38 ベッド
脂汗でぬめった他人の皮膚は、熱を帯びた唇にひやりと妙に冷たく感じられた。
厚い脂肪に被われた肉は弾力に富んでいたが、顎を閉じるにつれ歯先につっぱったような抵抗を覚えるようになる。
咬み切った。
途端、日照りかけた生水のような生温かい液体が口内に溢れ出し、強烈な鉄錆の臭いが鼻腔を突き抜ける。渇いた舌に絡みついたそれは、濃厚な渋みの中に微かな甘みを帯びている。
たまらず口を離し、血肉を吐き出した。赤色がなくなるまで何度も唾を吐く。白濁した気泡に入り混じる他人の血は、中々消えない。口許を頻りに拭う。こびりついた体液は、伸びるばかりで一向に拭い取れない。
「おはよう」
目の前、息がかかるほどの距離から発された声に、顔を起こす。
薄汚れた肌着を着た小太りの男が立っていた。喉笛にはパンの塊を無造作に千切ったような歪な裂傷が、ぱっくりと開いている。呼吸で胸が上下する度に裂傷からはあぶくが脹らみ、白い肌着は滴った血で汚れていく。
「教えてくれ」
自身の血液で溺れながら喋っているような声は不明瞭だが、奇妙なほどにはっきりと聞き取れる。
「どうしてだ」
男のズボン、股間の部分が脹らむ。鎌首をもたげるように怒張していく。
「なんで殺した」
暗黒に翳った顔には、三日月のように細められた目と鎌のように歪んだ口だけが浮かび上がって見えた。
「どうして殺したんだよおぉ」
「――ひ」
ライアスは目を覚ました。
見開いた瞳に映るのは、木造の天井だった。ここは王都デリト、ハイントン家、ライアスの自室である。
この家で生まれ、この家で育ち、軍の士官教育所に入隊するまで、十数年間も見続けたはずの、見慣れたはずの天井だが、ライアスはここがどこだかわからないといった風に、暫し呆然と見上げていた。
「おはよう」
「――ひぃ」
ベッドの脇から発された声に、ライアスは起上り小法師のように上半身を跳ね起こす。
呆れたような表情をしたアカリが立っていた。
「ライアスさん、朝の挨拶まで"ひー"なの?」苦笑いしながらかぶりを振ったアカリは、仕切りなおすように言う。「おはよう」
「……おはよう」
どこかぎこちない追従笑いを返しながら、ライアスは応じた。
約二日間という強行軍で、ライアスとアカリは王都デリトに到着していた。強行も強行、その二日間は旅路というよりも、魔物からの逃走劇と言った方が近いものであった。ケイルの競歩のような歩調に合わせて西を目指した道程も、ライアスからしたら相当に過酷なものだったが、帰りはそれ以上だった。今は亡きカボル捜索隊が王都からヒルドンに到達するまでに要した七日という期間と照らし合わせれば、それが如何に過酷であったか推し量れるだろう。もっともたったの二人だったが故にほとんどの魔物との戦闘を避けられたので、主に伝令を生業とする駿馬を駆る騎兵のようであったと形容した方が、より的確かもしれない。
「アカリちゃん、随分早起きなんだね」
言って、ライアスは室内を淡く灯すオイルランプの光と、窓の外の薄闇に気が付き、苦笑した。
今日の早朝に到着し、ライアスは泥のように寝入り、今はもう夜の帳が下りようとしていた。アカリの言うところの、朝の挨拶という言葉も、おはようという挨拶も正しくはない。早起きというのも、妙な物言いだろう。
「というか、眠れないのかい?」
「ちょっと調べたいことがあって、散策してたんだよ。……それに、眠れないって言っても、ライアスさんほどじゃないよ」
アカリが顎をしゃくる先、ライアスの肌着は寝汗でぐっしょりと濡れていた。
俯き加減の上目使いでライアスの言葉を待つようにするアカリ。ライアスはもう一度苦笑いを漏らしただけで、何も言わずにベッドから出た。
住み慣れた部屋という感覚を徐々に取戻しつつあったライアスは、クローゼットに向かい、重くなった肌着を躊躇なく脱いだが、そこではたと気付いたように振り返る。
アカリは息を呑み、まじろぎもせずにライアスの上半身を見つめていた。初めて目にした無数の傷痕で蹂躙されたそのおぞましい身体を。
三度、力なく微苦笑を漏らしたライアスは、焦ったように衣服を纏った。
そのどこか卑屈な態度と身体の傷痕が、どんな言葉よりも眠れない理由を雄弁に物語っていた。
「アカリちゃん、ご飯食べに出掛けようか」
「……うん」
退室するアカリの後に続き、ドアを閉めようとしたライアスは、自室を振り返る。
本棚に隙間なく並べられた書籍、夜更けまで読書をするための枕元のオイルランプ、サイに綴るように勧められた日記。過去十数年間、つい数か月前まで、嘗ての自分はこの部屋で一体どのように生活していたのだろうか、と。ライアスは思い描こうとした。だが、うまく像を結べなかった。
気持ちの悪い感覚を拭うように口元を、悲痛な声の残滓を振り払うように耳元を、ライアスは頻りに撫でていた。
一人息子であり、跡取りでもあるはずのライアスの帰宅に、彼の父と母はまったく異なる反応を示した。父は何も言わず、ただライアスの目を見て、小さく頷いただけだった。軍人でもあるライアスの父は、息子の顔を見て何かを気取ったのかもしれない。
厳粛な軍人の家柄らしく主である父に迎合する傾向にある母は、父が割と肯定的な反応を見せたものだから責めはしなかったものの、やや執拗に事情を問い正そうとし、同時に幾分安堵していたようでもあった。
「ようやく起きましたね。どこへ行っていたの? 家出? 家出なの? その娘さんはどなた? 知り合い? 友人? それは肉体的な友人という意味で捉えていいの? 仕事は? まだ停職中なの? 顔を見せないでいいの? ご飯は? 外で食べるの?」
疑問符を連発する母親を適当にあしらい、二人は家を出た。
忍び笑いを漏らすアカリ。ライアスは照れたように頬を掻く。
「母さん、気の弱い人でさ。自分の身体の事情で僕一人しか子供を産めなかったものだから、きっと負い目に感じているんだろうね。心配なのはわかるけど、ちょっと過ぎるんだよね」
「ううん、違うの。可笑しいわけじゃなくって」アカリはふるふると首を振る。「たださ、ああいうのいいなぁと思って。ライアスさんはきっとお母さん似なんだね」
どことなく寂しげに微笑むアカリの横顔を見て、ライアスは、そうだね、とだけ頷いた。アカリの家の事情は王都に至るまでの道程で本人から聞き及んでいた。
王城前の広場に面した食堂で夕食となった。室外席の円卓、料理を挟んで対面に座った二人。
食事を口に運びながらもアカリはきょろきょろと視線を彷徨わせる。広場の人通りの多さと活況が気になっているようだった。
随所に設けられた篝火の明かりの中、都民達は忙しなく往来し、通りには屋台の設営をする者、家屋の壁面に植物の葉や蔦で拵えた控え目な装飾を施している者もいる。
「王都ってさ、いつもこんなに人が多いの? お祭りみたい」
上京してきた田舎者のような科白を言うアカリだが、その感想は正鵠を射ていた。
「みたい、じゃなくて、お祭りなんだよね。もうすぐ年に一度のお祭り、収穫祭だよ」
嘗てのライガナ王国繁栄の時代には、多種多様な祭りや記念式典が年に何度も、ことあるごとに催されていたのだが、魔物出現以降、衰退する一方である国勢から抽象的な祭りは徐々に廃れていき、今では形骸的なものでしかない。しかし作物の収穫という目に見える実りを祈念する収穫祭は今でも根強く残り、唯一の大規模な催しとして都民達の思い入れも一入だった。
現金と言ってしまえば確かにそうだが、衣食住がこと足りてこその生命であり、生活だ。その生あるものとしての原始的な欲求への祈願を同時に心の拠り所にできるなら、これ以上合理的なことはない。祭りの準備に追われる人々の表情は、一様に明るい。
「間に合ってよかったね、アカリちゃん。屋台も並ぶし、劇もあるよ。魔術や剣術の技巧会もあるんだ。きっと楽しいよ」声を弾ませながらライアスは闇夜を背景に聳え立つ王城を指差す。「ほら、あのお城のバルコニーで国王ディソウ様とミリア王女様が直々に開催を宣言するんだよ」
「ふぅん……」しかしそれを仰ぐアカリの表情はどこか浮かず、視線は冷ややかだった。「外壁の前では大勢の人達が飢えてるのに、いい気なもんだね……」
今朝、息も絶え絶えに王都外壁の西門に達した二人。運よく最初の開門の時刻と重なり、更に運よく当番の衛兵がライアスと顔見知りであり、アカリの素性を誤魔化す手間を差し引いても、手続きに待たされることもなくスムーズに門を潜ることができた。そもそもその辺りの事情を知らなかったアカリからしたら、意図せずにライアスと同行できたのはこの上ない僥倖であろう。
ただ、しかしその時、幸運が関与できない必然的に、アカリは目にしていた。自身の憔悴を忘れてしまうような、枯れ木のように痩せ衰えた大勢の難民を。辿り着くや否や、何よりも真っ先に王都の暗い部分を目の当たりにした。
「あ、そうだよね……」ライアスは表情を一変、恥じ入るように俯いた。「ごめん」
生粋の都民であるライアスからしたら、最早外壁で難民が溢れているという光景が当たり前になってしまっているが、初めて訪れたアカリにとっては違うのである。待てど暮らせど門を潜ることが許されない難民を差し置いて、到着早々這入れたアカリ。常識的な神経をしているならば、僥倖と手放しで喜べるわけもなく、祭りにはしゃげるわけもない。
「ううん。あたしこそごめん。ライアスさんを責めたって仕方がないのに……」
会話が途絶え、俯きがちに黙々と食事に進めるようになった二人。その席だけ周囲の雰囲気から明らかに沈んでいた。
「そういえばアカリちゃん」ライアスは取り直すように言う。「王都に住んでいるっていう知人、どうするんだい?」
「うん。それなんだけどさ、ライアスさんが起きる前にそっと家を出て、色々調べてみたんだけど……」
言葉を止めて、スープ皿に浸したスプーンをくるくると回すアカリ。思案するように琥珀色の波紋を見つめている。
「そういえば散策とか言っていたね。でも、見つからなかったのかい?」
「……うーん」煮え切らない様子で唸るアカリは、ちらりとライアスを一瞥し、スプーンを置き、意を決した風に身を乗り出した。「ライアスさん、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ」
「ああ、僕にできることなら喜んで協力するよ」
「ほんとう?」
疑うようなアカリの視線に、ライアスは毅然と背筋を伸ばし、胸を叩いた。咽た。お約束だった。一頻り咳き込んで、ライアスはもう一度胸を張る。
「本当だよ。任せてよ」
「ほんとにほんと? 絶対? 命賭ける?」
「……アカリちゃん、いいかい。男が約束をした時はね、言わずもがなで命を懸けているものなんだよ」ライアスは諭すような口調で言って、力強く頷く。「僕も男だ。二言はない!」
「絶対だよっ。約束したからね」言質を得た、という風にアカリの目許が怪しく光る。「それじゃあ、男のライアスさんにからだを張ってもらおうかな」
「お兄さん! いやぁ、ついてるねえ。普段なら超絶人気で予約待ちの二人の女の子、それがなんと今、二人ともフリーなんだよ! ロリィとビビ! 人界に舞い降りた二羽の妖精! 彼女らの見目麗しい夜の羽ばたきでうちの店はもってるようなもんなんでさぁ」
背を丸めた老人の熱の篭った口上を聞きながら、ライアスはさっそく男を辞めたくなっていた。おかしな意味ではなく、自分が約束には言わずもがなで命を懸けなければならない男という性別であることを本気で苦に思っていた。
端的に言えば、失敗した、と。
「ロリィはまさに愛玩動物! お客のどんなニーズにも応えてくれる美少女! されど侮るなかれ、小柄な体躯には不釣り合いな大きな大きな二つの山塊が、そりゃもう零れ落ちんばかりに聳えちゃってるんでさぁ! お兄さん、ちょっと想像してみてくださいよ。あどけなさを残した顔立ちで頬を染め、目許を潤ませながら見上げてくる美少女を、その胸元から覗く深淵のような谷間を! それを、どんな風に扱ってもいいんですよ! どんな風に扱ってもいいんですよ! 大事なことだから二回言いましたよ!」
「は、はあ……」
素直に想像してしまったのか、ライアスは股間をもじもじさせながら曖昧に頷いた。
老人は抜け目なくライアスの反応を気取ったようで、にやりと笑う。
「お兄さん、ウブだねえ。まったくおたくウブだぜ! そんなお兄さんにはビビがお勧めだよ! ビビは絶世の美女! スレンダーな身体に涼しげな顔立ち! その姿はまさに美しさの権化! 美の化身! ウブなお兄さんでも彼女の手解きにかかれば、天上へ駆け昇る竜の如く絶頂へ誘われること請け合いでさぁ!」
「………」
ライアスはもじもじを加速させ、とうとう俯いてしまう。
縮んだ背丈からは想像もできない饒舌さでのべつ幕なしに喋っていた老人は、持ってはいたが銜える暇もなかったパイプをようやく口許に運び、濃密な紫煙を吐き出した。若干、声のトーンを落として、もったいぶるように口を開く。
「まったくお兄さん、あんたとことんウブと見た。もしかして、初めてかい?」
「え? いや、あの……はい。こういう店は……」
「そうじゃなくって」言葉を区切った老人は警戒するように左右を見渡し、ライアスを手招きする。腰を屈めたライアスの耳元に囁いた。「筆下ろしかい?」
「え!? いやっ、いやいやいやいやいや! 何を言っているんですか。いやだな。そんなわけないでしょう。ハ、ハハハハハ」
ライアスの顔は盛大に引き攣り、その乾いた笑いは酷く平坦だった。
王都の外れにある歓楽街。酒場などが並ぶその通りをより薄暗い方へと進んでいけば、異様な雰囲気が漂う街路に迷い込む。
特殊加工されたオイルランプの桃色や紫色の幻想的な光の中、開け放たれた玄関先でドレスを着崩した若い女性が科をつくって手招きをしてくる露骨な店が軒を連ね、街角では通り過ぎる男に声を掛ける立ちんぼが挑発的な微笑を湛えて佇んでいる。客に特殊な遊興を提供する商売。いわゆる、性風俗営業だ。
ライアスが居るのは狭い間取りにカウンターを挟んで老人が座っているだけといった趣の店。しかし女性の似せ絵や、いかがわしい単語が並べられた説明書きなどが所狭しと壁に貼られた一種独特な情緒から、ここもそういった類の店であることは間違いない。客の望んだ場所、希望の時間に特殊なマッサージを行なう女性を派遣してくれる店だった。
「お兄さん、別に隠さなくってもいいんでさぁ。お客のどんな要望にも真摯に応えるのがうちの営業方針でしてね。さっき言ったロリィとビビ、実はまだ新人でね。いやさ、そりゃあ生娘と言えば嘘になりますよ。でも新人の初々しさを十分に残した花も恥じらう乙女でもあるんでさあ」
何が真摯なのか。
超絶人気で予約待ちの娼婦が新人であるわけがない。そもそもこういった店がするサービス要員に関する口上ほど、信用ならないものは珍しい。ロリィは小柄な肥満体で、ビビは痩せ衰えた老婆、といったところか。
ライアスが初心者であることを見抜き、それに合わせて適当なことを並べ立てているのは明らかだった。だが、やはり初心者であるが故にライアスはそれに気付けない。そうなんですか、とやや喰い気味に身を乗り出すが、はたと思い至ったように虚空を見上げて頭を振る。
「いや、あの、違うんです。実は希望する女性がいまして」
「なんだ、指名だったんですかい。その幸せな小鳥ちゃんの名前は?」
「えっと、確か、ジュディさんだったかな。この店にいるって聞いて」
その名を聞いた途端、老人の表情が曇る。パイプを一口喫いさし、嘆息と一緒に紫煙を吐き出した。
「お兄さん、誰から聞いたのか知らないけど、悪いことは言わない。初心者にジュディはお勧めできないよ」
「え。どうしてですか?」
「彼女はね、なんて言ったらいいのか、殊更特殊な性癖をお持ちのお客専用の要員なんだよ。お客を失神させたこともあるんだ。それでも異世界の絶技とかいって、そのお客はすっかり彼女のリピーターさ。一部では夜の魔道士とさえ謳われているんだ」
「よ、夜の魔道士……」その徒ならぬ二つ名にライアスは息を呑んだ。殊更特殊な性癖も、失神するほどの行為も、ライアスには想像もできない。「あの、でも僕はジュディさんがいいんです。彼女は空いてるんですか?」
老人は鼻から息を吐き、頷いた。
「お兄さん、チャレンジャーだね。ああ、ジュディは空いてるよ。六十分コースなら銅貨十枚、九十分コース銅貨十五枚、二時間コースは二十枚だよ」
「えっと、じゃあ六十分コースで……」
「うちの対面にある宿屋、レモンの201号室が空いてるから。料金はここで払ってもらう分と込み、勝手に出入りしてもらって問題ない。その部屋で待っていれば、すぐに向かわせるよ」
まごつきながら銅貨を支払ったライアスを、老人は今一度憐れむような眼差しで一瞥した。
「……一つだけ断わっておくけど、行為の最中に発生した精神的負担や肉体的損傷に、うちの店は一切責任を負わないからね」
げにおそろしい言葉に表情を強張らせながら、ライアスは宿屋へ向かった。
饐えた臭いが充満し、歩く度に床が軋むような古い宿屋だったが、その音はきっと誰の耳にも届かない。廊下に等間隔で並んだドアの内から、艶めかしい嬌声や獣のような唸り声、ベッドが下階に抜け落ちるのではないかというほどの振動音が響いてくる。
201号室に這入ったライアスは、狭い室内を落ち着かない様子でうろついていた。ベッドに腰掛け、数秒も経たずに立ち上がり、うろうろと歩き回り、またベッドに腰を下ろす。襟を抓んで衣服の臭いを嗅ぎ、風呂に入ってくればよかったと思った。
唯一の調度品であるクローゼットに泣き出しそうな情けない表情を向け、かすれたような嘆息を吐き出した。
「ジュディでーすっ。サービスに参りましたー」
控え目なノック音と共に聞こえたその弾むような声に、ライアスはびくりと硬直。
「は、はひっ。あ……開いてますよ」
「失礼しまーすっ」
ドアが開け放たれ、そこに立つ者を見て、明るい声色からはまったく連想できなかったその異様な佇まいを目の当たりにして、ライアスは絶句。
細い体躯にぴっちりとフィットした皮革製のボンデージ。光沢を放つ黒い着衣と白い肌のコントラストが映えていた。足には網タイツ、右手には大きな鞭、左手には極太の注射器のようなもの。整った顔立ちだがその目許は蝶を模したようなマスクで隠されている。口ではにっこりと微笑んでいるのに、マスクの双眸から覗く瞳はまったく笑っていない。
その鞭をどうしようというのか、その注射器は果たして……。自分が何をされるのか、微塵も想像できないライアスは、正体不明の恐怖に身動ぎもできず、世にも恐ろしい魔物と遭遇したかのように震えていた。
「あららぁ。随分若くて可愛いお客さんね。……いぢめがいがありそう」
舌なめずりをした女、ジュディは、ライアスをベッドの上に突き飛ばし、馬乗りになって衣服を毟り取る。
「ひ、ひい。やめてください、やめてください。許してくださいぃぃ」
「おーほっほっほっ。よいではないかよいではないか。いやよいやよも好きの内。躰は正直なんだぜぇ」
「ら、らめえええぇ!」
……どっちが客でどっちがサービス要員なのだかわからない。
ライアスの脳裏に薔薇の花弁が散っていく光景が過りかけた時、ジュディはぴたりと手を止めた。
「あらあら」ジュディの視線の先には、夥しい裂傷に蹂躙されたライアスの上半身があった。「……君、見かけによらず随分ハードなのね」
「あのっ、違うんです。僕はその――」
「いいのよ。わかっているから」
ジュディはライアスの唇に指を重ねて言葉を遮り、そっと鞭を置いた。だが今度はがしりとズボンに手をかけ、極太の注射器を近付ける。
「こっちがお望みなのね! そうなのね! そうだと言いなさいこの蛆虫!」
「ち、ちが、違います! 会わせたい人がいて、それで僕。あ、あ、あっ、……おっほおおおぉおぉ!」
ライアスの悲痛な叫びが響く中、不意に、ぎいいとクローゼットが内から開いた。
痙攣するライアスに馬乗りになったまま、ジュディはそこから現れた少女を見て、目を剥いた。
アカリだった。
「ジュディさんですね……?」
「え、ええ。あなたは?」
アカリは駆け寄り、ポケットから金属の塊を取り出した。オイルランプの淡い光を受けて鈍く輝くそれは、十二・七ミリのアーマーピアシングバレットだった。シェパドから託された、願いだった。
「これは……っ!」受け取ったジュディは更に目を丸くして、弾かれたようにアカリを見る。「あなた、彼からの遣いなのね? 彼はどうしたの? 預かったのはこれだけ?」
「よかった。あにきの友人で間違いないんですね」安堵したように頷いたアカリは、しかし言い難そうに目を伏せた。「あの……あにきは、シェパドさんは亡くなりました。……預かったのはそれだけです」
亡くなった? と放心したように呟いたジュディは、手の中の弾丸に視線を落とす。
「これだけ? えっと、弾だけなの? 銃は?」
ふるふると首を振るアカリ。それを見たジュディはふっと吹き出し、身を仰け反らせて笑い始めた。
「あは。あはははははは! シェパード大尉! なんて意地悪な人なの。どこまで小意地なの! 信じられない! あは、あはははは!」
一見、シェパドを悪く言うような言葉だが、アカリはただ怪訝そうに面妖な姿をした得体の知れない女を見つめていた。そのどこか狂気じみた笑い声には、不思議と棘がなかった。旧知の仲の友人への称賛のようにさえ聞こえた。
「それで」マスクを外し、目尻に浮かんだ涙を指の背で払いながらジュディはアカリに向き直った。品定めをするような無遠慮な視線で見遣る。「あなたの素性は? ただの使いっぱじゃないんでしょう?」
「……あにきに助けられて、半年間だけ一緒に過ごしました。あにきの……妹です」
「妹、ね。それは弟子という意味かしら」
言って、ジュディは面持ちを真剣に改め、きっちりと指先を伸ばした右手を側頭部に据えた。それはこちらの世界では見慣れない、挙手の敬礼だった。
「元、第一特殊部隊デルタ作戦分遣隊、エイドリアン・シェパード大尉。異界の地で己の信念を貫いたその姿勢、敬意を払います」
アカリにはそのどこか儀式めいた動作の意味がわからなかったが、ジュディが帯びる真摯な態度だけは伝わった。思わず唇をきつく結び、頷いていた。
「あ、あの、それであなたは何者なんですか? 詳しいことは何にも聞いてなくって……」
「カンパニーの準軍事工作担当官。アンクル・サムの懐剣よ」
さらりと淀みなく答えたジュディ。
その言葉の意味もやはり、アカリにはわからなかった。ただ、ジュディの帯びる雰囲気がシェパドが訓練の時に見せたどこか張り詰めたような、硬質な境界を隔てているようなものへと徐々に変貌していくのは、肌で感じ取っていた。
そんなアカリを見て、ジュディは付け加えた。その表情は微笑に戻っていたが、優しげなそれではなく、見るものに底冷えを感じさせるような、どこか卑屈でどこまでも不敵なものだった。
「つまり、違う世界の始末屋よ」
イラストコーナーにもう一枚、頂戴したイラストをアップしました。
人物画ではないのですが、ケイルが使用するレイピアABR2です。