ハニートラップ
城ケ崎朱里は、熾輝を狙った刺客…復讐者である。
復讐を遂げるために約束された将来を棒に振り、熾輝に近づいた。
しかし、彼女には復讐を遂げるために必要な力が不足していた。
魔術師としての力は、その他大勢と比較しても抜きんでた物を持ってはいたが、戦うための知識や必要最低限の衣食住、その他諸々…子供の彼女には後ろ立てが必要だった。
そんなある日、彼女に近づく者がいた。
最初は胡散臭いと思い、相手にもしようとしなかった。
しかし、話を聞けば、彼等は自身の復讐相手に対する情報を持っていた。それどころか、同じ復讐者の集団だという。
今まで、どんなに手を尽くしても、復讐相手の情報を得る事すら出来なかった自分にとって、それはとても魅力的な物に見えた。
だから、彼女は取引をした――
『復讐は、私がやる。そのための支援をしてくれるのなら手を組む』
と――。
組織と言う力があるのなら、その力で復讐を遂げる。そういった方法を取らなかったのは、彼女の性格故なのだろう。
彼等は、朱里が持ち出した条件に文句も言わず了承した。
ただ、彼等からの条件として、組織を維持するために必要なアルバイトを手伝うという物があったが、その依頼内容を聞いて、朱里は了承した。
そして、ようやく朱里は動き出す事ができた。
今までの暮らしと別れを告げる事もせず、やってきた。
実際、組織の力は、彼女が考えていた以上だった。
衣食住の提供、復讐相手の特定、しかも自身に足りない力を補うために、その道のプロを寄こしてくれた。
共同生活を始めて、3人の同居人は、色々な知識を与えてくれた。
情報収集のやり方や観察のやり方、そして戦闘の知識等々…
どれも今の朱里に欠けている物ばかりだ。
だからこそ、それを基にして朱里は、今自分に何が出来るのかを考えて行動する。
八神熾輝と接触してから今日に至るまで、朱里は情報収拾に徹していた。
熾輝と言う復讐相手の力がどの程度の物なのか判らない以上、それは妥当と言えるだろう。
交友関係や熾輝の力量、…様々な視点からそれらを観察した。
しかし、一番重要な熾輝の力量を推し量る事は、困難を極めた。
組織が用意した資料には、5人の達人からそれぞれ教えを受けているとのこと。
ただ、今現在は師の1人と一緒に暮らしている。
そして、八神熾輝は魔術を発動するための魔力に欠陥があるため、魔術を使用できない。
そのような症例は、聞いた事が無く、朱里自身、半信半疑であった。
だが、本日行った合同訓練において、その情報の確証を得た。
魔術の知識があっても術自体を行使する事は出来ない。
熾輝本人は、『不得手』と表現していたが、自身の弱点を第三者に晒さないための抗弁だ。…と解釈した。
こうなってくると、用心しなければならないのが能力者としての力だ。
残念な事に、朱里には能力者が身に纏うオーラを感知する感覚が備わっていない。
ついでに言うと魔力感知についても、得意とはいえない。大きな力を感じ取る分には、問題は無いが、術者が意識して抑え込んだ力に対しては、見分ける術を持っていない。
だからこそ、咲耶が魔術師である事を見極める事が出来なかった。
これらは、生まれ持った素養が大きく関係するので、あとは努力して磨いていく他に方法が無い。
そして、熾輝を観察する中で気が付いた点がもう一つ、…それは、交友関係だ。
朱里は、熾輝と同じ学校に通い、同じクラスに転校した。
クラスの中で、熾輝のコミュニュケーション能力は、お世辞にも高いとは言えない。
本人は、他と仲良くしようとしている…という努力は見受けられるのだが、上手くいっていない様にも見える。
しかし、不思議とクラスメイトは、熾輝に信頼の念を抱いていた。
客観的に観察を行った結果、熾輝は学業と運動神経において、他を寄せ付けない力を持っている。
その点において、クラスメイトからの信頼を勝ち取っているのは、間違いない。
ただ、それだけではない。
それら支えているのは、クラスメイトである結城咲耶と乃木坂可憐の存在が大きい。
そして、クラスメイトで無いにも関わらず、常に傍に居ようとする細川燕という少女――
一目見て、細川燕が熾輝に好意を寄せている事は判った。
それともう1人、……結城咲耶というクラスメイト
彼女の熾輝に対する態度は、妙にたどたどしい。
最初、熾輝に対し苦手意識でもあるのかと思った。しかし、それにしては、いつも一緒にいる。
この数ヶ月、観察する中で朱里が出した結論は……
『はは~ん、咲耶は熾輝に惚れているな』
という物であった。
そして、熾輝本人は2人をどう思っているかについてだが……
細川燕に対する接し方は、他と比べても差異は無い様に見えるが実はそうではない。
ふとした瞬間に彼女を気に掛ける仕草や言動が所々に散りばめられている。これは、熾輝本人も燕を意識しているに違いない。
ただ、結城咲耶に対しては、他とあまり変わりがない。
おそらく、熾輝は彼女の好意には、気が付いていないのだろう。
ならば、ちょっとした起爆剤を投入する事で、どんな結果になるのか興味が湧いた――
◇ ◇ ◇
八神熾輝は、突然のこの事態に困惑していた。
密室の空間に女の子と2人きり――
しかも、その女の子が背後から抱き着いてきたのだから、慌てるなと言う方が無理な話だ。
子供とはいえ、発育途中の女の子、背中から伝わる柔らかい2つの感触、…それが胸の膨らみだという事は、考えるまでもなく本能が理解していた。
そして、女の子特有の香りがほのかに鼻腔をくすぐる。
そういった要素が熾輝の思考に乱れを生じさせ、心拍を急激に上昇させる。
きっと、今の熾輝の顔は、自分でも信じられないくらいに赤くなっているのだろう。
「じゅ、朱里?なにを、しているの――?」
それが精一杯だった。
相手は、自分の命を狙う刺客…のハズなのに、その考えも吹っ飛ぶほどの破壊力が朱里の行動にはあった。
「それを聞いちゃう――?」
「いや、だって、―――」
含みのある言い方…それに加えて艶のある音声…
もはや、今の熾輝は何が何やら、状況を理解する事ができない。
「咲耶が使っていた魔法式、あれを教えたのは、熾輝なんですって?」
「え?あ、うん」
未だ朱里は抱き着いたまま、そして耳元で囁きながら言葉を紡ぐ。
「術式を見て感動したのは、いつ以来だったかしら。アレを生み出した魔術師がこんなにも近くに居るなんて……」
「べ、別に感動を覚える様な、……あ、ありふれた術式だろう?」
「いいえ、効果はそうでも、術式の構築手順や並び方、細部にまで行き渡らせた術式言語の繊細さ。一口に芸術的と呼ぶには言葉が足りない…もはや、官能的と言っていいわ」
「か、官能的ッ――!?」
朱里は、どこまでもエロティックに熾輝を責め立てる。
こういった性に対する耐性が無いのは、熾輝の弱点でもあった。…というのは、本人も始めて気が付いただろう。
「あんな凄い物を見せられたんだもの、さっきから疼いてしょうがないの」
「さ、さっきからいったい何を――!?」
もう、誰でもいいからこの状況を何とかしてくれ!
そう思う一方で、この状況を誰かに見られたらマズイ!
という思いが湧き上がる一方で、自分で振りほどけないのは、熾輝もやはり男子であるが故なのだろうか。
そして、トドメの一撃と言わんばかりに小悪魔と化した朱里が言葉を紡ぐ……
「判らない?ようするに濡れ―――」
「二人とも、ご飯で来たよぉ……ぁ」
キッチンで朝食の準備をしていた咲耶が2人を呼びに部屋へと入って来た。
そこで彼女が眼にしたのは、熾輝に抱き着く朱里の姿……
「……わぁ、良い匂い。早く食べに行きましょう」
特段、焦る様子もなく。…むしろ見せるためにやっていたのでは?と疑いたくなるような。それほど落ち着いた様子で、スッと熾輝から身体を離すと朱里は部屋の入口に立つ咲耶の元へ行った。
「ぇ?あ、う、うん――」
「どうしたの咲耶、顔色悪いわよ?」
「だ、大丈夫。何でもないよ」
「そう?」
あまりにも自然に接してくる朱里の態度に咲耶は、焦りを覚える一方で、何かの見間違いかもしれない…と、自身に言い聞かせていた―――
2人が去った室内では、未だ身体の熱が冷めない熾輝が1人残されていた。
「…何なんだ、まったく」
顔が沸騰したように熱くなり、緊張状態から脱した事に安心したせいか、足から力が抜けていく。
思わず床に倒れ込みそうになる思いをグッと堪え、机に手を掛けてようやく立っている状態だ。
先ほどの朱里の行動は、おそらくはハニートラップであろう事は、徐々に冷めつつある頭で考え、ようやく導き出された答え。
性に対する知識は、医者である葵を師に持つが故に知り得ていた。
そして、暗殺者である蓮白影からどういった物であるか等、頭では理解していた。
にも関わらず、これ程までの破壊力…認めたくはないが、このとき、熾輝は自身の内にある男としての性に苦悩することになるとは、思いもよらなかった。
◇ ◇ ◇
結局あの後、朝食を終えた2人は、それぞれの家に帰って行った。
しかし食事中、どこかギクシャクとした空気が場を支配していたのは、言うまでもない。
今頃朱里は、してやったりと、ほくそ笑んでいる事だろう。
そして、今現在、熾輝は法隆神社へと訪れていた・・・
「「お嬢、お帰り」」
「ただいま右京・左京」
何処かへ外出をしていた燕が帰ってきたことから、境内の掃除をしていた神使2人が出迎える。
「はぁ~、疲れたよぉ。もう、お父さんったら神社のお使いを私にお願いして、自分は町内会の人達と飲み会って、信じられない!」
ぶーぶーと頬を膨らませて愚痴をこぼしていた燕は、どうやらご立腹のご様子…
「そんな、お嬢に朗報」
「熾輝が来てるよ」
「えっ、本当――!?」
先ほどまでの不機嫌顔は、どこへやら…コロリと晴れやかな表情に変わり、トテトテと急ぎ足で本殿へと駆けていく―――。
本殿に入った途端、スパアンッ――という何かを打つ音が聞こえてきた。
音の正体は、割と直ぐに判った。なにせ、彼女が常日頃から聞いている音…にしては、音量も威力も段違いに強い。
「熾輝くん――?」
室内にいるであろう少年の名を呼びながら、扉の端っこから、ひょっこりと顔を出して、中の様子を窺う。
「お嬢、今帰りか?」
「あ、うん。ただいまコマさん」
「うむ、おかえりなさいだ」
「それで、…何をしているの?」
座禅のときに、いつも彼女の肩を叩く憎っくき棒…その名も警策くんを肩でトントンしながら燕を出迎えるコマは、困り顔を浮かべて座禅を組む熾輝を指差した。
「なにやら雑念を払いたいとかでな」
「そ、そうなんだ」
珍しい物を見たと、燕の視線は熾輝に釘付けになっている。・・・と、再びコマが動いて、熾輝の肩に警策を添えると―――スパアンッと音を立てて叩いた。
その様子に「痛ッ」と思わず声を漏らす燕…日頃、自分が叩かれるより、何倍も力を込めて叩かれている。
「…はぁ、これ以上は無駄だな」
コマは、ヤレヤレと溜息を吐いて、持っていた警策を壁に立てかけた。
どうやら、熾輝の雑念は、一向に晴れる気配が無いようだ。
「熾輝くん、大丈夫――?」
「あ、あぁ…燕?――帰ってたの?」
どうやら座禅に集中していて、燕が帰宅していた事には気が付いていなかったようだ。
「うん、ただいま」
「…おかえりなさい」
家人の帰宅に対し、よそ者が「おかえり」と言っていい物なのか、僅かにためらいつつも、深く考える必要もないだろうと割り切って、燕に挨拶を返す。
「にしても珍しいね。熾輝くんがウチで座禅を組むなんて」
「あぁ、…たまには精神統一も必要かなって」
「ふぅん」
何やら雑念を払いたい事があったらしいと言うのは、聞いていたが、本人が話したくない様子を機微に察し、燕は敢えて追及する事はしなかった。
熾輝も万が一、聞かれたとしても何と言えば良いのか困ってしまうだろう。
なにせ、朱里にハニートラップを仕掛けられ、内にある男の性をどうやってコントロールしたものかと考えた末の結論が座禅による精神統一などと、口が裂けても言えない。
「まぁなんだ、雑念を払うにはコレが一番手っ取り早いだろう」
2人の様子を見ていたコマは、一度は置いた警策を手に持つと、ブンブンと素振りを開始した。
「コマさん、それは素振りをする道具じゃあないよ?」
「そんなことは、わかっている。…が、今は生憎とコレしかないのだ」
「ん――?」
コマの意図が判らないと言った様子の燕が疑問符を浮かべる最中、素振りをピタリと止め、熾輝に構えを取る。
「ヤドリギは、持ってきているのであろう?」
「あります」とは言わず、ネックレスのように駆けていた紐に結びつけられていた小さな布袋から1つの種をとりだす。
「では、問題はないな」
「剣を扱えるんですか?」
「熾輝と鍔競り合う程度にはな」
「…そうですか」
コマの挑発?に一瞬、ムッとした表情を覗かせると熾輝は布袋から取り出した種を握り、オーラを込めた。すると、メキメキと音をたてて育っていくと、先ほどまで種だったものが時を掛けずして木刀へと形を変えた。
「ふむ、ヤドリギ……いや、今は変幻自在の樹刀だったか?良い共鳴だ」
先の戦いで託した木剣を熾輝は見事に使いこなしていると感じ取ったコマは、僅かに口元を緩めた。
「言っておきますけど、僕の剣術は、他のそれとは練度が違いますよ?」
「それは、先の戦いで承知している。……では、行くぞッ―――!」
何をするとは、一言も発していないが、剣を持った者が向かい合えばやる事は1つだ。
気を漲らせ、構えを取った途端に張りつめた空気・・・それが時をまって破裂するかのように、互いの剣戟が衝突した――――
「――いやはや、1本取られるとは思わなんだ」
「なにが鍔競り合う程度ですか。…全然強すぎるじゃあないですか」
笑った顔を浮かべているが、どこか笑顔が固い…というより、明らかに青筋が浮かんでいる。余程、負けた事が悔しかったのだろう。
「経験の差だな。経験の」
「近いうちに再戦を申し込みますんで、そのつもりで――」
「もうッ、二人の世界に入らないで!」
最後には良い勝負だったとお互いを称え合い、握手を交わす・・・が、いつの間にか蚊帳の外にされた燕が乱入する。
「おっと、そう焼餅を焼くでない」
「むぅ……」
「そういえば、父君の使いは、どうであった?」
燕をからかいながらも、彼女が父親の名代で言ってきた事の顛末をしっかり聞くところは、流石神使といったところか。・・・決して、稽古に夢中になって忘れていた訳ではない。
「それが、ちょっとこまった事になっちゃった」
「困ったこと?」
「ん――?」
熾輝は、燕のお使いの事については、当然知らない。
しかし後日、やはりと言うべきか、彼女の困りごとについて、彼が一役買わねばならなくなるのは、この流れから何時もの事ではあるのだが、それを切っ掛けに、事態は、急速に加速していく事になる。




