第二話
魔界には、多種多様な魔族が存在しており、人間界では、様々な呼び名で呼称されている。
日本でいう妖怪、怪異、海外でいう魔物、怪物、その他の国や地域によって、呼名は様々であり、それらの総称として魔族と呼ばれているのが一般的ではあるが、魔界の者たちは、自分たちのことを妖怪・魔族と呼ぶものも居れば、そう言った呼称を使わないものも居る。
そして、彼等が住む魔界は、広大であり、その広さは、彼等ですら把握できている者は居ないと言われている。
彼らの生活スタイルは、自由が基盤とされている。と言えば聞こえはいいが、それは、秩序を無視した弱肉強食が日常茶飯事に行われており、弱者は強者に殺されるか、あるいは奴隷として扱われるかのどちらかだ。
しかし、秩序を無視した弱肉強食とは人間からの見方であって、彼等からすれば、それが当たり前であり、弱肉強食こそが、むしろ秩序と化していると言える。
そんな、魔界に力を持たない人間が足を踏み入れれば、三日以内に死ぬと古来からの言い伝えであり、弱肉強食によって魔族に殺されるか、魔界を満たしている瘴気によって、死ぬかのどちらかである。
かくいう、魔界に堕ちた男の子もその例外ではない。
男の子は、奴隷商人によって連れてこられた野営場の片隅、牢屋のような荷台の中で、ひどい高熱にうなされていた。
「可哀想に、こんなに辛そうにして。」
「姉様、この子、死んじゃうの?」
「・・・分からないわ。でも辛そうだし、この苦しみ方は異常・・・だと思う。」
荷台の中には、男の子の他には、十人程の女子供が奴隷として監禁されており、皆が男の子の様子を気にしていたが、率先して近づこうとはしなかった。
面倒を見ているのは、一人の女性と、「姉様」と呼んだ幼い女の子の二人だけである。
男の子は、牢屋に入れられた時には、既に衰弱した状態であり、それでも、何か食べれば少しは体力も回復して、直ぐに元気になるだろうと思っていたが、牢屋に入れられて、半時もしないうちに、吐血し、倒れこんだのである。
「姉様、どうしよう。この子、また口から血を吐いた。」
「どうしようって言われても、私も人間を見るのは初めてだし・・・」
「諦めな。人間が魔界で生きていくには、瘴気に対する抵抗力が必要なんだ。見たところその子に魔界の瘴気に抵抗するだけの力はないみたいだね。」
二人が、男の子を見ながらオロオロとしていた時に、見かねていた奴隷の一人から声が掛けられた。
「私等みたいな魔族にとって瘴気は、力を補給できるエネルギーだが、人間にとっては、毒でしかないんだよ。魔界に居る限り、その子は毒にさらされ続け、肺が徐々に腐って、身体全体に毒が回って時期に死ぬだけさ。」
「そんな、まだこんなに小さな子が死に掛けているのに、なんとか出来ないんですか?」
「無理だね。稀に死にかけた状態から息を吹き返して、瘴気に対する抵抗力を身に着ける者も居るみたいだが、そういった者は、元々の生命力が強い者に限られるんだ。」
女の話では、稀に死の淵から蘇ることもあるらし。しかし、男の子を見る限り強い生命力何てものは、感じ取ることは出来ない。それどころか、生きようとする気持ちすら感じられない。
思えば最初に会った時から男の子の目に感情という光はなく、人としてではなく、生き物としての当たり前の感情が、すっぽりと抜け落ちているように感じていた。
最初は、自分たちのように奴隷商人にさらわれた際に、よっぽど恐ろしい思いをしたせいで、心を閉ざし、記憶も喪失しているものだとばかり思っていたたため、あまり気にしていなかったが、男の子の状態はあまりにも不自然すぎた。
出会って半時も経っていないが、ここに居る誰もが男の子に対し、同じようあ不自然さを感じていた。
「それにしても、アンタも物好きだね。」
「え?」
「私等にとって、死は日常茶飯事なんだ。見ず知らずの人間の子供が一人死のうが、関係無いだろうに。」
「・・・そう、ですね。私にも弟が居たから、この子に弟の影を重ねちゃったのかもしれません。」
「・・・そうかい、まあ深くは聞かないよ。好きにすればいい。」
そう言って、奴隷の女は、背を向けて横になった。
間もなく、就寝の時間が近づいていたため、他の奴隷たちも、横になり始めた時、見回りの奴隷商人の男がやってきた。
「おい、人間の様子はどうだ?」
そう言って、牢屋の中をのぞき込んできた男は、「あん?」と不可解な声を上げた。
「おいおい、くたばりそうじゃねぇか。」
「・・・どうやら、魔界の瘴気に侵されたみたいなんです。」
「なんだよ、そりゃ。せっかくの金の卵がダメになるってことか?」
男の言葉を聞いて思わず黒い感情が、女の心を染めあげるが、女は何も言えなかった。
反抗的な態度をとっても、自分にとって不利益なことでしかないのが分かっているからだ。
そんな自分に対する罪悪感もあってか、何も言えずに黙っている。
「まぁ、しょうがねぇな。おい女、そのガキがくたばったら教えろ。」
「・・・わかりました。けど、どうするんですか?」
「くたばっちまったら、色々と処理しなきゃならないことがあるからな。まぁ、食料としての価値なら、死んでいても問題ないだろう。」
食料としての利用価値。
つまりは、男の子を食用として扱うという事なのだと、女は理解した。
目の前で、苦しんでいる男の子を目の前にして、女は何とかしてあげたいと思いつつも、魔界の常識からすれば、男の子の辿る未来は、自然の摂理の通り進めば死ぬだけだ。
自分の何とも言えない感情を飲み込み、女は「そうですね。」としか答えようがなかった。
女は、そんな言葉を吐いた自分が許せなかった。
ただ生きて欲しいと祈ることしか出来ない自分を呪って。
夜、誰もが寝静まっていたころ、男の子は、高熱にうなされ続け、腐りかけの肺に一生懸命酸素を送っている。しかし、呼吸をすればその分、瘴気を体内に送り込むため、病状が良くなるということは決して無かった。
男の子を診ていた女も、疲れてしまったのか、いつしか男の子の隣で眠ってしまっている。
限界が近づいて来ているのか、次第に呼吸が浅くなり、脈も振れているのか全く分からない状態のまま、ついに男の子は、瞼を閉じた。
感情を失ったためか、死ぬことに対して恐怖は、湧いてこなかった。
ただ、身体を駆け巡る痛みが遠のいたことに対して、少しの安心があった。
なにも感じていないハズなのに、安心を感じるなんて、矛盾している。
もしかしたら、心は泉のようなもので、今までは、泉の水が乾いていただけで、死の淵に立って、初めて安心という源泉が湧いてきたのかもしれない。
男の子は「良かった。」と誰にも聞き取れないような声をこぼして、意識を暗い闇の中に沈めていった。
『―――ねぇ、―――ねぇってば――――』
『―――だれ?』
完全に意識を闇に沈めていたはずの男の子に声が聞こえた。
『あなた、このままだと死んじゃうよ?』
『―――そうだね。』
『本当にいいの?』
『仕方がないよ。もう無理そうだもん。』
『――――簡単に諦めるの?』
『諦める?―――何を?』
『生きることよ!』
『―――なんで生きなきゃならないの?こんなに苦しいのに、やっと楽になれるのに。』
少年には生に対する執着が無かった。
何も感じない、感情のない自分。そんな自分に生きたいと思えるような理由は見当たらないし、行きたいという気持ちが溢れてこなかった。
『―――あなた、死にたいの?』
『わからない。―――何にも感じないんだ。僕には心が無いのかもしれないね。』
『―――何も感じないのなら、何で「よかった」なんて言ったの?』
『―――なんでだろう?痛みから解放されて楽になれると思ったからかな?』
『それって、――――心があるっていうことじゃない?』
『あぁ、そうだね。』と、つぶやく男の子に女の子の声が、少し怒ったように聞こえてくる。
『何よそれ?心が無いなんて嘘じゃない。』
『―――。』
『あなたは、心が無いと思っているだけよ。』
『―――でも、それ以外、何も感情が湧いてこないんだ。記憶が、部分部分思い出せないことが沢山あるけれど、感情があったことは、覚えてるし、今の状態は、何も感じていないってわかる程に、『じゃあ、』―――』
女の子の声は、少年の言葉を遮って、自分の意見を述べる。
『じゃあ、それは、あなたに感情が生まれたってことよ!』
『―――生まれた?』
『そうよ。そうとしか考えられない。あなたさっき、自分の記憶が思い出せないことが沢山あるけど、感情はあったって言ってた。でも今の自分には以前のように感じるものが何も無いけど、よかったって思えることも出来たんでしょ?』
一息で言い切った女の子は、自分の考えに間違いは無いという意思を込めて、続ける
『だったら、あなたに感情が生まれたってことよ。よかったって言った時のあなた、私には、死ねることに対してじゃなく、感情があったことに対して言った様に聞こえたわ。』
『―――そうなのかな?』
『自分のことでしょ?』
『―――。』
正直、男の子には、分からなかった。しかし、女の子の言葉を聞いて、そうかもしれないと思いはじめていたが、今更そんなことを話していても男の子には何の意味も無かった。
『そうかもしれないけど、今更そんなことが分かっても、もう僕には何の意味も無いよ。』
『どうして?』
『だって、僕は、死ぬんだよ?』
『諦めないでよ!』
『諦めるなって言われても、僕にはどうしようもできないし、生きなきゃならない理由もない。』
『―――話が最初に戻っちゃったわね。』
ここまで話をしていて、男の子には、どうしてこの女の子が、自分に諦めるなというのかが分からなかったが、女の子は『だったら、』と言葉を続ける。
『だったら、何か生きる理由があればいいのね?』
『―――あれば、生きなきゃならないなんて――『私がその理由をあげるわ!』』
男の子の言葉を再度遮って、女の子は、半ば強引に自分の意思を押し通す。
『一つ、あなたは、自分の感情をもう一度作りなさい。無くした感情を取り戻すなんてことはしなくていいし、焦る必要もない。ゆっくりと、もう一度自分の感情を作っていくの。』
『―――。』
『一つ、人間界に帰りなさい。きっと、あなたを大切に思っている人達があなたを心配しているわ。』
『―――。』
『一つ、私のために生きて。私は、あなたがこのまま死んじゃうと、きっと悲しくなるわ。』
『―――。』
『これが、あなたが生きる理由よ。』
『―――。』
『まだ、私が言っていることに対して、是非を決められるような感情が無いというのなら、ただ一言「分かった」と言ってくれるだけでいいの。絶対いつかこの選択をしてよかったと思える時が来るはずよ。』
さあ、と女の子が優しく声を掛け、男の子はたった一言『分かった』と口にした瞬間、自分の唇に暖かく、柔らかいものが触れ、口の中に熱い何かが流し込まれていく。
それは、口を通して、お腹の中まで来た途端、全身に駆け巡るのが伝わってきた。
まるで、身体が沸騰しているような錯覚さえ覚える熱さに、男の子は細胞の一つ一つに生命力が溢れてきているのがわかった。
男の子は、重い瞼をゆっくりと開くと、そこには、自分と同い年くらいの女の子が、自分を見つめていた。
背中まである女の子の髪は、真紅の炎に包まれているかのように、ぼんやりと優しく燃え上がっている。しかし、本当に髪が燃えている訳ではない。
本来の髪の色は、少年と同じ黒髪だが、それが炎に包まれているハズなのに、その炎は、女の子の髪を燃やしてはいない。
そんな不思議な現象に目を奪われていた男の子に女の子はニッコリと微笑みを返す。
「よかった。正直、私の力に適応出来ないかもって、不安だったけど、もう大丈夫みたいだね。」
「―――君は、いったい」
「何者なんだ?」そう言葉を言いかけたところで、女の子は、首を振った。
「ごめんね。今は何も答えられないの。それとね、あなた右眼が見えてないみたいだけど、私の力でも、今この場で完全に治すことは出来ないみたい。だけど、年月が経てば、次第に見えるようになるわ。」
視力を失った右眼にそっと手をかざした女の子が申し訳ないような顔をしながら語りかけてくるが、本来なら「君が気に病むことじゃない」「君のおかげで命拾いした」等、何か言葉を掛けるべきなのだろうが、男の子には、そんな顔をする女の子に掛けてあげられる言葉が思いつかなかった。
「それとね、このことは二人だけの秘密にして欲しいの。理由は聞かないでくれると在り難いかな?」
小首を傾げながら女の子は、男の子に「だめ?」と同意を求めてきたが、男の子には、秘密をばらすような理由も無かったので、了承した。
女の子は、すんなりと同意した男の子を見て、少し身構えていた自分が何だか恥ずかしく感じていたが、直ぐに笑顔に戻った。
「ありがとう。」
「お礼を言われるようなことはしていないつもりだよ?」
「そうかもしれないけど、私が言いたかったの。」
そこまで、言い終えたところで、男の子の全身を支配していた熱が段々と引いていき、次第に睡魔が男の子を襲う。
「私の力が適合したとはいえ、体力の限界だったのだから、無理もないよ」
そんな男の子の様子に気が付いたのか、女の子は、男の子を気遣うように話しかけてくる。女の子の言葉を眠気に覆われた意識の中で、必死に聞き取っていた男の子だったが、ついには、自分の意識を再び闇の中に沈めていった。
「今は、ゆっくりと休んでね。」
そんな女の子の言葉を最後に、男の子は完全に意識を闇に沈めた。
しかし、今度の意識を沈めた闇の先に、死という世界は待っていない。