2 姉御
くいしばった顎から喰らったばかりの肉と己の血とがまじった桃色の吐瀉物をだらだらと止めどなく垂らし、狼男は悶絶する。
無数の弾丸に四肢を貫かれ、体幹を斬り裂かれ、いたるところから大量に出血し、破断した腹部から臓物の一部がこぼれていた。腐葉土塗れになった腸であろう体内器官を尾っぽのように引き摺りながら、それでも逃れようと、森林のより深い闇に向かって這い進んでいる。
不意に頭の上についた三角形の耳がぴくりと反応し、弾かれたように振り向いた。たった一つの表情しか知らないはずの野獣の眸が、その時、はっきりと本来ならば持ち得ないはずの感情に染まった。それは戦慄。
集落からの篝火の淡い赤光を背負い、射影に染まった奇怪な人型。暗黒に浮かびあがる隣接した二つの赤い満月。怖気を誘うその姿は、狼男の粗暴な脳みそにも死を司る何ものかの存在を想起させ、躊躇のないその足取りは、自らの滅びの運命を連想させたに違いない。土を掴む鉤爪から急速に力が失われていった。
機械を纏いし男、H09は手前で立ち止まり、虫の息である異形の怪物を見下ろした。甲虫のような面頬からはいかなる感情も読み取れないが、そのうちの素顔もきっと冷たい無表情であることを確信させる抑揚を欠いた声音で、問いかけた。
「おい。言葉わかるか?」
今一度、三角形の耳がぴくりと動くが、返事はない。ぺたりと顎を伏せて浅い呼気をもらすばかりで、H09を見ようともしない。狼男を狼男たらしめていた凶暴さは消え失せ、今や気力を失い項垂れる老犬に成り果てていた。
幻影の白い少女は、大胆にも狼男の鼻先に屈みこんだ。
いささかの反応も示さない狼男の目を覗きこみ、へ、と唇を歪める。
『無駄ね。言葉を解するほどのおつむがあるとは思えない』
「なんなのだろうな、こいつらは。まっとうな動物には見えないが」
『わかんない。おとぎ話の狼男のように人間が変身した姿、というよりも、もともとこういうかたちの種として存在しているのかもしれないわね』
「……常識的に不自然な形態という点では、俺たちの世界の“アレ”と似ているが」
『そういう意味では類似点はいくつかあるけれど。でも戦闘能力は全然違うし――』
不意にアーシャは会話を打ち切り、早口でH09に告げる。
『背後、熱源複数。近づいてきてる』
途端、H09は弾かれたように身体を翻す。如何にも強固で重厚な外観からは連想できない機敏な足運びで砂塵を舞わせながら、腰を落とし、小銃を跳ね上げる。
銃口と直線で結ばれたそこには、数人の男の姿があった。
土埃と血に汚れた野良着姿の彼らは、村の男たちだった。大きく肩を揺らして顔を引き攣らせ、その場で固まってしまう。銃口を向けられた故ではなく、H09のあまりに素早い身のこなしに一驚したのだ。その手には鍬や鋤、鎌が握られている。
「……襲おうとしていたわけでもなさそうだな」
剣呑な農機具を携える村人たちであったが、不安げに胸許に引き寄せた得物に威圧はない。彼らは戸惑っているのだ。先の狼男の慟哭を耳にし、様子を見に来たその先で、仇敵たる半獣人の傍らに立ち尽くす、あるいは狼男よりも面妖ななりをした存在と遭遇したのだから、その硬直も無理からぬことだった。
H09はゆっくりと小銃を下げ、声を張る。
「おい。言葉わかるか?」
狼男に向けたものと同様の言葉ではあるが、緊張を解くために、声質は若干柔らかくなっていた。
もっとも、この場合、言葉の内容も声音の硬軟も関係がなかった。ある意味、狼男と同様だ。彼の発声を受けた村人たちが驚いたように顔を見合わせ、恐るおそるはっした言葉は、
「――――……。――?」
H09の知らない言語だったのである。語尾から辛うじて疑問文であろうことを理解できる程度だ。ならば逆説的にH09の言葉も彼らに理解できるわけがない。
「アーシャ、翻訳できるか?」
『多少の田舎訛りはあるようだけれど、城で聞いたのと同じ言葉ね。実はもう言語学アーカイブと照らし合わせてあるの』
幻影の少女は、腰に諸手をあて、自慢げに頷く。
『精度は七十五パーセント、不明な箇所は前後から推察した意訳でいいのなら、翻訳できる』
「上出来だ。やってくれ」
そんな会話は露知らず、あるいは異相の男よりも我が目を疑わせるに足る浮き世離れしたいでたちである白い少女の姿も声も認識できない村人たちは、傍目にはただじっと沈黙しているようにしか見えない異形に、不安そうにぽつりぽつりと言葉をかけ続ける。
その発声が同時通訳のように時間差なく翻訳され、やがて声の質までもを吹き替え映画のように模倣した音声がH09の耳に届き始めた。
「あなたは一体誰ですか? 助けてくれたのはあなたですか?」
「そうだ。誰かは説明できないが、敵ではない」
H09の言葉もまたアーシャがこの世界の言語に置換して発声する。村人の声と同じく、彼の低く深い声質をコピーしていた。当然、本人の口からはっされているわけではないのでH09の耳には他人の声のように聞こえる。しかし、不自由を感じさせない調子で、彼はあくまでも淡々と続ける。
「情報が欲しい。話を聞かせてくれ」
村人たちはその返答を受けて、ますます眉根を寄せた。再び顔を見合わせるとひそひそと小声で囁き合う。常人であれば聞こえない音量の密談だったが、およそ常人とはいえないH09の聴覚はもらさずに捉えていた。
「喋ったぞ。人間だ」
「情報とはどういう意味だ? 王都の兵士か?」
「しかし、あんな鎧は見たことないぞ。気味が悪い。まるで虫の化け物だ」
「おい、口を慎め。あのかたは恩人なのだぞ」
「それは本当か? 本当に彼が助けてくれたのか。奴らの仲間じゃないのか。だってあの魔物、まだ生きているぞ」
不穏な距離感をけっして縮めようとはしない村人たちに、アーシャは腕を束ねて鼻を鳴らした。
『まったく埒が明かないわね。どーする?』
「こいつらの仲間か……」H09は足許で浅い呼気を鳴らす瀕死の狼男にちらりと視線を落とした。「違うということを証明してみるか」
村人たちに通じた言語であらためて話しかけてみようというほどの興味は、外敵への容赦に等しく、彼は持ち合わせていなかった。おもむろに小銃の銃口を転じ、淀みなく引き金を絞った。
したたかに鞭をくれたような瑞々しい破裂音を伴って狼男の頭の鉢がふき飛び、衝撃で液状化した脳漿がどろりと腐葉土に滴り落ちる。狼男は小刻みに痙攣したのちに、動かなくなった。
村人たちの間でざわめきがたった。目の前で起きた現象、いや、超常は、先ほど集落で起きた、襲撃者が突如として次々と斃れていくという、この世のものとは思えぬ神代の奇蹟と、目前の異形とを結びつけるには十分な光景であり、また瀕死であるとはいえ狼男を葬ったという事実は、敵の敵は味方、そんな単純な方程式を導くに足るものでもあった。
物騒に携えていた農機具をおろし、瞠目を男に縫いつけたまま、どこか畏れおおく訊ねる。
「あなたは……魔道士様なのですか?」
「ちょっとー!」
そこで突然、女の怒声が響いてきた。
「いつまで油売ってるんだい! 戻ってきて手伝えっての!」
濃い雑木の間隙から篝火がこぼれ射す、村の方向からだった。女人特有のよく通る高音は、けれども淑女というにはほど遠い大音声である。
「ちょっと待ってくれ! 今、助けてくれたっていう人が」
一人が振り返って返事をするが、うるせー! と間髪を容れずに飛んできた矢のように鋭い罵声に遮られる。
「ぐだぐだ言ってねえで怪我人運ぶの手伝えっつってんだよ! その助けてくれたって人も連れてきな!」
たまらず、村人たちは母親に叱られた子供のように首を竦めた。苦笑しながら村に取って返す。一番の年長である初老の村人はその場に留まり、恭しくH09を見やった。
「すいませんが、我々の村に来ていただけますか? 貧しい村ですし、あんなことがあった直後ですので、もて成しはできないかもしれませんが」
意見を求めるためにアーシャに横目を送るH09。
アーシャはおとがいを村の方向へしゃくった。
『せっかく友好的に接触できたんだし、情報を収集しておいても損はないでしょ? 多少の衆目は遅かれ早かれ避けられないだろうし』
しばしの逡巡を経て、H09はアーシャと村人、双方に向けて首肯した。
村は集落と呼ぶに相応しい規模だった。井戸の四囲を囲む民家の数は二十にも満たない。すべて藁ぶき屋根に木造の平屋で、切り株を縫うように軒を並べていた。
はずれには農耕地や納屋、家畜小屋が見受けられたが、そこと森林地帯との境界は曖昧だ。森の足の速い陽は完全に没している。自然と人の営みを辛うじて隔てるのは、慌てて準備をした篝火の無秩序に散見される灯火にすぎない。
H09はその不可視の境界線付近でおのずと足を止めた。無分別に踏みこむことを躊躇ったのだ。彼を導いた男は酸鼻きわまる騒乱へと駆けこんでいった。
頼りなく揺れる橙色の寂光が駆けまわる村民たちの色濃い影を錯綜させ、あたかもそこここに転がる亡骸の魂がいまだ己の死に気づけずに、恐慌をきたしたまま逃げ惑い続けているようだった。
不気味な影画の主である生ある村民にしたところで、到底平静の状態にあるとはいい難い。痙攣しているのではないかというほどに激しく震え、膝を抱いて蹲る少年。どう見ても事切れている女の首筋の裂傷を手で押さえて、周囲に助けを求めている青年。まだ五、六歳であろう小さな亡骸の前に膝をつき、抜け殻のような無表情で頭部さえ定かでない肉片を拾い集める初老の女。狼男の死骸を気が触れたように泣き喚きながら鍬で殴打している老人の姿もあった。
年齢も性別も行動も様々ではあるが、皆が衣服や手を血と砂塵に黒ずませ、虚ろに濁る眼差しを真っ赤に充血させていた。涙腺を刺激する臭気には、普段はこれほど多くとらない篝火のいぶりくささだけではなく、外気に曝されたばかりの血と臓腑がはなつ咽返るような生臭さも含まれている。
「……戦場はどこも変わらないな」
恐慌のただ一人の例外であるH09は、村のはずれに立ち尽くしたままぽつりともらした。いや、もう一人、恐慌だけでなく凄惨な光景からも例外であるアーシャは不思議そうに小首を傾げる。
『そう? 私たちの知ってる戦場には、民間人なんてめったにいなかったじゃない。死体とそれを分解してエネルギーに変える無人戦闘兵器が動きまわってるだけでさ』
H09は嘆息し、小さくかぶりを振った。
「まったく、救われるよ、お前には」
村の中央付近にある比較的大きな家屋の前、H09を案内した禿頭の村人が一人の女と話をしていた。
興奮冷めやらぬ様子で顛末を説明する男。女は半信半疑といった渋面で話を聞いていたが、男が手振りで示す村の一隅に異形の姿を認め、ぎょっと目を剥いた。
半狂乱で救護に追われる人々も、やがて夜陰で佇立する面妖な人型に気づき、悲鳴をあげて後ずさった。予期せぬ来訪者を受け、村は再び騒然とした雰囲気に包まれかけるが、それは女の思いがけない敢行によって静まった。
心配いらないとみなに向かって声をかけながら、彼女は躊躇いない駆け足でH09に近寄ると、気安い調子で片手を挙げたのだ。
「やあ」
彼女こそ先の怒声の主だった。三十歳前後だろう。背丈は、それこそH09に較べたら頭一つ分低いが、村の男と並んでも見劣りしないほどにすらりとした長身であり、農作業で砂埃が染みついたチュニックの胸部の豊かな双丘が女らしい輪郭線を描いていた。
手入れすれば見栄えるであろうブロンドの長髪は、女らしさよりも動きやすさを優先したように後ろでひっつめにされ、やや勝ち気な印象のある整った顔立ちだが、今は拭い損なったような血糊で台無しになっていた。
H09に向かって右手を差し伸べるが、その手はどこよりも血に汚れている。女もそれに気づき、焦って引っこめた。多弁を思わせるふくよかな唇に苦笑いの色がうかぶ。
「ごめんごめん、握手はまた今度ってことで。またすぐ行かなきゃならないからさ」
「いや、いいんだ。それよりも少し訊きたいことがある」
「あんたがかい?」
女はきょとんと卵型の目を丸くすると、また違う色合いの苦笑に口角を持ち上げて小さく笑った。改めてH09の奇怪な姿を爪先から頭部までしげしげと睨めまわす。
「変哲な恰好して。そりゃこっちの科白さね。ま、悪いけど話もまた今度ね。まだ息がある人もいるから。とりあえずお礼と自己紹介がしたかったんだ。あたしはサイミュス・ミレン・メイフェ。サイって呼ばれてる」
彼女、サイは少年のような屈託のない凛々しい笑顔をつくって、力強く頷いた。
「あんたが助けてくれなかったら、この村は全滅してた。恩人だよ。ありがとう」
「いや、べつに問題ない」
「おいおい。お礼をいわれてそんな言い草する奴があるかよ。本当にありがとう」
「ああ……。どういたしまして」
「うん。それでいい。それで、できれば手伝ってくれるかい? 怪我人をあの大きな家まで運んで欲しいんだ。この様子じゃあ落ち着くまで夜通しかかるだろうし。明日の朝までここでこーしてつっ立っててもしょうがないだろ」
今度はH09が面頬のなかで目を丸くした。
恩人だと言った矢先に、ずいぶんな物言いである。しかし、気兼ねがないという意味では、サイの物怖じしない奔放な言動は親しみを覚えて然るべきものだった。ましてや面妖に過ぎる、不気味とさえいってしまえる姿形をしたH09と相対しても戸惑いをおくびにもださないのだ。先ほど村人たちが苦笑しつつもサイの声に従った理由も推し量れようものである。
そっとくぐもった嘆息をもらし、H09は頷いた。
「わかった。手伝おう」
「そっかそっか。じゃあ、どうせ血塗れだ。ここで汚しちまいな」
サイは改めて血に塗れた手を差しだす。
H09が怯まずにその手を握り返すと、サイは軽快に笑った。
「あは。意外と暖かいんだね」
「いや、そんなはずは……」
彼の手は指先まで合成金属の薄い装甲板で被われ、間接部でさえ地肌は一切露出していない。譬えるなら鋼鉄製の手袋だ。その表面温度は、温もりと形容するにはほど遠いはずだった。
サイは違う違う、とかぶりを振りながら笑って見せる。
「手が暖かいって意味じゃない。ここさ、ここ」
とんとんと自身の豊かな胸を弾ませるように叩いてから、サイは家屋のなかへと駆けていった。
『……うあー、かっけー。男勝りの姉御って感じ』
揶揄するように唇を歪めるアーシャ。
H09は肩を竦めると、最寄りの怪我人に向かって歩き始めた。