6 もて成し
日が頂点に達しつつある頃。
ポルミ村の中心にある井戸の周りには十名近い村人が集まり、話し合っていた。森閑とした集落にそれだけの人間が密集している光景は何かのっぴきならない事態を思わせるものであったが、肩を寄せ合う村民たちの顔色は確かに楽しげでこそないけれど、取り立てて鬼気迫ったというほどのものでもない。
ほぼ例外なく皆が木製の桶を手にしているところから、水を汲みに来た者が一人、また一人と増えて、いつの間にか大規模な井戸端会議の様相となったことは想像に難くない。約半年前に村長とそれに準ずる男達が魔物の襲撃で亡くなってしまってからは、このような突発的であり偶発的な会合が村の総意を決める場となっているのだ。
議題は主に被害状況の確認と生活困難者の処遇について。狭い村なので被害の全容はすぐに把握できたが、生活困難者の処遇となると皆が視線を落として閉口した。手にした桶をことさら持て余すようにし、何人かは本来の目的である水汲みをそそくさと済ませようとする。魔物の襲撃直後の会合ではお馴染みとなってしまった光景だった。
生活困難者とは、身寄りを失い自活が難しくなってしまった孤児や老人だ。この村の場合、そこに単なる傷病者は含まれない。その理由には、サイという稀有な魔術士の存在があった。
彼女が本来なら法外な施術費用を請求して然るべきはずの治癒魔術を無償で施してくれるからこそ、怪我程度では取り立てて騒ぐ必要がないのだ。その点、他所の集落と較べてポルミ村は例外的に幸運といえたが、それでも農村である以上、どうあがいても例外に脱することができない不文律が、住民たちの根底に深くよこたわっていた。
それは即ち、自給自足。働かざるもの食うべからずという標語に置き換えてもいい。日々の雑事から農作業までこなさなければならない農村での生活は、五体満足というだけでやっていけるほどの甘さはなく、働き手を失った家庭に遺された経験のない幼子や労働が困難な老人が、そうなる以前でさえなに不自由なくとは言い難かった暮らしに自らの手だけで生計をたてられるわけもない。
食事や作業の手伝いなど、若干の援助で生活できる者はいいが、それ以上の負担を必要とする者にはどうしてやることもできない。ずば抜けて裕福な家などあるはずもなく、新たな家族を迎え入れるほどの余裕はどこの家庭にもないのだ。
そういった者の処遇にこれといったしきたりがあるわけではないが、自給自足同様、対象者も暗黙に了解しているという点ではしきたり以上に強い強迫観念が村で生きるものの本能に近い部分に刷りこまれていた。
つまり集落からの放逐。親類縁者が余所の集落にある者はそれを頼りに、そうでない者はとりあえず王都を目指して、彼らは涙を呑んで村を出なければならない。昨夜の襲撃で放逐の憂き目に遭うであろう村民はどうやら二人だけで、彼らは縁者を頼って最寄の村を目指すらしいが、どこに向かうにせよ、魔物の領域たる森の踏破は避けては通れない。いわずもがな、自殺行為以外の何物でもない。ましてや余命の見えた老人や産まれて十年も数えない幼子なのである。過去に村をでたものがその後どうなったのか知るものは誰もいない。報せがないのは無事な証拠といった暢気な常套句を冗談であってさえ口にしようとする者もまた、誰もいない。
そんな暗澹たる雰囲気のまま自然消滅するのが会合の通例だったが、今回に限り議題は次へと移行した。機械を纏いし異相の男、ケイルについてだ。
彼は全体何者なのか、という推測で場は徐々に盛り上がる。
瀕死の狼男の頭部をふき飛ばした超常、優れた医術と丁寧な指導、処理にあぐねていた狼男の死骸の廃棄、さらには埋葬の手伝いなど、ケイルの所行を目撃者が語るたびに驚嘆と歓声があがる。
そんな普段は見られない賑わいにさらに村人が集まり、最終的には子供も含めたポルミ村の人口の過半数が集っていた。皆が見慣れぬ姿をした村の救世主に興味津々なのだ。生活困難者への後ろ暗い囁きの舌の根も乾かぬうちに、その盛況は現金であるし、些か酷ではあるが、興味を持つなというほうが無理だろう。
しかし、結局、ケイルの正体にこれといった結論を導くには至らなかった。ただ、彼への感謝の念と信頼を膨らませるには十分であった。
とにかくできる限りのもて成しと謝礼を用意するべきだという方向に話が纏まり、役割分担が決められ、村がにわかに慌ただしくなってからしばらくして、寝起きであるサイが大欠伸をして後頭部を掻きかき家からでてきた。
妙に騒々しい村の様子を訝しみ、隣の家のものに事情を聞き及んだサイは、ふぅんと割とどうでもよさそうに相槌を打ったのちに、不思議そうにぽつりと宣った。
「で、主役のケイルはどこよ? 家にいないんだけど」
その一言で騒々しさはがらりと色合いを変えた。村総出での大捜索である。しかし繰り返すが狭い村である。村のなかにケイルの姿がないことはすぐに知れた。
そして再び井戸端会議。サイの管理不行き届きが非難され、サイは鬱陶しそうに反論するという騒然たる口喧嘩が勃発したが、それはすぐに鳴りを潜め、生活困難者の処遇が挙がった時と同様の寂寥とした停滞感が漂った。
別れも告げず、村を離れたのだろう――。
自ずと導かれた結論に皆が落胆し始めた。その矢先である。
森から近づく人影に誰かが気づいた。その指先が示す繁みの奥から、飄々と現れたのは、ケイルに違いなかった。この上なく面妖ななりをした人物の接近に村民たちが押し並べて安堵したように頬を緩ませるなど、もし昨夜の事情を知らないものがこの場に居合わせたのなら、そこはかとなく奇妙な光景に映ったことだろう。
ただ、最初こそ皆が喜色を顕わにして、駆け寄ろうとするものまでいたが、その姿を細部にわたって認めると、途端、彼らの態度は事情を知らぬものが予想して然るべき光景に様変わりした。誰もかれもが目を見開き、放心に口を開け、まるで時が止まってしまったかのように固まった。
落ちこんだり、怒ったり、喜んだり、驚いたりと、昨夜の魔物の襲撃からポルミ村の住民にとってはなんとも心休まらない日々であるが、とにかく、ケイルがあまりに無造作に右手にぶら提げているその物体は、我が目と正気を疑わせるに足るものであった。
「……何かまずかったか?」
村人の徒ならぬ反応を受けて、ケイルは足を止めた。
そして右手で頭髪を掴みあげるようにして持っていたそれを、持っていた様子よりもさらに無造作に投げ捨てる。村人の視線は期せずとも一斉にケイルから離れ、相当の重量を予感させる鈍い落下音をはっして地で弾むそれに縫いつけられていた。
それは狼男の頭部だった。雌のアルファの生首である。人間の頭三つ分はあろうか。果たしてどのような外力を加えたらそうなるのか、下顎が欠損している。頭部を一見しただけでその巨体を想像するのは難くなく、それほどの大型の魔物を目にしたものは村民にはただの一人もいなかった。アーシャのいうところの悪趣味なお土産は、悪趣味以上の感慨をもたらしたのだった。
「……あんた」サイが人垣から歩みでて、ケイルをまじまじと凝視する。「一体どこで何をしてたんだい?」
「この村を襲った魔物の巣を駆除してきたんだが」
「駆除って……。で、それは?」
生首に視線を移すサイ。ケイルもそちらに一瞥をくれる。
「親玉の首だ。とりあえずこの魔物に関してはもう心配ないだろう」
鬼の首を取ったようにというたとえがあるが、文字通り鬼の首を取ってきた彼はそんな得意然とした態度は微塵もださず、至極あっさりと、実にこともなげに言い切った。
それを受け、時を取り戻した村人がざわめき始める。風を受けた木々のように不規則だったざわめきが次第に異形の男一点へと指向し、魔道士様だとか、救世主様や英雄様という言葉が思わず口からもれたという風に口々に囁かれた。畏敬や崇高の念がこめられ眩しげに細められた眸のなかで、ケイルは小首を傾げて立ち尽くしていた。
まいった、とでもいう様子で微苦笑しながら後ろ髪を掻いていたサイ。村人たちのほうへと振り返り、声を張った。
「みんな! なにぼーっと突っ立てるんだい。救世主様をもて成すんだろ。さあ、動いた動いた」
村人たちが再び準備に駆けだした。男は納屋から薪や食材を運びだし、子供ははしゃぎながら井戸の周囲に敷物を敷きつめ、女は家のなかやおもてで馳走の調理を始める。常にどこか物寂しい雰囲気で閑散としていたポルミ村は、今や村全体が一つの巨大な厨房と化したような活き活きとした慌ただしさと、書き入れ時に活況する市のような賑やかさを帯びている。
所在なくきょろきょろとしていたケイルは「準備が終わるまで待っていろ」と、再びサイの家へと導かれる。
その道すがら、ケイルはサイに尋ねた。
「準備って、何を準備しているんだ? 手伝ったほうがいいか?」
サイはきょとんと目を丸くして、不意に顔を綻ばせ大声で笑い始めた。息も絶えだえにケイルの背中をぺしぺしと叩く。
「あんた、本当にわかってないのかい。冗談なら傑作、本気ならなお傑作だよ」
ケイルは頻りに訝しむばかりだったが、素直にサイの家で待つことにした。
小一時間ほど待ってから呼ばれたケイルは、サイの家をでて、再び立ち尽くしてしまう。面頬のなかの目は人知れず驚きに剥かれていた。それは彼がこの世界に現れてから、一番といったら過言だが、間違いなく三番には食いこむであろう驚きだった。
井戸周囲の広場には麦藁で作られた敷物が敷かれて、その上には大量の葡萄酒や色取り取りな料理が山盛りになった大皿が無数に並べられていた。そして井戸端会議の時よりもさらに大勢の、この狭い村にこれほどの人口がいたのかというほどの村人たちが総出でケイルを迎えたのだ。
どうぞこちらへ、と恭しく敷物の中央に案内されて着座を促されたケイル。村人は彼を取り囲むように円周に座った。
『へえ、中世ヨーロッパ圏の文化でありながら、地べたに座る習慣もあるのね』
膝を揃えてちょこんと正座するアーシャ。物珍しげに周囲を見渡していた。ケイルも忙しなく視線を転じていたが、それは物珍しいというよりも、落ち着かない感覚がさせるそわそわしたものだった。
「それよりも何が始まるんだ?」
『えー。この期に及んでもまだ想像できないわけ?』アーシャは嫌味げに口角を持ち上げ、察しの悪い相棒を嘲笑する。『お約束の英雄様のもて成しでしょ』
ケイルの正面には村では一番の年配者であろう三人の老人が座していた。一人は脇に小箱を抱えている。威厳を孕んだ咳払いで村民のざわめきを静めると、三人は息を合わせて一礼した。
「魔道士様。まずは村を代表して感謝を申し上げます。村を窮地から救ってくれたばかりか、傷病者への手厚い救護、埋葬まで手伝ってくれたとのこと。そればかりか自ら魔物の巣窟へと単身で乗りこみ仇まで討っていただくとは、ポルミ先祖代々の名のもとにいくら感謝の言葉を重ねても足りませぬ」
隣の老人が小さく一礼してから、言葉を継いだ。
「なにぶん貧しい村でして、この程度のもて成しと感謝のしるししかご用意できませんこと、ご容赦ください」
そして敷物の上に置いた小箱を、すすすとケイルに差しだす。
「…………」
周りからの息を呑むような雰囲気にたじろぎながら、ケイルはそっと箱を開けた。なかにはこのライガナ王国の通貨である数枚の金貨と数枚の銀貨、数十枚の銅貨が所狭しと収まり、宝石や指輪や首飾りといった装飾がちりばめられ、鮮やかな輝きをはなっていた。
ケイルはそれと気づかれないよう周囲に視線を配る。彼が以前に目にした時には控えめながらも装飾品を身に着けている女が数名見うけられたが、今はどの女を見ても指や首許に目を引く彩りはなかった。彼女たちは感謝のしるしとして自らの装飾を差しだしたのだ。
静かに箱を閉じたケイルは、老人たちのほうに押し返すと首を横に振った。
「これは受け取れない」
「そ、そんな……」
村人たちの空気が凍りついた。ケイルは知る由もないが、村人たちは内心不安だったのだ。どこか遠い地では高名であろう偉大な魔道士様に、この貧しい村で用意できる最大限の謝礼程度で満足いただけるのか、と。恩義に応えられるだけの謝礼を捻出できるのか、と。
つまりケイルの言葉を、これでは足りない、という意味に取り違えたのだ。
皺深い顔を蒼白にした老人が、憐れみを乞うように小刻みに頭部を揺らしながらしわがれた声を発する。
「お、畏れながら申し上げます。大変申し訳ないのですが、この謝礼がこの村で用意できる精一杯。これ以上と申しますともう手立ては……」
「ん? いや、だから受け取れない」
怪訝げに低くうなり、かぶりを振るケイル。
だが如何せん、顔色がまったく窺えない面頬を被った彼の些末なその反応は、村人たちの凝り固まった先入観を解くにはいたらない。
苦虫を噛み潰したような表情をした老人がぎゅっと唇を結んで項垂れる。
「本当に申し訳ありません。しかし、これ以上は……」
「いやいや、だからいらない」
勘違いした老人とケイルの会話はまったく噛み合わず平行線を辿る。事情を知って客観的に見たら滑稽でさえあった。
事実、ケイルの常識の枠に収まらない特殊性がその外観だけに留まらないことを薄々ながらも察しているサイだけは、最初こそ意外そうにしていたものの、ケイルのいわんとしているところを逸早く理解し、彼らの背後で含み笑いをこぼしていた。
「あのさぁ」その寸劇を見飽きたのか、あるいはケイルへの助け舟か、サイは座談師のように膝を打つと横柄な口調で割りこんだ。「足りないんじゃなくて、いらないっていってるんだよ、ケイルは」
は? と。三人の老人はしわくちゃの顔のなかでいっぱいに見開いた目をサイとケイルの間で往復させる。
彼らには、然るべき働きをしたのにだされた謝礼を受け取らないという意味が理解できなかった。あんぐりと開口したままの喉の奥から擦れた声をもらす。
「あの、いらない、とは?」
「べつに頼まれてやったわけじゃない。俺が勝手にやったことだ。それに報酬を求めていたわけじゃない」
「で、ではなんのために?」
報酬を求めないなら何を求めるのか、と言外に怯えるようなその問いに、ケイルは再び小首を傾げた。なぜ村のために手を尽くしたのか、自問自答の間を経て、いたった解答を正直に口にした。
「あんたたちが困っていたから手を貸した。魔物たちを憎んでいたから排除した。俺はそれができた。だからそうした。それだけだ」
だからこれは必要ない。元の持ち主に返してやってくれ、とケイルはさらに箱を押し返す。
しばしの静謐が場に降り落ちた。老人たちはようやく目の前の異形が何も求めていないことを理解した。それでもそれをはいそうですかとあっさり信じられるわけがない彼らは、むしろさらに目を剥いた。
恩人に向けるには相応しいとはいえない、正気を疑うような不躾な眼差しには、彼らの驚愕がいかに大きいか、ケイルの謝礼を拒むという選択が彼らの常識からいかに逸脱しているかを物語っていた。
「あ、あなたは、純粋な善意でこれほどのことをしてくれたというのですか? それに対する我々の謝礼ですら、本意から必要ないと仰るのですか?」
純粋な善意……? と。ケイルはうなった。その言葉は彼の腑に落ちるものではなかったのだ。しかし謝礼は不要であるという後者の問いには迷いなく肯定だった。納得し切れない風にしながらも曖昧に頷いた。
たまらず一人の老人の口から、非現実的な文言がこぼれでた。
「あなたさまは一体……。まさか、天が遣わした勇者なのですか?」
しかし、その言葉にこそ、ケイルは強く否定の意を顕わにする。
「天の遣いじゃない。それに英雄でもないし、魔道士でもない。ケイルと呼んでくれればいい」
「なんという……」
それ以降継ぐべき言葉を失い、老人たちは深くふかく頭を下げた。村人も自ずとそれに倣う。両手を組んで頬に涙滴を伝わせるものも少なからずいた。
力を持つものがそれ相応に振る舞うのは自然であり当然である世界。魔物の出現以降は数が減ったが、それでも不定期的に訪れる王都の兵団には心からのもて成しと税を要求され、彼らの横暴な振る舞いに多少の反感は覚えても当然のことであると諦観していた村人たちは、生まれて初めて真の力あるものをそのまなこに見た。
謝礼などの打算的考えがなく、純粋なる義憤に駆られて敢行をなす勇の者。子供に語り聞かせる有り得ない英雄譚、うつつではないはずの夢物語。それの主人公が今、眼前にいる。
そんなきらきらとした衆目のなかで、ケイルはただただ、鋼鉄の身体でそわそわと身動ぎするばかりであった。物質的な謝礼はおろか、感謝の念でさえ、実のところ彼にとっては不要なのだった。
それからは大宴会だった。青空のした、敷物の上で催される宴会はさながら花見のようだ。皆が陽気な表情で葡萄酒や料理を口に運び、談笑していた。その話題のほとんどがケイルの美談である。
手負いの村人も自身で歩ける者はこぞって集い、痛ましい姿とは裏腹にその表情に苦悶の色はない。いまだ大勢の傷病者が詰めている大きな家屋にも料理と葡萄酒が運ばれ、ケイルの武勇が語られた。
一見すると祝賀会のようであり、まるでめでたい席のようだが、卑屈な見かたをすれば昨晩村を襲った悲劇を忘れようと一時の喜びを努めて謳歌しようとしているようでもあった。
ケイルは空腹を感じていなかったが、それでも面頬を外して申し訳程度に料理に手を伸ばす。そうしないと女たちが、お口に合わないのですか、と泣きだしそうになるのである。彼の周囲を囲んだ若い娘たちは、ケイルの木製のコップが一口ぶんでも減ろうものなら、競うように葡萄酒を注ぎ足す。
彼女たちは例外なく微熱に罹ったかのように頬を染め、どこか虚ろな眸で、蒼白くありながら精悍なケイルの面差しを見つめていた。そのなかには今朝、墓地にて父親と一緒に母親の埋葬をおこなっていた娘の姿もあった。ケイルを罵った彼女でさえ、今では恥ずかしそうに頬を朱に染め、葡萄酒を差しだした。
『うひょひょ。ハーレムきたこれ』
心底愉快そうなアーシャの含み笑い。まるで他人事である。ケイルの意識のなかにのみ存在し、文字通り浮き世離れした彼女からしたら、事実他人事なのだろうが。ケイルは薄情な脳内の相棒に毒づきたくなるも、この衆人環視ではそれさえもままならない。
「ケイルさま。我が家の芋料理はお口に合いますか」
「ケイルさま。どうかこの宝玉をお納めください」
「ケイルさま。今晩は我が家でお寛ぎください。……その折にはうちの娘を、どうかよろしくお願いします」
彼の御前には、次から次へと村人が現れ、感謝の口上を述べた。先ほど断ったのに、それではどうしても気が済まないと金品を渡そうとする者もいた。あまつさえ、一晩の妾でもいいから家の娘をどうか、と着飾った娘を連れてくる露骨過ぎる親御もいる始末。その娘とて満更でもない様子なものだから、そのたびにどのように断るべきか、ケイルの気苦労は絶えなかった。
ほどなくして村人による謁見が終わり、落ち着いてきたころ、サイが葡萄酒を片手にケイルの横にどかりと座った。年頃の女らしからぬあぐらをかき、アーシャほどでないにしても冷やかすような笑みを貼りつけている。
「やあ、大人気だね」
「……こんなことをして、村の貯えとか大丈夫なのか?」
「おいおい、あんたが心配することじゃないだろ。みんなだって馬鹿じゃない。村の今後を考えてできる限りのもて成しだよ。もうすぐ収穫の時期だからね。このまま順調にいけば問題ないよ」
「それにしても、ここまでしてもらってなんだか申し訳ないな」
「こっちの科白さね。村にここまでしてもらったのにこの程度のもて成ししかできなくて、むしろこっちが申し訳ないよ。だからせめて愉しんでおくれよ」
葡萄酒をボトルごと呷るサイ。ぐいと口許を拭いながら村人たちの笑顔の輪を見渡した。稀代の魔術士である彼女、情に厚い町医者といった立場にあるサイにとって、久しく訪れた談笑の音は心地よいものなのだった。
「ああ、そういえば」ケイルはふと思いだしてサイを見つめる。「何か俺に頼みたいことがあるとかいっていなかったか?」
サイは含みありげに細めた眼差しでケイルを見返し、ふうと息を吐いて微苦笑した。
「一つはもう解決しちまったよ。実はあのタイプの魔物が群れで巣を作るのを知ってたからさ、それの討伐を頼みたかったんだ。だけど起きてみたらあんたが親玉の首を持って現れた。あんた風にいうなら駆除だっけ」
広場の外、狼男の雌のアルファの巨大な生首のほうに視線を移すサイ。
「そうか。しかしそのいいぶんだとまだ頼みごとがあるみたいだな」
「ああ……」
サイは生首の方向を遠望したまま生返事をする。ケイルもそちらを窺うと、一人の少女がしゃがみこんでいた。それは今朝、ケイルが母親の埋葬を手伝った少女だった。
最初は村人が集まり物珍しげに眺め、子供たちが悪戯に棒切れでつついていた生首だが、すぐに興味は宴会に移った。今は一人の少女が腰をおろして、まるで見つめ合うかのようにガラスだまのような眼球をじいっと凝視していた。
下顎こそ欠損しているものの憎悪をたたえた凶悪な形相で硬直した生首。それに正対する少女の表情は、まさしく対に位置するような能面のような無表情。かたや死体でかたや生体、そのはずなのに少女のほうがいかなる感情もそのあどけない顔立に宿してはいなかった。
少女はすっくと立ち上がると、賑わう広場の中央、ケイルに視線を移した。
「…………」
距離を置いて重なり合う、感情を隠した能面と感情を消した蒼白い面相。両者の情緒はおよそ外界からは計り知れない。両者のみの間で何らかの意思疎通があったわけでもない。けれども、歓びにうかれる集落のなかで異質な二人は、どこか惹かれ合うようにしばらく視線を逸らそうとはしなかった。
得体の知れぬ眼差し交差を先に終わらせたのは、少女のほうだった。不意に視線を切ると、一軒の家屋に走り去った。
「ま、誰も彼もが陽気に振る舞えるわけじゃないさ」
サイは弁護するようにいいながら大皿に適当な料理をみつくろうと、どっこいしょーいち、と立ち上がった。気安い調子でケイルの肩をぽんと叩く。
「あのくらいのじゃりは胃袋と堪忍袋が繋がってるもんさね。腹も膨れりゃ機嫌もなおる」大皿を抱え、空いた片手でひらひらと後ろ手を振りながら、少女が這入った家屋に向かう。「あんたは気にせず、ゆっくりしてなよ。英雄さま」
もとい、とサイは少年のような悪戯な笑顔を振り向かせ、改めて、初めて、その名を口にした。
ケイル、と。
親しげに呼ばれた個人としての、人間としての名に、けれどもケイルはこれといって特別な反応を示さず、ぎこちなく頷くだけだった。咄嗟に思いついた安易な名前であり、単に慣れないだけなのかもしれないが、どうあっても心温まるような人情に溢れた態度では、けっしてなかった。
彼はヘカトンケイル。対アバドン用に開発製造された機械化兵装である。強化外骨格のうちに収まるバイオロイドは生物学上は間違いなく人間に分類されるが、戦車を一人とは数えないように、どこまでいっても兵器なのである。
軍拡の誇示ではなく、平和のための抑止力でもない。刻々と迫る脅威に対抗するためのどこまでも実戦的な戦闘兵器。製造にあたって権威者たちの雑多な底意がなかったといえば、それは嘘になるが、それでも彼に与えられた使命は切実にして純粋であり、そこに一点の曇りもない。
すなわち、無辜の人々を脅かすあらゆる脅威を屠る。
そのために彼は科学の粋を結集して造られた。それだけが彼の存在理由である。
だから彼はこの異邦の地でも己の設計仕様に愚直なまでに則って、ポルミ村の脅威を排除した。称賛を欲する鎧もなければ、褒美を求める銃もない。だから彼は讃美のなかで戸惑い、こうも落ち着かない。
そしてヘカトンケイルH09は、無辜の人々の仲間である以前に、正義の味方である以上に、悪の敵なのである。それまで人類がおこなってきた人間同士の、時勢に左右される相対的な敵との戦争ではなく、時間に関与しない絶対的な敵との殲滅戦に生き残るための兵器なのである。その事実が人々の感情と反目し、軋轢を生む日は、きっとそう遠くはない。
いや、わずかな契機ならば、それはもうすぐそばまで迫っていた。
馬蹄が地を打つ軽快な音。しかしそれが地揺れを思わせるほどに無数に轟くと、耳にする者に徒ならぬ不吉を思わせる。そんな不吉の群れが向かう先は、森林の拓地にぽつりと在る閑散とした村、王都にほど近い集落、ポルミ村であった。