49 収穫祭
古都の地下遺跡での惨劇の少し前――
王都デリトは森厳な熱狂のなかにあった。
東の連峰からこぼれ射す幾筋かの輝きであった曙光は、やがて世から闇を取り除く大光となり、一瞬ごとに青さを増していく蒼天にいずる。そんな今日という一日のよき快晴を予感させる朝ではあったが、王城前の広場に充ちる空気は爽やかというにはほど遠い。広場を埋めつくす雲霞のような大群衆が放散する熱気は早朝の心地よい涼を霧消させて余りある。
小さな村であれば一つ二つはすっぽりと収まるほどにだだっ広く、平時には、ことに魔物出現に伴い行商人が減少してからは閑散とした印象のある広場だったが、年に一度のこの時だけは、自らの意思で集ったほぼすべての都民を溢れんばかりに湛え、その人海には浮島のように数え切れぬほどの屋台が乱立していた。個々人は抑えているつもりでもその囁きは渦巻くどよめきとなり、浮き足だった雑踏はまるで地揺れのようである。
いよいよ、収穫祭の開催が宣言されようとしているのだ。
王城に面した前列は鮮やかな衣装と艶やかな装飾とで着飾った貴人とその従者が占め、中ほどには小奇麗な身なりの裕福な財人。後列で窮屈そうに犇めく平民は質素な、けれども彼らなりに精一杯清潔な服装でこの日に臨んでいた。
例年のように醜悪なほどにまざまざと貧富による色層を形成する大衆、彼らの熱視線の先、白妙の王城の東西に聳え建つ双の尖塔から俯瞰すればその三層の格差はより克明であり、王君として優れた器を有する者が見下ろせば国政を憂いて然るべき光景だったが、家臣を引き連れて東の塔のテラスに現れた国王ディソウはそんな葛藤とは無縁のようであった。
高貴の内に雄々しさを残した黒と金色の儀装用軽甲冑に身を包み、自尊に満ち溢れた鷹揚な所作で手を挙げるその姿を認め、群衆は自ずと低語の口々を閉ざした。
王城中庭の一角に陣取った奏楽隊が荘厳な入場曲を吹き鳴らし、中庭に整然と整列した黒衣の近衛兵たちは掲げた剣に最大限の敬意を顕して一斉にかしらを主君に向ける。
静粛と傾注をうながす余韻を残して短い演奏が終わった。ディソウはテラスの縁へと、音声増幅の魔術が付与された魔蓄鉱製の手摺りの前に躍りでて、黎明の陽を誰よりも早くその身に浴びる栄光を誇るかのように諸手を大きく広げて中空を仰ぎ、いかめしく口を開く。
この時点では、ディソウと同時に西の尖塔のテラスに姿を現し、淡い影の帷に茫として佇む王女ミリアに注目しているものはほとんどいない。毎年、不変の手順で粛々と進行する宣告の儀。まずはディソウが訓辞を説き、次いでミリアが短い挨拶を、再びディソウに発言が移り、そこでようやく開催が宣言されるのだ。それを心得る聴衆は憧憬、崇拝、無関心、軽蔑とその眼差しに宿る色は様々なれど、ひとまずは国王に注視を向けていた。例年のように。
だが、ほとんどであって、すべてではない。すべてという言葉を用いる妨げになっているのは、中庭西側の植木に身を潜めている者たちだ。整列する近衛兵のすぐ後方で気配を殺すその姿は五つ。正確には一人の異邦人と四人の亜人。
「さて、始めるとしましょうか」
ジュディと彼女の配下にあるエルフたちだった。
彼らだけは、はるか眼下で犇めく群衆を微笑みの面持ちで見下ろすミリア、怜悧な微笑という安易な仮面で一切の素顔を覆った標的のみを見上げていた。刹那たりとも目を離すものかと穴をあけんばかりに凝視していた。
「ルウ、イタオ、ガンド、ミミィ。撃鉄を起こせ」
ジュディのここ一番の口癖であり、符丁でもあるその言葉に、彼らは準備に取り掛かる。
魔術を介して響きわたるディソウの大仰な啓示を、些細な物音を掻き消してくれる騒音として長弓に鋭い鏃を有した長射程用の矢をつがえ、拳銃を握り締めたジュディは空いた片手を一斉射の合図のためにゆっくりと持ち上げた。とうに捨てたはずの主への信仰、藁にも縋る思いによってか、不遜な懇願が期せずしてこぼれる。
「……神さま。もしほんとうにいるのなら、それを証明するのは今をおいて他にないわよ。どうか私たちに手を貸して。この命を費やしてでも、どうか正しい鉄槌を……」
祈りとは裏腹に、彼女の自信は揺るぎない。彼らのいる地点からミリアまで、直線距離にして約二百メートル。難しい仰角射になるにしても生来の狩人である亜人たちの弓技をもってすれば失中する可能性のほうが低い。それが四人から放たれるとなれば盤石といえた。
彼らの緊迫の大半は暗殺に成功したそのあとへの恐れが占めていた。彼らが王都へ潜伏してはや四年。この計画を立案してからは二度、収穫祭を経験している。つまり暗殺の機会は二度もあったのだ。それでも彼らがそれを実行に移さなかったのは、今日まで先延ばしにしてしまったのは、この作戦は暗殺成功後の脱出を度外視しているからだった。まったく考慮していない。言及さえしていない。
矢を射ってミリアが倒れた瞬間、彼らの位置は露見する。すぐ眼前の近衛兵団から逃げ切るのは限りなく難しい。異邦人たちが己の業前を存分に発揮すれば血路を開くことも可能かもしれないが、罪のない命を奪ってまで逃げおおせるつもりは彼らにはない。
下水道でホーバスが語っていたとおり、この作戦は決死なのだ。これ以上の時間的猶予はないと苦渋のもとに英断された捨て身の暗殺。亜人たちもけっして安らかな最期は迎えられないことは理解している。ジュディたちの心意気に同調し、仲間のもとを離れ征伐に志願した精鋭の彼らは心得ている。
知らないのはアカリだけであり、彼女は退路の確保と背後の警戒を任されたと思いこみ、現地人の少女を捨て置けぬと不承不承ながらも了承したホーバスと二人だけで脱する段取りだった。彼らが何を考え、何を成し遂げたのか、それを見届ける生き証人となる手筈になっていた。
「――ライガナの仔らよ! 忌まわしい魔物どもからの解放は近い! その時まで耐えるのだ! 今こそ不屈の心で栄光の復活を信じ、神民たる不退転の意思で立ち続けるのだ! 親は誇り、子は胸に刻め! 我らこそラナ大陸を統べるに相応しいライガナの民であることを!」
兇事に目を据わらせる異邦人でなくとも誰の意識にも残らなかったであろう、大層なばかりで具体性を欠いたディソウの高説。もしケイルやT67が耳にすれば、自分たちの世界の格差、裕福なシェルターに住まう権威者たちが恥ずかしげもなく垂れ流すプロパガンダを思い出したことだろう。
ほどなくして、どこか虚ろな音響を曳いて王の祝辞らしからぬ宣告は終わった。ディソウの隣にあった進行役の家臣が謡うような声音で王女の登場を促すと、人々は国王の時のそれと較べてあからさまに熱心な眼差しを西の尖塔に向けた。この時ばかりは貴族も貧民もなく、ことに年頃の男は誰もが隠しきれぬ期待に瞳を熱っぽく輝かせていた。
まつりごとの折に城外へと赴き、平民でもその姿をたびたび目にする機会のあるディソウとは違い、表向きには国政に関与せず年に一度のこの時にしか謁見が許されない最高位の女史への興味は否が応でも高まる。その神秘性も相まってか、幼さを内包した穏やかな微笑みと年追うごとに艶美さを帯びていく体躯を女神と称する声も少なくはない。
その全身を露見した時のほぅという感嘆の大合唱が聞こえてきそうな、高潔と美しさを一段と際立たせる艶やかな藍紫のドレスに身を包んだミリアは、一歩、二歩と、射影の内から朝陽の中へ、突出したテラスへと優雅に足を運ぶ。
「来るわよ……」
一万にものぼる熱っぽい衆目の内、鋭利な眼光でテラスを睨めあげるたったの五つ。にわかに広場を席巻し最高潮へと昂ぶっていく物静かな人いきれとは別種の昂ぶりに神経を凍てつかせる五人。
ジュディは拳銃を押しあて胸を潰すことで口から飛びださんばかりに跳ねまわる心臓を抑えつけ、振りかぶったまま戦慄く隻腕が意識外に急くのを必死に堪えていた。
四年間、一日千秋の思いで焦がれ続けた悲願に身を強張らせ、世界を救う最初で最後の好機に固唾を呑み、唯一無二の希望であるその時を息を殺して待っていた。諸悪の根源がたおやかな体躯を射角に曝すその瞬間を。
しかし――ちょうどその時だった。
ニューカの地下神殿の一室でそれが起きたのは。
王都に先んじて古都で起きた兇事。たった数秒の時間差。それは神の不在の証左か。あるいは悪魔の実在のあかしか。
西の尖塔、テラスの手摺りまで、つまり衆目の只中まで、すなわち亜人の射程範囲内まで、あとたったの二歩。そこでミリアはぴたりと足を止めたのだ。
まるで虫の知らせ。天空から警告を受けたかのように西の空をはたと仰ぐ。だが、実際に彼女の耳朶を打ったのは、二十余年間、精神の領域で健気な抵抗を続けてきた妹のか細い断末魔であり、彼女が感じたのはその命のあまりに儚い消失だったに違いない。
そんな、時空に干渉する魔道士同士でしか感じえない共鳴りを受け、果たしてミリアはぽつりと呟いた。
「終わった」
そして嗤う。
あは、と。
穏やかな微笑みを湛えていた口許を端が切れるほどに吊り上げて、淑やかに細められていた双眸を血走った眼球がこぼれ落ちんばかりに見開いて。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
腹をゆすって、身体をくの字に曲げ、狂ったように嗤い転げる。いや、彼女は端から狂っていた。それをひた隠しにしていただけだ。灯火は掻き消え、楔は抜け落ち、箍は外れ、もはや隠す必要がなくなっただけだ。
「なんてこと! なんて時宜なの! 宣告の機宜を見計らったような完璧さ、すばらしいわ! きっと私が呼んだ彼がやってくれたのねっ。そうに違いないわ!」
ミリアの背後に控えていた官女たちは、あるじの豹変と、また初めて見せるその狂気の片鱗に戸惑いを隠せず、ひたすら狼狽えていた。
およそ正気のものが発するとは思えぬ理性を欠いた哄笑と意味不明な文言は、魔蓄鉱の手摺りを介することによって王城周囲にも響きわたっており、都民たちは困惑の面々を宛てなく彷徨わせて騒めきたち、直立不動の捧げ剣の姿勢にあった近衛兵らもたまらず同僚と視線を見交わせる。東の尖塔のディソウとその家臣も途惑いの表情を対岸のテラスに向けていた。
にわかに巻き起こる騒然のなかで、事態を察したのは五人の異邦人。
「そんなッ、まさか……レイアが倒れたというのッ? このタイミングで……?」
ジュディの食いしばった下唇から一筋の血が顎を伝う。亜人たちも無垢なる美麗を遺憾に歪める。けれども諦めてはいなかった。ジュディは斉射の合図である左手を掲げたままであり、それを待つエルフらも矢をくわえ引き絞った弓をさげようとはしない。
「……まだよ。まだ終わらない。終わらせてたまるもんですか。……顔を見せなさい。来い、来い、来いッ……」
テラスの手摺りの内ではしゃぐように頭部をちらつかせるミリアが身体を曝す一瞬。そんな訪れるかどうかも定かでない淡い希望に縋って、今度こそ心から神に祈って。
おろおろと戸惑うばかりであった官女たちの一人が意を決してミリアに歩み寄った。声をかけながら肩を抱き、その顔を覗きこむ。
ミリアは瘴気の破顔をすうとその面持ちから退かせ、残ったのは虚ろな無表情。官女の鼻先を指さして、途端、虚空に忽然と現れた小鳥ほどの大きさの飛蟲が官女の顔に飛びついた。
弾けた悲鳴は被害者以外の官女たちのものだった。泣き喚き、我先にと逃げていく。蜂のような魔物に襲われた当人はすでにその毒で卒倒し、おぞましきかたちの羽虫は譫妄状態にある獲物のぽかんと開いた唇を割って口内へずるずると這入っていく。
転位の魔道。なんと凄まじい異能であることか。何が凄いかといえば、世界の摂理を歪める神代の所業を、実に無造作に、ひどく事もなげになしえることだろう。それを為した張本人はがくんと小首を傾げ、出入り口の扉から退散する官女たちを目で追って冷然と微笑む。
「あら。逃げることないのに。その魔物は獲物のはらわたを内から喰らい尽くすまで出てきませんよ。それにどこに逃げたところでもうお終いなんだから」
ドレスの裾をついとつまみ、献身的だったはずの官女の遺体を無造作にひょいと跨ぎ超えたミリアは、そのまま愉しげな足取りでテラスへと向かう。哄笑の後に続いた悲鳴によって混迷を徒ならぬ疑懼に変じさせた群衆の衆目へと、自ら躍りでた。
手摺りに身を乗りだして、唄うように叫ぶ。声高に祭りの開始を宣言する。
「ごきげんよう! 憎たらしい人間のみなさん! そしてさようなら」
不安に揺れる星の数ほどの瞳を一身にしながら、まるで意に介していないように、蟻の群れへ仕向けるほどの頓着を示さず、独りで芝居を耽溺するように、優雅な演目の一節が如くしなやかな諸手をするすると頭上へ翳す。
「来た! 今よ! 射って!」
儚い願いが神に届いたことに一驚を覚えつつも、絶好の好機を逃すまいと、ジュディは即座に左手を振り下ろした。
合図がなくとも射られたであろうまったくの同時に鋭い飛翔音を発して四本の矢が解き放たれる。四つはそれぞれゆるやかに自転しながら一寸のぶれもなく標的へと延伸。刹那後には間違いなく頸部、胸部、腹部を貫いたであろう必殺の鏃は、確かに肉体へと突きたった。
けれども、違う。ミリアではない。踊るような不気味な動きを見せていたミリアが示すように両手を翳した瞬間、彼女の眼前、中空に現出した怪物の巨体に突き刺さったのだ。
「ッ!? 嘘ッ……!?」
それは意図的に為された防御ではありえない。ミリアも暗殺者の存在など意の外であったのだから。またしても恐るべき偶然によって彼女の死は退けられたのだ。憎悪の魔道士、なんたる悪運であることか。
運否天賦というのであれば、天は間違いなくミリアの味方なのだろう。もはや不可避である滅びの運命がその身を護っているのか。あるいは、神がいるとするのなら、数多の世界に干渉する力を有した彼女こそ、それにもっとも近い存在なのかもしれない。無論、神は神でも、死の女神に違いない。
どちらにせよ、それを見極めるための二の矢を射る機会は、もうジュディらには与えられなかった。救済の一矢などなかったかのように、現にミリアはそんな抵抗があったことになど気づかずに、次々と怪物を空に転位させる。それはさながら肉の驟雨となって、束の間王城と中庭を隔てていた。
物理法則に則って自由落下した怪物の群れは、かなりの重量を思わせる地揺れを伴って中庭へ降下した。土くれが噴きあがり、土埃が舞う。相当の高度から墜落したはずのそれらは、しかしまったくの無傷であるようだった。巨漢二人分の全長はあろう巨影がのっそりと起きあがる。
棚引く褐色の粉塵が晴れ、細部まで露わになったその全貌。至近からその姿を目にすることになってしまった近衛兵らとジュディたちは、たった一人の漏れもなく総毛立ち、氷の手で心の臓を掴まれたように硬直し、そして直感した。ああ、自分たちはここで死ぬのだと。
それは二足歩行の怪物だった。けれども人型と形容することはできそうにもない。全身を覆う赤黒い表皮は腐肉を固めてつくられたように歪でありながら、尋常ならざる膂力を予感させる隆々たる筋繊維となって脈動している。
奇妙に細く締まった胴はその強靭さを金属光沢が如き黒光りとして放散し、そこから生えた四肢は異様に長く、また太い。否、四肢ではない。両腕は肩の付け根で別れ、もう一対のかいなとなって伸びしなっていた。怪力の具現たる前腕に較べ極端に華奢な後腕だが、それが非力を意味しているのではないということは瞭然。骨と筋でつくられた三つの関節を有する長腕、節々からは尺骨が曲剣のように突出し、その端部にあたる指先にいたっては四本の槍と見紛う鋭さ。器官というよりも凶器として機能することは疑いようがない。
まともな進化を遂げた生物ではありえない醜悪な奇形、殺傷にのみ特化したような兇悪な体躯。その怪物に名を与えるとするのなら一つしかないだろう。現にそれは別の世界ではこう呼ばれている。
生きとし生けるものの天敵、滅ぼすもの、アバドンと。
睨み据えただけで対象に死の恐怖を植えつける鮮血色の眼球を冠した頭部。前屈した首が左右にぐるりぐるりと回り、数瞬前までそれが存在していた滅びの世界ではありえない無数の獲物を見定めて、皮と肉を排した人間の顎骨に酷似した大きな顎門がぱっくりと開く。
ワハハハハハハハハハ。
魔獣の群れは嗤った。狩場へと誘ってくれた憎悪の魔道士を真似るかのように、彼女へ手向けるかのように、喉から瘴気の蒸気をこぼしながら哄笑した。笑いとは感情の証左であり、理性のあかしに他ならないが、それが発すると智のかけらも感じさせない。つまるところ、それが有する感情とは己以外の生物へと憎悪だけだった。
そして、殺戮が始まった。
我先にと突進するアバドンの群れ。人の世の条理を逸した体積比から繰りだされる膂力を前に、近衛兵の漆黒の戦甲冑は用をなさず、その中身諸共細切れに粉砕されていく。緑豊かだった中庭は最初の衝突によって瞬間的に血煙の霞みに覆われた。
異常を察した広場の都民たち。誰よりもよい場所で謁見に与ろうと躍起になっていた最前列の貴人たちは、思いもよらない地獄の宴を眼前に必死に後退しようとする。けれども事態をまだ飲みこめない後列の平民たちは退こうとはしない。無慈悲な捕食者を前に虚しく蠕動するしか術を持たぬ群卵のような人海。喉も裂けよとふり絞られる悪態と怒号と悲鳴。それらも大地が震えあがっているような魔獣の跫音に掻き消される。
戦闘などありえない。人体をことごとく四散させ迫りくる鯨波、過ぎ去った地に残るのは血とどこの部位だったかの判別も不可能な肉片のみ。矛先を向けて対峙する意気地など耄碌しても湧きそうもないそれは、魔獣というかたちの災厄であった。兵も民も、押し寄せる血肉の嵐から狂ったように逃げ惑う。
「ジュディ! こっち、早く!」
ルウと呼ばれていたエルフの一人がジュディの腕を引っ張る。すぐ後方の生垣に隠された下水道への上蓋から顔を覗かせた他の三人の亜人は懸命に手招きしていた。
この世界に転位させられ、混沌の森で部下の一人を失うも魔物の群れから遁走するより他になかったジュディ。手を牽かれ、地下に退避するその寸前まで、彼女はあの時とよく似た茫然の内に深い苦痛を湛えた表情で、西の尖塔のテラス、地獄絵図を俯瞰しながら歌って踊って笑い転げる人のかたちをした死神を見つめていた。
「あはははははははははははは。すごい! すっごい! すっげええぇー! さすが私のお気に入り! ああ、レイア、ありがとう。あなたがいなくなったおかげで、こんなに近くに、こんなにたくさん、私の一番大好きな魔獣を呼ぶことができるのよ。最っ高じゃない? お母様。お母様にもこの光景を見せてあげたいわ! ほうら、人間の血が河のよう! 人間の肉が枯葉みたいに舞っている! あのあばらなんて、まだ心臓が中でびくびく動いてるのおぉー!」
女神と謳われた美貌の面影など今はなく、舌を突きだした口から唾をとばし、血管のういたまなこを陶然と歪め、身を投げ出さんばかりに乗りだして喚いていたミリアだったが、つぅとその鼻孔から血が流れでた。
「あ、ら? あら、あら」くるんと白目を剥き、くず折れそうになるが手摺りを掴んで体勢を保つ。「くらくらする。もう私くらくらしちゃう。やっぱり近すぎて多すぎたかしら。レイアが消えたからといっても限度があるわね」
並列世界に干渉する能力は精神に多大な負担を強いる。いかに稀代の適性者たる彼女といえど限界はあるようだった。もっとも、その限界点は世界を滅ぼしても余りある。現に彼女が今転位させた数十体のアバドンだけで、この国、いや、この大陸は没したも同然であろう。
「ミ、ミリア……?」
しわがれた懇願するような呼び声に、ミリアは鼻血を拭いながら東の尖塔を見やった。
ディソウとその家臣たちは蒼白の表情で対岸の第一王女を見つめていた。拡声の魔術が情けない声の震えまで鮮明に伝播する。
「これはどういうことだ……? ミリアよ、わしの娘よ……」
「どうもこうもありませんわ、お父様。あなたの悲願であった反逆者討伐がついに成就したのです。あなたの次女、この国の元第二王女、私の妹、レイアがたった今死んだのです。あなたがさっき宣っていた解放の日が訪れたのですよ」
人類という悪種から世界が解放されるその日が。
言って、ミリアは東の尖塔、ディソウの頭上に指先を向けた。
それが意味するところを察した家臣らは咄嗟にテラスから飛びすさるが、ディソウは唖然と立ち尽くしていた。残された一人の我が子へ不審を抱きながらも、核心に触れることが恐ろしくて何もできなかったその無能なる生涯と同じく、降り落ちたアバドンの重みによって突出したテラスは崩壊し、その瓦礫諸共地上に落下するその瞬間まで、建設的なことは何もなせず、ただただ無力に。
「おたっしゃで、お父様。どうか地獄でもお変わりなく」
ミリアはドレスの裾をついとつまみあげ優雅にお辞儀をすると、テラスの射影の内へと身を沈ませた。
観客を失ってもなお、地上で繰り広げられる地獄の宴は終わらない。最後の収穫祭、魔獣による人間の収獲はまだ始まったばかりなのだ。