第一四一話 知らなかったこと
風呂場での事件は、葵のお説教で幕を引き、今現在、シキとアリアが帰ったあと、残されたサクヤは、双刃に連れられて、シキの部屋へとやってきていた。
「こちらが熾輝さまの部屋です。入るのは初めてですか?」
「うん、いつもはリビングで勉強したり、お話をしていたから」
熾輝の…というより、男の子の部屋に入るのは、これが初めてだったりする。
別に今まで男の子の友達が居なかった訳ではないが、そういった機会に恵まれていなかったのだ。
だからこそ、今回熾輝の部屋に入るのだって初めてになるわけだ。
男の子の部屋に、少しばかりの期待とドキドキを思い描きながら、開け放たれた部屋へと足を踏み入れる。
「……わりと綺麗に片付いているね」
「はい、熾輝さまが毎日掃除をしているのです」
男の子の部屋だから、少しくらい散らかっていると予想していたが、それは裏切られる形となった。
ざっと、室内を見回しただけでも、本などは綺麗に棚に治められ、内容ごとに規則的に並べられている。
ふと、手に取った本には【混沌理論に基づく2面性と事象改変】と書かれており、パラパラとページをめくってみたが、理解不能な文字の羅列が続いており、眼にしただけで頭痛が引き起こされ、呪いでも掛かっているのでは?と疑いたくなる。
その他にも【ラプラスの悪魔・超越の概念】・【ゲシュタルト崩壊からの術式崩壊と構成】・【アラゴの円盤・魔の循環】といった意味不明な本が並べられている。
「…え~っと、……うん、見なかった事にしよう」
およそ、自分には理解不能な本を元の場所に戻したサクヤは、再び室内を見回す。
机の上も余計な物はなく、古めかしいノートパソコンが置いてあるだけ。
あとは、ベッドとクローゼットに必要最低限の衣類が収納されている他は、特に目立った物は置いていない。
「何ていうか、…飾り気のない部屋だね」
「極力、物を置かないようにしているのです」
「なんで?」
必要な調度品のみが置かれた簡素な室内を見回していたサクヤは、何の気なしに聞いたつもりだったが、神妙な面持ちで口を開閉させる双刃を目にして、聞いてはいけなかったかと、心に焦りが生まれる。
「何時でも居なくなれるようにと、身の周りを軽くしておけば、直ぐに姿を消せるかと言っていました」
一泊置いて応えた双刃の解答を聞き、サクヤは己の胸が締め付けられる様な感覚に襲われた。
熾輝の事情は咲耶も知っている。
正直、いつ刺客に狙われてもおかしくないと熾輝が以前に言っていた事を思い出す。
現状、熾輝が日本に居る事を知っている人物は、極少数だが、調べようと思えばすぐに足が付いていしまうらしい。
そして、熾輝の境遇を知った自分が彼を嫌いになったかと問われれば、否である。
彼の親が引き起こした事件を聞かされた時は、正直にいうと鳥肌が立つくらいの嫌悪感を覚えたのも事実ではある。
ただ、だからといって、それは熾輝には関係がない事だと言うのは、子供の自分でも判る事だ。
だから彼女は言わねばならない。
大切な友人が困っているのであれば、守れるのは彼を理解する自分達だけなのだから。
「大丈夫だよ、双刃ちゃん。そんな事には絶対にならないし、させないから」
「…サクヤ殿」
「熾輝くん、優しいから…私達に迷惑が掛かると思って何も言おうとしないけど、それでも、助ける!助けてって言われなくても!だって、私達は熾輝くんの友達だもん!」
凛とした雰囲気を纏って、彼女はハッキリと言った。
この様にハッキリ物を言えるようになったのも、彼女が成長した証なのだろう。
「ありがとうございます。その折は、力をお借りしますね」
「うん!」
気持ちの良い返事を返すサクヤを見て、双刃は己の目尻が熱くなるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
甘い香りがする―――
最初の感想は、鼻孔をくすぐる匂いからだった。
「ここが咲耶の部屋だよ」
先に室内に入ったアリアは、ベッドに体を預け、まるで自分の部屋のように寛ぎ始めた。
「シキがこの部屋に入るのは、初めてか」
そういえばと、記憶の中にある結城家での遊び風景を、彼女は思い起こしている。
それに対して、女の子の部屋に入る事に、些か抵抗を感じているシキは、無言で頷いた。
いかに仲の良い友達同士といえど、部屋に入るには余程の勇気が必要になってくる。
それが異性ならば尚更で、かくいうシキも彼女等を自室に入れた事はない。
「突っ立ってないで、その辺に座りなよ」
「う、うん」
室内には、可愛らしい小物の数々、壁一面には可憐のポスターが所せましに張られており、天井を見上げても可憐のポスターが張られている。
およそ、この部屋の壁や天井の9割は可憐一色に染め上げられている。
「…どんだけ乃木坂さんの事が好きなんだ?」
「友達になる前からファンだったらしいよ」
ポロっと漏らした言葉に応えるアリアも苦笑いを浮かべている。
確かに、あの二人は周りの女子たちと比べても非常に仲が良いと感じる事がある。
学校内では、いつも一緒にいるし、遊ぶ時もワンセットだ。
逆に、サクヤは他の女子達とも遊んだりしているみたいだが、可憐がサクヤ以外と遊んでいるところは、見た事がない。
ここ最近では、燕とも交流を持つようになったが、やはりワンセットで遊んでいる。
彼女には、自分の知らない事情があるのかと勘繰りはしたが、今までそういう話の流れになった事が無いのなら、意図的にそうしている可能性もゼロではないだろう。
つまり、本人が隠している事であるのなら、わざわざ話題にするのも失礼であり、彼女を傷付けてしまうかもしれない。
「…CDもすごい量だ」
だから、この事は、気が付かない振りをして、心の中に蓋をした。
「可憐の曲以外にも色々と聞いているみたい。あの娘、結構ミーハーなのよ」
「ミーハーって、……まぁ、女の子だからね。流行に疎いよりは、いいんじゃない」
随分と古い表現をしてくるとは思いつつも、突っ込みを入れたりはせずに、スルーをした。
棚にしまい込まれている女子女子したグッズ、そして本棚に並べられているのは、少女漫画の数々だ。
「女の子の部屋って、こんな感じなんだ」
自分の部屋と比べると、やたらと物が多い事に新鮮さを感じる。
それも当たり前のことで、彼女みたいな普通の女の子には、家があって、自立するまでは、ずっと定住する場所なのだ。
自分は、何があっても直ぐに出て行けるように必要最低限の物しか部屋に置いていない。
そんな考えを巡らせながら、本棚の隅に置かれているある物に目が吸い寄せられた。
「これは…アルバム?」
数冊にまとめられたアルバムは、古いものから割と新しい物まである。
「あぁ、あの娘、結構几帳面にアルバムに写真を入れていたわね」
「…みても?」
「いいんじゃない?家に来た友達にも普通に見せていたから」
本人には無断ではあるが、なんとなく気になてしまったアルバムを手に取り、ペラペラとめくり始める。
事後報告になってしまうが、後で見させてもらったと報告だけは入れておこうと決めて、アルバムの中身を拝見していく。
古いアルバムには、彼女の赤ん坊の時の物があり、優しそうな女性に抱かれている。おそらくは、咲耶の母親だろう。
ページを進めるごとに色々な行事の物や他愛ない日常風景のものまである。
そして、彼女が3歳……おそらくは七五三の写真だろうを見て、シキの手が止まった。
(…母親の姿がない)
幼き頃、彼女の母親が亡くなったとは聞いていたが、どうやらこの頃に他界したらしい。
自分には、両親の記憶は無いが、彼女はどうなのだろうという疑問が浮かぶ。
今でこそ笑っている彼女だが、自分のような心に欠陥のある者と比べ、普通の人にとって親が居ない事は、どういうものなのだろうと考えが過った。
「………」
しかし、シキはそれ以上考えても詮無いことと、心に蓋をして、アルバムを読み進める。
アルバムの中の彼女は、次第に大きくなっていき、成長の様がよく判る。
今見ているのは、熾輝がこの街に来る前、丁度1年前の物だ。
学校行事やクラスの集合写真等々、色々な風景が記録されている。
「この写真……」
だが、シキの手が再び止まる
「どうかした?」
「妙な違和感が…いや、偶然だと思う」
「?」
アルバムを読み進めるシキが感じた違和感は、漠然としたものであり、特段気にする様な事では無かった。
例えば、自分の知り合いの姿を探して映っていなかった程度のものだ―――
◇ ◇ ◇
咲耶の部屋でアルバムを見終わったシキは、その後、アリアと色々な話をした。
普段、魔導書絡みで話をすることが多かったが、こうして一緒に居る時間が長いと、自然とそれ以外の話にだってなったりもする。
だが、アリアがする話の殆どが咲耶についてであり、やれ可愛いだの、やれオッチョコチョイだのといった物が殆どであり、意図的に自分の事を話さない様な感じを受けた。
だけど、この家でアリアがサクヤの父親にどう言って住まわせてもらっているのかという質問になったとき
『あぁ、魔術で私の記憶を刷り込んだのよ。パパさんの中では、私は遠縁の親戚ってことになっているわ』
サラッと凄い事を言ったが、成程と納得してしまった。
人の精神に干渉する魔術は、確かに存在するが、それは魔法発動中の極めて限定的なものに限られ、精神力が強ければ、惑わされないと言う欠点もある。
しかし、刷り込み……ようは、魔術的に精神に干渉し、記憶に刷り込む事によって魔術の効力が切れても持続させる術は存在する。
例えば、光信号を応用した魔術で、脳に自分が親戚だという刷り込みを植え付ける。この場合、魔術は光を放った行為で、脳に情報を植え付けたという結果のみが残る事になる。
「それにしても、咲耶と身体が入れ替わってからずっと感じていたけど、相変わらず出鱈目な魔法力だ」
ふと、シキは身の内に宿る力に意識を向けながら呟いた
「僕の知る限り、魔力量・魔法強度は、十傑や十二神将を遥に凌ぐ」
「そーでしょう、そーでしょう♪咲耶は凄いんだから」
「・・・」
身の内に宿す底知れぬ力をただの一言、「凄い」で片づけてしまうあたり、アリアは咲耶の力を何となくといった漠然とした感じで捉えているだけなのかもしれない。
「これも良い機会だ。咲耶のチカラを直に感じている間に色々と試させてもらおう」
「・・・えっち」
「何でそうなる」
冗談で言っているのだろうが、葵の家での一件があった後なので、アリアを半眼で見つめてしまうのは、致し方ない。
◇ ◇ ◇
熾輝と咲耶の身体が入れ替わったその日、街のとある場所では、1人男が何やら楽しそうな……見る者によっては、邪悪な笑みを作りながら椅子に腰かけていた。
「―――そっか、彼女等は遂に魔導書の完成に近づいたか」
「あぁ、残すところ、あと二つ……この街の何処かにある魔導書と、こちらが保有するヒストリーソースのみとなった」
「いい感じじゃないか。彼女には、魔導書を完全な物にしてもらわなければね」
「…前々から思っていたが、あの子供が魔導書を完全な状態にしたら、手が付けられなくなるのではないか?」
楽しそうに笑う男は、己の式神が投げかけた質問に、やれやれと頭を振る。
「まったく、君は何も判っていないんだね」
「当たり前だ。主は俺達に命令をするくせに、計画の全貌を一切明かしてこなかったではないか」
「あのねぇ、言われた事を素直に聞くだけなら子供の御使いと変わらないよ?出来る人って言うのは、相手が何を考えているのかを考えて理解するものなんだから」
男は、事の全てを誰にも明かしてこなかったくせに、「判れよ」と無理をいって、式神の感情を煽る。
「・・・つまり、今まで俺達が魔導書をばら撒いたり、あの子供にケシ掛けてきたのは、魔導書収集の邪魔が目的ではなく、その逆…収集させる事が目的だと?」
「ご名答、不自然にならないようにタイミングを見計らって彼女の周りで事件を起こし、結果的に彼女は魔導書を得る」
「それに何の意味がある?しかも、件の少年が現れてからは、こちらの存在が知られているではないか」
「それは、前に言ったとおり、彼と言うイレギュラーはあったが、計画に支障は無いよ。だって、結局は彼女が魔導書を集める事に変わりがないんだから」
「それは、そうだが…」
あくまで、自分達の存在が露見する事を危惧するのではなく、魔導書の完成という終着点が同じであるのなら構わないらしい。
「それとね、さっき君、こちらが保有する魔導書がヒステリーソースだけって言っていたけどさ、それは間違いだから」
「・・・最後の1つも、こちら側にあるのか?」
「うん、ていうか、だいぶ前から街に放っていたから、もうじき花が咲きそうなんだ」
「?」
主の言っている意味がイマイチ理解できない男が疑問符を浮かべる横で、「まぁ、楽しみにしていてよ」と、ほくそ笑んでいる男の表情は、誰の目から見ても、不気味に歪んでいた。
◇ ◇ ◇
熾輝と咲耶が入れ替わってから夜が明けた今日は、幸運なことに休日だ。
サクヤは、朝食を終えてリビングでソワソワしている。
慣れない家で生活する緊張が表に出ているのだろう。
「落ち着かない?」
そんなサクヤを見かねて葵が声を掛ける。本日は彼女も病院勤務が休みのため、家に居るのだ。
「は、はい。すみません」
「別に謝る必要なんてないわ。身体が入れ替わって、他人の家に居るんだもの、仕方が無いわよ」
優しく微笑み掛ける葵は、なんだか新鮮なものを見る目でサクヤを見つめる。
「あの、なにか?」
「あぁ、ごめんね。サクヤちゃんだって事は、判っているんだけど、何だか、そうやって熾輝くんがソワソワしていると思うと可笑しくて」
「可笑しいですか?」
「うん、あの子、歳の割りに落ち着きすぎているでしょ?」
「確かに、熾輝くんは、クラスの中でも静かな方……というより大人って感じがします」
大人なイメージと語るサクヤは、熾輝の心の疾患について、だいぶ前に教えて貰っているが、感情が希薄だから大人っぽく見えるのではなく、彼の言動や行動がそう見せていると、直感で理解している。
「私としては、もう少し子供っぽくしていても良いと思うんだけど、あれあ熾輝くんの気質なのかもね」
「でも、背伸びをしているって印象は受けませんよ」
「そうね、昔はとってもヤンチャで、色々な出来事に目をキラキラさせていたんだけど、事件以降は、周りに同年代の子供が居なくて、私達みたいな大人しかいない環境で育ってきたから、ああなったのかしら」
今では記憶を失う前の熾輝を知る数少ない人間の一人として、葵は遠い目をさせて語る。
「昔の熾輝くんって、どんな子だったんですか?」
熾輝の昔と聞いて、興味が湧いたサクヤが葵に尋ねる。
「あの子は、なんていうか……神童よ」
「・・・」
親バカならぬ、師匠バカ発言に、サクヤの表情が一瞬にして固まった。
「物覚えも早いし、大抵の事は何でも出来たったの」
「…それって、熾輝くんが3歳くらいの話ですよね?」
「そうよ・・・あっ、別に身内贔屓で言っている訳じゃないわよ。本当に凄い才能を持っているんだもの」
子供の成長を見る親は、「この子は天才だ!」とよく言うらしい。と、何かのテレビで見た事があるサクヤは、疑いを含んだ目で葵を見つめる。
「そ、それにね、今だって片鱗を感じる事はあるもの。料理は既に私より上手だし、スポーツも物凄く上手でしょ?」
「た、確かに…転校してきたとき、サッカーをやった事が無かったらしいけど、今ではサッカークラブの子達よりも上手になっているかな」
葵の言を裏付ける様に、サクヤの経験上、そんな出来事があったと記憶が甦る。
「ただねぇ、熾輝くんから聞いたと思うけど、あの子、魔法の才能が無いの……それでけじゃなくて、武術の才能も」
それは、昨晩シキから聞かされた話だった。
シキは、魔術の知識はあっても、扱えない。
ただ、武術の才能が無いとは、初耳である。
「昨日、シキくんから聞かされて、半信半疑だったんですけど、・・・あの後、魔術を使おうとして使えなかったんです。それで、本当なんだって、ようやく理解しました」
「才能に溢れているあの子に、どうして一番必要な才能が無いのかは、判らない。それに、あんな事件が起こらなければ、普通の子として誰に恥じる必要もなく、胸を張って生きていたハズだもの・・・」
何時命を狙われるかも知らない状況で、身を守る才能が無い事は、絶望的といえる。
だから、葵は悲しそうに表情を曇らせる。
「でも、私達は、何度もシキくんに助けられました」
葵の曇った表情を見て、サクヤはこれだけは言わなければと、力強く語り始める
「たとえ、魔術の力が無くても、武術の才能が無くても、シキくんが居なければ今の私達は居ません。いつも私達を助けてくれる…シキくんは大した事はしていないって、いつもの調子で言うかもしれないけど、…だったら……シキくんに助けられた私達は、シキ君を誇りに思います!」
魔術の力が無くとも、その知識量は誰にも負けない。
武術の才能が無くとも、努力量は誰にも負けない。
才能が無い事を言い訳にはしない。
いつだって、どんなときだって、彼は持ちうる全て・・・それこそ全身全霊を掛けて自分達と共に戦い、そして守ってきたのだ。
そんな彼を・・・たとえ彼自身が自分には大した力は無いと言うのであれば、友達であり、彼に救われた自分たちが、全力で否定する。
「・・・・無才の天才か」
サクヤの言葉を聞いて、葵の口から、そのような単語が漏れた
「いつだったか、熾輝くんをそう呼んだ子がいたわ。……魔法の才が無くても、魔を扱う術を誰よりも心得ている。武術の才能がなくても、武の道を誰よりも歩んでいるって」
サクヤには、葵が何を言わんとしているのかが理解できなかった。
しかし、その誰かが言っていた事は共感が持てた。
「そうよね、熾輝くんは才能なんて無くたって、努力だけで今の力を手にして来たんだもの。師匠である私が、あの子を信じてあげなくちゃ」
「そ、そうですよ葵先生!」
「そうね♪とはいっても、魔術の知識量だけなら、既に私を超えているんだけどね☆」
「・・・・え?」
少々センチになっていた葵だが、サクヤの言葉に元気を貰い、いつもの調子で語尾に♪やら☆やらが付いてきているように聞こえ始めた。
だが、この時、彼女がサラッと漏らした言葉に耳を疑ったサクヤであった。
◇ ◇ ◇
「―――という事で、昨日はエライ目にあった」
「まぁ、それは災難…というより、むしろラッキーだったのでは?」
現在、乃木坂邸を訪れていたシキは、可憐に昨日の出来事を愚痴っていた。
ただ、第三者の立場から聞くと、シキの身に起きた出来事は、普通の健全な男の子なら役得と思うのでは?という感想を持つだろう。
しかしシキは、その辺の男子と違って、少々乾いている・・・というより、心の疾患の所為で、極端な劣情に駆られたりはしない。
「勘弁してくれ。あの後、先生の誤解を解くのに苦労したし、アリアからはムッツリだと言われた」
「ふふ、男の子の宿命というものかしら・・・ところで、急に写真がみたいなんて、何かあったのですか?」
そんな会話をしつつ、シキは可憐に頼んで、ここ数年の写真データが入ったパソコンを見させてもらっていた。
「いや、きのう咲耶の部屋でアルバムを見せてもらって、それで僕が引っ越してくる前に、みんながどう過ごしてきたか知りたくて」
「まぁ、それは嬉しい事です」
「…うれしい?」
あらかじめ用意していた理由を述べたシキに対し、可憐は予想していなかった答えを返してきた。
「ええ、今までのシキ君だったら、必要以上に私たちのことに踏み込まないし、踏み込ませなかったので、少しでもお互いの事を判ろうとしてくれた事を嬉しく思いますよ」
ポンッと両の手を合わせた可憐は、微笑みながら語る
「まぁ、僕も少しは変わったって事かな」
「それはもう」
「……なら、変わったついでに聞きたいんだけど」
「はい、何でしょう?」
お互いの事を知ろうとしてくれる事が嬉しいと語る可憐に対し、シキは僅かに躊躇いながらも口を開く。
「1週間前の事件、何でなにも言ってくれなかったの?」
「………」
1週間前の事件と聞いた可憐の表情が、一瞬固まった様に見えたのは、シキの気のせいではない。
「葵先生ですか?」
1週間前、彼女はグールに襲われている。
その件については、彼女に怪我もなく、駆け付けた羅漢(今はジェイと名乗っている)によって助けられた。
外部に情報が漏れないように、親が色々と手を回したから、ニュースにならずに済んでいる。
だから、今回の件で情報が漏れたとすれば、搬送先の病院が葵の勤め先だという事からだと可憐は推測したのだ。
「先生からは、君が無事だという事を僕が聞いただけだ。君が何者かに襲われた事は、ソレで知った」
そう言ったシキは、可憐が身に着けているミサンガを指さした。
「やっぱり、あのとき助けてくれたのは、シキ君だったのですね」
手首に巻かれているミサンガを指で触り、可憐は嬉しそうに微笑む
「魔導書事件に関わる以上は、いつ危ない目に遭うかも判らないからね。保険として魔除けの効果がある御守りを渡しておいて良かった」
「ええ、おかげで救われました」
「……でも、僕は間に合わなかった」
微笑みかける可憐とは対照的に、シキは顔を俯かせながら答える
「君が、危ない目に遭っていると判っていたのに、助けられなかった。大切な友達も守れないなんて・・・・無様だろ」
「シキくん…」
吐き捨てる様に嫌悪するシキを見て、可憐は困り顔を浮かべている
あの時、仮にシキが間に合っていたとしても、自分一人では太刀打ち出来る相手ではなかったという事は、理解している。
だからといって、助けにも行けなかった事に対し、悔いているのだ。
ただ、これはシキの自己満足だ。
役にも立たないのに、その場に居合わせたいなど、何の意味も無い。
しかし、頭で理解している以上に、シキの心がそれを是としなかった。
そして、自分自身でも理解できないこの感情に、苛立ちを覚えている。
「シキ君は、本当にお優しいですね」
俯き、悔いるシキを目の前にして、可憐が言った言葉に怪訝な表情を浮かべる
「自分の事ではないのに、そこまで心を痛めて・・・それなのに、何も言わなかった私を責めたりしない」
「それは……乃木坂さんは、ただ巻き込まれただけだ。責めるなんて筋が違う」
そう語るシキを穏やかな表情で見つめる。
およそ小学生の子供がするような表情ではない。
ともすれば、母親の様な…そんな慈愛に満ちたような表情だ。
「ありがとうございます。私、今回の件は、誰にも言わないと心に決めていたのです。きっと皆に心配を掛けてしまうと思いましたし、終わったことで気を使わせたくなかったから……でも、かえってシキくんに辛い思いをさせてしまいましたね」
「……僕のは、ただの自己満足だ」
「こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、それでも、私は申し訳なかったと思うよりも、嬉しかったです」
気落ちしているシキの手を両手で包み込み、伏せっている目をのぞき込みながら可憐は続ける
「いつも、私を守ってくれてありがとうございます。私の大切な友達を守ってくれてありがとうございます。私は、シキくんに感謝しています」
「乃木坂さん・・・」
「本来なら、何の力も持たない私が、咲耶ちゃんと共に魔導書に係るべきではないのでしょうが、シキくんのおかげで、大切な友達の近くに居る事ができます。・・・なんだか、私たちって、似た者同士ですね」
「・・・そう、だね」
お互いに、理解しあった2人から自然と笑いが漏れる。
そして、ありがとうと重ねて告げる可憐の微笑みは、アイドルとしてではなく、彼女本来の笑顔だ。
その笑顔に、吸い込まれるように、シキの目は乃木坂可憐という女の子から離れない。
「私としたことが、男の子の手を取って、見つめ合うなんて…燕ちゃんが見ていたら、怒られてしまいますね?」
両手を頬に当てて、ポッと頬を赤く染め上げる可憐…おそらくは演技なのだろうが、その演技力を目の当たりにして、冗談なのか判別できない。
「はは、今の僕は、咲耶だからね。それに、黙っていれば余計な心配は掛けないで済む」
「まぁ、どこかで聞いた様な気がしますね?」
「空似だろ」
「ふふ、そうですね―――」
お互いに冗談が言い合えるくらいには、気持ちが切り替わったところで、可憐の言葉を切る様に、乃木坂邸を小さくない揺れが襲った。
「・・・大きかったですね」
体感的に震度3はあるとみた可憐は、部屋に備え付けてあるテレビの電源を入れて、地震情報を確認する。
「・・・変ですね、地震情報が入って来ません」
しかし、チャンネルを回しても地震情報を伝えるニュース速報が一向に流れてこない。
不思議に思った可憐がシキに目を向けると、難しい顔をしたシキが虚空を見つめていた。
「シキくん?」
「…乃木坂さん、電話を借りてもいい?」
「え?あ、はい・・・もしかして」
シキの言葉を聞いて、一つの可能性に思い当たる。
この状況で電話を借りようとする理由は、おそらく魔導書絡み・・・だとすれば、彼が電話を掛ける相手は決まっている。
「うん、魔導書の気配だ。しかも現実世界に気配が漏れ出ている」
魔術師ではない可憐には、力の気配を感じ取る事は出来ない。
そして、先程の揺れは、地震ではなく空震―――魔導書が現実世界に出現しようとする際に空間に歪みを生じさせることによって発生した現象だ。
だから地震速報が流れなかった。
本来、異相空間に存在する魔導書が現実世界に出現する事の危険性はシキから話を聞いた事があった。
今回の様に身体が入れ替わるだけの魔術は、例外と考えるとしても、街に被害が出てからでは遅すぎる。
しかも、空間を揺るがすほどの規模を孕んだ魔導書・・・下手をすれば大霊災へと発展する恐れすらある。
「このタイミング・・・無事に封印できるのでしょうか」
今現在、熾輝と咲耶の身体が入れ替わり、お互いに十分な力を発揮できないと示唆するのは当然だ。
しかし、彼ら以外にこの事件に対応できる者がいない以上は、やるしかない。
「大丈夫、僕が何とかする」
不安を抱えていた可憐に対し、当の本人であるシキは、サラリと答える。
その声と表情からは、今までにないくらい自信に満ち溢れ、普段の冷静な彼からは想像もできない程、感情のこもったものだったと、可憐は感じ取った。
◇ ◇ ◇
シキと可憐が地震を感じ取っていたころ、法隆神社の境内・・・正しくは、神に仕える巫女が禊を行う場所であるが、今現在は修練上として使用されているその場所で、彼女も事の異変に気が付いていた。
「コマさん、街が・・・」
「うむ、どうやら魔導書がこちら側に出てこようとしている」
空を見上げれば、所々に歪みが生じ、不穏な力が現実世界へと流出し始めている。
巫女として高い適性を持つ燕にも、力の気配を感じ取る事が出来るようになってきた。
それは、今まで熾輝や咲耶が相手にしてきた魔導書の力を理解する事ができるようになったという事であり、故に心の中に恐れを抱き、彼女自身の表情が次第に固くなる。
「臆するな」
そんな燕の状態を目の当たりにして、コマが激励を飛ばす。
「お嬢の力は、確実に向上している。今なら熾輝の助けにもなれるハズだ」
「そ、そうだよね!」
どうやら燕は、コマと密かに修行をしていたらしい。その様子は、修練場の至る所に刻まれた破壊跡が物語っている。
彼女もコマの言葉に押されて「わたし頑張ったもん!」と、小さな手をギュッと握り、鼻息を荒くしている。
「しかし・・・・お嬢の力は多様するには、まだまだ器が小さい。ここぞという時以外は、神の力は使うな」
「わかってる。戦い方を教えて貰う時に約束したもんね」
約束を違えるつもりは無いと、神使の目を真直ぐに見返す彼女から嘘は感じられない。
「―――お嬢、シキから電話が来た。中央公園で待っていると伝言を受けた」
2人の元へシキからの伝言を預かった右京の言葉を受けて、「わかった」と短く答えた燕は、身支度を整えて、足早に法隆神社を後にした。




