3 安直
村人たちは機械を纏う男の姿を目にすると怯えたが、害意がなく、手を貸してくれると見ると、徐々に畏怖の視線は消えていった。
それとて奇異の眼差しには相違なく、露骨さが減少したといったほうが近い程度のものであった。戸惑いがちに胡乱げな面持ちを向けるものが大半である。
彼らにとってH09と襲撃者たる狼男とは、人型の異形という意味で共通しており、まだ血の臭いも消えぬ惨劇の直後となっては無理からぬことなのだった。サイのような反応のほうが例外的といえる。
始めは、やや疎まれながらも己の足で歩けない負傷者を大きな家の広間に運ぶだけの単純な力仕事に従事していたH09だったが、その臨時の救護所でおこなわれている治療は、彼にとって一考の余地があるものだった。
具体的には、裂傷だろうが骨折だろうが、四肢が千切れていようが、薬草と呼ばれる草木を捻じこんで包帯を巻くだけだったのだ。
手当てとは名ばかりの気休めに、アーシャはあきれ返った。
『薬草への信頼が半端ないわね。体力が回復すると思ってるのかしら。焼け石に水もいいところでしょうに』
「これでは助かるものも助からないな……」
そこでH09は、自身の持つ軍事医療の技術とアーシャの医療知識を併せ持って、出来る限り適切な処置を施すことにした。
しかし、医療具や医薬品が皆無であり、せいぜい確実な止血や熱消毒による感染症の予防、骨折部の固定、熱病者への対処程度しかできることはない。さらにH09もけっして手馴れている風ではなく、知識として知ってはいるが実際に他人に施したことはないような、ややおぼつかない手つきだった。
手の施しようがなく、迫る最期を時の経過に委ねるしかないものも多い。それでもH09の処置によって一命を取り留めるものも少なくはなく、それを目の当たりにした村人たちは始めは見よう見まねで手を動かし、次第に彼に指示を仰ぐようになり、最終的にH09はその場を取り仕切っていた。
「いや、圧迫するのは出血する患部だけじゃない。……脇腹に添え木はいらない。……その水はもう捨てろ。包帯もだ。……なるべく清潔なものを使え」
もっとも、処置の手際と同様にH09の指示もまた慣れた風ではけっしてなかったが、不慣れ故の少々過剰なほどの丁寧な説明が、むしろ村人たちの目には好ましく映っていた。月が傾き始めた頃には、彼を見つめる眸から不審の色合いを見いだすことはできなくなっていた。
そんな雰囲気を汲み取ったサイはその場をH09に任せると、村の奥の丘にある自宅に比較的見こみのある重傷者を運ばせた。彼女は村唯一の“魔術士”であり、治癒魔術を用いた治療をおこなうとのことだった。
負傷者への処置が一段落するまでは明けがたまでかかり、指示しなくとも村人たちが適切な処置をおこなうようになったのを見て、H09はその場を離れた。
外では陽が低く昇り、黎明の薄白い光が村を染め始めていた。
眩しげに頭上に手を翳したH09は、すぐに地上に視線を落とす。淡く赤光を反射する眼鏡に映るのは、酸鼻を色濃く残す光景だった。
人間の亡骸はもう見えない。とりあえず納屋に置き、後は遺族の任意で順次土葬にするという。しかし、踏み固められた茶褐色の地に染みこんだ血痕は酸化して黒く変色し、昨夕の惨劇をまざまざと物語っていた。いや、物語るも何も、そこここに転がっているとりわけ目に引く群青色の異物が、怪物の襲撃という事態をありのままに知らしめていた。処理にあぐねているのだ。
男の狙撃による銃創だけでなく、全身が傷に塗れている無惨な死骸もあった。村人の気が触れたような打擲によるものだ。死体の破壊行為はけっして褒められたものではないが、いかなる感情も宿さず、ただありのままに目の前の光景を映す異形の男の丸い双眸は、そんな残虐行為でさえも当然のことであると受け止め、受け入れているようだった。
息を一つ吐き、H09は家屋の外壁に背を預け、ゆっくりとその場に座りこんだ。
アーシャはその隣に現れると、膝を抱いて座しながら、彼の顔を覗きこむ。
『さすがに疲れた?』
「いや……。なんだか関わりすぎた気がしてな」
もう手遅れでしょ、とアーシャは鼻を鳴らした。
『あんなに色々な医療技術を教えちゃって、医療面に限ればきっとこの村だけ一世紀分ぐらいは進歩しちゃったわよ。かく言う私も手を貸したんだけどさ』
「進歩か……」H09は鋼鉄の指先に付着した血のりをもてあそんでいた。鈍色の装甲の細かな瑕疵に入りこんで渇いた血は、新たな錆となって堆積していく。集落の惨劇に直面した時にもらした独白を、今一度こぼす。「なんの因果だ……」
『まったくね……』
ほどなくして、丘の上の家からサイが現れた。
H09に歩み寄りながら昨夜と同じように気安い調子で片手を挙げる。
「やあ、おはよう。ま、お互い寝てないだろうけど、朝の挨拶はおはようさ」
顔を洗い、血糊こそ拭き取られ、かすかにそばかすの散った頬は朝陽を受けて健康的な肌色に輝いている。それでもその器量のよい容姿は万全の状態とはいいがたい。目の下の深い隈から色濃い疲労が見て取れる。不眠で傷病者の手当てを続けていたのだ。
「そっちの状況はどうだい。少しは落ち着いたかい?」
「落ち着いたというよりも、重傷者がみんな息を引き取っただけだが」
H09の返答を受け、眸に昏い翳をよぎらせたサイは、扉が開放されたままなっている家屋のなかを窺い、しかし目を丸くした。そこには生きようとする者特有の静かで健気な人いきれが溢れていたのだ。
「おいおい。それでもずいぶん大勢の人が助かってるじゃないか。あんな医術、どこで習ったんだい? 断言するけど、王都にさえあんたほどの医官はいないよ」
「……まあな」
H09は曖昧にうなった。
それを少しばかり怪訝げに一瞥するもサイは言及しようとはせず、狼男の死骸に視線を転じた。その眼差しは憎き外敵を睨む劇的なそれではなく、慢性的な懸念への憂慮に陰鬱と曇っていた。
「それにしても、酷いもんさね。魔物どもが現れてからこっち、この地に安全な場所なんてないって知ってはいたけどさ。大型の魔物がここまで兇暴で手強いなんて……」
「現れた?」ぴくり、とH09は頭部をかすかに揺らした。その眼鏡でまじまじとサイを見つめる。「魔物が現れたと、そういったのか?」
「ああ。そうだけど……」
「もともとこの世界には魔物という種が存在していたんじゃないのか?」
「この世界って……なんだいそりゃ? あんたは一体……」
そこでこそサイは目頭に皺を寄せ、胡乱の表情で異形を見つめ返した。
魔物という怪生物の出現。それはこの世界では呼吸するのに等しく誰でも知っている事実なのだった。大水の原因が大雨であるのと同じように、飢饉の原因が日照りであるように、先入観が介入する余地などあっていいはずがない、常識以前の当たり前なことなのだ。
そのはずなのに、まるでそうであることが意外だというH09。
視線を切ったサイは、しばし物思いに沈んでいた。やがて顔を起こし、背後の家屋を親指で示した。
「ま、立ち話もなんだし、家に来なよ。散らかってるけどね。朝飯食ってないんだろ」
サイの後に続きながら、H09は音声の外部出力を遮断して、つまり誰にも聞こえないようにして、アーシャに話しかけた。
「彼女、魔物が現れたと、本当にそういったのか?」
『間違いなくそういっていたわ。……まるで、私たちの世界と同じね』
二人は進みざまに一顧する。見定めるような眼差しの先は、この世界にとっても異物であるという、異形の怪物の骸だった。
サイの家は野戦病院の様相を呈していた。血に塗れた布切れ、棒切れ、血の混じった水瓶、その他諸々が所狭しと転がっている。散らかっている、といっていたサイの言葉には謙遜も誇張もない。
椅子を引っくり返して載っていたごみをばらばらと床に散らしてから、サイは着席を促す。ずぼらな彼女は家は、事件がなくとも、きっと整理整頓とは無縁であったに違いない。H09は黙ってそこに座った。机には血だけでなく、明らかに肉片とおぼしき赤黒い塊が載っていた。それを指先で弾きながらH09は訊ねる。
「この家に運んだ重傷者はどうしたんだ?」
「ある程度治癒できた人は帰したよ。絶対安静で動かせない人は奥の部屋で女たちに診てもらってる」竈や調理具が並ぶ台所であろう場所に立ち朝食の準備を始めたサイは、やや沈んだ声音でつけ加える。「……駄目だった人は納屋に運んだ」
そうか、とH09は静かに頷いたのちに、隣に立つアーシャに目配せをして、「治癒か……」とサイには聞こえない音量で意味深に繰り返した。
治療ではなく、治癒。それは病気や怪我が癒えたことを指す。進んだ医療技術を持つ彼でさえ手に余った重傷者を、この短期間で自宅安静にまで回復させるのは、ただの治療では不可能だ。
『治癒魔術ってやつかしら。興味深いわね』
ほどなくして、簡単な調理を終えたサイが料理を運び始めた。平べったい固パンに炙った乾し肉、木鉢のなかで冷水に泳ぐ山羊乳のバターにチーズ、新鮮な果実と野草のサラダ、作り置きであるトマトと豆のスープ。
机上を彩っていく料理の数々に目を白黒させるように丸い眼鏡の中心をきゅいんきゅいんと散大させていたH09は、最後に葡萄酒のボトルがごとりと置かれた時、たまらずうめいた。
「悪いが。腹は減っていないんだ。こんなご馳走を用意してもらう必要はない」
「ご馳走だって?」椅子を引いてH09の対面に座したサイは拗ねたように唇を歪める。「あんたねえ……。お世辞にしてももっと上手にいいなよ」
事実、サイが並べた朝食は、来客用に量こそ多いものの、手のこんだものはなにもない。お世辞にも豪勢とはいえない質素なものばかりなのだった。そしてH09は空世辞をいったつもりは無論ない。彼は、この地域の食事情はおろか、まともな世の食事というものをまったく知らないのだった。
サイは机に頬杖をつき、葡萄酒をちびりちびりと含みながら、機械を纏う男の面装をじいっと見つめた。
「どうかしたか?」
「べつにぃ。冷めないうちにどうぞ」
冷めないうちもなにも、作り置きの料理に湯気をあげるようなものは見当たらなかったが、サイはにやにやするばかりで興味津々といった無遠慮な視線を改める様子はない。
H09は嘆息を一つ、兜の留め具を解き、机の片隅に置いてから、面頬を外しにかかる。首の後ろにある小さなコックをまわすと、気密が失われプシュという音が僅かに鳴り、顔面とのギャップが広がる。後頭部の結束具を幾つも外しようやくフリーの状態になった面頬を前方から、まるで脱皮するかのように外した。
露わになった面相。それを見たサイは不躾だった表情にはにかみを滲ませ、それを誤魔化すように鼻をこすって粗野に笑った。
「ずいぶん若いんだね。しかも色男だ」
H09は顔つきから判断するに二十代前半。整った造形をしているが、男前と評するのが躊躇われる中性的な顔立ちだった。サイの言うとおり、色男や優男といった評価が妥当であろう。
もっとも、顔立ちの好みは万人に共通するものではなく、仮にその事実に目を瞑ったとしても、彼の面構えは誰もが好感を抱くものだと断ずることはできそうにない。というのも、肌は白いというよりも陽の光を一度も浴びたことがないというほどに青白く、頬は一切の脂肪を廃したように痩け、目の下にはサイのような寝不足からくるものではない、慢性的な隈があった。眼窩をなぞって墨を塗ったのではないかと疑わせるほど黒々としており、強い意志を思わせる奥二重を縁取り、際立たせている。
健康的な印象とは、あまりに懸け離れているのだが、それでいて脆弱な風体は微塵も漂わせていない。それが常態なのであろうやや厳めしい無表情には、生気はないが覇気があり、いまだ下顎から首元までを覆っているぶ厚い内装甲衣と相まってか、天工の彫り上げた武神の大理石像を彷彿とさせるどこか近寄りがたい迫力を発している。散切りの短髪は黒く、静謐を宿す瞳の色もまた、深く、暗く、黒い。
「ま、安心したよ。いちおう飯が食えるちゃんとした人間みたいだ。蠅か何かの化け物で、その面頬のまるっこい口でぺたぺたやり始めたらどうしようかと思ってたんだ」
「は、蠅か……」
ややショックを受けてマスクに視線を落とすH09。気難しそうな面構えと厳めしい体躯には不釣り合いなその態度に、サイは闊達に笑いながら、冗談だよ、と顔の前で手を振った。
「じゃ、いただきます」
「……いただきます」
慣れない棒読みではあったがH09は律儀に復唱し、遠慮がちに料理に手を伸ばした。
素顔になっても彼はその感情をほとんど表情にはださなかったが、スープをすくった木製の匙を咥えた途端の硬直に、その感想が如実に表れていた。
『毒素を検出!』
たちの悪いアーシャの冗談。H09は文句もスープもぐっと呑みこんだ。
味もお世辞にも美味とはいえなかった。いってしまえば、不味いのだ。スープは異様に辛く、かと思えば他のものは極端に味が薄い。まるで足りない塩分をすべてスープで補おうとしているかのようだった。もっとも、それがこの地域の味的感覚なのか、単にサイの料理に問題があるのか、やはり彼には判断できなかった。
「それで、あんたは何者なんだい?」
満を持してというほど気負った風ではなかったけれど、改めるように、ようやく落ち着いて話し合える場を得たというように、サイは単刀直入に訊ねた。
「そのおかしな甲冑……。王都の兵士ではありえないだろうし、傭兵でもないよな。それに何より、大型の魔物の群れをたった一人で皆殺しなんて、聞いたこともないよ」
「…………」
H09はしかし、いや、もはややはりというべきか、心なしか目を伏せて沈黙した。騙るにも情報が必要なのである。何も知らなければもっともらしい嘘も吐けず、それでいて真実を語るのも憚られるのなら、黙するより他にない。
「だんまりかい」サイも明朗な答えを期待していたわけではないのだろう、気を害した風もなく肩を竦めた。「ま、名前ぐらいは聞かせてくれよ、見慣れぬ人。名無しってわけじゃないんだろ」
「……H09」
躊躇いがちにはっされた呟くような声。サイは不思議そうに眉を寄せた。彼女には奇妙な呪文のように聞こえたその言葉は、その実、翻訳のしようがないものであり、アーシャは困ったようにこめかみを掻いていた。
「なんだって? もう一回いってくれよ。てか声が小さいよ」
「ヘカトンケイル……」自信がなさそうに口ごもり、H09はすぐにいい直す。「いや、ケイル。ケイルだ」
サイはH09に向けて名前がないわけではないだろうと冗談めかして問うたが、それは正鵠を射ていた。彼には名前というものがない。H09とは個体を識別する記号でしかないのだ。
「ケイルか。珍しい名前だね」
この時咄嗟に思いつき、口にした、ケイルという名が、初めて彼を個人として指す名として周囲にも、そして彼自身にも刻まれる。
『ケイルって……。ちょっと安直じゃない?』
幻影の少女の嘲弄には取り合わず、H09改めケイルは、パンの切れ端を置くと、サイを見つめて、ところで、と切りだした。
「知っている範囲でいいから、この世界のことをすべて教えてくれ」
出し抜けにでたその文言。ところで、から続く台詞に相応しいとは到底いえない。安直というのなら、それこそ安直はなはだしい情報収集の試みに、乾し肉に齧りつこうとしていたサイは硬直した。瞬きも忘れ、開いた口はふさがらない。
ケイルは視線から逃れようとわずかに目を伏せた。しかしそれだけ。気の利いた言い逃れもなく、ばつが悪そうに眉を掻くばかり。負傷者への処置で見せた覚束なさといい、彼の一連の言動は他者との交流の不慣れを物語る。
しかしながら、サイの当惑は束の間だった。ふむ、と薄く瞑目すると、冗談だと笑うことはおろか、頭を疑うでも怪しむでもなく、至極素直に語り聞かせ始めたのだ。
ケイルらにとっては是非もない展開であった。ただ、彼女の異形の男に対する態度は、殊勝という言葉で片付けるには少々できすぎたものでもあった。その幼子に歴史を説く教師のような語り口と同様に。
――陸路には馬車が走り、海路には帆船が往く。人々には未踏と未知とそれを探求する冒険とがまだ存分に残された世界。そんな世で、もっとも人間による開拓が、つまり文明的な発展を遂げている大陸が、このラナ大陸である。
目まぐるしい伸展のなかで帝国、王国、共和国、大小様々な国が興き、異形の男が今現在座標をおくこの国は国王ディソウの下で統治されたライガナ王国と云う。
人の歴史と社会というものは然るべき血と屍を糧に形成されていく。資源はけっして無尽蔵ではないのだ。要はそれをどれだけ少ない労力で腹に収められるかということ。そんな残酷な条理のなかで、ライガナ王国は抜きんでてしたたかだった。今やこのラナ大陸において、一番の国土と人口、そして兵力を有しており、その支配の拡大は留まるところを知らなかった。
しかし、二十年前、世界情勢が一変した。
魔物。概してそう呼称される兇暴な害獣の到来である。
魔物はどこからともなく、ラナ大陸全域、そして他の大陸にも突如としてその姿が認められるようになり、その貪婪は田畑だけには留まらず、人畜問わず虐殺の猛威をふるい始めた。糧の争奪戦に、遠慮も呵責も思慮もない、そもそも利潤という観念が通用しない、ただただ己とかたはらの腹を物理的に満たすことだけに腐心する原始的な外来生物の勢力が加わったのである。
それは戦争という言葉が指す意味の変貌であり、同時に文明の途絶でもあった。時に国々は過去の確執を捨て連携し、魔物の掃討作戦にあたった。しかし、殺せど焼けど次から次へと現れる魔物の勢力に果ては見えなかった。予期せず積みあがっていく屍に文明は発展は食指を動かさず、無尽蔵に襲来する魔物から仮初めの勝利をもぎとったところで、いたずらに疲弊するばかりで得られるものは何もないのである。
不毛の繰り返しに兵力も気力も減少の一途をたどり、今となってはどの国も鎖国に近しい状態となり、正体不明の危機を究明する熱意も、絶望的な状況を打開するに足る戦力も、絶えて久しい。
そんななかで際立つのは、国にとっての咽喉である主要都市の護りの増強という名目でおこなわれる、権威者による権威者のための臆面もない保身であり、結果、男手と竹槍、そういった自衛というにはあまりに心許ないすべしか持たぬ農村や町がひとたび大型の魔物の襲撃に遭えば、あとに残るのは酸鼻漂う廃墟のみ。
ただの片田舎の村娘とは思えない丁寧な説明を終えて、サイは申し訳ていどに減ったケイルの木盃に葡萄酒を注ぎ足した。
「この村、ポルミ村っていうんだけどさ。あんたが来てくれなかったら、ここもそうなってた。繰り返すけど、ありがとうよ」
「護りの堅いという都市に移り住むわけにはいかないのか?」
「あー無理無理。この村は王都に一番近いんだけど、都はもう定員いっぱいの状態なのさ。聞いた話じゃ、方々から避難してきた人たちが王都を囲む城壁の門前に野宿を強いられてる状態らしいよ。もし大規模な魔物の進攻があったら、真っ先に喰われちまう」
言って、サイは眉間に深くしわを刻み、唾棄するように続けた。
「むしろ時間稼ぎか、魔物の腹を満たして帰ってもらうための生贄か、そのために城壁の前に締めだしてるのかもね」
我が身を切られたようなサイの表情から、彼女がその可能性は濃厚であると考えていることが窺い知れる。この国の国王ないし支配階級にある者たちは、そのような非人道的ことを本気で考え、実行に移したとしても不思議ではないような冷血漢なのだろう。彼女の感情だけで断ずるのは時期尚早だろうが、少なくとも民から慕われる国政でないことだけは確かだった。
「そのくせ、税の徴収部隊だけは律儀にやってくるんだ。不定期になったとはいえ、これ見よがしの完全武装でさ。連中が警戒してるのは魔物の襲撃以上に農民の反乱に違いないよ。まったく呆れるね」
溜飲を下げようと葡萄酒をあおるサイ。
彼女の表情が落ち着くのを待ってから、ケイルは問うた。
「あんたはこの村の魔術士らしいが、魔術についても詳しく教えてくれるか」
「それも知らないのかい? 男たちはあんたのことを魔道士様だって騒いでたんだけどね。ま、いいさ」
そうしてサイが語った魔術の説明は、ケイルにとって、そしてアーシャにとって、かなり難解なものだった。サイは流暢に喋っているのに、ケイルの耳朶を打つ翻訳が時折止まってしまうのは、この世界の魔術界における独特な専門用語や言い回しにアーシャは戸惑い、それなりの言葉に置換しているからだった。
いくら言葉を重ねても到底理解できないであろう抽象的な概念を省き、魔術について要点だけを簡単にまとめると、魔術は誰でも使えるわけではない。魔術士の系譜による遺伝か、生まれついての才能が必要になる。
魔術には二種類あり、基本的なものを魔術、高尚で強力なものを魔道。それを遣う者も前者を魔術士、後者を魔道士と呼ぶ。もっとも、両者を差別化するに明確な規定があるわけではなく、魔道士とはいわば伝説的な名誉称号に近いものである。くだんの名称で謳われる個人は絶えて久しく、魔術に携わる者はほぼ例外なく一括りに魔術士と称される。
魔術の発現には、術者の体内に蓄積される精神動力と、それを通じ易い媒体が必要になる。媒体は指輪や杖といった物質的なものから、火や風といった無形物まで、個人の性質や発現しようとしている魔術によって様々だ。サイの場合は、魔術士にとってもっとも基本的で基礎となる水を媒体とした治癒魔術に長じている。
先の治療では傷病者の自然治癒力を強化促進させた。そして今、サイは精神動力を使い切り、非常に疲弊している。数日も経てば身体の疲れと同様に回復するらしいが、その間は魔術はおろか、肉体的にも減衰を強いられる。
「――というわけで、もう限界。あたしは寝る」
おもむろに立ち上がったサイは器量のいい顔を盛大に歪めて大きなあくびをすると、部屋の隅にある寝台を指さした。乱雑とした居間の中でもそこだけは比較的小奇麗に保たれていた。
「あんたはあのベッド使いな。この家にある物はなんでも好きに使っていいから」
「いや、待ってくれ。まだ泊まると決めたわけじゃない」
「おいおい。村の恩人を朝飯だけで追いだしたなんていったら、孫の代までの恥だよ。しばらくゆっくりしていっておくれよ」目尻にういた涙を指の背で拭いながら、サイは面目なさそうな苦笑いをうかべた。「それに世話になりっぱなしで申し訳ないんだけどさ。実はあんたに頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと? なんだ?」
「起きたらあらためてお願いするさ。あんたも疲れてるだろ。今はおやすみよ」
サイは一方的に背を向け、寝室であろう扉に手をかけた。だが、そこで彼女はふと立ち止まった。気だるげに、そしてどこか愉快げに溜息を吐き、右向け右に方向転換、べつの部屋の扉を引き開けた。
すると、複数の甲高い悲鳴と共に、扉にぴったりと張りついて聞き耳を立てていた娘たちが居間に雪崩れこんできた。白い前掛けに頭巾という装いの彼女らは、奥の部屋で傷病者を診ていた村の娘たちだった。娘というよりも少女といったほうが適切であろう年齢の乙女も多く、彼女たちはケイルの異国の美青年たるミステリアスな風貌を直視した途端に頬を染め、かしましく騒ぎ始めた。
「このリトルビッチどもが! あんたらももういいから家に帰って休みな! 布団のなかでケイルをおかずに変な妄想するんじゃないよ!」
葡萄酒の酔いがまわったわけでもないだろうに、サイは下品極まりないことを口走り少女らを追い帰すが、その時に開けはなたれた玄関の扉の向こうでも、大勢の村人たちの盗み見るような好奇の表情が壁をつくっていた。
彼らはケイルの姿を認めると、口々にサイに向かって誹りを浴びせる。
「おい、サイ! あんたこそ変なことする気じゃないだろうな!」
「ずるいわよ、この魔女! ビッチウィッチ!」
「なんでこんな汚いところに泊めるんだ! おいあんた、うちに来なよ。恩人に我が家の葡萄酒を振る舞わせてくれ」
そんな野次のような言葉の数々にサイは後ろ髪をがりがりと掻きながら、玄関の扉を思いきり閉てきった。
「悪いね」ケイルに向き直ると、ばつが悪そうに苦笑する。「辺鄙な村でさ、魔物が現れてからは客人もめったに来ないんだ。その客人が恩人だってんだから尚更さ。わかってやってちょうだい」
「あんなことがあった直後なのに、随分と逞しいんだな」
「まあね、魔物の襲撃は初めてじゃないから。大犬や怪鳥程度の弱い魔物だったら男たちだけで辛うじて撃退できてたんだ。勿論、死傷者なしってわけにはいかないから、みんなどこかで慣れちまったんだろうね。ま、あそこに集まってたのは身内を亡くさなかった連中だけみたいだし……」
寂しげな語尾に諦念をにじませたサイは、後ろ手を挙げて、おやすみ、と寝室に這入った。
ほどなくして、おもての村人の気配が消えてから、ケイルは兜と面頬を手に寝台に移動し、木枠の強度を確かめながらそろりと腰を下ろした。
その隣にちょこんと座したアーシャは嫌らしい笑みをうかべる。
『もてもてねえ。なに、鉄板ハーレム路線でいく気なの?』
「なんの話だ……」
鬱陶しそうに言い伏せると、ケイルは膝の上に両肘をつき、四指を組んだ両の手を口許へ近づけた。毛色は薄いが気難しそうに傾斜した眉がさらに中央に寄り、眉間には思案の皺が刻まれる。
「それより聞いたか?」
『聞いたも何も、私が翻訳してあげてるんだっつーの』
「二十年前か……」
『そう。二十年前、突如として現れた怪物。圧倒的に不利な人類。消極的な防衛戦……』
ケイルと同様、軽く俯いて床を見つめながら、神妙な面持ちでアーシャはつけ足した。そしてそれは先になされた密談の繰り返しでもあった。
『……まるで、私たちの世界と同じね』
小脇に置いた頭部ユニットを取りあげたケイルは、小さく鼻息を吐いてから外した時とは逆の手順で手早く装着した。後頭部の留め具のかかりを確認し終えた右手は、そのまま下にさがり、ゆっくりと首筋を撫で始める。
一見無駄な、癖のような動き。何かの感触を確かめるような奇妙な仕草だった。
『まあ、地上で生活できるだけ、こっちのほうがまだマシよね』
アーシャの言葉に、ケイルは未練を払うように右手を下ろし、もう一度鼻から息を吐く。もっとも、マスクを被ってしまえばそれが鼻息なのか吐息なのか、外部からは到底判別できはしない。先ほど玄関先に並んでいた気勢のいい村人たちの姿を思い返すように扉に向けられた、その甲虫のようなマスクのうちの顔色と同様に。
そうして、ぼそりと相槌を返す。
「……違いない」
地理と魔術と世界情勢、おおまかではあるがこの世界の情報を聞き及んだ彼ら。この世界の人間の安息の地は、あわれになるほど少ないという凄惨な現実を突きつけられても、彼らの思考はそれを取り立てて凄惨だとも、ましてやあわれなどという方向にはまかり間違っても指向しなかった。
彼らの故郷には、安息の地など存在しないのだから。
少ないどころではなく、誇張なく、皆無なのだ。