56 光
王都を囲む城壁の東西南北に位置する四つの通行大門は高々と開けはなたれていた。
無論、かつて国中の物流を引き受けていた時のような開放的な光景とは、懸け離れていた。その開門は城壁警備にあたっていた兵らの良識に従った独断によるものであり、内側からの魔物の侵攻という前代未聞の危機に際した苦肉の策なのである。
四つの大門のうち、天から俯瞰してもっとも人の動きが活発なのは、紅く色づきはじめた樹林地帯に面する南の大門であった。ここはかつて異形の戦士が訪れ、その噂を王都中に知らしめることになった魔物の大攻勢があった現場でもある。
「こっちだ! 荷物は持つな! 急げ!」
果敢に声を張りあげて、可能なかぎり都内へと踏みいって生存者を誘導する兵たちであったが、その尽力むなしく、門扉をくぐる都民の数はまばらであり、足並みは間遠だった。
自力で脱するもの、ジュディらによって下水道に導かれたもの、彼らの脱出方法は様々だが、そこには身分の低さという皮肉な共通点があった。収穫祭宣告の儀を臨んでほぼすべての都民が中央広場に集った際、蚊帳の外へと追いやられた庶民としての立場が、彼らに逃げ延びるだけの猶予を与えたのだ。
きわめつけに皮肉なのは、都民にまじって見受けられる多くの難民の姿だろう。
「あの、何があったのですか? 都で何が起きたのですかっ……?」
彼らは自分たち以上に憔悴しきった都民や兵に縋りついて事情を聞き及び、呆然自失と立ち尽くした。いつか城門を潜れるその日を待ち焦がれ、締めだしの憂き目に遭っていた難民。彼らにとっての天国であった城壁の内側は一瞬にして地獄へと様変わりしたのだ。
誰も姿を見せないそら寒い静寂がしばらく続き、いよいよそこにたどり着く生存者は途絶えたかに見えた。諦めて離れようとした兵たちであったが、ほどなくして二十人あまりの生き残りが負傷の身体を互いに庇いあうようにして現れた。
一団の背を護るようにしんがりについていた手負いの老兵とそれに肩を貸す妻に、兵らは慌てて駆け寄った。
「ハイントン大隊長! 奥方も。よくぞご無事で」
彼は貴族がほとんどを占める軍属上位階級者のなかでも、出身の貴賤は問わず兵であれば誰にでも厳しく、分け隔てなく接する人格者として知られたアクエのあざなを持つハイントン大隊長であった。
「そんな状態でこれだけのものを引き連れてきたのですか……。あなたは真の武人だ」
畏敬の念をもってハイントン夫人から肩を引き受けようとする兵ら。それを制し、他の負傷者に手を貸すように促した彼は、首を振って賞賛を辞した。喋るのも辛い重傷でありながら、いつ果てるとも知れない身であるからこそ、真の功労者について語り聞かせる。
「私ではない。ジュディ、ホーバスと名乗る異邦の軍人。美麗な亜人たち。それに鷹の眼団のカイン分隊。彼らの働きがあったからこそ、私たちは生き延びたのだ」
ミリアによって下水道に魑魅魍魎をはなたれた際、彼らは地上ではなく、地下道の突破に活路を見いだした。無論、生易しい選択ではない。魔物がいなくとも脱出を諦めていたほど負傷者ばかりであった彼らにとって、その強行は苛酷を極めた。
ハイントン大隊長は手柄を求めなかったが、彼の奮闘があったからこそ死に物狂いの強行突破が成功したことは、多様な魔物の返り血で手に貼りついたかのようにいまだ固く握られたままのだんびらが物語っていた。
渋面を俯かせた彼は、昏い声で、それでもあえてきっぱりと告げた。
「この門をくぐる生存者は、きっと私たちで最後だ」
「そんな……。他の方角から同じぐらい脱しているとしても、きっと五百は超えません……」
「この国は滅んだも同然だ……」
兵たちは重くのしかかる絶望にこうべをたれ、まだ身寄りが現れるかもしれないと門扉周囲にたむろしていた都民たちは望みを打ち砕かれて嗚咽をもらした。
ハイントン大隊長は今にも泣きだしそうな表情で王城を仰ぐ妻の横顔を見つめ、その肩を叩いた。古強者の覇気を取り戻した精悍な面持ちは、さきほどの功労者の列挙に、身内への謙遜を抜きにしても、あえてライアスの名を挙げなかった理由を言外に告げていた。悲歎に暮れている場合ではないのだ。死地に残った一人息子のためにも。
兵に大門を閉鎖するよう命じて、皆の縋るような眼差しに力強い首肯を返す。
「国が滅んでも人は死なぬ。そして一人でも民がいるかぎり、我らは民を護る兵なのだ。忘れるな。行くぞ」
避難民は一団となってデリトを離れ始めた。
しかし、やはりその足取りは振るわない。つい今しがた親しいものを失った悲愴が枷になっているのは無論のこと、唯一の安息の地であった都を奪われ、誰もが等しく放浪の身となった今、一体どこに向かえばいいのか。ひとまずは最寄りのポルミ村へ向かう手筈になっていたが、そのあとは。彼らを急かす兵でさえ、その答えを知りはしないのだ。
「ああ! カインさま。やはりあなたを残してはいけないわ!」
恋人の名を叫んで王都に戻ろうとする女を兵らが引きとめ、その騒動が呼び水となって子供たちは膝を抱えて大声で泣きだし、難民の老人は長きに渡る閉めだしで溜りに溜った鬱憤を呪詛にして喚き散らす。
低きに流れて唯一の希望であったレイアを追放した過去、そしてその結果がもたらした現在。すべてがあまりに悲劇的だった。人の世に深くわだかまる罪の審判者であるミリア。彼女が人に求刑した神罰。わずかばかりになっても生き残りはその果てない悲観と絶望に苛まれた。
しかし、すべてがミリアの思うとおりではなかった。謂れのない糾弾を浴び、辺境に放逐されても、闇に染まる人々の心にわずかな光を求めて、自身の光も消すことなくあがき続けたレイア。彼女が呼びこんだ仔らは誰よりも深い闇の底にありながら、けっして光を消すことはない。
碧空が裂けるような甲高い轟音。それにびりびりと背を打たれ、幾人かが滅びゆく故郷を一顧した。鼓膜にこびりついた魔獣が墜落する濁った落下音ではない。耳慣れないそれは、強いて形容するのなら地ではなく、天からのものであるように思われた。
じつのところ、ハイントン大隊長をはじめ、多くの兵が不思議がっていた。なぜあの恐ろしい魔獣は追ってこないのか。民間人を気づかって口にはださなかったが、彼らの遅々とした歩進ではとうに餌食になっていておかしくないのである。
その理由と奇妙な音響を結びつけるのはそう難しいことではなく、兵たちはまさかという思いに顔を見あわせながらも、一つしか考えられない結論を口々に囁いて確かめあった。
「あの地獄で、まだ誰かが戦っているんだ……」
それは無限の闇が拡がるばかりに思われた未来に射した一条の光明だった。数秒の静寂で不安のなかに沈んでしまうほど頼りないながらも、闇が深いからこそ、その光は一際輝いていた。
青天の霹靂というに相応しい目がさめるような破裂音が木々を震わせるたびに、一人、また一人と逃避の足を止め、いつしか誰もが樹冠の隙間をすかし見て王都を遠望していた。
やがて誰からでもなく両手を組み合わせる。魔獣の追撃がなくとも他の魔物にいつ襲われるとも知れない鬱蒼とした森林にて、彼らは無防備なまま瞑目し、いまだ戦い続ける何者かに祈りを捧げた。
祈ることしかできない無力さを自覚しながらも、誠心誠意、心をこめて。
新鮮な血の匂いを追い求めて、中央広場から放射状に街路を走駆する滅びの魔獣。通行大門を臨み、いよいよ王都の外へとその被害を拡げんとした寸前、群れは一様に立ち止まり、背後を振り返った。
奪える命は余さずたいらげてきたはずの後方から、生命の証左である抵抗の騒乱。きょときょとと老獪を思わせる眼球を動かしてそれを認めると、身体を反転させ、我先に広場へ取って返す。
西の大通りから広場に躍りでたアバドンは、一つの異形を認めた。
広大な屍の原に佇立し、全方位からの憎悪を一身で受けとめる鈍色の巨人は、まるで舞うかのように両手の得物を自在に振り回し、その延長線上に死を築いていく。
魔獣の粗暴な脳であっても、その異形の大立ち回りは自身との因縁を感じさせるものがあった。類似した存在であり天敵。絶えず頭蓋のなかを掻きまわす憎悪の理解者にして唯一の救済者。
――ワハハハハハハ。
加虐欲の発露であるおぞましき咆哮は求めてやまない救済の裏返し。彼らは四足獣となって突進し、言葉も知性もなき身で声高に訴える。我はここにあり。お前を殺すためにここにあり。だからどうか殺してくれ。終わらせてくれ。
その悲願が届いたかのように、ケイルはぐるりと頭をめぐらせ、新たな脅威に射線を振り向けた。赤黒い眼球と真紅の眼鏡とが銃口を隔てて重なる。その瞬間、一点の曇りもない清々しいまでの殺意を介し、人造の怪物の意思は通じあう。
――じゃあな、兄弟。
西から迫ったアバドンの一群は先頭のものから精緻な金属片の死神を送られ、がくりと膝を折って後続の砂埃のなかへ没しさる。
死神の名は五・七ミリニードルソフトポイント弾。鋭い円錐形の先端部によって厚い表皮と骨格を突貫し、きついアール部によって急制動。軟弾頭素材である後部が制動した硬質な先端部と推進力の板挟みにより破砕することで、損傷を浸透させる代物だ。
六頭はそれぞれの頭部に十発ずつ、きっちり一弾倉ぶんの餞別を注がれ転がり伏した。徹底した死によってのみ得られる救済。彼らはその身を衝き動かす邪悪からようやく解放されたのだ。
『九時方向から三頭! 上よ! 優先目標!』
アーシャの端的な指示から脅威の逼迫を察したケイルは休む間もなく身体を転じ、中空を見やった。その眼光にさっと石畳に射しこんだ敵影がかぶさる。
アバドンは巨体に似合わず恐ろしく身軽であり、必ずしも街路から現れるとは限らない。屋根づたいに移動したその三頭は広場に面した端で大きく跳躍し、一挙に距離を詰めようとしたのだ。
弾倉を交換する猶予はなく、PDWをホルスターに収める手間でさえ惜しんだケイルは、それをお手玉の要領で頭上にほうった。その滞空中に自由になった手で電離焼夷手榴弾をもぎとり、放擲する。
いかにも乱雑な投げかたであったが、手榴弾は寸分違わずアバドンの着地点に落ち、起きあがり小法師のように頂点部を上にして立った。
電子音の間隔が狭まっていき、臨界に達する直前、底部に組みこまれたスプリングの作用により、ちょうどアバドンの一団がその地点に足を着けようという時、彼らと交差するように跳ね上がった。
弾体は最大の効果を望める地上から一メートルの高さにて、ピ、と最後に一つだけ鳴った。直後、いかづちを思わせる鋭利な轟音が弾けてプラズマの紫電が花開き、辺り一面を蒼い焔がなめあげた。
素肌であればその光を浴びただけで火傷は免れないのだから、爆心地付近の熱量たるや、その灼熱の疾風は非物理的な破片となって魔獣の群れをばらばらに引き裂いた。
あとに残るのはガラスのように溶け固まったすり鉢状の爆発痕と、切断面を根こそぎ焼かれて一滴の出血もない奇妙な細切れの肉片、そして濃密なオゾン臭。
それは王都中の空気に含まれたねっとりとした死の臭いさえもを焼き払う浄化の炎であり、爆薬ベースの爆発物では生みだせない甲高い破裂音こそが、アバドンをおびき寄せ、遠く避難民にも届く雷鳴のような轟音の正体である。
『まったく。派手ねえ。自慢の色白肌がこんがり焼けちゃうじゃない』
「ど派手にといったのはお前だろう」
『私の肌が小麦色になったら、いよいよクーデレ少女とキャラかぶっちゃうし!』
「いってろ」
短機関銃の掣射と電離手榴弾の砲撃を駆使して戦うケイル。まるで人型の戦車のごとき獅子奮迅の激闘には、いまだ生き残りと仲間たちが身を寄せる王城への侵入を阻むだけでなく、魔獣を引き寄せる囮としての役割もあった。
アーシャはにやけ顔をあらためて、ケイルの視界からかき消える。
『二時方向の街路からもお客さん。多いわよ! 十四頭!』
そう、囮。騒音はなはだしい電離手榴弾はもともとシェルターからアバドンを遠ざけるための防御誘導用兵器であり、本来は罠として使われる。対アバドン戦の定石はいかに接近を許さないかにかかっているのだ。その点、自ら阿鼻叫喚の死地へと飛びこみ、定点に踏みとどまり防衛に徹するケイルは主力とはいえない。
「グレイス」
彼は戦場を走査し、天を駆る戦女神に呼びかけた。北東の街路から溢れんばかりになって押し寄せる鯨波を目線で示す。以前は業火のようであった赤い眼鏡には、静かな智の光が宿っている。
「見えている。少し待っていろ」
家屋の屋根すれすれを舞っていたクマバチがぐるりと巨体を翻した。
両翼のエンジンと随所の補助噴射を器用に微調整して降下すると、街路に機体側面を向ける。サイドドアからはクレイモアの異様な砲身が剣呑に突きでていた。
しかし、グレイスは操縦席にあり、ケイルは地上。ならば果然、銃座は無人であったが、グレイスの脳波操作によって、その砲口は独自の自我を有してるかのように通りを犇めく魔獣めがけて自動で振られた。
銃架部に装着されたセンサーユニットをサイバネティックモジュールと同期させることによって、ドアガンは動体探知のセントリーガンに変貌していたのだ。
一定の大きさを有した動体を例外なく標的として捉える冷酷な射手がはなつ微細な鉄片の高速放射は、プラズマ手榴弾とはまるで趣きの異なる解体の様相をつくりだす。たちどころに千切れた四肢が渦巻く白煙にまかれ、血の尾をひきながら枯れ枝のように舞い散った。
新たな標的を求めて操縦桿を起こしながらグレイスは不満をこぼした。
「発射のタイミングが少し遅いな」
「レーダー波のモーションセンサーだからね。手動に較べたら捕捉の遅延は仕方がないさ」副操縦席のルークは相方を諌めて、地上に視線を転じ口角をほころばせる。「……しかし彼はすごいね。もう共闘に順応しているよ」
彼らの戦法はいたってシンプルだ。ケイルの背後の王城を六時とした即席の方位指針をもとに、おおまかな群れはクマバチを繰るグレイスが遊撃し、ケイルはアバドンをおびき寄せると同時にグレイスの撃ち漏らしを処理する。
「グレイス。十二時だ」矢継ぎ早に飛ぶケイルからの指示。
『とろとろしてんじゃないわよ! このトロトロス!』人知れず飛びだすアーシャの罵倒。
「わかってる! そう急かすな」グレイスは怒鳴り返し、
「いやはや。本当に彼はすごいね」ルークはくつくつと苦笑した。
この防衛戦のスタイルはグレイスの提案である。何においても白兵を避けるべきアバドンをあえて誘いだして迎え撃つなど、彼らのもとの世界ではありえない戦法であり、自律兵器として単独での運用を旨とされたケイルには想像も及ばなかったはずなのに、もう指揮の主導権はグレイスからケイルへと移っていた。
限界を超えた反応速度と集中力。常軌を逸した精神力。そこに容認されない戦闘を経て体得した応用力に、軍人としての指揮能力が加わったヘカトンケイル。かつて危惧したその戦闘適応力に、タルタロスの二人は今、ただただ舌を巻く。
電離手榴弾の炸裂が五を、クレイモアによる機銃掃射が十を数えたころ、広場にあったアバドンの大群はあらかた処理され、戦況は時折街路から現れる新手を迎撃する比較的安定したものになった。
やや高度を上げ、クマバチは円形広場をなぞるようにして大きく旋廻する。空から俯瞰したその光景は凄惨の一言に尽きた。石畳がさらされている面積のほうが少ないほどなのだ。ことに広場への合流点である主要な大通りは、人間とその上に折り重なった魔獣の死体により壁が築かれ、塞がっている。
「何頭やっつけたかもわからない。きっと記録的な戦果だね」
グレイスは険しく眉根をよせていたが、ルークの喜色ばんだ声に眼光を緩めた。急降下せずにすむ巡航を二巡し、広場中央で停止飛翔してケイルと向かいあう。
「どうやら生き残れそうだぞ」
「驚いた。こんなにうまくいくとはな」
高火力の防御用兵器を惜しげもなく駆使した戦法。ヘカトンケイルとタルタロスによる協同戦線。すべてがもとの世界では想定だにされなかったものだった。二人が手を取りあって臨むなら、それは足算ではなく、乗算となる。彼らの奮闘は絶望的かと思われた戦局を覆しつつあったのだ。
ケイルは王城を見上げた。グレイスもそれに倣う。彼らの視野は動体を捉えて拡大される。先ほどミリアに牽制射撃を見舞った採光窓のうちには、とある一室へと踏みこむ仲間たちの姿があった。
ちょうどサイたちがミレイユ前王妃の居室へと到達したところだった。
『遅い! まったく、のん気なもんね』
「そういうな。おそらく負傷者を手当てしてたんだろう」
腹部を血塗れにしたライアスの姿を思い起こしたケイルは厳しい相棒をなだめ、クマバチに目配せをした。
「グレイス。ここを任せてもいいか?」
「ああ、もう私一人で大丈夫だ。大至急、応援に向かってくれ」
コックピットからの挙手に首肯を返し、軽やかに鉄柵を飛び越えたケイルは王城の扉を目指して庭園を横断し始めた。
すでに無数の命が奪われた現状、最良という言葉をもちいるのは不適当かもしれないが、それでもこのまま何事もなければ、考えうるなかでもっとも望ましいかたちに事態は収束しただろう。
しかし、事はそう簡単には運ばない。状況的にやむない判断だったとはいえ、ケイルたちが決着から遠ざかったことによる不都合は、やはり発生した。そしてそれは途方もなく大きな代償となった。
高価なタイルを踏み割ろうとも一切頓着せずに園路を疾走したケイルが、かつてリルドの案内で通った大扉の取手に手を伸ばした時、それは起こった。
異邦人は、ことに機械化兵装は魔術に疎い。才覚がなければ、その匂いを感じることもできない。なので兆候も契機もなく、それの結果として巻き起こる現象だけを突きつけられる。
それとはつまり、ミリアの錯乱と、それにともなう魔道の暴走である。
落下音が一つ。ケイルは背後を振り返った。庭園の一角、噴きあがる砂塵のなかに、一頭のアバドンがうずくまっていた。陽が翳る。宙を仰いだケイルは、面頬のなかで目を剥いた。
「まずい」
『そんな……』
中空にわく無数の黒点。まるで白昼の星空。しかし銀光はありえない。その一つ一つが憎悪に煮え滾る赤黒い凶星である。直後、この世界に存在を定めて物理法則に適応した魔獣は、隕石となって降り注ぐ。
「なんだと!? 馬鹿な!」
空にあったグレイスは突如として目の前に現れた悪夢にたまらず叫んだ。もとの世界がそうであったように、彼らにとってアバドンとは降ってわくものである。それにしたところでその数と範囲の広さは、目を疑いたくなるものだった。
落下の軌道を縫うように果敢に巨体を滑らせるクマバチだったが、降り頻る雹をすべて躱すことが不可能であるように、あえなく眼前に出現した一頭と真正面から衝突した。ガラスが粉々に砕け散り、フレームがひしゃげる。
四肢で機首に取りついたアバドンは唾液をまき散らしながらなかのグレイスに吼えたて、右の後腕を振るった。きらめくガラス片のなかを目にも留まらぬ速度で延伸する槍のように鋭い手刀。グレイスは咄嗟に身をよじるも、操縦席は狭い。四指をそろえた切先は彼女の胸部装甲の間隙を深く抉り、鉄製の機内の内壁をも貫いた。
しかし、その過剰な膂力が魔獣にとってのあだとなる。長々と延びきった後腕が追撃のために引き抜かれるのを、グレイスは左腕でがっしりと掴まえて阻んだのだ。もはや機体制御は望むべくもない。隻眼の眼光鋭く肉薄した仇敵を睨めつけ、操縦桿からはなした右手で脚の間に置いていた得物を引っぱりだした。
まさしく無骨という言葉が相応しい銃器。銃身から機関部にかけて極端に肥大化したアンバランスなフォルムと、銃床のなかで剥きだしのタンクやチューブは、それが機械化兵装用の試作兵器であることを示し、銃把前部から銃身端部までを占める異様なほど大きな箱型弾倉はそのうちに秘めた威力を誇示していた。
「気安く相乗りするなよ。降りろ怪物」
重く、濁った圧搾空気の噴射音。アバドンは残った左の後腕を振りおろしていたが、時を巻き戻したかのように振りかぶった姿へと弾き返される。その手首には巨大な杭が突きたっていた。
X−Pilum。開発コードはジャベリン。しかし、杭打ち機という俗称のほうがその試作銃器の特性をよくいい表している。直径十八ミリ、全長二百ミリという、実にレイピアABRの三倍に相当するサイズの変形型安定多目的弾を亜音速で射出する。それはもはや砲弾である。
豪速で錐揉みする機体のなか、グレイスは猛烈な遠心力に歯を食いしばりながらも立て続けに発砲した。アバドンの胸に突入した杭は体内で銛のように脹らむ。その作用はレイピアの六ミリ矢状弾と同じだが、規模が違う。その兵器の眼目とするところは十三ミリゴライアス弾と同様、至近目標へのストッピングパワーに尽きる。
体内で小規模な爆発が起こったように胸の被弾部を膨張させたアバドンは顔面のあらゆる孔から血をあふれさせ、機体からふき飛ばされる。続く二発目で喉笛を貫かれ、三発目によって家屋の壁面に磔刑となった。
「衝撃に備えて!」
グレイスはルークの声に従い、操縦桿に手を戻そうとはせず、身を硬く屈めた。あらゆる計器が墜落を予見し、すべてのアラームがその危機に喚き散らしている。瞬間、彼女が認知する周囲のすべてがひっくり返った。
尾翼で五棟の家屋の屋根を破壊したクマバチは、それでも減速せずに高度と機首の俯角だけを見る間に落とし、広場と庭園を隔てる鉄柵を数区画薙ぎ倒してようやく停止した。
胴体からの着地であったが、胴体着陸という言葉は持ちだせそうにない。根本からもがれた両の主翼ははるか彼方に飛び去り、それについたままになったエンジンの悲鳴が弱々しく遠のいていく。
「グレイス!」
ケイルから向かって右手、庭園の一隅に無惨な姿となって巨体を沈めるVTOL機を見ながら彼は叫んだ。突進してくる先の一頭を撃ち倒し、駆け寄ろうと足を踏みだすも、その行く手に一頭、また一頭と新手が降ってくる。
『行っちゃダメよ! こっちにも来てる』
「くそ。返事をしろ、グレイス! 奴らが迫ってるぞ」
黒煙と粉塵で霞むクマバチの墜落地点にも無数の魔獣の影が忍び寄っていたが、応答はなく、救助の余裕もない。土砂降りの驟雨がごとき全方位からの急襲、いや、空襲は、息吐く間もなく思いがけない事態をもたらす。
ケイルのすぐ背後、彼がつい先ほどまでいた王城正面玄関のせり出しの豪奢な雨よけはアバドン落下の直撃を受けて倒壊し、巨大な石塊となって大扉を含めた本館の壁面に大穴をあけた。直後、人々の驚倒の叫びがこだまする。
王城内に避難していた生存者たちのものである。この世の終わりのような激震に居ても立っても居られなくなった彼らはその正体を確かめようとホールに集まっていたのだ。そこに、玄関を突き破って転がりこんだアバドン。
無力な獲物を目先に得た滅びの魔獣は憎悪に貌を歪めて跳ね起きるや否や、巨大な鎌のような後腕を大きく振りかぶった。
「く――」
迷いはおろか思考すら関与できない刹那の状況判断。生存者のなかにあったライアスが、誰よりも重傷であるはずなのにすかさず彼らを庇うように魔獣との間に割ってはいろうとするのを認めた瞬間、図らずもケイルの体躯は己の死を容認する非合理的な挙動を繰っていた。
自身に十メートルと迫った二頭から顔をそむけ、視線と左手の射線を王城内のアバドンへと転じたのだ。
半身をねじり、諸手を広げての二方向への射撃。流れ弾も失中も許されない左の確実な射撃によって生存者に襲いかかる一頭を即座に沈めた。しかし、まったくの真逆の方向へ同時に精密射撃を送れるほどヘカトンケイルも器用ではない。
引き金を引きっぱなしにした右手は出鱈目な牽制射であり、やはり足りない。生身への負荷を度外視した急挙動で体幹をよじって正面に向きなおるも、やはり間に合わない。その眼鏡には冷えて固まった熔岩のごとき魔獣の巨大な握り拳がいっぱいに映っていた。
「――そ」
戦車砲の直撃。そんな比喩もまったく誇張ではない打突の炸裂。頭部をまともに打ち抜かれたケイルの巨体は浮きあがり、その場でぐおんぐおんと縦方向に回転した。音、光、すべてが歪み、あらゆる知覚が寸断する。
しかし、意識が途切れても百腕巨人としての本能はけっして消えない。天地を繰り返しながらも彼の諸手は短機関銃を手ばなさず、弾丸をばらまいた。
前腕を振り切ったアバドンの無防備な腹から胸にかけて新たに無数の弾痕が穿たれる。すでにあった銃創と含め、即死に足る致命傷であったが、ヘカトンケイルの本能はいわば呪いであり、その本家たる生体兵器にも無論のこと共通していた。
どす黒い血飛沫のなか細く長い後腕がもがくように最期の一閃を繰りだし、いまだ宙を舞っていたケイルの左腕をしたたかに打ちすえた。装甲を打つ鈍い音に瑞々しい異音が雑じる。ケイルの手はまだPDWを把持していたが、それは意識したものでなければもはや本能でもない。硬直だった。彼の左腕は肘の関節部が逆方向にねじ折れていた。
脳髄を貫く激痛。しかしそれにうめくいとまもない。肉薄したもう一頭が両の剛腕を高々と振りあげ、ようやく地に落ちたケイルの腹部を殴打した。砲弾の弾着と見紛う土くれが噴きあがり、大地は陥没する。
生身であれば真っ二つに腰斬される膂力。装甲のうちの緩衝材では吸収しきれなかった衝撃に臓物が撹拌され、潰れた肺から叩きだされた呼気は血反吐に湿っていた。
隆々たる両のかいなでケイルを地面に押さえつけたアバドンはそのままみしりみしりと体重を預け、彼の身体はなかば埋まっていく。
『ダメ……撃っ……撃つのよ……!』
アーシャの模糊な叫びによって消えかけた意識の端を捉まえたケイルはそれを懸命に手繰り寄せ、右手のPDWを持ち上げるが、引き金が空回りする死の手応えに息を呑む。いつそうなったのか判別もできないほどの幾度にも渡る衝突によって、ダガーPDWの機関部は潰れていた。
対するアバドンはケイルの首筋に狙いを定め、自由の利く後腕を振りかぶる。断頭がなされん、その間一髪のところで、電磁誘導の飛翔群が織りなす破壊の韻律が王城広場を劈いた。
それは魔獣にとって滅すべき生命の証左である。より大きな命の気配に引き寄せられる習性のある彼らは、ぴくりと巨体をゆすり、一様にその発生源へと毒炎にもえあがった相貌を振り向けた。
ケイルを押さえるアバドンも科せられた呪いに忠実だった。たまらず後腕を止め、ぎょろりと広場のほうへと目を動かす。赤黒い眼球が睨めるのは粉塵の煙幕を貫いて轟々と延伸する白い筋雲。
墜落したクマバチのクレイモアが息を吹き返し、寄せくる動体の群れを薙ぎ払い始めたのだった。そしてそれを再起動させた彼女はセンサー制御の射手に背中を預け、反対のサイドドアから機内に侵入しようとする魔獣に向けてパイルドライバの極太の杭を撃ちこんだ。
「私はッ、私はまだ戦えるぞ!」
白銀の長髪を振り乱してグレイスは怒鳴った。装甲がうちへと減りこんでひしゃげた左脚は出血おびただしく、ほどけた包帯の隙間から覗く爛れた左目と無数の擦傷にまみれた顔に、かつての美貌は見る影もない。しかし、そうであるからこそ戦女神と呼ぶに相応しい鬼気迫る形相で、彼女は吼え続ける。
「ケイル! 貴様はどうだ! もうくたばるのか!?」
通信システムに頼らずとも耳朶を震わす、いつになく勇ましい同期生の叱咤に、ケイルは歯を食いしばり、PDWをはなした右手で胸のナイフを抜きはなち、言葉にならない野太い咆哮をはっした。
アバドンの両腕の健を断ち切って上半身を跳ね起こす。逃がすまいと振り落される後腕の手刀は、使いものにならない左腕を自ら差しだすことによって逸らし、下腹部に深々とナイフを突きたてると力任せに振り抜いて喉笛まで掻っ捌く。
末魔を断たれた魔獣は長い絶叫を引きずるようにして身を仰けぞらせ、そのまま仰臥して果てた。
よろめきながら立ち上がったケイル。その姿は満身創痍といっても足りない。腹の装甲は拳のかたちに深くえぐれ、口部から血を溢れさせた面頬は歪み、眼鏡はひび割れていた。二度に渡る打擲を浴びた左腕は肘からだらりと垂れ、鮮血と乳白色の溶液によって桃色に染まっている。もはや皮一枚でさえなく、ポリマー人工筋肉の筋繊維によってぶらさがっているにすぎない。
一つひとつが致命に届きえる無数の受傷はバイオロイドであっても力尽きて不思議ではないほどだった。しかも、広い庭園に続々と降下した新手は、花壇や彫刻を粉微塵にしながら、全方位から彼に差し迫っていた。死を覚悟して固く目を瞑って然るべき窮境。
だが彼はオーシリーズ。もっとも忌まれ、もっとも恐れられた人工の魔獣の集大成。
「馬鹿をいうな。これからだ」
あくまでも物静かないつもの口調でグレイスに返し、ケイルは自身の左腕を駆動に不都合な異物として一瞬の躊躇もなく引き千切ると、電離手榴弾を自身のすぐ足許に落とした。退避を急かす電子音と焦燥を駆る跫音にじっと耳を澄ませる。
『ちょっと! なにを――』
「大丈夫だ」
そして、生餌に群がる飢狼がごとき四囲からの突進に押しつぶされる直前、手榴弾が跳びはねる寸前、両脚の人工筋肉を限界まで膨らませ、包囲の唯一の活路である背後の王城へと一気に飛びすさった。
獲物を見失ったアバドンの鼻先で、宙に残された鈍色の筒が無感傷に死のさえずりを奏でた。林立する巨躯を蒼白い雷光が抱擁し、殺傷範囲内のすべてを灼熱の放射がむさぼり尽くす。
十分とはいえない火力を最大限に活かすために、あえて接近を許し、一掃する。たった今学んだばかりの戦術を、ケイルはすでに自分のものとして応用したのだ。無論、正気の沙汰ではないと責められても文句はいえない、彼ならではのかなり乱暴な転用である。
大気を穿つ衝撃波が運ぶ焼死体の渦と一緒くたになりながらケイルの身体は二転三転と地で弾む。幸いといっていいものか、熱波に全身をあぶられたことにより、左腕の傷口は焼け爛れ、出血は止まっていた。
『左右はクリア! でも十二時にはまだ多数! ほら、しっかりして!』
隻腕となった相棒への悲観を声音に滲ませながらも、むなしい結果にしかならない損傷状況の報告を省き、アーシャは喉も裂けよと声を振り絞った。
間髪を容れずに体勢を起こしたケイルは背のレイピア突撃銃を抜きはなち、掣射を送る。ダガーPDW同様、外骨格へのリンクを備えない小銃であり、ましてや隻手での腰だめ保持、感覚での射撃となる。万全のわけもないが、そうは思わせない六ミリ軟弾頭の五点射は、喫緊の脅威から確実に血煙のなかへ葬っていく。
一方、グレイスもサイドドアの開口に立ち塞がり、寄せくるものから順番に鉄杭で貫いていった。パイルドライバの弾が切れると、墜落した際に機内のそこここに飛び散った銃器をすぐさま拾いあげ、撃ち続ける。
彼らが挟むように相手取るのは庭園に降下したアバドンだけであり、広場および市街に落ちたおびただしい大群は片時も放射を止めないクレイモアの奔流が押し留めていた。
しかし、それも辛うじてだ。縦横無尽に忙しく振るわれる砲口から蛇行して延びる白煙は弾片の密度が薄く、ひと撫でしただけでは表皮を切り裂いただけで死滅には至らない手落ちが目立ち始めた。百八十度の射角を占める突撃を捌ききれず、すべてを飲みこむ憎悪の怒濤は庭園に達しつつある。
ただ、王城を包囲する大群の後続がそれ以上数を増すことはなさそうだった。いつしか魔獣の降雨はやんでいたのだ。
耳を弄する轟音の只中にあっても、ケイルは頭上からの叫びに気づいた。
「ケイル! やったよ! ミリアが斃れた!」
サイたちは採光窓から身を乗りだし、勢いよく両手を振り回した。リルドの命と引き換えになった残酷な結末をあえて省き、声も嗄れんばかりに献身が報われたことだけを告げる。
「もう終わった! 終わったんだよ! ……だから、もう傷つかないでおくれよ」
叫びの途中で、隠しようのない悲観に打ちひしがれたサイはくずおれて口許を覆った。
急斜面を駆け落ちる火砕流のようなすがたとすさまじさで、赤黒い巨獣の大波は城下を覆い尽くしていた。王城から見おろせば、その境界で尽力する機械化兵装たちの劣勢は闇夜に火を見るより明らかなのである。
それはこの王都に残る生存者ばかりではなく、のちに残されるすべての人々の絶望的な苦況を意味した。戦いに勝利したとしても、このままでは勝者が誰も残らないことは判然たる事実なのだ。
スーラとアカリは身を寄せ合うようにサイの肩を抱き、きつく目を瞑る。
「大丈夫……。世界は救われたわ。たとえ私たちが、この世界の人が滅んだとしても、もう他の世界が魔導の責苦に遭うことはない……」
「そうだよ。……もうこれ以上できることはないよ」
どんな難題にも勇敢に立ち向かってきた彼女たちであったが、目の前の現実を受け容れないのと殊勝さは違う。この時ばかりはもうどうにもならないと、瞼では抑えきれない雫が三人の頬をつたい落ちた。
だが、ゼロットだけは膝を屈しようとはせず、ケイルのことをじっと見つめていた。正視に堪えないほど傷つき、擦り切れかけた恩人の雄姿を最期まで目に焼きつけようとしていた。
そして、少女の眼差しに応えるように、機械化兵装たちもけっして諦めようとはしなかった。ケイルは射撃を止めないままインタフェイスアーマのマイクに声を吹きこむ。
「グレイス。聞こえるか。彼らがやってくれたぞ」
「そうかぁ。よかった」
グレイスは心からの安堵をもらして微笑んだが、それは一瞬だった。背の物言わぬ銃手をちらりと窺い、額からの血に染まった柳眉を険しく歪める。
クレイモアの残圧と砲身帯熱を示す二つのメータは、前者は残り少なく、後者は振り切れんばかりだが、両者ともに赤く明滅している点で共通している。魔獣の進行が途切れるまで、どうひいき目に見ても持ちそうにない。
「しかしケイル、わかっているだろうが、一頭も残すわけにはいかない」
「ああ。彼らは使命を果たした。あとは俺たちの仕事だ」
「そういうことだ。私に考えがある。十秒でいい。このサイドドアに群がるやつらを引き受けてくれ」
「……わかった」
一瞬の沈黙ですべてを呑みこみ、ケイルはレイピアの銃床尾を肩づけにした。半身になって先のない左腕に銃身を依託することにより安定を図り、王城に寄せくるものだけではなく、クマバチに迫る敵影にも優先して短連射を送り、沈めていく。
何をする気だという疑問はない。キャビンを物色した時にケイルも一隅に積まれた剣呑なそれを発見していたのだ。やめろという引きとめも不要だった。立場が逆なら同じ手段を講じていただろう。グレイスが口にしなかったら、ケイルから申しでるつもりだったのだ。
「頼んだぞ!」
グレイスは隻手となったケイルでは弾倉交換もおぼつかないであろうことを見越して手にしていたレイピアを彼のほうに投じながら告げると、身を翻してキャビンに飛びこんだ。潰れた左脚を引きずりながら物資を掻きわけるように隅にまで這い進む。目的の装置を見つけ、大仰な警告文が載った上蓋を引き剥がし、起動にかかる。
「ルーク! どうすればいい。指示してくれ」
「……ほんとうにいいのかい?」
「いいから、早く!」
その装置は本来は遠隔操作されるべきものであり、手動での起動など想定されていない。安全装置を騙すための繁雑な配線作業は電子機器に精通したルークのガイドがなくてはならず、どうしても時間が必要だった。
たったの十秒。グレイスにとっては短すぎるが、ケイルにとっては長すぎる。
ただ走るだけで全身から風切り音をはっする魔獣の相手は、一秒の捉えかたを彼らと同じ次元にまで底上げしなければ到底つとまらない。常人にとって数分に相当するであろう多様な事態が巻き起こる攻防戦が、数秒のうちに目まぐるしく繰り広げられる。
もちろん、ただ速ければいいわけではない。射線を結ぶ順番、足運び、残弾数の割りあて、息を継ぐ間でさえ、一挙手一投足に最適解を当てはめなければ即座に瓦解する。アーシャはあらゆる外的要因から瞬時に解答を導きだし、声と現実拡張にて支援した。
ようやく五秒が経過しただろうか。クマバチを護るためには自身の護りもおろそかにできず、半身に据銃した都合上どうしても反応が遅れてしまう左翼から肉薄せんとしていた一頭を危ういところで仕留めたケイル。射線を正面に戻した時、たまらず重々しくうめいた。
「グレイス、まだか!」
けたたましくも頼もしかったクレイモアの放射がついに沈黙してしまったのだ。今や王都でわきおこるのは、いよいよ瀬戸際に立たされた文明を徹底的に破壊せんと迫りくる魔獣の跫音と吠え声だけだった。
掃射を逃れたアバドンは十トン近い鉄塊であるクマバチを揺り動かすほどの勢いで機体に殺到する。護符の効力を失ったクレイモアは銃架ごとあっけなく引き千切られ、広場に面したサイドドアから機内に雪崩れこみはじめた。
「奴らが突破したぞ。グレイス!」
そちらはケイルからは死角であり、叫ぶことしかできなかったが、
「完了した。身を低くしていろ」
グレイスの返答は安らかといえるほど落ち着いていた。
彼女は装置を背に護り、配線を終えたそれの起動プラグを後ろ手で半分ほど挿した状態で、右手で拾いあげたM7H拳銃を機首のほうへと持ち上げる。狭い搭乗スペースをうちから裂かんばかりの壁となって押し寄せる醜く歪む憎悪の形相。
それを一つひとつ撃ち斃しながら、大口径の銃声の合間に彼女は語った。
「ケイル……。こんなことになるなら、私は四年前にジュディたちと共に行くべきだったのだろう。……しかし、あの時の私には、世界に救う価値を見いだせなかったんだ」
「わかっている。……俺も同じだ。この世界での経験がないままに真実を知っていたら、ミリアに召喚され、レイアを手にかけたのは、きっと俺だった」
赤黒い奔流に完全に呑みこまれたクマバチは金属がひしゃげる圧壊の異音をはっしていた。奇しくも、こぞって機内に侵入しグレイスに射殺された数頭と、それの隙間を無理矢理縫ってでも進もうとした後続とが肉の支柱の役割を果たし、潰れるのを免れているような状態だった。
そんな有様でありながらも、まだ十分ではない。優れた感熱センサーを有し、装置の有効圏内に大群のすべてが収まっていないことを知るグレイスは、起動プラグを握る左手が引き千切られる寸前まで、命がついえる最期の瞬間まで、粘らなければならなかった。
「しかし、そうはならなかった。そして私はそんなお前と再会することができた。世界には闇ばかりでないこと、命を懸けるに値する希望があることを教えてくれた。感謝する」
眼前でぎちぎちの肉の塊となって犇めくアバドンの一頭に脚を掴まれ、咬み千切られる。徐々に落ちてくる天井に座っていることさえ困難になる。外装を突き破って侵入した後腕の鋭利な爪に外骨格の間隙を次々と貫かれる。
大量に喀血し、もはや脂汗もないグレイスの顔は蝋のように白くなっていくが、
「俺も他の機械化兵装に会いたいと願っていた。出逢えたのが、お前でよかった」
同期生からのこの上ない告白に、彼女は心地よさそうに笑った。
「あとは任せたぞ。最後に共に戦えたこと、誇りに思う」
そして、起動プラグを力強く挿しこんだ。
まず、小規模な爆発が起こった。いや、それは見た目も威力も爆発といって相違ない、個体の化合物が急激に気化する相変化と呼ばれる化学反応である。小規模といっても、反応が秒速二千メートルで辺り一面に拡散させる強燃ガスにより、その段階ですでにクマバチは跡形もなく吹き飛んでいた。
拡散した気体は大気中にて粉塵と混じりあい、複合爆鳴気と呼ばれるものをつくりだす。それは微細な粒子のひとつひとつが破壊力を秘めた、いうなれば空にうかぶ雲ほどの途方もなく巨大な爆薬である。そして自己分解による爆発の連鎖。
サーモバリック爆弾。古くから使われている兵器だが、核兵器と見紛われるその猛度と効率の高さはいまだ比肩するものがない。クマバチから半径五十メートルの空間そのものが爆発物と化し、その連続し、継続し、全方位から襲いくる紅蓮の爆風は、範囲内の微生物でさえことごとく圧死させる。
広場と庭園の境界を爆心に噴きあがった王城ほども巨大な火柱は、怪物を永遠の煉獄へと幽閉する檻となった。
まさしくタルタロスの名に相応しい、戦友の見事な最期を見届けたケイルは咄嗟に身を伏せたが、頑丈な石造りであった王城尖塔や屋根を部分的に吹き飛ばす衝撃波に曝され、その姿は赤光に包まれ、見えなくなった。
ややあって、王城の倒壊した正門の瓦礫から、生存者たちが姿を現した。
ライアスをはじめ、ホールにあった負傷者たちと、それに合流したサイたちである。
恐るおそる足を踏みだし、外の光景に息を呑む。吹き荒れる熱砂と焼けた地から立ち昇る白煙が見える範囲のすべてを薄黄色く覆い隠していた。吟遊詩人の語りでしか知らない遠く南の大陸の砂嵐がここまで達したかのような驚異的な光景だった。
「ケイル!」
初めて仲間のまえで大声で叫んだゼロットは一団から飛びだした。しかしすぐに立ち尽くす。手を翳して周囲を見わたすも、人影は一つもない。視界が悪いことを差し引いても、もはやこのなかにあって無事に立っているものなどないかに思われた。
「ケイル……」
呟いて、俯いて、右手に握り締めた元込め銃を震わせる少女を、サイは胸に抱いた。ゼロットのためばかりではなく、彼女自身がそうせずにはいられなかった。ゼロットは銃を取り落し、サイの背に手を回してわんわんと泣き始めた。
ライアスも、アカリも、スーラも、誰もがいたたまれない表情で項垂れていた。その命があることは奇蹟的だというのに、手ばなしで喜ぶ気になどなれるわけもなかった。
負傷者の幾人かを失神させたほどの衝撃がなんだったのか、その正体を彼らは知る由もない。しかし、意味するところは残酷なほど判然としていた。機械を纏った巨人たちが、我が身諸共魔獣の大群と刺し違えたのだ。生存者を、この世界の人々を護るために。
「あれは……?」
ふとアカリが目をすぼめて、厚くたれこめる砂塵のむこうをすかし見るようにした。
ゆらりと生存者の一団に近づく一つの影。
皆が一瞬、希望を抱きかけるも、それは熱望された人物のものではなかった。それに続くように、新たな影がもう一つ、二つ。ぐぐぅと威嚇するように高々と持ち上がる背のかいな。
物静かな悲歎は一瞬でかき消え、再び恐慌が場を支配した。ゼロットとアカリが銃を振りあげ、ライアスは他の生存者たちに王城内に退避するように叫んだ。
あの大爆発を逃れたのはたったの三頭。その三頭したところで、すべてがどこかしらの四肢を失い、直立することさえ困難な瀕死であった。しかし、相手は異邦の生体兵器。手負いの獣ほど恐ろしいものはない。
「ゼロット! アカリ! 逃げるよ!」
一頭であればあるいはあった勝ち目も、三頭ともなれば限りなく薄いと見て、サイとスーラは少女たちを引きとめるが、
「もう駄目だよ! こっちに気づている!」
すでに生者の匂いを嗅ぎつけたアバドンは、弱り傷ついた躯を憎悪に怒張させ、のたうつように突進してきていた。そのおぞましく奇怪な這進でさえ、人の全力疾走より速いのだ。
じりじりと後退りながら発砲するアカリとゼロット。二人の集中砲火により先頭の一頭はがくりと地に突っ伏すが、残る二頭とはもう距離がない。王城門扉の瓦礫の登坂に悪戦苦闘する負傷者たちが後ろでつかえていた。
その騒乱から少し距離を置いて、どこか口惜しげに転がる一挺の銃があった。今まさに命を奪われん生存者を前にしても何もできない我が身を呪うように粉塵を被るそれは、グレイスがケイルのために投げたレイピアABRだった。
――その銃把を、託された願いを、がしりと掴む鋼鉄の手。
あとほんの数歩にまで肉薄した魔獣に、少女たちは絶叫を噛み殺して撃発の詠唱を唱え続けたが、もはや銃身に弾はなく、空撃ちの発砲音が軽薄に響くばかりだった。
彼らの必死を嘲笑うかのように砕けた顎からだらりとたれた舌を突きだしたアバドンは、密集する生存者を一閃のもとに両断しようと後腕を振りかぶる――瞬間、その醜悪な顔面は横殴りの弾雨を浴びて破裂した。
無念の涙に濡れた少女たちの目が驚愕に見開かれ、むかって左の砂塵のなかで佇むその姿を認めた。また違う種の涙が、溢れだす。
「ケイル!」
ケイルは、最後の残弾で望外の働きをしてくれた同期生の形見を、これまでとは違い、そっと優しく足許に置くと、残る一頭にむけて駆けだした。隻手での徒手空拳。もはやナイフもない。轟爆を浴びて吹き飛ばされた時、鞘は胸甲ごと千切れ飛んでいた。
仇敵に向き直ったアバドンは、迎え撃つように彼のほうへと身体を開く。背の諸手が鞭のような風鳴りをはっして延伸する。右からの斬撃を大きく前傾することにより躱したケイル。しかし、後腕は長く、懐まではまだ遠い。右後腕の鋭いうなりは彼の無防備な左脚に迫るが、
「くれてやる」
ケイルはもう躱そうとしなかった。最後の踏みこみを果たし膝から切断された左脚を置き去りに、右足で踏み切り、跳躍する。体重と人工筋肉の膂力をのせた右の拳で、いつかの意趣返しとばかりにアバドンの顔面を打ち抜いた。
卒倒した魔獣にすかさず馬乗りになり、二発目を打ちおろす。己の腕だというのに、鈍器のように無遠慮に振るわれる鋼鉄の塊に、アバドンの砕けた顎から牙が散り、眼球が飛びだすが、完全に死滅しないかぎり戦意を消さないのは憎悪の魔獣も同じこと。
もがくように伸びた前両腕。一つがケイルの右手を、もう一つが体幹を掴まえ、太い四指でみしみしと握力をかけていく。いたるところが剥落した外骨格はもう装甲としての用をなさず、拳は潰され、骨の砕ける音と内臓の破裂する音が黒い吐血とともに仰け反ったケイルの面頬からもれでた。
血反吐を出し尽くして、最後にかひゅと喉を鳴らしたケイルだったが、
『まだよ!』
「ああ……まだだ!」
相棒の声に、最後の力を振り絞って、仰け反った身体を振りおろし、頭突きを見舞った。
丸兜のかたちに顔面を潰したアバドンは、その単眼となった眼球からようやく赤黒い憎悪を霧消させた。これで、この世界に召喚された恐ろしい生体兵器は、完全に滅び去ったのだ。
一瞬の死闘を呆然と見つめるしかすべのなかった生存者たちは、時を取り戻してケイルに駆け寄った。サイとスーラが仰臥するケイルに膝をつきあわせて治癒魔術での治療を試みる。
「ケイル……。あぁ、そんな……」
しかし、片腕と片脚を失い、身体中を深く抉れた裂傷だらけにしたその惨たらしい姿に、サイはたまらず詠唱をつまらせた。それは一瞬で、すぐに再開するも、もはやケイルの状態が治癒魔術でどうにかできる段階にないことは、誰の目から見ても明らかだった。
ケイルは白く霞みがかっていく視界のなか、悲しみを溢れさせた人々の顔が輪になっているのを見た。サイ、ゼロット、ライアス、アカリ、スーラ。そればかりか、名も知らぬ多くの人が彼のために泣いている。冷酷な兵器として製造された彼は、こんな死様を想像だにしたことがなかった。
拳を砕かれたケイルの右手は小刻みに痙攣していた。ゼロットとライアスがそれを優しく握り締め、祈るように顔に近づけた。ケイルは咳きこんで、かすれる声を圧しだす。
「……二人とも、よく戦ったな」
二人は声もなく首を振り、まるで最後のようなその言葉を拒んでいた。
次いでケイルは、詠唱を続けるサイに視線を転じて、そっとかぶりを振る。
「サイ……いいんだ。……もういいんだ」
「どうしてあんたらは、どいつもこいつも……そんなに満足そうに死にやがるんだよ……」
震える唇をぎゅっと結んで言葉を呑んだサイ。アカリも口許を覆って涙ぐんでいた。彼女たちはヒルドンの騒乱で果てた異邦の男とケイルを重ね合わせているに違いなかった。
苦労しながら大きく息を吸いこんだサイは涙を拭って、いつものように、少年のように笑ってみせた。そして、宣言していた説教を省いて、ポルミ村で最初に出逢った時のように、こういった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
砂塵が晴れ、射しこみはじめた陽光に溶けこむように、すべてが光に包まれていく。白く染まる世界のなか、純白の少女は天使のように空から舞い降り、相棒の面頬に小さな唇を重ねた。
『さよならね。もし天国に逝けたら、今度こそ兄弟たちと仲よくしなさいよ』
「さよならじゃないさ。地獄におちても、またよろしく頼むよ」
アーシャはにっこり微笑んだ。