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異形の魔道士  作者: IOTA
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48 怪人




 同じころ、古都ではスーラが畏怖と悔恨に塗れた述懐を終えた。

 先んじてジュディからそれを聞き及んだライアスが示したほどの拒絶反応は、一同にはなかった。今まさに王都の下水道でアカリの決意に感化された彼との不可思議な同調は、もちろん抽象的なシンパシーなどではなく、決定的な証左を示されているからに他ならない。そしてそれは頭による理解ではなく、身体で体感する種の、疑問を挿む余地のない決定的な証拠だった。

 反逆者と謗られていたはずの元第二王女が発するそこはかとない神聖な空気、その善性の匂いは、魔術に携わる身として否定しようがないのだ。

 それでも、いよいよ露わになった邪悪な魔道士の正体がおよそ最悪なかたちであることに違いはない。

 リルドは黒い制服の内からおもむろに革のポーチを取りだした。シェパドから譲り受けた紙煙草と灯火が付与された魔蓄鉱が収まっており、一本を銜え、灯した火を近づけるが、術者の精神状態に伴って付呪の火種は危うい明滅に揺れている。

 辛うじて火を点け、深々と喫い、震える唇で長く吐く。濃密な紫煙はやがて虚ろにたゆたい、儚く消散してゆく。まるで彼女が二十年来身も心も捧げてきた怜悧な微笑みのように。まるで忠義に値するものなど端から存在していなかったのだと嘲るように。

 掻き消える寸前の煙の内にリルドが幻視するのは、王都を発つ前の夜、ミリアが初めて見せた微笑以外の面相。胸を突いた実際の衝撃以上に心を衝いた、およそ生者のものとは思えない虚無のような無表情。

 近衛兵の長たる分際で御身の正気を疑うなど論外であり、まずは我が目を疑い、気のせいであると拭い去ったはずの形相が、そのわずかな不審が、今は網膜と脳裡に焼きついて、離れない。

「珍しいものを喫っているな」

 迎合されるべきではない病室での喫煙にT67は皮肉を言うが、慨嘆を耐えるためなのは明らかであるそれを制すほど酷薄ではなかった。

 サイとスーラはどちらからともなく視線を重ねる。二十年前、何も告げずにスーラが生家を去ったのは、残された家族に反逆者の誹謗が及ばないためだったのだ。彼女らの父親は長女の無罪の直談判を強行したために処刑されてしまった。もしスーラがすべてを詳らかにしていたら、とうぜん家族は一丸となって冤罪を強弁し、そうなれば犠牲は父だけでは済まなかっただろう。

 スーラの稀薄な微笑み。葛藤も悲嘆もとうに涸れ果てたような、幼少のころは一度も見せたことがなかった寂びれた表情に、サイは姉の両手をはっしと握り、何度も頷いた。逸れることを知らぬ眼差しは凍てついた心を融かそうと熱く、力強い。

 現地人たちが各々ようの感慨に耽る中、ケイルは寝台のレイアを窺った。

 魔道の次元で絶えず悪意と鍔迫り合いをしているという文明の守護者。常命の身では関与できないその戦いはよほど熾烈なのか、隈の翳に沈んだ瞼は開く気配がない。もしかしたら、再び開かれる保証もない。

「破滅を防ぐ手だてはないのか?」

 眠り姫を赤い双眸に映しながらケイルは物静かに問うた。

「傭兵たちの別組織の人間は真相を知り旅立ったと言っていたな」

「……はい。方法がないわけではないのです。彼らはそれを遂げるために王都へと向かいました……」

 歯切れも悪く言い淀んだスーラは客人へ配慮の眼差しを配った。サイも同様に同年代の好敵手に掛ける言葉もなく俯いている。直視を憚る姉妹の同情の先ではリルドが紫煙をくゆらせたまま頭痛に苛まれるように硬く目を閉ざしていた。

 その暗澹たる空気が解答なようなものだった。諸悪の根源が判明した今、あえて口にするまでもなく、安々と口にできないその策を、皆がわかっているのだった。原因を絶てば問題は解決する。残酷なほど単純で明快な理論的帰結。

 誰しもが発言を渋るそれを躊躇なく明言できるのはケイルだけだった。

「レイアが擦り切れる前に、ミリア王女を排除すれば世界は救われる。そうだな?」

「排除……」甲虫のような鉄仮面の下の素顔もきっと鋼のように冷たいことを確信させる無機的な声音に、そら寒いもの感じたのか、スーラはそっと自身の腕を抱いた。やがて小さく頷く。「……ええ、おそらくとしか言えませんが」

 自信のなさからくるものではない消え入りそうな声は、それでも肯定には違いなく、破滅の定めを退ける唯一の希望、無二の活路であるはずだったが、場に振り落ちる雰囲気はとても悦ばしいものとは言いがたかった。

 一国の王女の殺害。その困難さもさることながら、ライガナ史上最大最悪のその兇事に、まがりなりにも王国民である現地人たちがこれ幸いと諸手を掲げるわけもない。正統な現役貴族であり、他でもないかの人の側近を賜る近衛兵団長にとっては断腸の思いであろう。血色を失った唇に鋏まれた煙草と口を吐きそうになった激昂とが噛み殺され、伸びた灰がぽとりと落ちる。

 もっとも、それらの悲嘆は現地人たちの都合である。ケイルは一つの疑念に駆られてT67を瞥見した。七年前にこの世界に転位されたという次世代の機械化兵装。七年前に滅亡の運命とその解決策を聞き及んだはずの彼女は、なぜ行動を起こさないのか。

 ケイルらの世界もまた転位の魔道が原因でアバドンという破滅の侵略現象に脅かされているのだから、無関係ではあり得ない。むしろ、降って湧いた奇蹟に近しい僥倖に、慶び勇んで征伐に向かうのが道理のはずである。

 実際、五年前に真相を聞き及んだジュディたちは即座に行動を起こしている。彼らの世界は魔物といった直接的な脅威に曝されていないにも係わらずだ。しかし、あまつさえT67はその同行の誘いを断っている。異邦の始末屋たちが手こずる王族の抹殺も、彼女の力があれば容易くないまでも何年も頓挫することなどなかったに思われるが。

 何が彼女をそこまで頑なにさせるのか。ケイルの露骨な視線から己への疑惑を気取らぬわけもないT67だったが、憮然と睨み返すばかりで口を開こうとはしなかった。ルークは居心地が悪そうに使用者の顔色を窺っている。

 スーラが俎上に載った傭兵団の別組織へと話題を変えた。

「ミリア王女の手で転位された彼らが、その主を暗殺に向かったのですから、これもまた皮肉ですよね。もっとも、被害者である彼らからしてみれば、加害者への意趣返しになるわけですから、順当なのでしょうけど」

「彼らを転位したのはミリアなのか?」

「レイアの意思によるものではありませんから、そういうことになりますね」

「魔物と同種と見做されてこの森に呼ばれた?」

「ええ、彼らには悪いですが……。おそらくレイアを亡き者にするつもりで凶悪な殺人者として呼んだのでしょう。どのような意図であるにせよ、その性根に悪意があることに違いはありません」

 傭兵団の指揮官だった火傷痕の男の今際の言葉――俺たちも魔物の一種でしかなかったんだよ。壮絶な自虐の哄笑とともに展開されたその自論は、必ずしも間違ってはいなかったということになる。いや、魔物以上の惨禍を期待して確固たる故意で転位されたとなれば、さらに悲劇的といえるかもしれない。

「では、俺もそういうことになるのか? 魔物として呼ばれた……?」

「ケイル……」

 その問題は、当人だけでなく、同行者にも複雑な心境を与えた。サイとゼロットは物言いたげな瞳をケイルへ向けるが、気安い慰めでお茶を濁そうとはしなかった。

 寒々しい石室はさらに深沈とした空気に包まれかけたが、しかしスーラはきっぱりと首を横に振った。

「いえ、それは違います。あなたを呼んだのはレイア。本人が断言していましたから、それは間違いありません」

「なぜだ? なぜ彼女は俺を?」

「レイアの言葉の端々から推測するに、彼女が積極的に魔道を行使する場合は、必ずしも対象に望まれない転位はおこなわないようなのです。抽象的な物言いになってしまいますが、おそらく対象の強い想いを汲み取ってこちらの世界に召喚している。たとえば、長耳の亜人たち」

「そういえば、あのファルって娘。姉ちゃんたちは恩人で、助けられたとか言っていたね」

 思案顔をつくったサイが肩肘を抱いて口角をなでる。一行の脳裡に思いうかぶのは集落でのエルフとの遣り取り。多くの言葉を知らぬ亜人たちの言は端的であり、だからこそ記憶に鮮明だった。スーラはそっと首肯した。

「聞くところによると、彼らの世界もまた憎悪の転位による魔物出現に苦しめられていたようです。そして元より森の弱小部族だった彼らは滅ぼされる寸前だったそうです。きっとレイアは新天地を渇望する彼らの強い願いを叶えたのでしょう」

「新天地って、あの魔物だらけの森がかい?」

「確かに憐れに思えるかもしれないけれど、でも彼らの無垢な気質と美麗な容姿を鑑みるに人里でつつがなく暮らすのは容易なことではないでしょう。ましてや魔物に脅えるこの時世、迫害は目に見えている……。そう考えれば、人目を忍んで生きるのに相応しい土地は、そう多くはないでしょう」

 エルフがスーラたちに寄せる過剰なまでの信奉も納得できようものである。彼らにとって反逆者とは、滅亡から救いせしめた救世主、祈りに応えて救済を与えたもうた神なのである。

 スーラはケイルへと向き直った。

「……レイアとミリアは、まさに対のような存在。善と悪。レイアの転位にあるのは、常に善意なのです。あなたの場合、仲よくするために呼んだと、レイアは言っていました」

 レイアの意識に留まるに足る強い想い。それこそが善意の転位の引き金となる。そして仲よくするために呼んだというレイアの言葉。

 ならば、それはケイルにも心あたりがあることだった。彼がこの世界に現れる直前、死の間際に強く望んだのは、他のヘカトンケイルとの邂逅だった。兄弟たちはどんな姿をし、どんな声を出し、どんなことを考えているのか。

 ただそれだけを知りたかった。その願いは今も変わらない。

「……仲よく、か」

 ケイルは今一度T67を振り返った。マスクの内で呟かれた低いうなりは怪訝の色合いを帯びている。

 彼らは幼なじみではあるかもしれないが、まったく異なる存在なのである。ヘカトンケイルとタルタロス。百手巨人とそれを幽閉する檻。兵器と兵士。その溝は深い。自身の分身たる他のヘカトンケイルとの交流を望んだケイルにとって、この邂逅は必ずしも意向にそぐっているとは言いがたいのだった。

 一体の異形に倣って一人の異形を窺ったスーラ。話の流れからケイルの一顧をT67転位の懸念なのだと受け取った彼女は、どことなく申し訳なさそうに肩を落とす。

「白状すると、タンゴさんの場合は私のわがままもあるのです。七年前、ついにレイアと二人きりになってしまって、魔物に食い殺されるのも時間の問題となった時に、レイアにお願いしてみたのです。何者よりも強くて頼りになる存在を守護者として転位できないものかと。そうしたらすぐに彼女が現れました。……それでも、レイアが保身のためだけに対象が望まない転位をおこなうとは考えにくいですから、少なからずタンゴさん自身の意向に副ったものだったはずです」

「……タンゴさん?」ケイルは思わずうめいた。

「文句があるのか。ケイルなどと取ってつけた名乗りよりよほどましだ」

 つっけんどんに食ってかかったT67は、それきりぷいと顔をそむけた。

 専守防衛に徹する思いの丈と同様に、レイアの琴線に触れたという元の世界での自身の想いを明かすつもりはないようだった。ルークはお決まりのように苦笑いで肩をすくめる。

「なんにせよ、真意はレイアにしかわかりません……。覚醒しているときに訊ねたとしても明確な答えが返ってくるとは期待しないほうがいいでしょう……」

 語尾を濁したスーラの物言いは、例によって暫しの静寂をもたらすかに思えたが、そういえば、とT67がはたとケイルを見やった。その声音に棘はなく、彼女が同郷の者に向けるには珍しく、純粋な疑問のようだった。

「お前はどこに現れたのだ? レイアに呼ばれたのなら彼女の近くに出現するとばかり思っていたのだが」

 そういえばそうだね、とルークがしげしげと同調する。

「ぼくらは混沌の森だったし、エルフたちもそうだった。つまりレイアの意図による転位ならまったく無意味な座標に出現することはないはずなんだよ。だからこそ外から森に這入ってきたきみと会った時、真っ先にミリア王女の手先だと勘違いしちゃったわけなのだけれど……。出現地点はどこだったんだい?」

 もっともな疑問だった。レイアが本当にT67と“仲よくするため”にケイルを呼んだのならば、彼もまた先例と等しくこの地下神殿近辺に転位されて然るべきはずなのである。にも関わらず、なぜ遠く王城に転位させられたのか。

 ケイルは一瞬、その事実を打ち明けることを渋った。それは彼が言及を避けてきたことだったのだ。けれどもそれは後ろめたさというよりも面と向かって問われたことがなかったからであり、彼の無精に依るところが大きい。T67と、次いでリルドを見やって、正直に告げた。

「王城だ。気がついたら宝物庫のような場所に立っていた」

「なんと、貴方も王城に現れたというのですかっ……?」

 リルドは口に運びかけていた煙草をぴたりと止めて目を剥いた。ケイルは頷く。

「半月ほど前、賊の騒動とまったく同じ時刻だった。騒ぎからして、何か事件が起こっているのは明らかだった。あの場で見つかるのはまずいと思い、夜に王都を離れたんだ。そしてポルミ村に流れ着いた」

「そうだったのかい……」

 初めて語られる経緯に得心の相槌を打つサイ。第二の故郷である農村にてライアス率いる捜索隊とケイルとの悶着を目の当たりにした彼女。あの時にケイルが見せた賊への執拗な関心が、今の供述を経て、ようやく繋がったのだ。

 けれどもすべての同行者が納得したわけではなかった。それは無論、近衛兵団長だ。眼前の男もまた事件当時に現場に居合わせた。その事実は彼女にとって軽々と受け流せるものではない。

 カボル村や渓谷でケイルが見せた人を人とも思わぬ所業。その後の地獄のような光景。そして白い背景を血と臓腑に穢して斃れる近衛兵。それを映していた時の眼差しと等しく、切れ長の双眸はうちで渦まく激憤と疑念に剣呑な色合いを帯びつつあった。

 客人が持ちこんだ不穏にT67とスーラは顔を見合わせる。

「あなたたちが気にかける賊とやらの話を聞かせてくれませんか?」

 とても寛容に語り明かせる精神状態にないリルドを慮って、サイが先ほど姉には語らなかった込みいった事情を遠慮がちに説明した。

 それには単に事件だけでなく、唯一の目撃者であるミリアの証言によりケイルの潔白が証明されたことや、賊が反逆者に興味を示したという供述を辿ってここへ着いたこと、ミリアがその供述を王国側には伏せている不審まで、彼女が知りうる限りの子細が含まれた。

「王城でそんなことがあったんだ……」

 二十年前の反逆者騒動以来の王城内部での激動に、スーラはぼさぼさの長髪の内で目を見開いて慄いた。

「なるほど。私を賊となじったのはそういうわけか。はた迷惑な話だ」T67はリルドを横目に不機嫌そうに腕を束ねた。次いで鋼鉄の面頬のおとがいを指先でもてあそびながら思案の呟きをもらす。「しかし、その賊……。ミリアの寝室に現れたということは」

「うん。おそらくミリア自身の転位によるものだね」

 至極当然といった調子で何気なく発されたルークの言葉に、客人一行は弾かれたように彼を見た。愕然とする面々に立体投影の少年は肩を揺すってたじろぐ。

「だってそうだろう? レイアじゃないのならミリア王女しかいないんだよ。レイアを討つために転位させた傭兵団は性急にもこの森に出現させて失敗した。今回はそれを踏まえて自身の眼前に召喚し、きちんと言いくるめてから送り出したとか、そんな推理が妥当じゃないのかい?」

 そう。ミリアの正体を知った身の上で考えれば、それが自ずと導かれる結論なのだ。

 前日にライアスから賊騒動を聞き及んだジュディも同じ結論に達している。あちら側の手の者だと推断している。

 そしてそれはこの場の一同も同様だった。賊と相対し唯一生き残ったミリア。彼女への信用が崩壊した今、その証言も信憑に値しない。

「そもそも鉢合わせた近衛兵を皆殺しにするようなやつと正対して一人だけ生き残るなんて、都合のいい話だしね」

「そんな……では、私の部下たちは……。ミリア王女様を護ろうと身を挺したというのに、まさかそれが彼女自身の企みの所為だなんて……」

 リルドの細い体躯は、今にもくずおれんばかりだった。恥も外聞もなく頭を抱えて泣き叫んでも不思議ではないし、誰も責めようとはしないだろう。

 そんな、徹底的に打ちのめされて瓦解寸前の彼女の意気地を支えたのは、意外なことにT67の言葉だった。

「まあ、近衛兵に関しては必ずしも賊が犯人だとは限らないだろうが」

 含みありげに言って、ケイルをじろりと睨む。

 バイザーから窺える双眸は映す対象への不快を隠そうともせず冷酷な光を発している。彼女の腹心はケイルが危惧したとおりの邪推に傾いているのは明らかだった。

「他でもない事件当時に現場に居合わせ、誰にも見咎められず平穏無事に脱したなど、私にはそれも都合のいい話に思えるがな」

「あんた何言ってんだよ!」たまらず、当人よりも逸早く反論するのはサイだった。「姉ちゃんもさっき言ってただろ。ケイルはレイアに呼ばれたって」

「正体不明の賊はミリアに呼ばれ、そいつはレイアに呼ばれた。それはいいだろう。問題なのはそれからだ。そいつが近衛兵を手にかけていないと誰が証明できる」

「それはっ……そうだけど……」

 サイは言葉に詰まる。ケイルを見入ったまま逸らそうとしないリルドの瞳がより濃厚な疑念に濁っていく。皆の負の視線が言外にケイルの釈明を求めていた。

 その針の筵は、これまでケイルが同行者たちとの不和のたびにそうしてきたように、黙殺でうやむやにできるものではなかった。

 けれどもケイルはしばらく答えようとはしなかった。それどころではなかった。

「……っ」

 不意に舌打ちに似た息を継ぎ、後頭部の首筋に手をあてる。装甲の絡む不協和音が響く。

 不可解な所作へと寄越される不安と疑惑の眦を一身にした彼は、硬直したまま微動だにしない。

 彼は捉えていた。あるいは囚われていた。

 じり、じりじりじりじり、と。

 耳の奥から脳幹にかけてノイズが奔るような、奇妙な感覚に。徐々に強く、激しく、忙しなくなる感覚は、T67に遭遇した時のそれとは比にならない。王城で感じ、それ以来追い求めていた共振へと達しつつあった。

 反射的に部屋の出入り口である石廊を振り返った。何者かの姿を捜すかのように赤い眸を彷徨わせるが、そこには何もない。少なくとも彼の目には何も見えない。

 皆がつられるが、すぐにその面持ちを怪訝と気味の悪さに曇らせてケイルに戻した。ゼロットだけはいつもの重たげな目蓋を見開いて、猫のように爛々と輝く瞳を風道の音をこぼす正方形の闇からしばし離そうとしなかった。

「ケイル……?」

 緊張した様子で片手を胸元に寄せたサイは恐るおそる呼びかけた。ケイルは頻りに背後を気にしながら緩慢に一同に向き直り、声を押し出す。

「……違う。俺はやっていない。証拠はないが、記憶は確かだ」

「その記憶があてにならないと言っている」

 辛辣に吐き捨てるT67。ケイルの心ここに在らずといった茫漠とした態度に険悪を募らせた彼女は、話にならないとばかりに顔の前で手を振った。

「ヘカトンケイル・プロジェクトにおけるバイオロイドへの施術で最たるものを教えてやろう。それはサイバネティック・モジュールに適合するための遺伝子配列でなければ、戦闘に特化した身体能力の拡張でもない」

 厳かに継がれる言葉は、意識してそうしているというよりも、堪えが効かなくなったかのように彼らの世界の言語に切り替えられていた。

 掲げた手をそのままに自身の側頭部を人差し指で叩く。その苛立たしげな荒い所作は、こつりこつりと金属音が響くほどだった。

「それは脳だ。すなわち思考、反応、精神、記憶、感情……頭脳が司るすべての機能の改造だ。お前の頭の中は執刀、薬剤、催眠、洗脳、あらゆる手段を使ってぐちゃぐちゃに弄くりまわされている」

 そんな、説明的な内容とは裏腹な、ほとんど侮蔑のような指摘に、ケイルは首筋をおさえる以外になす術もなく立ち尽くしていた。

 マスクのうちでは、ほとんど表情を知らないはずの端整な眉根が、言いようのない不安に引き歪んでいた。共振は退かない。最悪のタイミングで詳らかにされようとしているヘカトンケイルの真実を、覚悟なくして聞くより他になかった。

「どうした? 押し黙って。頭の中の彼女に意見を仰いでいるのか?」T67は心底軽侮するように鼻を鳴らす。「アーカーシャ・ガルバ? 脳内の相棒? お前にしか見えず、声も聞こえず、触れられもしない存在? そんなものが支援システムだと。笑わせるな。それを一般的になんと呼ぶのか教えてやる。妄想だ。人為的な幻想であり、作為的な虚構だ」

「――妄想……?」

 ぐらりと足許が揺らぐような感覚に、ケイルは唾を呑みくだす。しかし口の中はからからで空唾を嚥下するだけにしかならなかった。

 妄想、空想、虚構。T67の言うことは正しい。それは他者からすれば到底理解に苦しむ迷妄、正気を疑うに足る狂的な幻覚でしかないのだ。

 ケイルのまなこは救いを求めて狂おしく泳ぐ。今や救済を求める相手は、相棒の少女ではなかった。心優しい同行者たちへと転じられていた。

 けれども、それは虫のいい話だ。いまさら彼らに何を求めるというのか。赤い眼鏡の内でなされるそれに気づける者はおらず、他者との交流を断絶するよう設計され、ひたすらに自閉するように計算され、それに愚直だった彼の無言の懇請は誰にも届かない。

「そしてお前は最後のオーシリーズ……。最強の自律型戦闘兵器を造りだそうと模索過程で製造されたプロトタイプである原初の九体の末席……。末の忌子であるお前は、おそらく、もっとも憐れな存在だ……」

 T67の静かな憤怒の舌先は、明らかにケイルではなく、その背後。そんなものを造りだしてしまった人類の愚かしさへと指向していた。

「ヘカトンケイルの中でも原初の九体であるお前らは飛びきりに狂っている。病的な脳施術によりある悍ましい狂気が刷りこまれ――」

 ふつりとT67の呪詛が途絶えた。いや、彼女は話し続けている。それが相手に届かなくなったと知らずに忌々しげに調伏を続けている。ケイルの耳にだけ届かなくなったのだ。

 彼の中のもう一つの人格が与えられた権限を最大限に行使して、彼の聴覚を占有したのだった。

 そんな真似ができるのは、無論、一人しかない。

 久しく、ケイルの視界に鈴蘭のような稀薄な姿が現れる。

『まったく。黙って聞いていれば好き勝手言ってくれるわね』

「……アーシャ」

『あなたはやっていない。宝物庫に出現して、近衛兵の死体を発見し、王都を脱した。これは事実よ。私が保証する』

「保証……。お前に保証できるのか?」

 ケイルはぽつりと言った。なぜ今まで応答しなかったのか、なぜ話がヘカトンケイルの核心へ触れようとするたびに遮るのか。存在を疑うような凝視と等しく、その問いにはすべての疑念がこめられていた。

『……ちょっと、やめてよ。そんな目で見ないでよ……』

 アーシャは傷ついたような表情をうかべ、勝ち気な顔立ちを悲愴に翳らせた。

 だが今やケイルはそれに心を痛める気にはなれなかった。頓着する余裕もなかった。留まるところを知らない共振はもはや頭蓋の内を痺れさせるほどだった。

「T67の話は正しいんだろう? だとしたら、俺の妄想であるお前の保証は、俺の記憶と等しく、あてにならない。違うか?」

『違うっ。傍目には妄想であっても、私はあなたの中に他者として存在している。証人なのよ。わかるでしょう?』

「……わかる。俺の思考に依るなら理解している。……だが、その自分の頭が信用できないのなら、俺は何を信じればいい?」

 ケイルはついに両手で頭を抱えた。もはや共振は以前のそれをゆうに超えていた。蠕動に変じた痺れ、ずくんずくんとした脳幹の疼きは、まるで、恐ろしい何かの脈動、おぞましい何かの跫音のようだった。

 会話には関知できずとも、恐れを知らなかった異形の戦士が初めて見せる尋常ならざる所作は周囲に人々にも彼の苦悶を知らしめるに足るものだった。同行者たちにとっては戦慄し、恐怖さえ覚える事態だ。

 ゼロットもケイルに視線を戻し、たまらず彼に歩み寄ろうとするが、サイは咄嗟にその腕をつかまえた。呼気も忘れて凝固しながら、今は近づくべきではないと首を振る。

 無音の恐慌の例外は昏々と眠り続けるレイアと、ケイルの意識にのみ在るアーシャ。実体を現実に置かぬ二者だけだ。

『私を信じればいい』

 アーシャは菩薩の名に相応しい優しげで、どこか儚げな微笑みをうかべ、諸手を広げてケイルに迫った。

『そうよ。誰に何を言われようが関係ないわ。これまでのように、これからも、私たちだけでわかり合えればそれでいいじゃない』

 ケイルの視野に占める白い少女以外のすべてがぼやけた。突然の出来事にケイルは目を疑うが、すぐに意味を察して慄く。焦点の不調は、相棒の少女が視覚野にまで自閉の魔手を伸ばしていることを意味していた。

『今からでも遅くないわ。ここを離れて、二人だけで生きていきましょう。どこか山奥でひっそりと暮らすのよ。あなたは最初から独りであろうとしていたのに……ごめんなさいね。私が優柔不断なばかりに、余計な繋がりを築かせてしまって……』

「……なんだ、それは」

 これまで、ケイルは幾度か同行者と別れようとしたことがある。アーシャはけっして肯定しようとはしなかった。表だって否定こそもしなかったが、どちらかといえばやんわりと後ろ髪をひいたのは彼女自身だ。

『でも、今となったらはっきりわかる。転位の魔道も世界の終焉も知ったことじゃない。あなたが気にする賊だってどうでもいい。私たちは、私たちのためだけに、二人きりで在り続けましょう』

「お前は……何を言っている」

 しばらく姿を見せなかったアーシャではあったが、ケイルと記憶を共有する以上、これまでに語られた真実を既知している。その上で、すべてを放棄して隠居するなど、あまりにも身勝手な物言いだった。

 しかし、考えてみれば、ケイルの動機となったそれらの事項に彼女が乗り気だったことは、ただの一度もないのだった。ケイルへの積極的な協力も、元をただせば彼の決定に流動的だっただけだ。

 そんな彼女が終始、専心する事柄は、ただ一つ。

『あなたのために、そうするしかないのよ……』

 言葉を失ったケイルがようやく何事かを言いかけ時、場の空気が一驚に塗り染まった。

 現地人たちが一斉にレイアのほうへと顔を振り向かせたのだ。

 先ほどケイルが共振に駆られて見せた一顧に酷似した奇行は、彼らもまた共振に類似した抽象的な感覚、魔術の根源たる精神動力の変動を感じ取ったからに他ならない。絶えず室内を満たしていた清らかな魔力の匂いに初めて揺らぎを覚えたのだ。

 皆の散大した眼差しの先で、レイアは覚醒していた。

 白く霞みがかかった新緑色の瞳は天井の亀裂を映したまま瞬きも忘れ微動だにしなかったが、やがて己の存在を現実へと引き戻すかのように霞みが晴れていく。

「喧嘩しないで……。仲よくするために呼んだのだから……」

 衰えた気管からしぼられる弱々しい声は、けれども強い意思を宿していた。それを体現するかのように、痩躯を支えるにしても細すぎる腕をわななかせ、懸命に身を起こそうとする。

「レイアッ。無理をしないで」

 慌てて駆け寄ったスーラの手を借りて面々に正対したレイアは、二体の異形を視界を認め、はたと訝しげに目線を彷徨わせた。

 小首を傾げて、吹けば飛ぶようなか細い声でぽつりと疑問を口にする。

「あれ? ミリア姉さまが呼んだもう一人は……? すぐ近くに存在を感じたのだけれど」

 意味不明な言葉に眉根を寄せて沈黙する一同。スーラが語っていた容態から、あるいはそれを耄碌として捉えた皆の面持ちは憐憫とさえいえたものだった。だが違う。現状を正しく理解しているのはレイアだけだった。

 それは事態の理解とはほど遠かったけれど。

「待て。い、いつからだ」

 次いでそれを察知したT67は慄然とした呟きをこぼした。

 レイアが捉えたのが魔道の力による個の存在ならば、彼女が捉えるのは集熱センサーによる敵影だ。

 怒らせた眼差しで聞き耳をたてるように虚空の一点を凝視して、微細な熱の残滓を辿った彼女は、とてもにわかには信じがたい事実に蒼褪めた双眸のうちで瞳を震わせる。

「今この部屋には八人分の熱源があるぞ……? 一人増えているッ!」

「――あぅ」

 音はしなかった。

 あったのは小さな悲鳴だけ。文明の断末魔とするにはあまりにも果敢ない声だった。

 レイアはがくんと顎を沈ませ、自身の胸を見下ろした。

 文明の鎮護者としてすべてを犠牲にしてきた彼女が最期に目にしたのは、姉が転位させたもう一人の殺意、血を分けた片割れの掛け値なしの悪意だった。それはすなわち、心の臓を両断するかたちで白いドレスから生える、己の鮮血に染まった黒い刃。

 無造作に刃が抜かれ、レイアは力なく仰臥した。なけなしの生命力を奪い去られた顔立ちは眠りにつく時と同様にあどけなく、違うのは、開かれたままもう自力では瞑られることのない瞼と、その内で色褪せる瞳だけ。

 痩けた頬を伝う一筋の涙は、命と等しく無情にこぼれ落ちて、寝具に拡がる赤い滲みの中に溶け消えた。

「そんな、レイア、いや……。いやああぁああああ!」

 スーラの悲痛な絶叫がこだまする中、寝具の傍らに、その異常は顕現した。

 じわりじわりと虚空に墨が滲むように浮かびあがった幾つかの射影は、やがて輪郭となり、色彩を帯び始める。

 全身をすっぽりと覆う金属繊維で織られた鈍色の外套。ナノマシンが描きだす幾何学的な模様はレイアの返り血を浴び、光学迷彩としての用を失っており、躊躇なく取り去られ、それは白日に躯を曝けだす。

 それは人のかたちをしていた。

 直立する男のようだった。

 けれども、あまりにも、途方もなく、異形だった。

 人工筋肉で隆起する強化外骨格は、まるで人体の生皮を剥いだように赤黒く脈動し、その装甲板は幾度となくかぶった流血がこびりついたかのように錆び爛れていた。

 縦横に入り乱れた到底用途が定かでない無数の突起や管は、傷みというよりも数知れない激戦で適応し相応しいかたちに形成されていったのだろう、微塵も劣化の印象を抱きえない。

 熱源さえも欺くナノマシンの外套を取り去った作用により全身から立ち昇る科学的な湯気でさえも、それが放散すると瘴気の具現を思わせた。

 際立つのは、背から生えた二対のマニピュレーター。まるまると肥えた大蛇のようなたくましい触手は独自の自我を有しているかの如く節足状の鱗を軋ませ、威圧するように三つの爪をきちきちと噛み合わせている。

 見るものに威容以上に恐怖を植えつけるそのおぞましい体躯は、人体と魔獣との融合を思わせ、あらゆる憎悪の化身たるその醜悪な立ち姿は、機械と邪悪の癒着を彷彿とさせる。

 誰もが目の前の出来事を現実として受け止める段にさえ至らず、混乱の極致にある中、ケイルだけはまじろぎもせずそれを見つめていた。いや、それと見つめ合っていた。

 頭部を完全に覆い隠した積層の強化グラスバイザー。あらゆる光明を吸いこんで、二度と外には出さない深淵の常闇を湛えたのっぺらぼう。まさしく金魚鉢のような相貌と猛る甲虫と見紛う形相は、まるで初めて鏡を目にした動物のように互いを正視していた。

 昨日の機械化兵装同士の遭遇を思わせる二者だけの間でなされる疎通には、けれども奇妙なことに、あの時のようなあって然るべき驚倒はなかった。

 おもむろに右手を掲げた怪人は、顔面の目許にあたる部分であろう箇所を人差し指と中指でつつき、その指先をケイルに転じる。顔は見えずとも、今しがた無力な女の命を非業に奪ったとは思えない、正気を疑うに足る愉快げな所作だった。

 ケイルはそれに呼応するように首筋から右手を離した。根源との邂逅を果たし、彼を苛んでいた共振は幻のように消え去っていた。待望の出逢いを果たしても、彼の心理で噴きあがるのは突如として現れ無辜の命を虐げた明確な外敵への憎悪の衝動だった。

 隻腕はそのまま、刹那の迷いもなく背のレイピアの銃把へと向かう。

 据銃するケイル。身構える怪人。

 見敵という出逢いから、戦闘というあまりにも救いのない交流を開始しようとする彼ら。友好というにはほど遠い心境にある両者。

 しかし、言葉を要さず行為で示すその姿勢はどこまでも通じ合っていた。双方の鬼面の内、暴虐の悦びに囚われた屈折した笑顔は兄弟のように似通っていた。

「ああぁ……。なんてこと……。世界が、世界が終る……!」

 文明の終焉を告げるスーラの慟哭を合図に、異形たちの火口は切られた。




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