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異形の魔道士  作者: IOTA
43/60

40 タルタロス



 逸速く反応したのは、やはり、誰よりも優れた反射神経を持つケイルだった。

 クマバチの機体上からの、喉も裂けよと迸る裂帛の怒号と淀みなく持ち上がる奇怪なかたちの砲口。それらの明確に過ぎる強烈な敵意に、腰を落とし、身構える。

 だが、その実、それは条件反射にすぎなかった。合理的な思考のすえの身動ぎではない。直後の光景として順当に予想できるように、しなやかな異形が構える巨大な兵器の砲口からそれが解き放たれれば、その程度の身構えでは、どうしようもなく手遅れだった。この至近距離で発射されてから回避行動に移るようでは、致命的に遅すぎた。

 彼の咄嗟の身構えは、唐突に死の危険に直面した時に人がそうするように、ぴくりと身体を強張らせただけだったと言い換えてもいい。ヘカトンケイルらしからぬ、ひどく人間らしい無意味な反応だ。この場で誰よりも混乱していたのは、他ならぬケイル自身だったと言えよう。

 しかし、見るからに途轍もなく剣呑な兵器がその破壊力をケイルの身をもって発揮することは、ひとまずはなかった。

「しィッ――」

 砕かんばかりに切歯した歯の間からもれた鋭い声だけを残して、黒い残像が目にも留まらぬ速さで機上の異形に飛翔する。

 逸速く反応したのはケイルだったが、もっとも疾く動いていたのはリルドだった。

 ケイルの身を縛めたような当惑による身構え、それらの分別のある人間であれば然るべき刹那の間でさえ、彼女は無意識的に省いていた。生涯でもっとも速く風の魔術を詠唱し、またもっとも強力であろう、うまく操れなければ自身の身体を傷めかねないほどの追い風を背に叩きつけ、飛翔していた。

 混沌の森を根城にするケイルに酷似した異形。それだけで、眼前の異形が近衛兵を非業に屠り、無惨な骸を晒した犯人であると断定するには、彼女にとっては十分だった。見敵必殺をなすには十二分だった。

 冷静に考えれば、その行為は自制心を欠いた浅慮なものだったが、それでもその手腕に乱れはない。もし仮に平静の状態でその異形を賊であると断じたとしても、彼女はまったく同じ一手に達していたであろう。手練れの腹心数十名をたった一人で蹂躙した埒外の脅威を屠るに相応しい、暗殺者めいた電光石火の凶手。

 それはつまり刺突。振り被る動作もなく、ただ剣先を突き出す。風の白兵魔術ともっとも相性のよい渾身の突撃。それが五メートルの高低差を瞬く間に縮め、黒い大きな鏃と化したリルドの辣腕から繰り出される。

 紅色の血飛沫が飛び散る。誰もが一瞬、そんな描写を連想し、眼に鮮やかな赤を映していた。だが違う。その切っ先の衝突で生じたのは、血色と見紛う紅蓮の火花。

 常人であればリルドの姿が忽然と消えたことにさえ気を巡らせるいとまもなく、喉笛を串刺しにされたであろうその刺突を、異形は鋭敏に見咎め、兵器を支えていた隻手を奔らせ、細い剣先を受け止めていた。

 金属同士の濁音の混じった擦過音が響き、鋼鉄の掌中に握り締めら火花を伴ってなおも突進をやめぬ鋭い剣先は、異形の奇怪な面頬の鼻先でぴたりと止まった。

 リルドは低くうめき、柳眉をさらにきつく吊りあげて縛められた剣に両腕で力をこめるが、無造作に片手で握られているだけのはずの刀身はまるで溶接されたかのように微動作にしない。

 機上で肉薄した二人。女として平均的な背丈のリルドは長身の異形と並ぶと頭一つ分も低かったが、その光景はそんな単純な体格差からなる膂力の多寡だけによるものではない、圧倒的な力の差を痛感せざるをえない。

「なんだ? 貴様は」

 唐突な襲撃を訝しんだのか。切っ先越しにリルドを見据えていた異形は小さくうめいた。

 マスク越しでややくぐもってはいるがその流暢な言葉はリルドたちにはもちろん、ケイルにも理解できるこの世界の言語だった。しかし、それだけだ。この上ない殺意を向けられたというのに、そんなことは些事であるかのように、それどころではないという風に、彼女はそれ以上取り立てて言及しようとはしなかった。

「邪魔をするな」

 軽々と、剣ごとリルドを放り投げる。飛んできたボールを持ち主に返すような気安い調子で、元の場所、サイとゼロットの至近にリルドは放擲された。

 身体を土で汚すような無様はおかさなかったものの、まるで相手にされていないようなその態度に激情をあおられたのか。普段の彼女からは想像もできない、色白の顔を怒気に赤く染めた壮絶な形相で睨めあげ、すぐさま身をたて直して再び詠唱を始めようとするが、ぎりっ、と背後からの弦をひく音に、唇を止めた。

「やめろ。先生の敵、ゆるさない」

 四人を案内したエルフの女が、リルドに弓をひいていた。

 粗末な身形だというのにどこか気品さえ漂う美貌と外見年齢には似つかわしくない子供のように豊かで屈託のなかったその表情は、存分に戸惑いを帯びていたが、それでも一文字にきつく結ばれた唇は、いざとなったら容赦なく矢を放つ覚悟を予感させた。

 彼女だけではない。きっとこっそり推移を見守っていたのだろう。周囲の木の下闇では耳の長い亜人の戦士たちが立ち上がり、皆が一様に断腸の面持ちで弓をつがえていた。その鏃はサイとゼロットにも据えられている。

「そいつらを見張っておけ」

 異形は彼らを睥睨するように瞥見し、冷たくそう指示を出した。その視線と言葉は、三者に向けられており、彼女の言うそいつらには、まるで、少し距離を置いて佇むケイルが含まれていないかのようだった。

 だからなのか。それともリルドの奇襲によってもたらされた剣呑な一幕の間に若干の冷静さを取り戻したのか。異形が唐突に眦と砲口を再びケイルに転じるよりも一拍速く、ケイルの両脚の人工筋肉は膨張を見せ、その身体は弾けるように回避行動に移っていた。

 一条の濃密な白煙。

 異形の兵器の砲口から迸り空間を切り裂くそれは、そうとしか形容できない。ただし、上空へたなびくのではなく下方へ、指向性をもって凄まじい速度で延伸するという点と、うねり狂う濁流のようなおぞましい大音響を発するという点において、通常の煙とは懸け離れていた。

 サイたちの一団から離れるよう最寄りの木々の中へと飛びこむケイル。その後を追い縋るように、彼が通過した空間を白煙がことごとく蹂躙する。

 ずどどどどどどん、と。その着弾音もまた、そんな風な乱暴で粗暴な音にしか表現できない。地揺れというには激しすぎ、発破というには間断がなさすぎる。もっとも、それの最寄りに居合わせた者の脳裡を戦慄の次に占める印象としては、適切かもしれない。地を通して足の裏から瞬間的に頭頂部まで駆け上がる振動は、地揺れのような天変地異に相対したときの無力感を、大地が出血しているかのように柱状に噴き上がる腐葉土は呆然と見入るしかない脅威を、否が応でも植えつける。

 枯れ葉と焦げ茶色の土が吹き荒ぶ中、木々の闇の中へと遠退くケイルと、機上から飛び降りて猛然とそれを追うもう一つの異形を、一同は言葉を失い、ただただ見送るより他になかったが、ただ一人。

「ちょっと待って! あんたたち、反逆者と関係してるんだろう!?」

 はたと我に返ったサイが異形の背に向けて叫んだ。異形が、亜人たちが何者であるかなど、皆目見当もつかなかったが、よりにもよってこの混沌の森の深部に住まおうという奇特な文明的存在が、反逆者たちと無関係であるとは思えない。

「だったらあたしたちは敵じゃない! あたしの名はサイミュス・ミレン・メイフェ! レイア王女の側近、スーラ・ミレン・メイフェの妹だ!」

 一瞬にして拓けた広場を横断し、木々の間隙に消えかけていた異形。サイの制止が届いているのか疑問だったが、それが聞き憶えのある名だったのか、意外にもぴたりと足を止めた。

 サイは強張っていた表情を柔和に見えるよう意識して緩め、諭すように言い募る。

「あたしはただ、スーラ姉ちゃんと話がしたいだけなんだよ。ケイルも敵じゃない。襲うのをやめてくれよ」

 異形は横顔だけを振り向かせる。仄暗い木の下闇の中、丸みを帯びた面頬に穿たれた楔形の双眸の放つ青い光が、冷淡にサイを見据えていた。

「ケイル……? 敵じゃない……? 敵じゃないだと?」何らかの誤解を解くために発したサイの言葉を、しかし、異形はその声音に明確な怒気を宿して意味深に繰り返した。「貴様ら、あれの何を知っている? あれは世界の敵だ。捨て置くわけにはいかない」

「何を……」

「私は彼女を、世界を護るためにここにいる」

 毅然とした、決意めいたものを感じさせる声音で突き放すように言い放ち、異形はきっと森林に向き直り、消えていった。

 ほとんど間を置かず、無数の落雷が地上で転げまわっているような凄まじい騒音が濃密な粉塵と共に立ちこめ、痛むほどに肌を震わせ耳を聾する。

 だから、

「あれは違う……」

 サイに肩を抱かれながら音源の方向を、とうに見えなくなっているはずの二体の異形の背を透視するようにじっと樹木の間隙を見つめるゼロットの呟きは、誰にも聞こえなかった。

「炎とは似ていない……」




 それは、急転する事態という意味においても、また途轍もなく激しい風雷という語源からしても、まさしく疾風迅雷という言葉が相応しい追撃戦だった。

 奇怪に折れ曲がった樹木が怯えて囁き合うように鳴動し、翻弄された歪な葉が渦を巻いて吹き荒れる。異形のものどもが跳梁を欲しいままにしていた混沌の森そのものが、強大な力の衝突を本能的に感じ取ったように大きくざわめき、絶対王者の席巻に慄くように樹冠を揺らしている。

 混沌の森全体を見渡してもそうなのだ。それが騒乱の中心部となればその凄まじさたるや、震源地、否、爆心地の形相を呈していた。

 ひとたび白煙が通過するたびに、決して細くはない木々が幹を粉微塵に粉砕し、不運な小動物が消し炭と化す。触れたものを例外なく分解してしまうそれは、一時も途絶えず空間を吶喊し続ける高性能爆薬の轟爆と譬えるに相応しい。

 大木が木挽き粉を噴き上げながら樹幹を半分も抉られ、みしみしと傾いでいく。そのすぐ手前を駆けていたケイルは倒木と地の間、這うように頭から飛びこみ、斜面に転がりこむことで逃れた。

 本来であれば何よりも圧倒的なはずの倒木が地を打ちつける大音響でさえも聞こえはしない。迫りくる轟爆の白煙は彼の頭上を通過し、進路上にある新たな樹木を片っ端から薙ぎ倒していた。

 その様はグラインダー型の刈払機による除草を途方もないスケールに敷衍ふえんしたようなものであり、その災禍に見舞われるケイルやその他動物は、回転刃から逃げ惑う一寸の蟲のようだと、そんな比喩でさえ決して大袈裟ではない。

「くそッ。なんなんだっ」

 異形を目にし絶句してからというもの、久しくケイルが口を利いた。もっとも、それは期せずして口を吐いてでた悪態と言ったほうが近いものであり、その声音はこの世界に来てから、否、元の世界での経験を含めても初めてであろう種のひどく人間味に富んだ狼狽を帯びていた。

「アーシャ。あいつは、ヘカトンケイルじゃないのか?」

 仲間ではないのか……と。彼にしてはまた珍しい、感情を顕にした深く沈んだ口調でケイルは繰り返した。

 クマバチの機上で佇む異形を目にした瞬間、金魚鉢の人物や、リルドと同様に本物の賊といった言葉がケイルの脳裡に挙がったが、それ以上に強く、初動においてリルドに遅れをとってしまうほどに衝動的に思ったのが、己以外のヘカトンケイルという、そんな感慨だった。

 初めてまみえることが叶ったかもしれない他のヘカトンケイル。

 ケイルの唯一の願望であり悲願であったその邂逅は、しかし、見敵必殺が如き攻撃行為という残酷な形であまりにも不条理に打ち砕かれたのだ。

 後に続くアーシャの返答もまた、多分に困惑と慨嘆を含んだものだった。

『わからない……。他のヘカトンケイルに関する情報も、私達には伏せられていたのよ』

 装備や戦いかた以外で半有機体機械化兵装である己についてほとんど何も知らないケイル。対人銃撃戦が不得手になるような改悪の理由と同様に、他の機械化兵装に関する情報も作為的に隠匿されていた。故に、他のヘカトンケイルの姿を見たことがないケイルとアーシャは、その姿形を具体的に像に結ぶことができなかった。

 ただ、いつか目にしたH03の下半身は自身の強化外骨格とほぼ同じ形状であり、似たような姿なのだろうと夢想することはあった。しかし、今もなおケイルを追い立てるヘカトンケイルに類似した異形は、ケイルが纏う強化外骨格とは似て非なる形状をしていた。性別の違いを差し引いたとしても、同型だとは思えない。

「だが、あの重火器は……」とケイルはどこか食い下がるように言い、そう、とアーシャが言葉を継ぐ。

『間違いない。クレイモアよ』

 間断なく密林を蹂躙し続ける轟爆の白煙。それを放出する異形の携える火器は、エルフの集落付近に巨体を沈めていたクマバチと同様、ケイルとアーシャの知るところであった。

 ニューマチック・ソレノイド・サンドブラスター。通称クレイモア。

 電磁誘導を利用した飛翔群射出兵器だ。しかしそれは二本のレールの電位差を利用した、いわゆるレールガンではなく、螺旋状のソレノイドを射出装置とした、コイルガンである。レールガンのような高初速は得られないが、電力消費は比較的低く、極限まで切り詰めた効率化により継続放射が可能になっている。さらに渦を巻くような回転と特殊な温度変化を与えることにより局所的指向性を持たせた風圧も相乗され、直径コンマ一ミリにも満たない硬質な砂塵を秒速二千メートルで放射。対象を崩壊、いや、風化させる、車載用の大型重火器である。

 そんな、対人に用いるには明らかにオーバーキルな、対物にしても如何にも大仰な兵器を、ケイルとアーシャが違えるはずがない。それは、対アバドン用の兵器に他ならないのだから。

 ケイルは身を捩り、今もって凄まじい速度で付近を過る白煙の元、射手に向けて声を張る。

「おい! あんたは何者なんだ。なぜ襲ってくる」

 アーシャの翻訳を介さない元の世界の言葉に、破壊の放射はぴたりと止まった。

 砲口を上に立てれば自身の背丈にも達するであろう巨大な圧搾空気利用式弾片電磁投射砲、クレイモアを腰だめで携えていた異形は立ち止まり、約四十メートル先の斜面の裏に潜むであろうもう一体の異形を睨めつけるように憮然と顎をもちあげる。

 そうして発した言葉も、やはり翻訳の必要がない、ケイルと同郷の言語だった。

「オーシリーズ。貴様はやはり何も知らないのだな。他のシリーズのことはおろか、自身のことでさえも」

 電磁投射に伴う高熱が圧搾空気の連続放出による低温に相殺され、八本の細長い鉄板を僅かな隙間をおいて円形に並べたような砲身は蒸気を噴き上げていた。靄の内で鈍く輝く双眸は氷のような冷たい青色であり、ガラス体の内部から僅かに窺える目許もまた、およそ人に向けるべき眼差しとはいえず、酷薄に細められていた。

「なぜ襲うのかだと……? 教えてやろう。貴様がヘカトンケイルのオーシリーズ。忌まわしき巨人の中でも最たる存在であり、私はT67、巨人を幽閉する檻、タルタロスだからだ」

 T67は左足を踏み出し、腰を据え、砲口を斜面、窪地に背を預けているであろうケイルに転じた。クレイモアの砲身の間隙から覗く螺旋状のコイルが白熱し、小型自動車のエンジンほどはあろうニューマチックシステムの機関部が手太鼓を叩くようなくぐもった吸気音を律動的に発する。

「貴様がなぜこの世界にきたのか。どちらに呼ばれて・・・・・・・・、召喚されたのか。この森に出なかったということは、間違いなくあっち・・・なのだろう。反逆者が、彼女達が目的なのだろう。だが、会わせるわけにはいかない。見逃すわけにもいかない。ならば、排除するしかない」

 何も知らないにせよ、貴様という存在は、あまりに危険なのだ、と。

 渋面と揺るぎない決意を予感させる忌々しげな声音で言い切り、T67は放射を再開した。

 迸った白煙は轟々と伸び、腐葉土を噴き上げ、土砂をまき散らしながら、地形の起伏そのものを浅く抉って均してしまう。あらゆる障害物も如何なる遮蔽物も、その破壊の権化たる弾片の嵐の前では浜辺の砂城が如く数秒も保たず、微塵に分解される。

 窪地諸共粉砕されたように思われたケイルは、しかし、すでにその場にいなかった。

 同じ場所に留まり続けてはいけない。ヒルドンでの戦闘により学んだ銃撃戦のセオリーに則り、ケイルは声を掛けた直後に匍匐前進で移動していた。いまだ見当違いの方角への藪睨みを続けるT67を中心とした円周状に腐葉土を掻き分けて迂回し、死角である大木の裏で身を起こす。

「巨人を幽閉する檻、タルタロス……?」

『意味わかんないわね。どちらに呼ばれたとか、召喚されたとか。けど、やるしかないわ』

 アーシャの言葉に、ケイルは即答しなかった。

『あいつがなんであろうと敵よ。あなたを殺そうとしている敵なのよ』

「………」

 それでも首を縦に振ろうとしないケイル。だが次の瞬間、聞き覚えのあるフレーズが彼の耳朶を打った。

『敵は処理しましょう』

 ――それが、あなた達の役割です。それだけが、あなた達の存在理由です。

 振るわれることを渋る剣もなければ、引き金を切られ撃発を迷う銃もない。それは、迷いを断ち切り、そもそも迷うなどという我侭は端から許されていないことを再認識させる言葉だった。

『そうでしょう?』

「ああ……。ああ、そうだな。やるしかない」

 ケイルはT67が発したものとよく似た覚悟の声音で頷き、大木に体幹を隠したまま上半身を傾げてレイピアを据銃する。依然至近を掠めて土砂を爆散させる、執拗なまでに躊躇のない攻撃行為を横目に、赤い双眸は投射型照準器に重ねられ、指は引き金に載せられていた。

 ケイルは何も知らない。口振りからしてT67もそれを察している。それでいて尚も攻撃の手を緩めないのであれば、誤解の類でないことは明らかだった。議論の余地がない殺意だけは明確だった。ならば脅威は無力化せねばならない。

 戸惑いはあれど、それがためらいとして身体に顕れ、殺意を曇らせることは、排すべき敵を断定したヘカトンケイルにはない。

 一方的だった襲撃が必然的に交戦へと変質する。ケイルは引き金にじわりと力を染みこませる。

「ッ!」

 その感嘆符は両者から発された。不意打ちを受けたT67は勿論、不意打ちを仕掛けたはずのケイルもまた、驚かされた。いや、そもそもが、ケイルからしたらT67が驚いてみせたこと、つまり反応せしめたこと、それ自体が不可思議な出来事だった。

 ケイルの姿は、照準を結んでいるが故に不可視でこそないけれど、それでもほぼ遮蔽に身を隠した状態だった。にもかかわらず、まるで己の躯に重なった射線を感じ取ったかのようにT67は鋭敏に砲口を転じたのだ。

 その信じがたい反応速度に戦慄しながらも、それでも、一拍速く標的を捉えたのはケイルだった。

 容赦なくバイタルゾーンを狙って射出された銃弾は、しかし薄い繁みを突貫する際にやや弾道が逸れた。T67の凄まじい応射挙動も、入射角のずれの誘因となる。

 左肩、T67の装甲板から破片の飛沫と僅かな火花が生じ、殴りつけられたように上半身を揺らす。だが両の腕でがっしりと保持された砲口の射線は彼女の決意を体現しているかのように、揺るがない。

 あるいは初弾が頭部を貫き、生命を絶っていたとしても数秒は放射を続けるであろうことを予感させるほどの固定砲座が如き堅実な操銃であり、ケイルが追い打ちの二の矢を射る間に、まず間違いなくその放射は彼の上半身を塵に変えるだろう。最良の結果でも、相打ちにしかならない。

 無言の内の刹那の駆け引きの末、ケイルが折れた。

 鋭く罵り、身体を翻して樹木の間を縫うように遠ざかる。背後から延伸する破壊の奔流が先まで遮蔽物だったはずの大木を木端にし、森林を形成するあらゆる物質が粉砕され渦を巻くように跳ね回り、衝撃波が空気を震わせる。岩石や樹木の飛沫が横殴りの雨のように強化外骨格を叩き、細かな金属音がマスクの中で鳴り響いていた。

 左肩の装甲板に大きなへこみを穿たれたT67は視界に映るすべての樹木を薙ぐようにクレイモアを振り、競歩のような速度で後を追う。クレイモアの重量が加算され腐葉土に深く減りこんだ足を一歩いっぽ確実に、けれどもどこか急くように動かす足取りは、彼女の憤りと焦りが滲んでいるようであった。

「オーシリーズッ! 貴様、何人殺した!」

 クレイモアの放射音もかくやという、マスク内蔵のスピーカーで拡声された憤怒の叫び。蛇行するように駆けながらも、ぴくりと、ケイルは背後からのその声に頭部を揺らす。

「その小賢しい体捌き、アバドンとの戦闘だけに特化した本来のオーシリーズではあり得ない! この世界に来てから、一体何人の人間を殺したんだ!?」

 その怒声には、殺人の罪を咎める常識的なそれではなく、オーシリーズが人間を殺すという酷く限定された事象を忌むような、それにより起こりうる恐ろしい何かを危惧しているような奇妙な響きがあった。

「……あいつはなんなんだ」

 たまらず、ケイルはマスクの中の目許を曇らせる。混乱や落胆を通り越し、不愉快げに目尻がひき歪んでいた。

 先からの意味深な物言いから、T67がケイルことH09の、延いてはヘカトンケイル・オーシリーズの事情に長じているのは明らかだった。あるいは当人よりも熟知しているようだ。ケイルは相手のことはおろか、自分のことでさえ満足に知りはしないというのに、相手だけが何もかも、おそらくこの世界の反逆者のことさえも知り尽くし、その上で襲ってくるという理不尽が、愉快であるわけがない。

 相槌を返そうとはせず、しばし思案するような沈黙を経て、アーシャの控え目な音声が届く。

『……やはり、あれは私たちと同じ世界の住人と見て間違いないわね。もしかして、次世代の半有機体機械化兵装……?』

 ケイルは黙したまま、マスクの中でぎゅっと下唇を噛む。考えてみれば、随分な皮肉だった。ケイルは今、追い求めていたかもしれない人物から、唯一の願望であった対象から、自らの足で遠退き、逃げているのだから。

 そんな、情緒の乱れを感じとったかのように、不意に、びしん、と。

 硬質な物体に亀裂が奔ったような軽い音がケイルの背中から響いた。絶えず外骨格を打ち続ける飛沫によるものではない。

「かフ」

 肺の空気が叩き出され、乱れた呼気がマスクからもれる。音質は軽かったが、伴った衝撃は弾丸の直撃を思わせるほどに重かった。足をもつれさせ転倒しそうになるが、二の足を踏みこみ、体勢を立て直す。

 背に宿り続ける鈍痛にケイルは身を捩り、強化外骨格の背面装甲を見遣った。息を呑む。背面の装甲板がまるで風化したように微細なおうとつの内ですり鉢状に抉れていた。

 横薙ぎに撒かれる白煙が比較的硬質な岩肌にぶつかることで、放水が枝分かれするように部分的に分散し、その細片が彼の背面を捉えたのだ。強靭な積層合成金属装甲をもってしても、僅かな断片を受けただけでそうなってしまうのだ。本流が直撃したら一溜りもないだろう。

『生身には異常なし。エグゾスケルトン、背腰部装甲板に表層損傷を確認』事務的な声音で端的に診断シーケンスを告げたアーシャは一変、切歯するような声で悪態をもらす。『なんてこと。まさか対アバドン用の兵器で攻撃されることになるなんて……! ヒルドンの市街戦よりもシビアな綱渡りね』

 極力濃密な繁みや鬱蒼とした樹林を背にするように駆けているケイルだが、あらゆる物質を粉砕しながら延伸するクレイモアの前では、完全な遮蔽は望めない。今のように分散した放射の一部が、今度は首筋や各関節部などの急所を捉えるという、高くはないが楽観などできようはずがない致命的な危険性に常時、曝されているのだ。

 さらに、ケイルとT67の距離関係は、五十メートル前後から一進一退を繰り返していた。ケイルは全力で疾駆しているが、進路は常に繁茂する密林に阻まれた状態であり、対してT67の足取りは競歩程度であるが、進む先々は常にクレイモアによる壮絶な露払いの後、障害物のない荒蕪こうぶの地なのである。地形の関係上、両者の移動速度は拮抗していた。

「目視はできないはずだ。そもそもやつはなぜ追ってこられる」

 ケイルは怪訝げに呻く。T67の振り回すような横薙ぎの掃射から、ケイルの姿を確実に捉えているわけではないことは明らかだった。だというのに、密林に身を遮蔽しながら規則性を生まぬように闇雲に進むケイルを、彼女は見失うこともなく、つかず離れず着実に追い縋っている。

「アーシャ。クレイモアの放射音からやつの位置を正確に捕捉することは可能か?」

『無理に決まってるでしょっ。こんなの、銃口の目と鼻の先、発射炎の中で銃声を聞いてるようなもんよ。つーか、そんなことするまでもなく放射の射線を見ればあいつがどこにいるかなんてわかるでしょうよ!』

 癇癪を起したように怒鳴るアーシャに、ケイルはわかっているさと答える。

 そう、音源センサーに頼るまでもなく、T67の位置など明確だった。そもそも隠れようとさえせずに、ケイルの進路をなぞっているのだから。見失うほうが難しい。問題なのは、ではなぜT67はケイルを見失わないのか、ということだ。

「ならばやつも同じはずだ。この騒音の中で俺の足音だけを判別することなんて不可能だろう」

 そこここで炸薬の発破が連続、否、継続しているような規格外の騒音の只中では、いつかの傭兵部隊との森林での銃撃戦でケイルがそうしたように、銃声から正確な位置情報を割り出すことは叶わない。ましてや、狼男の巣を発見した時のように足跡を追跡するなど、大地を均す露払いの直後となっては問題外である。そうなれば果然、逆説的にT67も些末な足音や痕跡を捕捉しているとは考えられない。

『そうか……。もしかしたら熱源の残滓を追っているのかも。おそらく、やつの外骨格はあなたのものよりも熱源センサーの感度が高いのよ。あなたの発する放射熱、言うなれば機影をおぼろげに把握しているんでしょう。クレイモアの放射も熱源の捕捉に一役かっているのかもしれないわね』

 クレイモアから放たれる圧搾空気の束は低温である。ケイルは周囲の温度が下がっているのを文字通り肌で感じていた。パッシブ遠赤外線可視装置の観点からすれば、空間を低温を意味する青に塗り替えてしまうような放射の中ならば、僅かな残滓といえど熱を意味する赤色は目立つだろう。その大まかな、けれども確実な位置情報を、彼女は追っているのだ。

 数分前、クマバチの機体が鎮座する拓地にて、ケイルを追撃するT67に向けてサイが咄嗟に発した制止の言葉。あの段階ではすでに死にもの狂いで駆けていたケイルは知る由もなく、言葉をかけたサイ自身もそのような意図があったわけではもちろんないのだろうが、あの数秒の時間差、あの一幕の内に稼げた距離がなければ、ケイルはもっと早い段階で粉微塵になっていることだろう。

 そしてこれもまたケイルの知るところではないが、彼と似た体格ないし人間大の魔物が付近にいれば、その熱源を誤認させることもできるのかもしれないが、大型の魔物は両者の周囲からとうに消え失せていた。彼らは心得ているのだろう。歯向かってはいけない存在を。棘皮動物のような魔物がケイルから遁走したように、不退転の災厄のような絶対強者の逆鱗を。その点、T67の開口一番の怒号に逸速く反応したのは、ケイルではなく、リルドでもなく、彼ら魔物だったのかもしれない。

 クレイモアの白煙がケイルの左側面を通過して進路上の腐葉土を爆散させる。土砂と枯葉をかぶりながら、ケイルはレイピアの拡張銃装に左手を伸ばしかけるが、すぐに引っこめた。

「SBWEは射程外か……」

『そうね。でも、おそらくこの距離はやつのセンサーの感知範囲ぎりぎりのはず。もっと距離を稼ぐことができれば、きっと撒けるわ。そうすればさっきみたいに不意打ちで射線を結ぶことも』

「無理を言うな」前方に迫った太い蔦を鬱陶しげに片手で払い除けながら、ケイルはかぶりを振る。「この距離を保つだけで精一杯だ」

 繰り返すが、移動速度は拮抗している。そして先の不意打ちの折にT67が異様なほど機敏に反応したのも、ケイルが遮蔽から身を晒したことで微細に変化した熱源を察知した故だろう。そもそも不意打ちが不意打ちとして機能する初手でさえ致命弾を防ぎせしめたT67に、同じ手が通用するわけもなかった。

 それでも、と。

 ケイルは疾駆しながらにして上半身を振り向かせ、レイピアを据銃、途轍もなく巨大な蛇の舌先のようにちらちらと過る白煙の中心部、射手であるT67が在るであろう方位に向け、フルオートモードで弾幕を張った。繁茂した叢林は小動物が飛びこんだように激しく揺れ、千切れた下生えが舞い散る。

 僅かばかりの抵抗。あわよくば命中弾を得られ、損傷はないにしても速度を減衰させる牽制にはなるかもしれないと、そんな心算からの一手だったが、しかしそれは、浅慮だったと言わざるを得ない。

 ばら撒かれた無数の弾丸の内二発が、偶然にもT67の左足と胸部を捉えた。けたたましい金属音が鳴り響き、伝わった衝撃が痙攣するようにT67の体躯を震わせるが、それだけだった。流線型の滑らかな外骨格には、外傷らしい外傷は見受けられない。

 弾丸には相性というものがある。装甲の貫徹を目的にした硬質の弾丸は、標的の肉体をするりと貫通してしまい、体幹を貫いたとしても時に致命傷を与えられない場合がある。逆に体内に留まることにより卒倒力と内部破壊を高めた軟弾頭では、装甲に防がれてしまう。この場合はまさにそれ、強固な装甲板とソフトポイント弾の相性は、最悪だった。入射角の浅さもあるが先ほどフレシェット弾を弾いてみせた装甲に、六ミリの軟弾頭で外傷を与えられるわけもなかった。

 もっとも、ケイルとてそれは察していた。ヒルドンでの銃撃戦で彼自身がそうであったように、弱点たる装甲の間隙にでも銃弾を撃ちこまない限り、損傷は望めないことは理解していた。故に僅かばかりの抵抗である。

 浅慮なのは、つい先ほど言及したばかりだというのに、T67の熱源感知センサーの性能の高さを失念していたことだ。正確には、その相手の特性をもう少し深く考慮し、絶対にやってはいけない悪手へと発展させることができなかったことだ。

 ヘカトンケイル故に人間らしい死への恐怖心は薄いにせよ、稀有で特異な存在であるヘカトンケイルだからこそ、類似した存在に襲われるという理解し難い現実が、やはりケイルの思考を僅かながらも曇らせていた。

 それに気づき、はっと息を詰まらせるアーシャ。

『まずい! 撃っちゃだめ!』

 だがもう遅い。

 獲物を追い求めるように彷徨っていた白煙が、やにわに矛先を一点に固定する。まっすぐに、一直線にケイルへと延伸する。しかしそれは、厳密にはケイルを狙っていたわけではない。彼が構えるレイピアの減音器こそを、T67は見咎めた。

 銃声を変換する際に生じる放射熱。強化外骨格越しの体温の残滓さえも感じ取るT67が、フルオート射撃に伴い減音器が帯びる高熱を見逃すはずがなかった。パッシブ遠赤外線可視装置の青と白に染まった視界の中で、一点だけ真っ赤に点る標的の位置を捨て置くわけもなかった。

「く――」

 そ、と。

 自身の浅はかさに対する呪いの言葉を吐くいとまも与えられなかった。咄嗟に右脚を蹴り出してほぼ直角に進路を変えようとするケイルだったが、左足が地から離れる寸前に、弾片の奔流は容赦なく右腰に直撃する。

 対人擲弾の至近着弾や人間地雷の発破もかくやというおびただしい外力が彼を襲った。悲鳴も苦痛によるうめきもない。何事も発することができぬまま軽々と放り投げられた人形のように空中で二転三転。逃れようと跳躍した結果というよりも、衝突のすえに吹き飛ばされたように、ケイルの巨体はめまぐるしく錐揉みしながら樹木に叩きつけられた。

 一度だけ痙攣し、また一度だけ喀血を思わせる濁った呼気をもらしたケイルは、ずり落ちて、腐葉土に横臥したまま微動作にしない。

『だイ――じョ――ブ――ッ?』

 脳内のサイバネティック・モジュールが作り出すアーシャの悲痛な叫びは、一時的な意識の消失に同調し、混濁していた。水面を隔てた向こう側から叫ばれているかのように、彼の耳には届かない。

 だが、その失神は一瞬だった。二度と浮上の叶わぬ深い闇へと沈みかけた彼の意識を掬いあげたのは予期せぬ声音。

「ケイル」

 と。

 標的の無力化から放射を停止したT67。彼女は名を呼ぶというよりも、無機質に単語を呟くように、そう口にした。

「あの女が貴様をそう呼んでいた。まったく、ヘカトンケイル・オーシリーズらしい、なんのひねりもない安直な名だな」

 クレイモアから律動的な吸気音を不気味に響かせ、ゆっくりと歩み寄る彼女だったが、その硬質な声こそが、横たえたまま死を連想させるほどの停止状態にあったはずのケイルの意識を急速に覚醒させ、記憶の奥底を波打たせた。

「私は貴様らが嫌いだ、オーシリーズ」

 蛇蝎を罵るように、あるいは心中の怖気を白状するようにT67は言う。

「貴様らは、あれとそっくりなんだ……」

「――ッ」

 忘れていたはずのヒルドンで見た夢境。まだケイルとはもちろん、H09という識別符丁も付与されていない頃、十把一からげであるヘカトンケイル素体候補の内の一体だった時分の記憶が、不思議そうに小首を傾げている少女の横顔が、ケイルの脳裡を過った。まっすぐに見つめて物憂げな表情で呟く、廃棄処分にされたと思しき同期生の声が、彼の耳朶を打った。

 ――あれは私たちと似ているんだ。

 途端、まるで屑鉄のようだったケイルの身体は弾けていた。上半身を跳ね上げると同時、体勢を整えるのも惜しいとばかりにつんのめったような姿勢のまま、ばつんと両脚部の人工筋肉が爆発的に膨れ上がり、独自の自我を有した生物の如く地を蹴りだした。

「しぶといッ!」

 盛大に罵って三度再開されたT67の破壊の放射から、我武者羅に逃げ回る。熱源を誤魔化すために故意に腐葉土を撒き散らし、全身を躍動させ地を這うようなその挙動は、あるいは被弾する以前より機敏になっているようでさえあった。

 背の損傷よりも数倍も大きくすり鉢状に抉れた腰部では、装甲の一部が弾け飛び、脈動するポリマー人工筋肉の束が覗いていた。回避行動が功を奏したのか、外観からは生身の躯にこそ外傷は推し量れないが、それでも内部の並々ならない負傷を想像させるには十二分の被弾部であり、にもかかわらずより機敏になるなど、物理的にあり得ない。

 では、何に起因するのか。精神だ。多分に抑制されたはずのヘカトンケイルの感情、湖面のように静かだったそれが今、大きな岩が飛びこんだように、激しく、大きく波打っていた。

 彼との付き合いで初めて無類のベクトルへ傾倒する表層心理の乱れを感じ取ったアーシャは、本来であれば真っ先に使用者に伝えるべき負傷診断シーケンスの報告も忘れ、悲鳴に似た声を発する。

『な、なに!? どうしたの!?』

「……知っているぞ」

『え?』

「俺はあいつを知っているぞ!」

 ケイルとアーシャの付き合いは、ケイルがサイバネティック・モジュールの改造施術を受けた以降からであった。それ以前、訓練施設でのケイルの経験は単なる情報としてならアーシャも知るところであったが、機微に富んだ思ひ出とも言うべき記憶までは、共有の限りではない。サイバネティック・モジュールへの適合を果たせず命を落とした多数の同期生や、ただ一人特異な事情で脱落した少女は、ケイルの個人に由来する数少ない人間的な感懐なのだ。

 T67は、彼女は何者なのか。果たして本当に、かつての記憶の少女なのか――。

 何もかもが不明だった混沌が、糸口とはいえず、暗示とさえいえないが、極々僅かな示唆を経て、解りやすい疑問へと変わる。そしてそれは執着となる。今のケイルを衝き動かしているのは、あえて人間的にいうならば、知るまで死ねない、そんな単純故に強烈な切望であった。

 高速で飛来する弾片の束。紙一重というのもおこがましい至近を過るそれに、肩を、腕を、脚を、何度も外骨格の表層を削られながらも、再びT67の熱源感知範囲の境界までケイルは逃げ延びることに成功した。

 いや、部分的に肉抜きされ、子供が悪戯に傷めつけた泥人形のような態を見ればとても成功などとはいえず、そもそもが、大局的には何も変わらない。振り出しである。

 ケイルが放射から逃げ惑い、T67が追い立てるという構図は不変なのだ。かたや幸運に命を預け、かたや僥倖に命中を任せている。端的に言い表すなら、鬼ごっこ。追う者と追われる者という揺るぎない立場が根底にあり、均衡しているとは言い難い。戦況は決して拮抗などとは形容できない。

 鬼ごっこで逃亡者が鬼に暴力で抵抗するのは、ルール違反である。つまり、ケイルが現状を打開するためには、ルールを変えなければならないだろう。

『……ねえ、気勢を削ぐようで悪いんだけどさ。それは確かなの? あなたの思い出のことは知らないけれど、言葉一つでそうと断定するのは性急じゃないかしら……』

 さぐりさぐりといった風に、どこか歯切れ悪く告げるアーシャ。経験したことのない、想定さえされていないバイオロイドの特異な感情の昂ぶりに戸惑っているようだった。

「確かにな。根拠はないさ」しかしそれに応じるケイルの口調は明瞭であり、端的だった。「それでも、だからこそ、俺は知りたいんだ」

『……どうするつもり?』

「本人に訊く」

 ケイルは再びレイピアを持ち上げた。ただし、振り向きざまの後方に、ではない。標的たるT67とは明後日の前方にだ。比較的樹林の蜜度が薄い方位を瞬時に見定めて、銃口を振り、銃把を握る右手中指で、淀みなくSBWEの環状引き金を絞り落とした。

 乱伐。砲口を中心にして扇状に四十五度、距離三十メートルの範囲に存在していた立ち木は、ひゅんひゅんと細かな風切り音を伴って鞭のように撓る五本のワイヤーが触れる度に、尽くその樹幹を割った。木挽き粉の粉塵が舞い散り、まるで揃って足を滑らせたかのように根本からほぼ同時に倒壊する。継続火力となると遠く及ばないが、瞬間火力ならクレイモアの掃射にも劣らぬ破壊力であった。

 もっとも、如何に凄まじい破壊であったとしても、一見、その行為は無意味だ。そしてケイルの奇行はそれだけに留まらなかった。

 こともあろうに、レイピアを放り投げたのだ。SBWEのワイヤーが伸びたままの、まるで不格好な鞭のような小銃を、躊躇なく小脇に放擲した。

『ちょっと! 何をしているのよ!?』

 使用者たるケイルの表層心理の乱れのなさから、彼が発狂したわけではないことは理解しているのだろうが、それでもアーシャは声を荒らげざるをえなかった。無理もない。戦闘中は、いや、戦闘中に留まらず、一種病的なまでに一瞬たりとも肌身離そうとはしなかった、この世界ではおそらく唯一無二である己の主武装を、まるで邪魔にするようにぶん投げたのだ。

「喚くな。お前も言っていただろう」

 しかし、やはりケイルの応答は冷静だった。

 邪魔だったのだ。実際に。全長千二百ミリ、重量十キロのレイピアABR2は、ヘカトンケイルの膂力からすれば棒切れと大差ないが、たとえ棒切れでもないほうが速く動けるに決まっている。

「距離を稼ぐんだ」

 諸手を空けたことにより可能となる、理想的な短距離走行の姿勢をとり、膨張した全身の人工筋肉がぎゅうぅと鳴り、今一度ケイルの身体は弾けていた。

 前方三十メートル先まで拓けた切り株の平野、出来上がった途、ケイルはそこを、一心不乱に疾駆した。そう、目前の障害物を薙ぎ払いながら更地を悠々と進むT67を真似たのだ。ワイヤーを回収する手間はおろか、小銃を背のプレートに差す間さえも惜しみ、只管に相対距離を離した。

 それでもたった三十メートル。SBWEが瞬間的に拵えた途は、それだけでしかない。両者の進路を単純な直線として考えるなら、時間にして五秒間分離れていた距離を、たった七秒か、せいぜい八秒分に引き延ばしたに過ぎない。

 これはケイルにとって賭けだった。勝算がないわけではないが、その具体的な公算も定かではない大博打。一世一代の大勝負。レイピアを手放したことが何よりの証左だ。けれども彼はその賭けに特別な気概をもって臨んだわけではない。覚悟を決めて自らの命をベッドしたわけではない。慣れたものなのだ。元の世界でも、ヒルドンでも、命綱なしの綱渡りには慣れ切っていた。

 それもまた戦争に長く従事した者の顕現ではあるが、彼の、いや、オーシリーズと呼ばれる彼ら、ヘカトンケイル・プロトタイプの九体の場合は、度を越していた。自らが最良と考えた行動を実行に移す。当たり前と言えば当たり前のことではあるが、ただ、彼らの場合そこに一切の迷いがない。普通ならあって然るべき逡巡や躊躇が、彼らにはない。自暴自棄、自殺行為と見紛うほどの潔さ。

 頭の回転が速く決断が速いと言えば聞こえはいいが、そんなに殊勝なものだとは言いがたい。現にケイルはその自らの即決即行の所為で、何度か失敗している。ヒルドンでの傭兵部隊との交戦の際は逡巡なく口火を切り、手痛いしっぺ返しをくった。つい先ほどもT67に向けて躊躇なく発砲し、位置を露見してしまった。何度も死にかけている。それでも彼はその思考を、行動をやめない。ヘカトンケイルのプロトタイプ、オーシリーズであるが故に、やめることができない。

 兵器。サイがそう称したように、アカリがそう連想して戦慄したように、事実、彼はヘカトンケイルH09という兵器として製造され、成功している。

 そしてヘカトンケイル・オーシリーズという兵器の眼目は、憎き敵を葬る。ただそれだけだった。その他すべてを蔑ろにし、その一点だけに特化していた。

 まるで炎。そういうかたちの兵器だった。己の鎮火に憂慮する炎はなければ、火の粉の行く手に気をもむ炎もない。炎はただただ酸素を貪り、効率的に燃え盛り続けるだけだ。そう、ゼロットが彼の双眸を、彼の存在を、燃え盛る紅蓮の業火と重ねているように。

 ケイルは思う。常人には不可能な負の感情を伴わない酷薄な思考をおこなう。この賭けが成功するか否かは二つに一つ。失敗しても、今度こそ本当に、死ぬだけだ、と。

 そしてその賭けの軍配がどちらにあがったのかは、すぐに知れた。

「どこへ消えた!?」

 たった三十メートル。たかが二秒か三秒の時間差。だが、それだけで十分だった。ケイルのおぼろげな放射熱の残滓を辛うじて辿っていたに過ぎないT67の熱源感知センサーから逃れるには、十二分の距離だった。

「小賢しいッ! 逃げようというのか!?」

 T67の焦燥の滲んだ怒声と途端に出鱈目な方向へと矛先を転じるクレイモアの放射が、それを裏づけていた。また、その露骨な狼狽は兵装に頼り切り、発想が画一的なT67の応用力のなさを浮き彫りにしているようでもあった。

 対して、ケイルがこの世界で学んだのは創意工夫。己の生命を顧みない賭けに躊躇なく臨む精神はオーシリーズに由来するものであるが、そもそもその賭けが案出するに至る思考回路は、彼個人が獲得したものだ。知性を有さないアバドンとの戦闘では本来不必要な高度戦略的思考。作為的な改悪を挽回しようと己なりに学習する能動的模索。有り体に言えば、敵がどう考えるかを、考えることだった。

 不出来な拓地の境界、自ら拵えた短距離走コースの終点に達すると、ケイルは身を翻す。鬱蒼と茂る樹林を背負い、右の大腿部のホルスターからM7H大型拳銃を引き抜いた。

「オーシリーズ! 逃げるなら逃げるがいい! もう二度とこの森に足を踏み入れないことだ。彼女たちに近づこうなどと思わないことだ」

 放射を止め、クレイモアの砲口を下げ、その代わりであるかのように憮然と顎を持ち上げて、左右を見渡すようにしながら逃亡者に警句を告げるように鳴っていたT67。

 それでも引き返そうとはせず、どこか名残惜しげに二歩三歩と進み、薄青い光の内にのぞく目許をどこか哀しげに細め、途端、面頬の内から響く声音は萎んでいった。

「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく、林の中の象のように……」

 その独り言じみた寂寥感の漂う言葉には、どこか安堵しているような響きがあった。敵の逃亡という思いがけない行動を、けれども忌む風ではなく、胸を撫で下ろしているようでさえあった。

 ここまで執拗に追い立て殺そうとしておきながら、敵が逃げ果せたら安心するなど、一見矛盾しているように思えるが、それは彼女の“可能ならば是が非でも殺すべきだが逃げられたのなら仕方がない”というような割り切った態度を、ポーズめいた姿勢を見え隠れさせる言動だった。

 しかし、だとしたら、随分な、二重三重に恐ろしく皮肉な話だった。

 ケイルとて、逃亡もやぶさかではなかったのだから。他に有効な案もなく、一時的な戦略的撤退もやむなしと判断すれば、彼は躊躇なくこの場を脱しただろう。T67の熱源感知範囲から逃れるために作った途を、脇目も振らずにそのまま突き進み続けていただろう。追い求めていたかもしれない存在から逃げ果せるという皮肉を演じていたことだろう。

 彼がそうしなかったのは、T67の言葉の所為である。過去の記憶に触れるような、切望に繋がり執着へと膨らむような言葉を口走ってしまったのは、本心では闘争を望まないT67自身だったのだ。T67がそうしたように障害物を排して進路を確保するという手法を、逃亡のためではなく、逃亡するに見せかけて逆襲するという賭けに昇華させてしまったのは、他ならぬ彼女だった。

「それが貴様に許された唯一の救いの――」

 果たしてなんと続けようとしたのか。T67の言葉は最後まで発されることはなかった。また、告げるべき相手にも届いていなかった。

 繁みからそっと歩み出た女型の異形の目に飛びこんできたのは、唐突に出現した身に憶えのない乱伐林と、その奥で、逃げるどころか戦意を具現化したかのように真っ赤に滾る二つの眼光。そして深淵の歯車のような一つの銃口。それはつまり熱源の変動を察知して回避行動に移ることも叶わない相対距離で、盤石の射撃姿勢をとるケイルの姿だった。

 刹那にも満たない、けれども永遠のような時の空白。赤と青、奇相の双眸と双眸とが一挺の拳銃を隔てて重なっていた。

「オーシリーズ……」

 言いさした言葉よりもずっとか細い、ずっと悲壮感の滲む、ほとんど呟きのような呼びかけも、先と同様にケイルの耳に届いていなかった。もうすでに引き金が切られ、撃針は奔り始めていた。

 撃発。

 今まで散々に混沌の森を蹂躙してきたクレイモアの放射音を荒ぶる雷とするなら、その十三ミリの銃口から迸ったのは噴火だった。心の臓を拳で叩く振動の波が大気を劈き、機械の巨人の跫音のような可動音が木々の間を駆け抜ける。

 M7H拳銃は火薬式である。ガス圧利用式の半自動拳銃。使用されるのはゴライアス弾。弾頭直径十三ミリ、薬莢長三十三ミリの強装弾。その弾薬の特性については何も特筆すべきことはない。ただただ重く、大きな弾丸。

 アバドンとの戦闘において、拳銃に頼らざるを得ない状況、つまり超接近戦闘を想定してつくられた、射距離や命中精度といった本来であれば重視されて然るべきパロメータを強迫観念的に切り詰め、犠牲にし、代わりに標的制止性能のみを特化させたホローポイント弾。

 深刻な資源不足の影響により兵器の主役から姿を消しつつあったはずの大量消費の時代の産物が、いまだにサイドアームとして使用されている理由は二つ。まず、レイピアやクレイモアのような電子制御と空気圧縮器に頼るニューマチックシステムを拳銃サイズに小型化するのは、ケイルの世界の科学力をもってしても難しいという現実的な理由がある。だが、これは後者の理由を正当化するための弁明めいたものであり、確かに難しいが辛うじて拳銃と呼べるサイズにまで小型化することは不可能ではない。では、もう一つの真の理由なのだが、それは主に拳銃を携行する将校たち、ひとえに彼らの我儘によるものだった。

 いざという時に命を預ける拳銃を新しいメカニズムに刷新してしまうのはいかがなものかと、多くの将校が苦言を呈したのだ。確かに火薬式には過去、長きに渡る人間同士の抗争での実績があるが、それがためだけに新しきを拒むほど彼らの世界は豊かではないはずだった。それでも彼らは頑迷だった。

 爪に火をともすような生活の中でも、資源の浪費がシェルターの不備を招き物理的に人々の命を奪う段になっても、一部の人間は些細な矜持や見栄を棄てようとはしなかった。

 ――愚かしさ。

 ケイルが引き金を落とし、全体のサイズに較べて極端に短い特徴的なスライドが前後して鋼鉄製の巨大な薬莢が吐きだされるたびに、T67の身体は凄まじい金属音を伴って獰猛な巨獣の突進を受けたかのように錐揉みする。ストッピングパワーというにはあまりにも激しすぎる衝撃に意識を刈りとられながらヘカトンケイル・オーシリーズの真実を知るT67が感じたのは、そんな、人間の救いようのない、遺伝子に刻まれたような滅びの運命だったのかもしれない。

「………」

 八発、すべてを吐き出して後退し固定された大型拳銃の遊底。そしてその三十メートル先、仄暗い空を仰いで臥すT67。前者からは硝煙が、後者からは白煙が、音もなく立ち昇り、霧散していく。

 静かだった。怪物たちが跋扈する、緑色の地獄とも言うべきこのライガナ王国最西部の森林に久しく訪れたあまねく生命が死に絶えたような奇妙な静けさは、絶対王者と挑戦者との決着を固唾を呑んで見守っているかのようだった。

 しかしそれも一拍。

 ケイルは、防護服ないし強化外骨格を纏っても操作しやすい大型のマガジンリリースレバーをさげ、弾倉を落としながら立ちあがり、左手では新たな弾倉を求めつつ、仰向けで両手両足を投げ出したまま起きようとしないT67へと一気に駆け寄った。

 弾倉が叩きこまれる。その間、縫いつけられたかのように一瞬たりとも標的から離れなかった銃口は、丸みをおびた兜の眉間に据えられ、初弾を銜えこんだ遊底が前進。

 勝敗を決する金属音が無情に鳴った。

「生きているんだろう?」照星越しに楔形の目許を覗きこむようにしながら、ケイルは静かに告げた。「急所は避けたはずだ、一応な」

 T67にはめぼしい損傷は見受けられなかった。無論、無傷というわけもなかった。小型のアバドンなら一発で行動不能に至らせる強力な弾丸の速射を八発もその身に浴びたのだ。細かな疵が随所に見られ、亀裂が奔っている箇所もあるが、それでも外骨格の内に収まる人体にまで深刻な負傷を予感させるほどの傷は、少なくとも外観上は見当たらない。何度もクレイモアにその身を削られたケイルのほうがよほど傷んでいるほどだった。

 レイピアのソフトポイント弾と同様、生身の魔獣であるアバドン用に設計されたホローポイント弾だけに、硬質な装甲の前ではその破壊力を存分に発揮できなかったのだろうが、それ以上の理由として、ケイルの言うとおり、彼が急所を避けたからだった。

 その物的証拠が、彼らの傍らに無造作に打ち捨てられていた。一見、それがかつてはなんだったのかわからないほど無惨に破壊されているが、それは先までT67が抱え、混沌の森の一部を焦土に変えた車載用大型兵器、クレイモアの鉄塊に違いなかった。

 クレイモアの他に何も武装らしきものを有していないT67を無力化するにあたって、ケイルは武装解除を目論んだのだ。解除というよりも破壊であり、その手法はあまりに乱暴だったが、少なくとも見た限りではその目論みは成功しているように思えた。

 だがT67は起きる気配がない。マスクの目許、淡い青色に輝くガラス体の内側では、瞼がひくひくと痙攣している。意識を失っていた。

「……どうしたもんか」

『殺しましょう』

 不意に耳元で発されたアーシャの冷たい声に、ケイルはわずかに目を見開く。

『そいつは危険よ。起きたらきっと、また攻撃されるわよ』

「大丈夫だ。その時は撃つ」

 現にT67の頭部に据えられ続けるM7H拳銃の引き金はあそびが殺され、コンマ数ミリの人差し指の微動で撃発する状態にあった。有言実行。必要とあらば、彼は即座にそれを為すだろう。

 しかしアーシャは食い下がる。

『大丈夫ですって? そんなのわからないでしょう。タルタロスと言っていたかしら。その兵装にどんな仕掛けがあるのかわからない以上、気絶している内に破壊しておいたほうがいい』

「………」

 眼下の標的から視線を外すような愚は犯さなかったものの、相棒の顔色を求めるようにケイルの瞳が泳ぎかける。

 アーシャの意見にも一理ある。ヘカトンケイルとしても敵は葬るべきである。だがしかし、無力化し、有益な情報を有する可能性のある者までもを毒牙にかける節操のなさは、ケイルからしても明らかに過剰だった。

 最初に射線を結んだ時といい、今の物言いといい、アーシャの様子はおかしかった。T67を執拗に葬りたがっているのは明らかだった。

『殺しなさい、今のうちに。あなたのために言っているのよ』

「アーシャ……?」

 相棒への疑念をケイルが口にしようとした。その時だった。

「降参するよ、オーシリーズ」

 足許から聞こえた奇妙な声に、ケイルは眉根を寄せる。

 その音声はT67の樽型兜のようなマスクから発されているに違いない。だが、それでいて今まで耳にしたT67の声質とは懸け離れていた。女のものではなく、男の、それもまだ声変わりもしていない子供の声だった。

「今、姿を現すから。ちょっと驚かせるかもしれないけど、撃たないでね」

 姿を見せる、ではなく現す。そんな奇妙な断わりののち、声の主は言葉違えず出現した。

 T67の頭部の傍ら、ケイルの真正面に、幾何学的な青い光束が脚から、胴体、頭部へと下からなぞるようにそのかたちを虚空に紡ぎだす。

 それは少年だった。スニーカーに紺の半ズボン、白いワイシャツを着た、十二歳前後の小柄な少年だ。

 その出現方法は勿論、鬱蒼とした密林にはおよそ似つかわしくない軽装は現実的感覚から乖離しており、その浮き世離れした風体はケイルのよく知るところであった。今は音声だけでなぜか姿を見せようとしない彼の相棒と類似していた。

 この世のものとは思えぬ少年は、はたと思い至ったようにわざとらしく諸手を上げて無抵抗を示して見せる。

「はじめまして。ぼくはルーク。タルタロス意思伝達補助システムのAIだよ」

「意思伝達補助システム……?」

 聞き慣れぬ言葉にケイルは不審げにうなる。だがその態度とは裏腹に、突如として湧いて出たルークと名乗る少年に照準を転じようとはせず、大型拳銃の銃口はT67の頭部に向けられたままだった。

 降参という言葉を鵜呑みにしたわけではなく、目前の少年がT67自身、あるいはその強化外骨格に備わった機能の一部であることは容易に推測でき、仄かな青い後光を見れば物理的には実在しないホログラムでしかないことは一目瞭然だった。

 手を下ろしたルークは何者かの姿を求めるようにケイルの周囲を見渡すと、柔和な表情に苦笑いを宿した。

「君たちオーシリーズのバイオロイドに施術されたアーカーシャ・ガルバシステム。それの発展系。強いて感傷的な言いかたをするなら弟ということになるのかな。今も君の視界にはその幻影が映っているのかい? 仕方のないことだけれど、面と向かって自己紹介できないのが残念だね」

 まさしくお喋りな男の子という風に流暢に話すルーク。しかしその勘繰りは的外れで、アーシャは不気味なほど沈黙したまま、ケイルの視界にも現れようとはしない。今までの彼女の言動を考えれば、自分の弟などと名乗る存在が現れようものならケイルが望まなくとも出現して脅迫的な文言を吐き散らしそうなものなのに。

 ケイルはその怪訝に人知れずマスクの内で目許を曇らせながらも、ルークに問う。アーカーシャ・ガルバについてまで認識している少年に向け、改めて確認する。

「お前たちは、やはり、俺と同じ世界からきた存在なんだな?」

 しかし、ケイルからしたら確認でしかないはずの質問に、ルークは困ったような顔をして腕を束ねた。

「うーん。その点について断言することは不可能なんだよ。並列世界の概念に当て嵌めて考えた場合、限りなく似通った別の世界からきたという可能性だって捨てきれないんだから。でもまあ、細かな差異を照らし合わせて否定材料を探すことが不可能である以上、ほぼ同じであるのなら、同じであると考えたほうが建設的だね」

 酷く曖昧な物言いではあるが、はぐらかそうとしているわけでもなければ、時間稼ぎをしているわけでもないのだろう。むしろ、この手の問答は正直に答えようとすればするほど、どうしても迂遠な言い回しになってしまうのは、ケイルにも合点が及ぶことだった。

 無数に存在している並列世界。彼らが今存在するこの世界のように、あるいはシェパドたちの世界のように、違う世界であるということは文明の差異を照らし合わせれば容易に証明できるが、同じであるということはどこまでいっても証明できない。ルークの言うような限りなく似通った別の世界、たとえば、ケイルの世界とほぼ同一だが路傍の石礫の位置が少し違うという世界だってあるかもしれないのだから。消極的事実の証明の困難性を指す、悪魔の証明とは逆だ。

 ただし、何も難しいことはない。逆説的に、違う世界と断定することが不可能ならば、それは同じ世界であると考えるより他にないのだ。

「断定はできないが同郷である可能性は高い、ということか」

 なんとも釈然としない回答に、ケイルは小さく鼻を鳴らす。もっとも、不可能なことではあるが、もし仮に同郷であると確定できたとして、それで明鏡止水の心境になれたかと言えば、決してそんなことはなかっただろうが。

 ちらりと足許のT67を瞥見し、ケイルは質問を続ける。口調や態度こそ穏やかだが、銃口を突きつけているという構図からして、尋問に近い。

「AIと言ったな。使用者の意識から独立しているのか?」

 ルークという存在はアーシャと類似しているが、その点においては決定的に違っていた。アーカーシャ・ガルバが使用者であるバイオロイドにしか認知できず、影響を及ぼさない人為的な別人格であるのに対し、ルークはホログラムというかたちで他者であるケイルと相対し、こうして会話をしている。

 さらにルークはこれまでのT67の敵意とは対照的で、積極的に会話をして、友好的でさえあるようだった。T67が絶入していることも鑑みれば、ルークはスタンドアローンで機能しているということになる。

 そう、そのとおりだよ、とルークは我が意を得たりという風に満足げに頷いた。

「ぼくとT67は必ずしも同意見というわけじゃないんだ。実は君を追い立てていた時も、ぼくはずっと彼女に対話という選択肢を提示し続けていたのだけれど、いやはや、聞く耳を持ってくれなくてね。力不足で迷惑をかけて申し訳ない。……まあ、オーシリーズのことを誰よりもよく知る彼女の心情を慮れば、無理からぬことなのだけれど」

「どういう意味だ?」自身の、オーシリーズの事情に触れるような言葉に、ケイルはやや喰い気味に言い募る。「そもそも、お前らは一体なんなんだ?」

「なんだ、とはどういう意味? 自己紹介ならぼくも彼女も済ませただろう? 対アバドン用次期機械化兵装プロジェクト、タルタロス。彼女はその六十七番目の個体、T67タンゴシックスセブンだよ」

 アーシャが推測していた通り、彼らは新型の機械化兵装だった。そして対アバドン用という元の世界では聞き慣れた硬質な響きは、先のすっきりしない回答よりもよほど現実味のある共感をケイルにもたらした。

「次世代の半有機体機械化兵装。俺たちの後がまということか……」

「そう。初期はもちろん君たちヘカトンケイルのことさ。ヘカトンケイル・プロジェクトを下敷きにして開発された更新型の兵装だよ」

 ただし、とルークは人差し指を立て、ケイルの顔色を窺うように上目遣いで微苦笑する。

「一つだけ訂正させてもらうと、半有機体機械化兵装なんて奇妙な呼びかたはもうしない。タルタロスの使用者は君と同じバイオロイドではあるけれど、兵器ではなく、軍人として、人間として扱われるからね」

「人間として……」

 ケイルは今一度、T67を窺い見る。

 目許を顰め、息苦しそうにしてはいるが、瞼を開く気配はない。気絶した者に用いるには酷であり、不適切かもしれないが、その様は酷く無防備に感じられた。少なくともケイルは、戦闘中に失神したとしても正体なく意識を失い続けはしないだろう。

「というか驚いたな。君、さっきからオウム返しばかりじゃないか」

 ルークに視線を戻すケイル。マスク越しに顔色を察したわけもないのだろうが、いやいや、とルークは顔の前で手を振る。

「誤解しないで。馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ、本当に何も知らないんだなと思ってさ」

 馬鹿にしているわけじゃないと言いながら、馬鹿にしたようなことを言うルーク。

「だって、元の世界でも調べようと思えばいくらでも調べられたはずだろ。ぼくたちタルタロスについても、自分たちヘカトンケイルについても。確かに配備地域は調整されていたからどこかで出くわすことはなかっただろうし、情報制限も布かれていた。挙句の果てに雑多の欺瞞情報が溢れていたけれど、それでも真実にかすりもしないほどぼくたちの世界の情報規制は優秀じゃなかったはずだよ」

「………」

「だけど君は、現に何も知らない。まあ、当たり前と言えば当たり前か。見ざる言わざる聞かざるではないけれど。君は躍起になって調べようとしなければ、特別な関心をもって聞き耳をたてたり、興味をもって人に訊こうともしなかったんだろ? 情報制限が布かれ、欺瞞情報が流布されているなら、それは知るべき事柄ではないのだと、そう考えたからこそ知らないままでいたんだろう? ヘカトンケイルの仕様に忠実に則って……」

 ケイルは喉の渇きを覚え、硬くなった唾を飲みこんだ。

 ルークの言うことは、正しかった。ケイルは元の世界でも戦い続けるための情報、敵を葬るための知識、そういった作戦行動の良否に直接関わる事柄の収集には余念がなかったが、それ以外の情報はほとんど遮断していた。こちらにくるまではアーシャと語らおうともしなかった。彼が知るべきではないと分類しながらも、それでも知ってしまっている情報は、聞きたくなくても耳に入ってきた噂話のようなものばかりだった。

 他のヘカトンケイルに強く惹かれる反面、その情報を積極的に集めようとはしなかった。それは、そうするべきではないと考えたからだ、製造されたバイオロイドの脳がそのように判断したからだ。

 しかし、その理屈で考えれば、見知らぬ世界に存在している現時点ではその限りではないのである。間違いなく元の世界では損失備品として数えられているであろう今は、情報制限も無効だ。

 だから、ケイルは問おうとした。機械化兵装について熟知しているようであるルークに、答えを訊こうとした。そもそも質問の順番が違ったのだ。タルタロスがヘカトンケイルの次期機械化兵装だというのなら、まずは初期から、ヘカトンケイルについて知らなければならない。

「……教えてくれ。俺は、ヘカトンケイルとはいったい……」

『お願い。殺して』

 だが、再び、唐突に発された意識の中の声に、ケイルは言葉を遮られ、びくりと、拳銃を構えたまま身震いする。言葉だけではない。思考さえも遮られていた。

 脳裡が一時、ノイズのような、砂嵐のような、感情を粟立たせる戦慄にどす黒く染まる。ケイルはたまらず左手を頭にあてた。ルークはその様子を訝しげに見つめている。

「アーシャ……なのか?」

 ケイルにしか声が聞こえず、彼の意識の中にのみ存在する声の主など、彼女をおいて他にない。

『あなたはそれを聞くべきではない。あなたはそれを知るべきではない』

 だがその声質は、彼のよく知る鈴を振るような少女の声とは懸け離れていた。

『殺しなさい。早く。今すぐに』

 口ではなく、咽の奥、臓腑からひり出しているような声。獣が喋るようにつくられていない顎で無理に発声しているようなおぞましい声音。

『殺せ……』

 久しくアーシャの姿を認めた。だがその顔は見えない。三者から少し距離を置いた位置に真っ白い少女の後姿が寂しげに佇んでいた。

『殺せ』

 アーシャはゆっくりと振り返る。

 ケイルは瞬間的に予感し、危惧し、拒絶した。振り返るな。その顔を見せるな。だがその心情とは裏腹にマスクの中で目尻が切れんばかりに見開かれた瞳は、まじろぎもせず彼女を凝視し続けていた。

『殺せ。殺せ』

 真正面に正対したその姿を目の当たりにして、ケイルの咽のから小さな悲鳴がもれる。

 純白のワンピースとはりのある肌の上に載り、暗灰色の頭髪を湛えるその顔面は、気の強そうな少女のものではなかった。人間のものでさえなかった。

 見慣れぬ、けれども嫌と言うほど見覚えのあるそれは――。

 異様に高くはり出した額骨は己以外の生あるあまねくものを憎んでいるように酷く顰められ、暗く落ち窪んだ眼窩の中ではまばたきを知らぬ丸い双眸が静脈血のような赤黒い輝きを炯炯と放っている。

 貌の下半分を占める肉を削ぎ落とした顎骨のような巨大な顎門は狂喜を湛えて半月形にぱっくりと開き、捕食ではなく憎悪の対象の肉体を喰いちぎることにだけ特化した剃刀のような無数の鋸歯が毒性のある細菌を飼う唾液によって斑な黄色に塗れていた。

 次第にワンピースや艶やかな肌も剥落し、灰が舞いあがるように霧散していく。その下から覗くのは血管を束ねたような脈動する赤い筋骨。背からはもう一対のかいなが突き出て、体格もみるみる膨れ上がり、もはやその姿はケイルの知る少女の面影を欠片も残してはいない。

 そこにいるのは、全生物の怨敵にして天敵、生命を滅ぼす魔獣、アバドンだった。

『殺せえエええええぇェ――』

 脚を開き、腰を落とし、垂らした腕の先の諸手を鷲のように開いて、今にも突進せん体勢でおぞましい魔獣は吼えた。だがその不協和音はどこか、喚声というよりも慨嘆を、咆哮というよりも慟哭じみた切迫した響きを帯びていた。

『お願い。殺して。……それがあなたのためなの』

 やはりその姿は醜かった。その声音はおぞましかった。

 しかし魔獣は、ケイルを見つめて、醜悪な双眸から涙を流していた。

 その姿を呆然と見入ったまま、ケイルは何かに絆されるように、魔獣の懇願に衝き動かされるように、T67の頭部に銃口を向けたままのM7H拳銃の引き金にじわりと力を篭めた。

 その時だった。

「私は……なぜ生きている?」

 T67が意識を取り戻した。

 ケイルもまた、人知れず正気を取り戻すようにはたと足許の彼女を見遣ってから、再び幻影の姿を捜したが、恐ろしい魔獣の姿は消え去っていた。

「どうして私は生きている?」

 T67は起き上がろうとはせず、銃口越しにケイルを見据えたまま問いかけを繰り返した。声音には敵愾心が滲んでいたが皮肉の色はなく、本当に不思議に思い問い質しているようだった。なぜ殺さないのか、と。

 ルークは何も言おうとはせず、先に見せた不審から、不安げな顔色をケイルに寄越している。

「急所を……」

 ケイルは答えかけるが、声が続かなかった。そこでようやく自分が息を詰めていたことに気がつき、呼吸を整えてから続ける。

「急所を外したからだ」

「なぜ急所を外した?」

「……聞きたいことがあるからだ」

 相槌を返そうとはせず、じっとケイルを睨みつけるT67。ケイルはその冷たい双眸を見つめ返し、言った。

「俺の符丁はH09。俺はあんたと会ったことがないか?」

「ふん。何を言うのかと思えば、馬鹿なことを」T67は倒れたまま顔を横に向け、鼻を鳴らす。「オーシリーズに知り合いはいない。シェルターの中でも外でも、戦場でも、遭ったことはない」

 会った、ではなく、遭ったと、そこの部分だけ強調する物言いにこめられた明らかな皮肉にはとりあわず、ケイルは続ける。

「訓練施設ではどうだ?」

 その言葉に、T67の目許に一抹の戸惑いがかすめ過ぎった。視線をケイルに戻し、まじまじと見つめる。

「……なに?」

「あんたはヘカトンケイルの訓練施設にいたんじゃないのか? その訓練課程で脱落したんだろう?」

「それがどうした。私だってバイオロイドだ。ヘカトンケイルの訓練課程でオーシリーズに足るおぞましさを有していないと判断された者は、タルタロスの育成プログラムに組みこまれる。そんなことは少し調べればわかること。なぜそれで貴様と私が会ったことになるんだ」

 そんなことは当たり前だという風にT67は言う。だがケイルを見るルークの目は驚きに剥かれていた。

 少し調べればわかること。先の会話からケイルがその少しさえもしなかったことをルークは知っていたのだ。

 ケイルはそこでようやく拳銃を下ろした。ろうたけた柳眉を不審に曇らせるT67に、核心を言い放つ。

「あんたが施設を離れたのは、アバドンの殺戮の様子を見せられた精神教育の次の日だった。違うか?」

「なぜ……、なぜそこまで知っている?」

 言って、マスクのガラス体越しにT67の整った双眸が驚愕に見開かれた。彼女もまた心当たりがあり、それに思い至ったようだった。

「貴様は……まさか、私の隣に座っていた……」

「そういうことか。驚いたね。君たち、クラスメイトだったのかい」

 ルークの感慨に、二人は同時に少年に視線を転じた。その眼差しから何かを感じ取ったのか、ルークは居心地が悪そうに目を泳がせる。

「えっと、幼なじみって言ったほうが適切なのかな……」

 ケイルとT67はまばたきを忘れ、発すべき言葉も失い、再び互いを見つめ合った。

 クラスメイトという言葉も、幼なじみという言葉も、正しくはあるかもしれないが、とても適切と言えたものではなかった。だがケイルの勘繰った通り、T67は彼の知る少女と同一人物であるのは間違いないようだった。

 ケイルの元の世界における数少ない記憶に残る人物。記憶を思ひ出という感慨的な意味で限定するならば、唯一心に残っていたと言っても過言ではない同期生の少女。それが彼女だった。

「おっと。何人か近づいてくるよ。この熱源はエルフたちと、きっと彼女だね」

 不意に発されたルークの声に、二体の異形の間で生まれていた奇妙な沈黙は破られた。

 ほどなくして三人の視線の先に現れたのは、数名の耳の長い美形の亜人と、彼らに護られるようにして駆け寄ってくる一人の女だった。

 手入れをすれば見栄えがしそうな腰まで届くブロンドの長髪は、しかし見るも無惨なぼさぼさで移動中に絡んだであろう小枝や葉っぱを取り立てて気に留めていないようだった。

 着ているものもみすぼらしい。薄汚れた水色のチュニックの上に、さらに輪をかけて小汚い白いエプロンを羽織っている。エプロンというよりも、ケイルの世界の研究者が纏うような白衣といったほうが近いものである。手製の革鎧に身を固めたお世辞にも小ぎれいとは言えないエルフの一団の中にいても浮いてしまうほど、一際貧相な身形の女だった。

 彼らはケイルが先ほど拵えた乱伐林の境界に達すると、三者の姿を認め、途端、エルフたちは異国の言葉で喚きたて、手馴れた様子で素早く展開すると弓に矢を番え、その鏃をケイルに向けようとした。

 T67を先生と敬う彼らからすれば、傷ついて倒れるT67を跨いで立つ見慣れぬ異形は敵意を向けるに値する存在に映ったに違いない。

「ダメだよ!」

 だがみすぼらしい女の鋭い声がエルフたちを制した。

「せっかく止めにきたのに、お願いだからこれ以上ややこしくしないで」

 女は駆けながらも手振りでいきりたつ亜人たちを抑え、三人に近づくと両膝に手を置き、ここまで必死に駆けてきたのだろう、息も絶え絶えにそっと安堵の息をもらした。

「間に合ってよかったぁ。……森の中は酷い状態だったし、急に静かになったものだから、もしかしたらもう死んじゃってるのかもって……」

 何を言っているのか、誰に言っているのかもわからずにケイルは眼差しを落とし、そこでT67の刺すような視線に気づいた。彼がT67の上から退くと、まだ油断なく弓を持ち遠巻きにいたエルフたちもようやく矢を矢筒に戻し、歩み寄ってくる。

 立ち上がったT67は背の土を払うと、ケイルを警戒するように瞥見し、ケイルの視線から隠すように女の前に立ち塞がり、口を開く。

「止めにきたとはどういう意味だ。こいつの素性は知れないが、こいつとの因縁は私の問題だ。構わないでくれ」

「それが、そういうわけでもないんだよ」

「なに……?」

「あなたたちが暴れ始めたら、さっき久しぶりに姫さまが目を覚ましてね。彼女からの伝言、“仲良くするために呼んだのに兄妹喧嘩はダメ”、だってさ」

 女は伝言という部分だけ幼い声を真似るようにして言った。もっとも、わざわざ舌足らずの声音を演じるのも滑稽なほどに女自身の声質も十分に若くはありそうではあったが、ほとんど髪に隠れた顔立ちから年齢を推測するのは難しい。

「仲良くするために、呼んだ……?」

 T67は意味不明といった様子で女に向け顔を突き出すが、その言葉を反復し、何かに思い至ったようで、がばっとケイルを振り返ると、再び女に向き直り、掴みかからん勢いで詰め寄った。

「まさかこいつを呼んだのも姫なのか!? 向こうの手の者じゃないのか!?」

「まあ、姫さまの真意は私にも計り知れないから詳しくはわからないけど、たぶん、そういうことなんだろうね」

 腰に片手をあて頬に微苦笑の皺をつくる女。T67は後ずさるように顔を離し、絶句していた。表情は窺えなくとも、樽型兜のような面頬の内では横つらを張られたような表情をうかべていることは容易に想像できる仕草だった。

「ほら、だから言ったじゃないか。決めつけるのは性急だって」

 下唇を出して冷ややかな横目で拗ねるように言うルークに、T67はむぅ……とうなる。

 そんな一連の遣り取りをほとんど理解できず立ち尽くしていたケイルだったが、ただどうやらT67の奇襲は彼女のなんらかの早とちりによる手違いだったのだろうと察して、M7H拳銃に安全装置をかけホルスターに収めた。

 女はT67の身体の陰から首を伸ばすようにしてケイルを見て、にっと少年のように口角を持ち上げた。稲穂を被ったような長髪に覆われ目許は窺えないが、妙齢の女には似つかわしくない一種独特なその笑いかたに、ケイルは見覚えがあった。

「こんばんわ。私はスーラ。スーラ・ミレン・メイフェ。知っているかどうかわからないけど、反逆者の首謀者です」

 女、スーラは、はじめまして、と小さく頷いた。

 にこやかに反逆者の首謀者と名乗る態度には軽口めいた皮肉の雰囲気があったが、もちろん虚言などではないのだろう。つまり彼女こそレイア王女の教育係りにして側近、メイフェ家の長女、そしてサイの姉だった。

「あなたの仲間の人たち、エルフに捕らわれているみたいですから、とりあえず彼らと合流しましょうか。詳しい話はそれからということで」

 どうでしょう? と同意を求めて小首を傾げるスーラに、ケイルは顎を引いた。

 そうして一団は、ずいぶんと歩きやすくなった荒野の森林を歩き始める。先頭を往くエルフたちが樹冠越しに空を仰ぎ、腰に提げていた松明を取り上げ火を灯した。日照時からすでにほの暗く、体内時計を狂わせる森の日は、いつのまにか暮れようとしていた。

 文明の存在を知らしめ、魔物を退ける灯火が木の下闇におぼろげな光をもたらし、すかさず闇に巣食おうとしていた無数の禍々しい蟲が蜘蛛の子を散らしたように退散していく。

 人知れず、ケイルは目許を曇らせる。暗視装置で闇を見る彼にとっては、下手な光源など邪魔なだけだった。

「光が嫌いか? H09」背後から、些細な仕草から感じ取ったであろうT67が嘲るように言う。ただその呼び名はオーシリーズではなく、先に明かしたH09という符丁に変わっていた。「光を嫌い、闇を好む。まるで魔物と一緒だな」

「熱源で見るあんたにとっても灯火は邪魔なはずだ」

「……違いない」

 今までの遣り取りから険悪な買い言葉を返すものだと思いきや、その意に反してT67はどこか卑屈に失笑するだけだった。それは苦笑とも、あるいは自嘲ともとれた。

 道中で先ほど放擲したレイピアを回収するケイル。前屈した姿勢で小さく呻いた。戦闘状態に際して過剰に分泌されていた脳内麻薬が薄れ、今になってクレイモアの直撃を受けた腰が痛んだのだ。

 小銃に付着した塵をぬぐいながらふと周囲を見渡す。本来であればあるじの負傷というもっとも重大な事柄の報告に必ず姿を現す支援システムの相棒は、しかし、やはり姿を見せようとはしなかった。

「アーシャ。聞こえるか」

 鈴蘭のような姿を視界に求め、意識の中で繰り返しその名を呼んだ。だが伝法な顔立ちが現れることはなく、透き通った不遜な声音が聞こえることもなかった。

「……アーシャ」

 ケイルにとっては、強化された治癒能力をもってしても軽んじるべきではない傷の深さを報せる熱っぽい鈍痛や、不可解な現状、聞きそびれたヘカトンケイルの真実よりも、様子のおかしい相棒のことが気がかりでならなかった。




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