も変わってくるはずである。
例:100gの速筋2名。Aの速筋の質を仮に100%とし、Bの速筋の質を仮に50%としたとき、Aの方が力は上である。(別紙データ3参照)
では、100%の遅筋速筋と同等の力を出す場合、中間筋肉の質は200%まで引き上げる必要があるが、これは現実的にも不可能と呼べる。
最高値を100%とした時、それ以上は存在しないからだ。
だが、筋肉の質を数値化する事はあくまでも机上の話であり、人間の筋肉組織の質は何処までが限界なのかは、未だに解明されていない。
ならばこの筋肉の質を上げる事が出来れば、人類の運動能力は、さらなる飛躍を果たすだろう。
以上が葵の論文内容である。
では、具体的な質の上げ方についてだが、これは実際に熾輝を実験台として行われた。
筋肉の質を向上させる方法として守らなければならない原則があり、それは
○ 全力の力で持久する。
これは無謀にも思えるが、例えば全力マラソンである。
全力で持久走を行う事により、短距離と同様の瞬発力と持久力が身に付くと言う物。
現実的に行うのは不可能だと思われるが、熾輝の師匠は魔術とオーラのスペシャリストであり、そこらへんの不可能は覆す。
その他にも呼吸法や食事管理などがあるが、それは、彼らの秘術とされるところが含まれることから、おいおい解説することとする。
長い余談にはなったが、この修行法により、熾輝が纏う筋肉は質的には特上級の代物となっている事が判明し、さらに例えて言ういのであれば、50gの中間筋肉量で、200gの普通の遅筋速筋と同等の域にまできている。
余談終了――――――
身体を苛め抜いたあと、僅かではあるが、休憩時間が設けられている。
上がった息を整えていた際、一人の幼女が熾輝の元へとやってきた。
「熾輝様、タオルと飲み物です。」
年のころは熾輝と同い年くらいで、黒髪ショートボブの女の子
言葉どおり、タオルと飲み物を熾輝に手渡すため、先程からそれ等を差し出している。
「・・・ありがとうございます。」
いつもと違う状況に慣れていないせいか、熾輝はためらいながらも少女が差し出したタオルと飲み物を受け取った。
流れ出る汗を拭きとり、水分を補給する。
ただそれだけの行動を見ているだけで少女は、嬉しそうに笑顔を向けてくる。
熾輝の目には、お尻から生えた尻尾が高速で振られている様に見えたが、どうやらそれは幻覚だったみたいで、少女のお尻からはそんなものは生えたりはしていない。
そして、少女の他にもう一人、新しい顔が増えていた。
その一人は、現在昇雲と将棋を指している。
見た目の年齢は、おそらく40歳ほどで、白髪交じりの長髪を後ろに束ねた筋肉隆々の男性である。
この二人は、昨日の事件終息後、円空が連れて来た式神だ。
熾輝は覚えていないが、彼の両親の式神だった彼らは、長い事封印指定され、危険性が無いと分かってからも所有者不在のまま保管管理されていたらしい。
そして、式神二人を受け入れる際も事件に続き一悶着あったのは、熾輝の記憶に新しい。
昨晩のこと、熾輝は円空を除いた師匠達と先に家に帰り、円空の帰りを待っていた。
円空が帰ってきたときに引き連れてきたのがこの二人である。
そして、熾輝の姿を認めるや少女型の式神がいきなり膝を付き首を垂れたのだ。
「我が名は【双刃】、私はこの時を待っておりました。この時よりこの身、この剣はあなた様の物。我が生涯を賭してあなた様を護る式神としてお傍においていただきたく思います。」
「・・・。」
いきなりの登場、いきなりの名乗り、そしていきなりの申し出であった。
流石の熾輝も状況の変化に付いて行けず、ただ茫然と双刃と名乗った少女を見ている事しか出来ず、困り果てた彼は、師達へと視線を向けようとしたその時、もう一人の式神が会話に入ってきた。
「私は羅漢だ。言っておくが私にはお前を守るつもりも従うつもりもない。」
2メートルを超える筋肉隆々の男は、黒いコートを着込み、熾輝を見下ろして認めないと言い放った。
何が何やらわからないまま熾輝は途方に暮れるが、先程まで首を垂れていた双刃がバッと顔を上げて、羅漢に対し怒鳴りつける。
「貴様!我が主に向かって何たる無礼!」
「私はお前の様に媚び諂いはしない。それに私は主と呼べる者など過去一人も居たことがない。」
「嘘を言うな、貴様は総司殿の式神だったではないか!」
「私と総司にそのような主従関係は存在しない。漢は互いに認め合った者を友と呼ぶのだ。」
「我等式神は、主が居て初めて存在意義があるのだ。それを貴様は貴様はっ!」
プルプルと震えながら怒りを表現する双刃に対し何処までも冷たくあしらう羅漢
だが、この二人の言い争いを永遠聞かされていても埒が明かないので、熾輝は一先ず置いておくことを選んだ。
いわゆる放置である。
「師匠、この二人は僕の両親の式神だったのですか?」
「・・・そうだ。双刃はお前の母親、羅漢はお前の父親の式神だった。」
式神二人の言い争いを放置した熾輝を咎める事はしなくても、色々と突っ込みたい気持ちの清十郎であったが、一先ずは細かい説明をした方がいいと判断した。
「実はな、あの神災のときの生き残りはお前一人みたいに言われているが、実はその時俺もあの場に居たんだ。」
清十郎は神災の時の状況を語りだした。
「――――俺が後から到着した時には既に遅く、兄貴が魔術を発動させた直後、本来なら俺も死ぬはずだった。だが、俺は生きていた。その時の状況は俺を五月女に連れ帰った和也から聞いた話だが、どうやら俺を救ったのはここに居る二人だったらしい。」
親指で後ろの二人を指さし、睨み合っている二人も自分達の事を話していると気が付き、話に割り込んでくる。
「状況からいって、それは間違いないと思うが、我々にはその時の記憶が欠損しているため、前後の記憶に不具合が生じている。」
「申し訳ございません熾輝様、わたしもコヤツもあの場に居たはずなのですが、気が付いた時には既にこの身は封印指定にされ、今まで形代の状態で保管されていたのです。ですが、それ以前の記憶はございますので、我等は熾輝様が生まれてからあの時までお傍におりました。」
そう語る二人からは、何やら暗い影が差されていた。
「しかし、主のご子息であらせられる熾輝様もまた、私が仕えるべきお方ですので、どうかお傍に置いてください。」
双刃の理屈は、ある意味無理やりな気がした。
友達の友達はみんな友達みたいなものである。
しかも、この二人は話を聞くところ、相当すごい式神であるらしい。
【高等自立式】それは、霊的存在を形代に宿らせて実体化できる希少な式神であり、その姿と思考は、人と何ら変わらないと言われている。
これ程の式神がなにもせずに手に入ることは、かなりの幸運と言うべきであろうが、しかし、少年は親の形見である彼らを引き継ぐつもりは無かった。
「・・双刃さん『双刃とお呼び下さい。』」
さん付けはするなという双刃の要望ではあるが、人と何ら変わらない彼女、しかも自分より遥に年上である者を呼び捨てに出来ない熾輝は、右手を前に出し、それを否定する素振りを見せる。
そして再び同じ呼び方で双刃の名を呼ぶ。
「双刃さん、僕は彼方に見合う力を持たない未熟者です。だから急に主と呼ばれてもきっと失望させてしまいます。彼方は高等自立式なのだから、主が居なくても力の供給をする必要もない、だったらせっかく自由になれたのだから、僕なんかの傍にいないで、好きな事をした方がいいと思います。」
自由にしたほうがいい。
そう双刃に告げたところで、当の本人である少女は、大粒の涙を流し始めた。
「そ、それは、私が不要だと言う事でしょうか?」
大粒の涙をぽろぽろと流してはいるものの、大泣きするのを必死で我慢している様にも見えるその姿に普通の者だったら保護欲を刺激されるだろうが、生憎と熾輝には存在しない感情の類だ。
「不要とはいいませんが、ただあなたは人と変わらない存在なんだから好きに生きてほしいと『ならば傍に置いてください!』」
熾輝の説明を最後まで聞き終えない内からヒシッ!と膝に張り付いて懇願する。
正直、熾輝にはどちらでもいい事だった。
彼には、傍に居てほしいだとか手に入れたいだとかの欲が無く、ただ単に一人の存在を受け止める事に対し、子供である自分の分を超えていると判断したのと自分の人生を謳歌させるべきだと判断したための言葉だった。
しかし、少女はそうは取らなかったようで、今も必死に熾輝の膝に張り付いて離れようとしない。
「別にいいんじゃねえか?置いてやっても」
声を掛けてきたのは、円空である。
「別段居て困ることも無いと思うし、居たらいたで結構便利だと思うがのう。」
「便利って・・・」
便利と聞いた瞬間、ここぞとばかりに双刃は自分をアピールするべく、熾輝の目の前でパフォーマンスを始めた。
色々な姿に化けてみたり、演舞を見せてみたりと色々である。
「・・・・わかりました。」
熾輝にしては、随分と長い間思考し、最終的には双刃を自分の式神とする事を決めた。
「~~~っ!!!!そ、それは本当ですか!?」
「はい。嘘は言いません。」
「あ、在り難き幸せ!どうか幾久しゅうよろしくお願い申し上げます!」
こうして熾輝は双刃という式神を手に入れたのだが、その様子を表情一つ変えないで見続けている筋肉隆々の男がまだ残っている。
「そんで?お前さんはどうするよ?」
「私は誰の下に付くつもりも無い。」
結果は先程と同様の否定の言葉だった。
そして、またも言い争いが繰り広げられようとしている。
「き、貴様ッ!『だが、』」
口論が始まろうとした矢先、羅漢から次の言葉が放たれた。
「私は、個人的にお前に興味がある。総司の息子が私に相応しいのか見定めたくなった。」
どういう心境の変化か、先程までとは違ってある程度の友好的な発言である。
しかし、彼は主と認めないと言っているだけで、熾輝の傍に居るつもりが無いとは一言も言っていなかった。
案外、最初から熾輝の傍には要るつもりでいたのかもしれない。
「お前が自由にしろと言うのなら私は、私の好きにさせてもらう。だからお前のために私が動くとは思わない事だ。そして、去れと言うのなら私はこの場を去ろう。」
男の言葉を聞いて、熾輝の答えは既に決まっていた。
「それでいいです。彼方は彼方の好きなようにして下さい。僕は彼方を束縛したりはしません。」
こうして八神熾輝の元に二人の式神が加わったのである。
そして今現在、双刃は恭しく熾輝の世話をし、羅漢は宣言通り将棋をして自由に過ごしていた。
そのような濃厚な一日を体験したにも関わらず熾輝の修行は、休みなく行われるのであった。
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一日の修行が終了し、今は葵と一緒に夕飯の準備をしている。
これは、いつもの事ではあるが、いつもと違うのは双刃も一緒になって食事の準備をしている事ぐらいだ。
最初は、自分がやるから休んでいろと言われたが、これも修行だと言ったら、一旦は引き下がったものの、気が付けば隣で一緒になって料理を始めていた。
どうやら彼女は、何かしていないと落ち着かないようで、常に熾輝に張り付いている。
そして熾輝はある違和感に気が付いた。
今日一日、葵が浮かない顔をしており、先程から料理をする手が全く動いていない。
体調が悪いのかと聞いてみれば、そうじゃないと言われたが、今日の彼女は明らかにおかしかった。
新たに加わったメンバーを除けば、いつもと変わらない一日であったが、唯一違う事といったら夕飯後、清十郎が熾輝に外で話したいことがあると言った事ぐらいだ。
雲ひとつ無い晴れ渡った夜空と輝く満点の星々
幻想的な空間に熾輝も思わずその光景に見とれてしまっていた。
「座ってくれ。」
夜空を見上げていた熾輝は、清十郎の声のする方へ視線を向けると、既にテラスの椅子に座っていたので、促されるままに腰を下ろした。
いったいなんの話があるのかと思い、清十郎の言葉を待っていた熾輝は、彼の言葉に衝撃を覚える。
「熾輝、俺は今夜ここを出て行く。」
それは、余りにも突然な告白であった。




