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異形の魔道士  作者: IOTA
44/60

41 魔道士の唄




 一方、王都。

 時系列がやや乱れてしまうが、ケイル一行が世にもおぞましい魔窟たる混沌の森を戦々兢々と彷徨い歩いている頃、同じ陽のもとでこうも懸け離れた光景があろうかというほど華やかな賑わいに彩られた広場にて、ライアスとアカリはのん気にも人形劇を見物していた。

「突然辺りに吹き抜けた生温かい風、それはその場に居合わせた者たちに不気味な沈黙をもたらした。ごくりと誰かの唾を呑みこむ音でさえ響く静けさが続き、次の瞬間、喉も裂けよと迸る兵士の悲鳴!」

 ぎゃー、と悲鳴を真似る語り部の叫びに、小さな舞台を食い入るように見つめていた子供たちも甲高い悲鳴を発した。

 思わずライアスもびくりと肩を震わせてしまう。隣のアカリはそんな二十代後半の青年を冷ややかに瞥見する。

 小さな舞台上では、手に被せて操られる人形の兵士が突如現れた黒い人形に覆いかぶさられ、もがいていたが、ぱたりと事切れる。すると今度は人形ではなく、木の板を切り抜いて作ったであろう、いわゆるハリボテの一団がぞろぞろと現れる。黒い魔物の群れだった。

「気がつけば、南門の周囲は人喰いの魔物だらけ! すっかり取り囲まれ、逃げ場を失った人々は門扉に殺到。兵士たちは剣を抜き、押し寄せる魔物の大群と真正面からぶつかり合う。外壁の上から果敢に放たれる矢が驟雨となって降り注ぐ。鳴り響く剣戟! 裂帛の喊声!」

 それはいつぞやの南門での魔物との戦闘を演じているに違いなかった。

 ハリボテの魔物の大群に、同じくハリボテの兵の軍勢がぶつかりあい、激しく上下左右に揺れている。うぶな子供たちの眼差しと握り締めたこぶしにも自然と力がはいる。だが、魔物のハリボテの大きさに較べ、兵のハリボテは小さい。三分の一ほどでしかない。事実に則した写実的な描写といえる。

「しかし、戦力差は火を見るよりも明らかだった! 斃しても斃しても無尽蔵の如く夜陰やいんから現れる人型の悪鬼に、次第に兵たちは疲弊し、一人、また一人と毒牙の餌食に……」

 子供たちにも引けず劣らず真剣にその安普請な戦闘劇の推移を見守っていたライアスは、慙愧の念に駆られるように唇を固く食い縛った。自ら手塩にかけたわけではなく、緊急任務による仮初めのものだったとはいえ、大勢の部下を亡くしたことを改めて思い知らされたのだ。その場には居合わせなかったので当事者でこそないけれど、関係者には違いない彼であるからこそ、ついつい感情移入してしまうのは無理からぬことなのかもしれない。ただ、彼の場合は単純に感受性が豊か過ぎるきらいがある。

「いつしか、留まることを知らぬ魔物どもは南門周囲を見渡す限り、雲霞のように広がっていた! そのおぞましさたるや暗黒の大河の氾濫の如し! 魔物に生きたまま食いちぎられ、その腹のうちに収まるというこの世のものとは思えぬ悪夢を、誰もが己の運命であると察し、絶望に打ちひしがれていた」

 現に、劇の推移から今後の展開を気取ったライアスは曇っていた表情をぱっと喜色満面に一変させ、アカリの腕にそっと触れ、そろそろ彼が出るよ、と耳打ちする。この手の手合いは感動を共有しようとよかれと思ってこのようなことを口走るのだろうが、一緒に見物する者からすればありがた迷惑でしかない。

「ふぁっく……」

 アカリはおよそ少女に似つかわしくない険悪な表情で、シェパドが度々口走っていた悪態であろう言葉を吐き捨てた。幸いライアスはそれが悪態であることすら知らない。なんだかライアスと行動を共にするうちにすれてしまった印象が強いアカリである。

 小舞台の脇では道化のように着飾った語り部の口上が、これまでの闊達で歯切れのよいものから、もったいぶるような延べ口へと移ろう。

「しかし、そこには一人、奇妙な男がいた。いや、一人というべきなのか、それとも一体と数えるべきなのか、わからない……。その男は鋼鉄の筋骨と見紛うからくりの甲冑に全身を覆われ、その双眸はうちの抑えきれぬ義憤を映したように真っ赤に輝いていた……」

 身動ぎもせず固唾を呑む子供たち。まばたきする間も惜しいと見開かれたつぶらな瞳には、舞台上へとせり上がってきた新たな人形がすずなりに映っていた。

 語り部の達者な口上がなければ岩の魔物と勘違いしてしまいそうなごつごつとした灰色の人形は、ずいぶんとデフォルメされた機械化兵装に他ならない。前もって好意的な印象を抱いていなければ、どちらかというと忌諱されそうなその不気味な風貌は、実物の特徴をよく捉えているといえた。

「その男だけは、泣き叫ぶことはおろか、逃げ惑うことも、ましてや絶望に打ち震えることもなく、たった一つの身で魔物の大軍勢に真正面から対峙していた。人々は一時恐慌も忘れ、彼の背を魅入っていた。我が目を疑い、次にその男の正気を疑った。……しかしそれは間違いだった」

 人垣という光景は、その物珍しさだけでさらなる来客の呼び水となる。いつの間にか、道往く大人たちもその大勢が足を止め、興味深そうに小舞台を覗きこんでいた。劇の題材が、最近でこそ収穫祭を臨んだ盛り上がりの陰に隠れてしまってはいるが、数日前まで王都中を席巻していた異相の戦士の敢行ともなれば興味を持たない都民のほうが珍しい。

「その夜、人々は知ることになる。勇者と呼ばれる存在がうつつにあることを。その日から、人々は夢物語の英雄譚や、魔道士の唄を妄言だと笑い飛ばせなくなる。そして魔物どもは思い知ることになる! 何百、何千といくら頭数を揃えようと到底敵わぬ圧倒的な力の存在を。悪鬼羅刹たるやつらが常闇から生れ落ちて一度も感じたことのない死の恐怖を、その原始的な記憶に刻みつけることになる!」

 猥雑とした広場の片隅が、彼らにとっては今や大劇場のように感じられていることだろう。徒ならぬ緊張と興奮を宿した人いきれに満たされるその寸劇にのみ傾く目と耳は、日常の雑事や雑音を忘れさせたに違いない。

「その男は異形の戦士! 恐れを知らぬ戦闘の化身! 魔物にとっての悪魔! 彼こそが、ライガナ王国に伝わる大鷲の血脈、イーグルボーン!」

「い、イーグルボーン……!?」

 聞きなれぬ名に、一気に現実に引き戻されたライアスは慄く。

「ださい……」渋面でにべもない感想をもらすアカリ。「あの人、王都ではそんな風に呼ばれてるの?」

「いや、まあ、あくまでも劇だからね。きっとその辺りは創作だよ」

 極一部の人間のみが知るケイルという名はおろか、もちろんその英雄がその実はヘカトンケイルと呼ばれる異界の兵器であることなど誰も知る術を持たないことなのだ。けれども劇の主人公が名無しでは締りが悪く、語り部が勝手な名前をつけるのも不自然なことではない。それにしたところでライガナ王国に伝わる大鷲の血脈とは、ずいぶんと都合のよい脚色だが。

 ともあれ、すっかり興が醒めてしまった極一部の例外である二人を除き、これから語られるであろうそのイーグルボーンとやらの八面六臂の活躍劇を大人も子供も期待に瞳を輝かせて今か今かと待ち受けていた。

 その様子を自尊心を隠そうともせずに得意然として見渡していた語り部だったが、不意にばつが悪そうな咳払いを一つ。

「えー……。ご静聴、ありがとうございました。予告編はここまでとなります。本編は明日の収穫祭当日に披露しますので、乞うご期待!」

 口さがない不平不満と落胆のうなり声が重低音の大合唱となって寸劇の幕はおろされた。

 劇のおともに屋台での軽食の購入もお忘れなく、と人形劇の出資者であろう飲食店の宣伝を懸命にがなる語り部だったが、日常を取り戻し雑踏に散っていく人々の耳に届いているかは疑わしい。名残惜しげにその場に留まるのはささやかな浪費も期待できない子供たちばかりで、予告編によって画策したのであろう販売促進が成功したとは言い難い。

 異形の戦士の冒険譚、といっていいものかはわからないが、一時はくだんの人物と行動を共にし、一端とはいえその特異性を垣間見て、そして危険な地へと向かう彼らと別れてきたライアスとアカリの脳裡もまた、どこぞの飲食店の思惑など入りこむ余地がなく、むしろその劇によってともすればわきあがる憂慮が誘発されていた。

 にぎやかな人波をそぞろ歩く二人の面持ちは物思いに翳っている。

「みんなのことが心配だね?」

 アカリはライアスの横顔を見上げて言った。自身の心内も確認するような問いかけだった。

 数晩にも満たない付き合いではあったし、ケイルから感じた怖気も拭いきれてはいなかったが、それでもアカリも彼らの身を按じるほどには好いていた。半年前に血縁を失い、つい数日前に流血の惨事によって結ばれた仮初めの家族までもを失ってしまった彼女にとっては、ケイルたちは濃密な時間を過ごした唯一存命する友人なのである。

「……我らが英雄、イーグルボーンがついているから、きっと大丈夫さ」

 そう言って笑おうとするライアス。

 以前、サイとリルドも同じような問答をし、同じような結論に達していた。そしてまた同じように隠しきれぬ不安をその態度に滲ませていた。はかなげに目尻を下げるライアスの笑みはあまりに弱々しい。慣れない冗談は痛々しく、誤魔化そうとしたわずらいを却って如実に吐露しているようでさえあった。

 自身でもそれに気づいたライアスは、微苦笑をそのままに力なくかぶりを振った。

「……ごめん。心配に決まってるよ。向かった場所が場所だからね……」

 今でも後悔はしていない。向かう場所が場所だからこそ、ライアスは恥を忍び、涙を呑んで、断腸の思いで身を引いたのである。ただ、仮に彼がもう少しだけ恣意的な判断に依る人間だったなら、保身なく、躊躇もなく、彼らと共にあり続け、今頃はサイの隣で呪われし森を歩んでいるのも事実だった。

 なにかにつけて気落ちばかりしている性分だけは変わらないライアスであったが、旅立つ前、まだ一介の王国軍人に過ぎなかった頃の彼では、自身の危険を厭わないほどの気概は持ち合わせていなかっただろう。

 隣のアカリも俯き加減で長い睫毛を一憂に翳らせて、そうだね、とか弱い声音で同意した。

 しばし言葉もなく黙々と歩を進める二人だったが、あ、と。アカリは如何にも何かを思い出したというような、ややわざとらしい所作で顔を起こした。

「そういえばさ、さっきの人形劇でわからないところがあったんだけど」

 重い雰囲気を払拭しようと沈黙を嫌ったためでもあったのだろう。なんとも嘘が下手な二人はひどく不出来な微苦笑を見合わせる。

「どこの部分だい?」

「魔道士の唄ってなに?」

「あー……」

「ほら、人々は知ることになる云々ってところ。魔道士の唄とか言ってたよね」

 アカリは補足するように言うが、ライアスが発した母音のうめきはなにも不得要領によるものではない。幼子からの答えに窮するような質問に親御が見せるような、苦笑いとも半笑いともつかない、名状しがたいその表情は、何かうしろ暗い事情があることをほのめかしていた。

「えっと、アカリちゃん。まず、前王妃様についてどれぐらい知っているんだい?」

「前王妃様?」思いもよらない言葉に戸惑うアカリだったが、虚空を見上げるようにして答える。「ミレイユ王妃っていう名前と、もう死んじゃってるってことぐらい」

 つまりほとんど知らないということだ。さりとてこの時代、この時世、彼女の王族に対する智見のなさは常識的なものだった。ましてやここ王都の産まれではなく、地方都市出身の平民となれば、尚更に無理からぬことだ。名を知っているだけでも殊勝といえる。

「そう。ミリア王女様とレイア王女様、国王ディソウ様との間に二人の子をもうけて、その三年後、二十四年前に若くしてご逝去されたんだよ」

 一方、あざなを有する貴族であるライアスは、知らなければ後ろ指をさされかねない一般教養を披露した。息をついた後、そっと口許にうかんだ微笑みは、彼に口酸っぱくその智を授けた厳しい教育係りとの日々への感懐によるものだった。

「ちなみに王女様たちが産まれたのは二十七年前。奇しくもぼくとおない年なんだ」

「ふぅん。その有様で二十七歳なんだ。奇しくもの意味がわからないし……。それで?」

 至極どうでもいいという風にばっさりと切り捨て、アカリは続きを促す。あまりの物言いにライアスはショックを隠しきれぬ様子でしょんぼりと肩を落としながらも続ける。アカリからすればそういった反応こそが個人を指してその有様とまで言わしめる理由なのだが。

「ミレイユ王妃様はもともと身体が弱い人だったらしくてね。生前は城から出ないのはもちろん、人ともほとんど顔を合わせなかったといわれている。そして出産の無理がたたって亡くなったという話なのだけれど、亡くなる数年前、王妃様は床に臥せりながらある一つの唄を詠んだんだ」

「それが魔道士の唄なんだね。どんな唄なの?」

「教えてあげるのもやぶさかじゃあないんだけれど……。その前に一ついいかい?」

 途端に歯切れが悪くなったライアスは、心なしかアカリに顔を近づける。アカリの眉は怪訝に持ち上がり、ライアスの瞳は人目を気にするように泳いでいた。

「その唄はミレイユ王妃様が遺したものとして珍重されて、すごく短い唄なんだけれど、当時はそれを刷った書まで出回っていたんだ。……だけど、すぐに禁書になった」

「禁書?」穏やかならぬ言葉に、アカリもライアスに倣って声を潜ませる。「何かまずいことが書いてあったの?」

「いや、そこがわからないんだ。あからさまに問題のある表現が含まれていれば、そもそも刷られるわけがないし……。禁書を直々に命じたディソウ様曰く、一国の王妃が詠むには相応しくない不吉な唄だかららしいんだけれど。確かに子供に語り聞かせたくなるような明るい唄じゃない。でも、だからといってそこまで過剰に禁じてしまうほどのものだとは思えない……」

 ましてや自分の伴侶たるミレイユ王妃が唯一生前に遺した後世に語り継がれるようなもの、大袈裟な言いかたをしてしまえば諸人へ宛てた生前遺書ならば、是が非でも遺そうとするのが人情ではないか。あるいはだからこそ、なのかもしれないが。

「とにかく魔道士の唄っていうのは、そういう曰くつきの代物なんだよ。今でこそもうほとんどの都民がそんな唄があること自体を知らないけれど、それでも衆人の只中でおいそれと口走っていいような言葉ではないんだ。さっきの人形劇も、もし古参の憲兵に聞き咎められていたら、かなり危なかったと思うよ」

 アカリは唇をすぼめ、鼻息荒くライアスの話に聞き入っていた。早くその唄を聞きたくてたまらないという様子である。

 いつの時代も禁忌タブーは人の心を掻き立てる。

 それの内容を一種不気味な神秘性が占め、稀代の珍妙さが含まれ、仕上げに過剰な隠蔽で包まれれば、そういったことへ垂涎するたぐいの者が感じる付加価値が如何ほどのものになるか、言をたないだろう。

 逆算しても当時は五歳にも満たなかったはずのライアスが、なぜ若くしてかつての王国の暗部をにおわせる事情に通じているのかといえば、とうぜんこれは身分に由来する一般教養というわけではなく、当人の智への向上心、細かくいえばひとえに書物への関心によるものである。

 反逆者の騒動が浮上し、想いを寄せていた恩師と生き別れになってしまったその後の彼の青春は、独学で隠された伝承を紐解く書の世界での冒険に傾倒していた。新たな事実を知るたびに得られたささやかな緊張と興奮は、ぽっかりと空いた心の空洞を満たすには力不足だったが、少なくとも心痛を誤魔化す程度には役に立った。

 またそれは王女姉妹の片割れを仇敵とした驚天動地の騒動から、かすかに抱いていた王族への不審を澱のように募らせるに足るものであった。家柄により強いられた王族の懐刀たる王国軍への入隊を頑として拒むほどのものではないにせよ、真面目一徹な優秀な軍人になることを、つまり一切の疑問を排した愚直な軍人に染まることを無意識的に避けた結果が、停職中という身の上をこれ幸いとばかりに謳歌するばかりか、あまつさえ庶民であるアカリにくだんの唄をこっそりと教えようとしている今のライアスだった。

 そしてもちろん王国の暗部に不審を抱いているのはライアスに限った話ではない。魔道士の唄を誇大解釈し、不審を隠然と胸の内に燻らせる程度に留めておくことができず、狂気といってしまっていいほどに脹れあがらせた者も、極少数ではあるが存在している。

 ライアスがアカリにその唄を耳打ちしようとした、丁度その計ったようなタイミングで、徒ならぬ怒鳴り声が通りに響き渡った。

「愚かな民たちよ! 今こそミレイユ様の唄を思い出せ! そして目を覚ますのだ! もうすぐ世界に終わりが訪れる!」

 ライアスとアカリ、そして道往く人々はぎょっとしてそちらを見る。暗緑色の粗末なローブに身を包んだ老婆が、通りの一角で説教師よろしく大仰に諸手を掲げて怒鳴っていた。

「深い深い森の中、そこにいたのは一人の魔道士。すべてを見て、すべてを聞き、すべてを知るその魔道士を、皆は頼り、信頼していた」

 それはまさしく魔道士の唄の一節だった。ライアスの言葉を借りるなら、まさに衆人の只中でおいそれと口走っていた。喉も裂けよと、声も嗄れんばかりに。口の端からたれる涎は明らかに正気を欠いて、しわくちゃの相貌の中で唯一生気に満ちたまなこは病的興奮に血走っている。

「激しく辛い戦乱の中、そこにいたのは一人の魔道士。敵を葬り、味方を増やし、勝利を導くその魔道士を、皆は崇め、酷使していた」

 枯れ木のような身体のどこにそんな力があるのか。歳相応にしなびているはずの声が驚くほど鮮明な大音声となって人々の耳朶を執拗に打った。老婆の背後では家屋の蔀窓がびりびりと震えている。音を増幅させる簡易魔術を行使しているに違いなく、至近で発されれば鼓膜を痛めかねないほどだった。

 騒ぎを聞きつけた巡回中の憲兵が人垣を押し退け、老婆を取り押さえにかかる。見たところ、魔道士の唄とそれに纏わる禁則を知る古参というには若すぎる二人の憲兵だったが、たとえ口にしている内容が魔道士の唄でなかったとしても、その傍迷惑な大音響は捕縛に足るものだっただろう。

「聞け! 唄にあるとおり、混沌の中から戦士が現れたのだ! 異形の戦士! その戦士によってこの世界は終末に――むぐ」

 暴れながらも喚き続けていた老婆だったが、ついに手ごろな布で猿ぐつわを噛まされて物理的に口を閉てきられる。後ろ手をとられ、連行されていった。その後姿を呆然と見送っていた人々は時間を取り戻して、各々の日常に散っていく。

 ライアスとアカリも硬直から解かれ、はたと顔を見合わせる。

「もしかして、今のがそうなの?」

「……うん」

「最後に言ってた混沌の中から戦士が現れたっていうのは?」

「そう。唄にはまだ続きがあるんだ――」

「白い白い城の中、そこにいたのは一人の魔道士」

 今度こそ、というほど気負った風ではなかったが、ライアスが改めてその唄の続きをアカリに教えようとした時、またしても予期せぬ声に先を越された。

 声の主に二人は振り返る。

 そこにいたのは、ジュディだった。

「悪意を知り、憎悪を知り、口を閉ざしたその魔道士を、皆は嫌い、幽閉していた」

 二人は驚きに目を点にする。その反応が可笑しかったのか、ジュディはささやかな悪戯に成功した少女のようにくすりと笑い、先の老婆の聞くに堪えない怒声とは打って変わった、優しげな声音で抑揚豊かに唄い続ける。

「遺されたのは、二人の魔道士。何もかもを知る二人は、何もかもを愛し、何もかもを憎んでいた。他の世界と同じように、この世界もまた憎悪に満たされんその時に、混沌の中から戦士が現れる。その戦士が世にもたらすのは、きっと――」

 思いがけない遭遇による一驚からさめ、その唄の続きへと興味を移したアカリはじっとジュディを見つめていたが、唄を知るライアスは口を利いた。

「ジュディさん……」昨晩の遣り取りを思い出してか、その視線は気恥ずかしげに彷徨っている。「えっと、どうしてここに?」

「どうしてって、それは私の科白」片方の眉を持ち上げて二人の顔を見遣ったジュディは、腰に片手をあて、呆れたような苦笑いでそっと息を吐いた。「正午に待ち合わせって言ったのに、なかなか現れないものだから捜してたのよ」

 昨夜、ライアスの尽力(と言っていいものかは甚だ疑問だが)により夜の店で働くジュディと逢うことが叶った二人。アカリは事情の説明を急いたのだが、ジュディの返答は色よいものではなかった。ここではまずいし、ここに至って日常習慣を崩したくないと言って、彼女は北門付近にある一軒の酒場で明日の正午に落ち合おうと待ち合わせを指定したのだ。

 確かに、昨晩の悩ましい嬌声がこだましベッドの軋む音響が四方から聞こえるような淫靡に過ぎる簡易宿は、落ち着いて話し合うに向いているとはとても言えたものではなかったが、ただ、日常習慣を崩したくないという物言いは、疑問を抱かせるものだった。

 たとえ些細なものであれ、それがルーチンワークを乱すことになるのなら容認できないほどにコンディションに気を尖らせているという意味であり、また、ここに至ってというやや物々しい言葉は、そのコンディションが関わるような何か重大な事案が近いうちに発生することを意味しているように思えた。

「しょうがないことなのでしょうけど、こっちの世界の人は時間にルーズよね」

 言って、少しだけ疎ましげに付近にあった鐘楼を仰ぎ見るジュディ。

 ここ王都や、それに次いだ地方都市では、人々の時間という概念を担っているのは三時間毎に鳴らされる鐘の音であった。時間だけでなく、様々なパターンで打ち鳴らされる各所に配置された鐘が、壁門の開閉から市の開催、外敵の接近にいたるまで、あらゆる報せに用いられている。

 三時間毎でしかない時刻の鐘を頼りに何時何分といった厳密な待ち合わせなどできるわけもなく、またそれに則して人々の生活リズムも大雑把なところが多い。正午を意味する鐘が鳴ってから、ずいぶんと時間が経っていた。

「はあ……。すいません」

 こっちの世界の人云々という言葉も、時間感覚を指してだらしがないと咎められる物言いも、こっちの世界の住人であるところのライアスにはいまいち理解が及ばず、曖昧に謝罪した。

 今日のジュディは、もちろん簡易宿で邂逅した時と同じ服装のわけもなく、黒いロングスカートに赤っぽいジャケットを羽織っていた。妖艶でこそないけれど、全体的にタイトな印象という意味では、不思議と昨晩感じたイメージとさほど懸け離れているというほどではない。

 また、そのジャケットの生地は撥水性のありそうなつややかな素材であり、今もアカリが纏う革製の外套と似ていた。随所にポケットが設えられている点でも類似している。人目を引くほどではないが、王都では見慣れぬ服装だった。

「店はもうすぐそこだから。お昼、まだ食べていないんでしょう?」

「はい」何か気がかりなことがあるという風に力なく頷いたアカリ。先導するジュディに続きながら隣のライアスに目配せをする。「ところで、さっきの唄の続きって……」

「ああ」相方のささやかな物案じの理由を察したライアスは苦笑いをうかべる。「あれで終わりなんだよ」

「え?」

「その戦士が世にもたらすのは、きっと――って、そこで終わりなんだ。変な唄だよね」

「そうなんだ。でもその戦士ってさ……」

「うん。ケイルのことだろう? 確かに、ぼくも彼を見た時には、魔道士の唄を思い出さないでもなかったけどね。さっきのお婆さんもきっとケイルの噂を聞いて、魔道士の唄をミレイユ前王妃様の予言か何かだと妄信したんだろう」

 でもね、とライアスは小首を傾げて鼻息を吐き、微かにかぶりを振った。

「それだけであの抽象的な唄を予言だと決めつけてしまうのは、乱暴というか、さすがに無理があるよ」

「そっか……」

 アカリは釈然としないという風に不明瞭に頷いた。その面持ちは思慮に曇っている。

 同じ情報を与えられても、立場が変われば、ものの考えかたも変わる。生粋の都民であるライアスは、そんなはずはない、ありえないといった先入観や常識がなんどきも思考の根幹に横たわっているが、アカリは違う。

 魔道士の唄の内容、それを執拗に封じた王政、そして現れた異相の戦士。本来の地方都市の庶民という立場では生涯知り得なかったであろう情報を与えられ、ミレイユ前王妃や王族についてなんの僻見も持たずに柔軟かつ客観的に物事を考えられるアカリの脳裡には、他に導きようのないある推測ができあがっていた。

 彼女は振り返り、仰ぎ見る。その視線の先にあるのは、軒を連ねる家屋の屋根から雲に届かんばかりに突出した、王都内のどこからでも遠望が叶うであろう、異様に巨大な王城だった。白い白い城だった。

 心中で燻り始めた懸念を隠し切れない様子で気がかりげに王城を仰ぐアカリの横顔。

 それをちらりと一顧したジュディの口許には隠微な微笑が宿っていた。




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