這い寄る
その日、八神熾輝は、いつもの様に起床し、いつもの様に修行を終え、朝食を終えた。
代り映えのしない日々、ここ最近の平和な日常を噛みしめるかのようにテレビを見たり、読書をしたり、宿題をしたりと、およそ普通の子供らしい休日を過ごしている。
ただ、部屋を見渡してみれば、彼と彼の式神である双刃と羅漢がいるだけ。
別に寂しい訳ではない。葵や紫苑にも予定があり、自分が疎かにされている等とは微塵も思っていない。
葵は、ここ最近頻発している事件の応援として本業である医師の仕事より対策課の仕事を手伝っている。
日本に一時帰国している紫苑は、毎日の様に何処かへ出掛けては、遅くに帰ってくる生活をしていた。ちなみに、彼女から貰った魔道具類の対価として言い渡されていた課題は、昨日になってようやく終わらせる事が出来た。
これで、何の憂いも無く魔道具を使わせてもらえるとホッとしていた熾輝だったが、如何せん課題の量が凄まじく、彼も夜更かしをする日々が続いていたため、少々寝不足気味だ。
テレビを見れば、神災追悼番組が永遠と報道されている。
熾輝も思うところが無い訳ではないが、彼の立場上、最近はどうにも煩わしさしか感じられなくなっているのは、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。
時計の針に視線を映せば、もうすぐお昼時、そろそろご飯を作り始めなければならないのだが、連日の夜更かしが祟ったのか、瞼が重く、ウトウトとしてしまっている。
―(…少しだけならいいかな、約束の時間まで、まだまだ余裕はあるし――)
ほんの少し、…15分だけ…と誰に聞こえるでもなく、自分に言って、意識を沈める――
『――なんだ坊や、来たのか』
『………』
気が付けば白い空間にポツンと立っていた。
目の前には見覚えのある女性が立っている。
『ん?どうした、不思議そうな顔をして』
『………』
気軽に話しかけてくる近所のおばさんのようなサバサバした感じ。
そんなオバ、…彼女をポカンとした顔で見上げる。
『あらやだ、もしかして寝ぼけているの?久しぶりに逢えたのに呆けた顔をして……チューでもしてあげようかしら――』
『大丈夫です。ちゃんと起きてます!』
あまりにも反応がない熾輝に対し、彼女、先代天地波動流後継者がチュウの口をして顔を近づけて来た事に貞操の危機を感じた熾輝は、後退りながら覚醒している事を告げる。
『残念、もう少しだったのに』
『………』
チェっと、つまらなさそうにする先代だったが、なにやら本気だった雰囲気を感じ、ショタ的な癖があるのではと思ってしまう。
『あの、先代様――』
『その呼び方はやめてよ。なんだかむず痒いから。私には安堂千影っていう名前があるんだから』
あるんだからと言われても初耳である。…とは突っ込まない。
『じゃあ、安藤さん――?』
『いやだよ、この子は他人行儀ねぇ。友達からはチーちゃんとかアンちゃんって可愛い感じに呼ばれていたのよ?』
『………』
チーちゃんはともかく、アンちゃんというのは、何やら兄貴臭…いや姉貴臭を感じさせるからでは?と思うのは、自分だけだろうかと考える。
『ちなみに師匠は、なんて呼んでたんですか――?』
『………アイツは、オバサンって呼んでた』
『え――?』
なにやら深い怒りを宿したかのように青筋を浮かべて語る千影
『言っておくけど、私をオバサンと呼んだらどうなるか判ってる?』
『……いや、呼びませんけど――』
『ちなみに清十郎は、私にボッコボコのボコにされて二度と逆らえなくしてやった』
ふふふふふ――と闇を含んだ笑いを漏らしながら当時の事を思い出す千影に対し、熾輝は本気で戦慄を覚えた。
それと同時にフルボッコに遭わされる清十郎の姿を想像する事が出来ず、目の前の女性が生前、どれ程の高みに居たのか興味が湧き、聞いてみた。
『――私?そうねぇ…まぁ、人類最強の女ってくらいには強かったと思うよ?ちなみに使徒や魔人なんてヤツを相手にした事あるけど、負けた事がないや』
聞いていて目眩が起きそうだった。
ちなみに使徒や魔人にも格という物があるが、それでも常人が太刀打ちできる相手では無いし、達人級の者であっても上位に位置する者でしか対処できない…というのは、熾輝も最近になって知ったこと。
昨年、熾輝も魔人との戦闘を経験してはいるが、規格外の力を持った咲耶・可憐・燕・遥翔、そしてこれまた規格外の羅漢・双刃・刹那・剛鬼という、まさに規格外バーゲンセールの様な面々が居た上、存在が弱り切っていた魔人が相手だったからこそ、自分なんかが生き残る事が出来たのだと思っている。
『まぁ、生前の話だし。もしも今、清十郎とやり合うっていうなら、十中八九アイツが勝つね。なんせ私の弟子だもの』
そう言った千影は、チェッと、何か気に喰わなさそうな舌打ちをした。
『ところで坊や』
『はい――?』
『何でまたこんな所に来たの?』
『………』
『………』
「――いや、知りませんよ!」
突っ込みを入れた熾輝は、ソファーから身を起こした。そして、気が付くのであった…
「ゆ、夢か…」
いつの間にか寝落ちしていて、摩訶不思議な夢?を見ていた熾輝は、寝言と同時に目覚めた。
リビングキッチンの方では、昼食の準備のため食器を並べていた双刃が心配そうな顔つきで熾輝の方を見ている。
向けられる視線に恥ずかしくなった熾輝は、僅かに顔を赤らめ、逃げる様にして洗面所へ足を向けた。もちろん顔を洗うためであった―――
「――よし、準備できた」
昼食後、身支度を整えた熾輝は、時計を確認して、「そろそろか」と玄関へ向かう。と、そこへ…
「熾輝さま――」
後ろで控えていた双刃が声を掛けて来た…が、その表情は何処か曇っている。
「どうしたの?」
「はい。…いえ、今日は、ついに約束の日です。結果がどのようになろうとも、私は熾輝さまの味方です」
不安を覗かせる双刃…今まで熾輝を支え、両親を誰よりも信じていた彼女ではあるが、やはり、真実を知るのは怖いとみえる。
「ありがとう。どんな結果になろうとも、みんなが居てくれれば僕は大丈夫だよ」
「熾輝さま…」
瞳を潤ませる式神童女、そして、羅漢もまた黙して語らないが、どこかいつもと違う雰囲気を纏っていた。
「行こう。時間までには先生と紫苑姉さんも駆け付けてくれるって言っていたし」
「はい――」
湿っぽい雰囲気を吹き飛ばすかのように熾輝は扉を開ける。…直後、携帯端末が着信を告げる。
こんな時に誰だ?と思いつつ、端末の画面表示を確認した熾輝の眼がスッと細められた―――
◇ ◇ ◇
時間は少し遡り、ここは、咲耶の自宅
姿見様の鏡の前で服装と髪型のチェックを行う少女は、時計をチラチラと確認しながら、服を脱いでは別の服を着るという作業を繰り返している。
どうやらお出かけ用の服装が中々決まらないらしい。
「もぅ、アリアが居れば意見を聞けたのにぃ」
今は居ない相棒の名前をボソリと呟きながら、再び別の服を選び直す。
今日という特別な日を迎えるに当たり、アリアは法隆神社のバイトへと出掛けている。
特別な日なのだから今日くらいは、仕事を休んでも良いハズと咲耶は思っていたが、如何せん、あの神社は今でも人手が足りていない。
午後から付き合いのある神社から応援がやってくるとの事であり、それまでの繋ぎとしてアリアが午前中の間だけ出向いているのである。
また、集合時間は午後であり、実際に魔術を用いての実施時間となると真夜中になるので、そう急ぐ必要もないのだが、こういった特別な日は早めに用意するに限ると言ったのは、しっかり者の可憐である。
集まりはお茶の時間である午後3時、集合・実施場所は法隆神社。
集まるのは何時もの面々に葵、紫苑が加わる事になっている。
「こ、こんな感じかな」
ようやく納得がいったのか、髪をクシクシと手で解かし、「うん」と頷く。
時計を見ればまだ1時半を回ったところ。集合時間より大分早いがもう家を出てしまっても問題は無いだろうと思い、玄関へと行こうとした時、インターホンの音が鳴り響いた。
「誰だろう?」と思い、玄関ドアを開けた先には…
「やっほー。久しぶり」
「朱里ちゃん?」
暫く学校を休んでいた朱里が訪ねて来たのだ。
咲耶は驚いた顔をしつつも、門扉の前に立っていた朱里の方へと近づいた。
「どうしたの、急に?」
「うん。たまたま通りかかったから寄ったんだけど…出掛けるところだった?」
おめかしをした咲耶を見て、タイミングが悪かったかと問う朱里に対し、フルフルと首を横に振って「大丈夫だよ」と言う。
「まだ時間があるから。…それより上がってよ。お茶出すから」
「ありがとう。悪いわね。お邪魔するわ」
急にやって来た朱里に何の疑いも持たず、招き入れた咲耶は、いそいそとキッチンでお茶を用意すると、自室に案内した。
「それにしてもビックリしたよ。なにも言わずに学校を休んだから心配してたんだ。可憐ちゃんも何度も連絡を取ろうとしていたけど、携帯にもつながらないって言ってたよ」
「そうなの?携帯を落っことして壊れちゃったのよネ。今度謝っておかなきゃ」
「うん、そうしてあげて」
可憐が連絡を取ろうとしていた事を告げる咲耶に対し、朱里は悪びれもなく嘘を吐く。
本当は可憐からの着信もメールの事も知っていた。知っていて返事をしなかった。
「でも、その前に、咲耶にも謝らなきゃならない事があるわ」
「え、なぁに――?」
「奉納祭でのことよ」
「………」
言われて、目をキョロキョロさせた咲耶は、動揺を現した。
「は、はは、…やだなぁ。あれは朱里ちゃんの勘違いだよ。それに私の方こそ変な態度とってゴメンね」
笑って誤魔化そうとする。しかし、朱里は真面目な表情を浮かべて咲耶をジッと見つめる。
「本当に私の勘違い?なんとも思っていないの?」
「…本当だよ?」
何やら只ならぬ…正確に言うと思いつめた表情を覗かせる朱里に対し、咲耶は不安を覚えた。
そして、意を決したかのように朱里は再び喋り始める。
「咲耶、もしも熾輝の事が好きなら止めておきなさい。アイツは貴女が思うような男じゃないわ。アイツは酷い奴よ。恨まれて当然、…ううん、殺されて当然の男なの。だから――」
「ちょ、ちょっと待ってよ。…朱里ちゃん、いったいどうしたの?熾輝くんと何かあったの?」
捲し立てる様に言葉を紡ぐ朱里。その様子が明らかにおかしいと感じて、訳を聞こうとするが…
「アイツは、多くの人間を殺した悪魔の子よ!貴女達が関わっていい相手じゃないわ!普段は無害そうな皮を被っているけど、アイツの本性は人殺しよ!だから、誰かがアイツを殺さなきゃならない――」
「やめてッ――!!!」
必至になって訴える朱里は、瞳に怨念と憎悪を宿らせ、咲耶を説得しに掛かる。
が、そのあんまりな言い様に耐えかねて、咲耶は思わず声を張り上げて制止していた。
「どうして、…どうしてそんな酷い事を言うの?熾輝くんは、そんな人じゃないよ。とっても優しくて、温かい人なんだよ――?」
「だから、それはアイツの本性じゃないわ。本当のアイツは、悪魔のようなヤツよ!」
「違う、違うよ!熾輝くんの事を良く知らないで、勝手なことを言わないで!」
「知ってるわよ!貴女達以上に知っている!」
お互いに感情を剥き出しにして怒鳴り合う。
もしも、家に他の誰かが居たのなら、不審に思い部屋へとやってきているところだが、生憎と、今はこの家に咲耶と朱里以外は誰もいない。
「…お願い、聞いて。アイツは、本当に危険なの。8年前の神災の事は知っているでしょ?」
「ッ――!」
自分を落ち着かせるため、一拍置く朱里。先ほどまで荒げていた声のトーンを落として咲耶へと語り掛ける。
しかし、その一言で咲耶は、理解してしまった。
熾輝と神災、その2つを結びつけるもの。そして、朱里の態度…まさかと思う一方で、朱里の口から告げられる事柄が咲耶に確信を与えていく…
「あの災害は、ある家族の手で起こされたの。…ううん、実際に詳しい事は今も判っていない。けど、確実に判っている事が1つだけある。それは、熾輝とその両親が発動させた魔術によって、多くの人が死んだってことよ」
目の前に靄がかかり、クラッと一瞬だけ目眩を起こす。
咲耶は、確信してしまった。
以前から熾輝から聞かされていた刺客の存在…信じたくは無かったが、朱里がそうなのだと。
まさか自分たちと同い年の女の子が、そのような事になっていようとは、想像もしていなかった。
「――アイツをこれ以上、野放しに出来ない。私はそのためにこの街に来たの。でも、今の私じゃあ力が足りない。だから、協力して欲しいのアイツを倒すために。咲耶と私が力を合わせればきっとあの悪魔を倒せるわ!だから―――」
と、そこまで言いかけた朱里は、驚いたように目を丸くして言葉に詰まった。
なぜなら、目の前の少女の瞳から涙が溢れだし、ポロリポロリと涙が頬を伝っていたからだ。
「違う、違うよ朱里ちゃん、…熾輝くんをそんな風に言わないで」
「ッ、―――でも!」
「確かに熾輝くんを恨んでいる人が沢山いるのかもしれない。…けど、本当に熾輝くんがいけなかったの?人に恨まれるような事を好き好んでやったの?」
「………」
振るえる声で訴える咲耶の言葉に朱里は、答える事が出来なかった。
当時の出来事は、未解明のままであり、全容が明らかにされていない以上、断言する事が如何に愚かである事か彼女の理性は理解していたから…
しかし、今の朱里は理性よりも感情が先走っている。故に適切な回答を答えるよりも、咲耶が発した言葉の違和感に引っ掛かりを覚えていた。
「咲耶、…アナタもしかして知っていたの?」
「………」
朱里の問に、涙を流し、振るえながらもコクリと頷き返す。
「いったい、いつから――?」
「…熾輝くんと出会って、わりと直ぐのころ。関わり過ぎるな…自分に踏み込むなって言われた。…訳を聞いたら―――」
咲耶は当時、熾輝から聞いた事の詳細を朱里に話した。
もちろん、魔導書に関わる一切を伏せて……そして、朱里は自分が知りうる情報内容と酷似していると、嘘を吹き込まれていないと確信するには十分な内容だった。
「それでどうして、アイツと一緒に居られるの?」
朱里には理解出来なかった。
仮にも大罪を犯したと疑うに足りる十分な状況証拠が揃っている相手に対し、どうしてそこまで好意的になれるのか。
命を狙われている相手と、どうして行動を共にできるのか。
―――気持ちが悪い。
今の朱里にとって、目の前にいる女の子が、異常で得体の知れない…人間の形をした何かにしか見えなかった。
目眩を起こしそうになり、胃からせり上がってくる吐き気に襲われる。
堪える事に必死だった朱里は、咲耶の言葉でハッとする。
「最初は、熾輝くんが怖かった。誰に対しても冷めたような態度で、無表情で、何を考えているか全然判らなくって、自分の事なのに何処か他人事で…」
「………」
咲耶が挙げ連ねる熾輝の欠点とも呼ぶべき印象は、朱里が初めて熾輝と遭った時と全くと言っていい程に一緒だった。
「でもね、そんな人が『関わるな』なんて言葉を言えるとは思えないの。もしも何にも思っていないのなら、昔の事は話さないし、黙っている事だって出来たハズ。…それでも話してくれたのは、きっと私たちを巻き込みたくなかったから。誰も傷付けたくなかったからだよ。だから――」
振るえる声で、それでも一生懸命に話す咲耶の熱意に当てられたかのように、朱里は無意識に一歩後退る。
そして、息継ぎをするかのように、一拍置いた咲耶の目には揺るがない決心の様な意思と共に言葉が紡がれた。
「私は、誰かが言った言葉なんかより、自分が目で見て、感じて、判断するよ。…ううん、そう決めたの。熾輝くんに遭うまでは、誰かの言葉に流されていたけど、それじゃあダメだって思った。それじゃあ何時か大切な何かを失っちゃう。私は、……熾輝くんを失いたくない」
思いがけない言葉だった。
朱里にとって熾輝こそが悪であり、そう在らねばならない存在だった。
なのに、目の前にいる少女は、それを真っ向から否定しに掛かった。
きっと咲耶なら判ってくれる。話せば力を貸してくれると、希望的な願望を抱いていた。
しかし、期待は裏切られ、あろうことか熾輝を擁護する始末…
――本当は、判っているんでしょ!?
同じような事を言った女性の言葉が心の中で反響する。
だが、止まる訳にはいかない。止められない理由がある。
でなければ、壊れてしまう。今までの人生、復讐をやり遂げるためだけに捧げて来た。
ギシギシと胸の内側で何かが音を立てて軋む音が聞こえてくる。
それと同時、決意によって固められた足元が、ガラガラと崩されていく様な不安感を抱かずにはいられない。だから彼女は…
「…認めない」
「朱里ちゃん――」
「認められないよ!だったら、ママが死んだ意味ってなに!なんでアイツだけが生き残ってママが死ななきゃならなかったの!こんなのって無い!このまま無かった事にするなんて、ママが可哀想だよ!」
「………」
悲鳴のような慟哭を上げる朱里は、服の上から胸を掴みながら訴える。
その顔は、苦しみや悲しみ、怒りといった感情がグチャグチャになっている様な…なんとも表現しがたいものになっていた。
そんな彼女に対し、咲耶は言葉を見つけられずにいる。
いったい、自分は朱里の何を知っているというのか。
今まで何を見て来たと言うのか。
こんなにも苦しんでいる彼女の心の内を判ってあげられる事が出来なかった事に対し、不甲斐なうと悔やむ事しか出来ない。
そんな咲耶を他所に、ひとしきり喚いた朱里から音が消えた。
そう感じ、俯いていた顔を上げ、朱里の眼を見た瞬間、咲耶は背筋に悪寒を感じる。
「もういぃ、…アイツに味方するヤツなんて、いらない」
「ッ――!!?」
まるで色が消えたかのような瞳…仄暗く、覗けば何処までも続く暗闇を宿した瞳が咲耶を見つめていた。そして、次の瞬間、部屋中を埋め尽くす魔力の乱流が彼女の意思を示すかの如く、魔の式へと注がれていく。
「朱里ちゃん!やめて!」
その敵意に対し、咲耶も魔力を練り上げ、式を構築する…が、その判断も発動スピードにも差があり過ぎた。
一瞬の戸惑いの内に完成された朱里の魔法式に魔力が循環した途端、即座に発動――
「私は間違ってない…」
「ッ―――!?」
まるで、己を擁護する様な言葉と共に放たれた衝撃波が襲いかかる。
部屋の壁に背中と頭を打ち付けられ、か弱い少女の意識は一瞬にしてブラックアウトした。
「熾輝がいけないの…咲耶がいけないの…みんな、みんな死んじゃえばいいのよ」
力なく、ぐったりとした様子で横たわる咲耶を見下ろす朱里の瞳にもはや光はない。
躊躇も戸惑いも後悔もない。…何かを無理やり吹っ切っり、己の矜持すらも踏みにじった。そんな狂気じみた表情をした、1人の復讐者がそこにいるだけだった―――。
◇ ◇ ◇
結城家の一室、2階の北側に位置する場所から何かが炸裂する音が響いた。
しかし、近所の住人はおろか近くを行き交う人々にその異常な音を聞き取れる者は居ない。
その理由は、至極簡単なこと。…結城家の敷地をぐるりと囲うようにして張られた結界によるものだ。
その効果によって、内外の音は完全に遮断され、家の中で何が起きようとも外に漏れる様な事はない。
そんな結城家の前に1台の黒塗りワンボックスカーが停められた。
「――ええ。どうやら説得は出来なかった様で、これから回収します」
『判りました。あとの事は、皆さんの自由にしていただいて結構です』
助手席に座る中年の男性は、電話向こうの男に状況を説明すると、後部座席に居た男達の方へ僅かに振り向くと頷いて合図を送った。
そして、協力者である電話相手の言葉に訝しさを覚え、疑問を口にせずにはいられない。
「あとはって、…アンタは俺達に何を求めているんだ?」
『別にアナタ達には何も求める物はありませんよ?』
「嘘を言うな。脱獄の件もそうだが、こんなにも協力的に色々してもらっておいて、何も無いなんて信じられる訳がないだろう」
男は、電話相手に一層の疑心を募らせる。
彼の人生経験上、何かを得ようとするならば、相応の対価が必要になる。…と言うのは、彼だけではなく、どんな者にも当てはまる社会の縮図の様な物だ。
『そうですねぇ、…強いて言うのなら投資でしょうか』
「投資?」
『えぇ。我々は、あの少女の頭脳が必要なのです。しかし、協力してもらう以上は、こちらも見返りが必要でしょう?』
「…つまり、俺達はあの子がアンタ達に対して協力的になる為の投資金みたいなものか?」
『話が早くて助かります。しかし真実を知ったからと言って、アナタ達はこの件から手を引かないでしょう?』
自分たちを利用しているのだと悪びれも無く語る男の実に余裕なことか
まるで、相手の事を良く理解をしているかのような口振りだ。
「…当たり前だ。ここまで来て降りるほど、俺達の覚悟は甘くない」
その言葉を聞いて、「でしょうね」と僅かな笑い声が漏れ聞こえる。
『ですからまぁ、アナタ達は全力で私たちの掌で踊ってください。延いては、それがアナタ達の宿願の近道なのですから』
利用されていると判っているが、彼等にとっても利がある話である以上、断る通りもない。
しかし、相手の言い方が一々癪に障るのか、「チッ」と舌打ちを打った後、了承の意を伝える。
『それでは、こちらも色々とやる事があるので、もう切りますね』
「あぁ、世話になったな」
『いえいえ。…願わくば、アナタ達の宿願が叶う事を祈っていますよ』
その言葉を最後に通話は打ち切らた。それと同時に、後部座席が開く音が耳に届く。
「待たせた。もういいぞ」
「……あぁ」
仲間に背負われる様にして運ばれてきた少女が座席に寝かされたのを確認し、車のエンジンが再び動き出す。
男はバックミラーを介して少女の傍らで、俯く朱里の姿を一瞥すると運転手に発進を促すと、黒塗りの車は、そのまま結城家から静かに離れて行った―――
そして、車を見つめる視線が1つ……
―(緊急事態発生、皆に連絡を――)
サラリと流れる様な長い金髪をした女性が事の一部始終を仲間へと伝えるのであった――。
◇ ◇ ◇
出掛け間際、シキの携帯端末に着信を知らせる音が鳴り、ディスプレイを見やると同時、スッと目を細めた。
連絡を取ってきた者は、彼の良く知る人物であり、ここ3週間近く学校に来ていなかった少女…城ケ崎朱里であった。
ディスプレイにはメールに写真が添付されていると表示されており、訝しみながらもメールを開いた熾輝の眼が瞬間、見開かれた。
メールには『咲耶は預かった。これから指定する場所に一人で来い。約束を破ったら二度と会えなくなる』…とだけ記載されており、縛られて横に寝かせられた咲耶の画像が添付されていた。
熾輝が何かを考える間もなく、次の瞬間に新たなメールが送られてきた。おそらく熾輝の既読を確認しての追加送信だろう…
――場所は街の旧物流所――時間は今から30分後――
メールを確認した熾輝は、すぐさま扉を開けて走りだした。
その様子を見て、何事かと双刃も駆け出した。
「熾輝さま、どうしたのですか――!?」
「咲耶が朱里に攫われた」
「ッ、……如何するおつもりですか」
「………」
双刃の問に、熾輝は直ぐには応えられなかった。
なにせ時間が無い上に相当焦っているのか、考える余裕がない。
階段を急いで駆け下りる熾輝に対し、このままではいけないと判断した双刃が道を塞ぐような形で待ったを掛ける。
「熾輝さま、焦る気持ちは判りますが、一度考える時間が必要です」
「ッ、――時間がない。朱里は場所を指定してきた。けど、急いでギリギリ間に合う距離だ――」
焦る熾輝が声を張り上げて訴える最中、追いついた羅漢が不意に熾輝の携帯電話を取り上げて内容を確認する。
「…この場所であれば、バイクを出せば遠くはない」
「けど、1人で来いと――」
「なれば、私の隠形で接近致しましょう」
冷静を欠いた今の熾輝に変わり、案を具申する双刃――。
彼女は、世にも珍しい複数の能力を持ち合わせる式神だ。その中の1つに【神隠し】という能力がある。
一定時間、彼女が広げた領域内の姿を消すという能力――。
「猶予を捻り出す事が出来たなら、考える余裕も生まれるだろう」
「熾輝さま、ご再考を具申致します」
「2人とも………」
視野狭窄に陥っていた熾輝は、2人の顔を交互に見渡し、深く息を吸った後、ゆっくりと吐き出す。
途端、靄が掛かっていた思考がクリアになり、瞬時に状況を整理すると、これからの方針を定める。
「ありがとう。…けど2人は連れて行けない」
落ち着きを取り戻した熾輝は、しかし2人の同行を拒否した。
想いも欠けない熾輝の答えだったが、慌てることも無く、心を静かにして次の言葉を待つ。
「2人は、燕と乃木坂さんの家に向かって警護をして欲しい。今回の一件、どうにも朱里の単独犯とは思えない節がある。そう考えると2人に危険が及ぶかもしれない」
言って、2人の返答を待たずに熾輝は歩を進める。しかし、先ほどの様な焦りのある足取りではなく、しっかりと地に足が付いた確かな歩みで…
「根拠は――?」
「朱里の身辺状況…この街に1人で来たにしても、衣食住を子供だけでどうにかするのは難しい。出来ないことも無いけど、僕が知る限りで彼女にそんな技能はない。であるならば―――」
「何者かの介入があったと考えるのが妥当か」
羅漢の言葉に頷き返す。
一度冷静さを取り戻せば、見えない物が見えている様に推測する熾輝の思考能力に双刃と羅漢は心の内で称賛する。
そして、マンション前にやって来た熾輝は、タイミングよくやって来たタクシーに手を上げ呼び止める。もともと走っていくつもりだったのだから、やはり、先ほどまでの熾輝は、それ程に冷静さを欠いていた事が判る。
「しかし熾輝さま、裏で糸を引く者が居るとなると、やはり葵殿の力を借りるべきでは?」
「念のため先生には連絡を入れるけど、今日は対策課に依頼された仕事があるって出掛けたから直ぐには来れない。だから自分でどうにかするしかない。もしも僕の手に負えない相手なら法師が出張るハズ……だけど今の段階で何のアプローチも無いのなら、傍観すると見た方がいいのかな?」
いざという時の頼れる師匠連なのだが、事ここに至るまで何の音さたもないという事は、それは、まさしく熾輝の予想どおり。
そんな事を思い浮かべながら苦笑いを浮かべる程度には余裕を取り戻した。
「師匠連の悪口を言う訳では無いが、彼等の感覚では達人級=大人という考えなのだろう」
「そこは羅漢に同意します。大人の介入を許さないと公言していますが、あの方達にとって、歳を重ねただけの者は子供扱いだと私も思います」
「もちろん葵殿は別ですが」と付け加える様に双刃が言うと、熾輝はなんとも言えない表情を浮かべ、乾いた笑いを漏らす。
そして、目の前に停車したタクシーに乗り込むと…
「じゃあ、2人の事は頼んだよ」
「了解した。エンジェルの元へは私が向かおう」
「双刃は燕殿の元へ…熾輝さま、どうか無茶だけは、なさいませんように」
「うん。判ってる――」
言って、タクシーが走り出す。
送り出した2人の式神は、視線を合わせると、弾かれた様に行動を開始したのだった―――。




