「はなし、きく、ありがとーね」
ロベルトさんが帰って来ない。
かれこれ三日は経っただろうか。たかが数日、されど数日。確かに何日か帰って来ないことは今までにもあった。しかしそれはあらかじめ知らされていたのである。今回は……何も聞いていない。この事態に私は大変不安になった。
何か事件に巻き込まれたのではないだろうか。誘拐? 強盗? 殺人?
それとも……私に愛想を尽かせて出てってしまったのだろうか。
それがあり得るのが恐ろしい。なんせ婚姻届の件がある。たどたどしい言葉で、サインしたものが婚姻届であることを知らなかったこと、もちろんロベルトさんのことは大好きであること。でもロベルトさんは本当に私でいいのかということ。そんなことを言ったつもりなのだが、どこか捻曲がってしまったかもしれない。
(うう、でも、だって、本当にびっくりしたんだもんよ……)
いきなり婚姻届だと思ってなかったなんて伝えられたら、そりゃ勘違いするのではないだろうか。そ、そんなことは……ないのだけど……。でもあの時の私には普段以上に言葉が足りなかった。その所為で帰って来ないんじゃないか。一度そう思うともう駄目だった。
ならばどうするべきか。
私がいる所為で帰って来られないのなら、ここから出て行くべきなのではないか。
そうだ。悶々とするくらいならば、行動あるのみなのだ。
「というわけだ、しのちゃん」
「……」
「いきなり、ほんとごめんなさい、でもたよるできるひと、いない。しのちゃん、おねがい」
「お前は……」
「?」
「お前は馬鹿か! 馬鹿だろ! そうなんだろうが!?」
「えっえっ、なに、なんなの?」
「馬鹿かっつってんだよ! この馬鹿!」
そういってシノちゃんは私のこめかみを固く握った拳で思いっきりぐりぐりとしてきた。私の脳みそに激痛が走った。
「い、いたいいいいい! なに、する、のっ!? いた、いたいよ……っ!」
「てめーが馬鹿すぎるから懲らしめてンだよ!」
「り、りふじん……いたいいたいいたいっ! これよりつよくする、わたしのあたま、ばくはつするの!?」
「いっそ爆発しろ!」
酷すぎる。
しかしある程度やったら気がすんだのか、ようやく私の頭は解放された。しかしダメージは甚大だった。涙がぽろぽろ零れて止まらない。
「うう……ぐす……」
「……っ、たく……お前ってやつはよぉ……」
「な、なぜ……こんな、こと、される……いたかった……」
そうぼやくとシノちゃんは拳をぎゅっと握った。私は思わず悲鳴と共にこめかみを押さえる。これ以上ダメージを食らったら私の頭部が潰れた柘榴になってしまう。それは、いけない。それは、本当に、よくない。
「それいじょう、しない! やめて! ごめんなさい!」
「……はあ、」
シノちゃんの前髪の隙間から緑色の瞳が覗く。きゅうと細められたそれは、それはもう恐ろしかった。
「おい」
「は、はひ!」
「話を纏めるぞ。ロベルトさんが連絡もなく三日間帰ってこねえ。それは自分の所為だと。そう思ってんだよな?」
「……うん」
「何日か空けることくらいあるだろうが」
「いままで、それ、おしえてくれた。こんかい、ない」
「急な仕事で連絡しそびれたとかは」
「だって、ろべるとさん、こーむいん。しごと、きまったじかん、おわるひと」
「……は?」
なぜそこで引っかかるのだ。
「え? こーむいん。つたわってる? くにのため、おしごとする、あってる?」
「お前、公務員って単語は言えるのか……じゃねえ、いや、……え? 公務員? なんでそうなるんだよ?」
「? だって、まいにち、かえる、いっしょ、じかん。それは、おしごとがこーむいん。ちがうの?」
そう言うとシノちゃんは眉間を押さえた。だから、なぜ、そんな反応になるのだ。
「あ、あの人……毎日定時で帰ってたのか……」
「しのちゃん?」
「あー……なんて言えばいいんだ……。まずな、ロベルトさん公務員じゃねえから」
「!? おしごとないの!?」
「ちっげえよ! お前が想像してるような仕事じゃねえってこと。お前が想像してんのはあれだ、文官だろ?」
「うむ」
「あの人の仕事は守ること、戦うこと。……まあ、騎士だよ、ようするに」
「へえ、きし…………きし!? うそ! びっくり!? はじめてきいたよ!?」
「なんでお前ら二年も一緒に暮らしてて意思疎通できてないわけ? むしろそっちに驚きだわ俺は」
「お、おおう、だから、ろべるとさん、きんにくすごかった……なっとく」
「……なんで知ってるかは聞かねえぞ」
ともかくだ、とシノちゃんは続けた。
私は大人しく拝聴する姿勢をとる。
「すっげー急な仕事で帰れなくなった可能性がなくなったわけじゃねえだろ?」
「……うん」
「もっかい聞くぞ、ロベルトさんは勝手に出てっちまうような人かよ?」
「ちがう!」
「わかってんじゃねえか。なんなのおまえ、暇なの馬鹿なの」
「ち、ちげーし!」
「あーめんどくせえ。あの人もよくこんなのと結婚したなァ」
「うぐ、」
それを言われると、こう、ぐさっとくるものがある。なんせ自分でも良く分かっていないのだから。
迷惑ばかりかけていると言うのに家においてくれるし、さらにはけ、結婚までしてくれたのである。本当にもったいないくらいの人なのだ、私には。
「ったく、わざわざノロケに押し掛けてくんなっつーの」
「そ、そーゆーつもり、なかったもん。でも、しのちゃん、たよりなる、それほんとよ?」
「あーはいはい」
「はなし、きく、ありがとーね」
「……ふん」
それにこうやって小さく鼻を鳴らしながらそっぽ向く友人も。
自分にはもったいないくらいのイイヤツなのである。
次の日。
「ろべるとさん、おかえりなさいっ!」
「すまなかった、色々と押し付けられてしまってな。……寂しくはなかったか?」
「んー、さびしくなかた、ゆーと、それはうそ。でも、いま、ろべるとさんいる、だからいいの、です」
草臥れた洋服と目の下の隈、走ってきたのか僅かに切らした息。そのどれもが急いで“家”に帰るためのものだと思うと。
数日前の勘違いが実に恥ずかしいものかを痛感する。そして同時に、愛おしい。
「うひひ」
「……ふ、」
しかしそれを上手く言葉に出来そうにない私は、折角なのでぎゅむっとボディランゲージに頼ることにした。数日ぶりの温かさに、じんわりと幸せが染み込んでくるのを堪能しつつ、私は笑みが止まらないのであった。
……気づけばシノちゃんばっかりに。