1 鴨撃ち
身体は人のかたちをしているが、首から上は狼だった。
長く突きでた顎に、ぱっくりと開いた大きな口。鋸歯状に並んだ鋭利な牙を入口にした赤黒い洞のなかではだらりと垂れた紫色の長い舌が踊り、感情を感じさせない小さな眼球の中心に金色の瞳が爛々と輝いている。
二本の脚で直立した巨躯は全身漏れなく体毛に覆われており、黒色に限りなく近い群青色の毛並みは熱気に蒸れ、汚物に塗れ、遠く離れていても脳の奥を濁らせる獣臭が漂ってきそうである。
そのような異形の怪物を形容するに相応しい言葉は、狼男。
狼男が倒れた青年の腹部を喰い裂き、内臓を引き摺りだしている。
狼男が膝を屈してあえぐ老人の頭部を捩じ切っている。
一際大きな狼男が血塗れの幼女の腕を乱暴に引っ張っている。
青年は白目を剥いて喀血し、老人の頭部は蒼白な無表情で転がり、腕を砕かれた幼女は顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。
悲鳴と慟哭、絶叫と号哭、断末魔が渦をまき、それを嘲笑うかのように耳障りな獣のうなり声と遠吠が殷々と鳴り響く。
傾きかけた陽が色濃く闇を落とす森林に囲まれた集落で、異形の怪物による貪婪の宴が、無辜の村民の叫喚地獄が繰り広げられていた。
「………」
そこから約二百メートル、天に向かって鋭利な樹冠を連ねる針葉樹が生い茂る一角、比較的拓けた小高い丘の頂上に、それはあった。
それもまた、途方もない異形であった。
腹這いで横たえる姿は間違いなく人型であるが、一人と数えるべきか、それとも一体か、はたまた一機か。その単位は定かでない。
それの身を包むのは衣服でなければ、鎧でもない。機械なのだ。
挙動の障害にならぬよう角をとった滑らかな装甲は鋼鉄製の筋骨を、それも実用向きに徹底して鍛えぬかれた、一切の無駄がない筋骨を思わせ、首筋から臀部上端にかけて、背骨にそって体幹を一直線に貫く白銀色の金属帯は巨船の竜骨を彷彿とさせるほどに、しなやかでありたくましい。随所の関節部には白濁した被膜が張られ、そのうちでは繊維状の束が外殻を繋ぎとめるように無数に這っている。
単に機械的と断じてしまうのが躊躇われる有機性。指先から爪先まで一寸の間隙もなく機甲されたその威容。名状しがたいかたちを強いて譬えるなら、やはり実在しないものに譬えるしかないのだが、人型の甲殻動物といったところか。体躯のいたるところで鈍色の表層が剥がれ、涅色の合成金属が覗く細かな無数の瑕疵は、しかし劣化などという印象とはほど遠く、それの歴戦をしのばせた。
頭部までがすっぽりと機巧に覆われており、その面相はさながら物々しい丸兜を被った甲虫。面頬の双眸にあたる二つの丸い透過素材だけが目を惹く色合いを宿していた。ルビーというには黒に近く、黒曜石と譬えるには赤過ぎる、まるで発光する鮮血のように、逢魔が刻の赤みがかった薄闇を吸って淡く不気味に反射している。
「……ようやく見つけた集落がこれか。なんの因果だ」
うなるような低音の声は、それがはっしたものに違いなかった。
落胆の言葉にはおよそ相応しくない抑揚を欠いたその呟きがなければ、そういうかたちの大岩であると錯覚してしまうような静止状態のまま、機械を纏いし男は眼下、集落の惨劇を窺い、地獄の騒乱にじっと耳を傾けていた。
『まったく、いい面の皮よ。H09』
ふと、鈴を転がすような透き通った声が機鋼の男の耳朶を打った。
H09とは、異相の男個人に宛てられたものなのだろう。つまり呼び声。しかし、その声は外界には響かない。そこには黒々とした密林があるばかりで、他には何もない。
『ところであなた、介入する気じゃないでしょうね?』
懐疑的な発言を契機に、その不思議な声のぬしは姿を現した。
それは、年端もいかない少女だった。
つやのある健康的な肌に映える純白のワンピースを纏い、肩口で切り揃えられたおかっぱの髪は色素が薄く、冬枯れを思わせる暗灰色である。睥睨するように男を見下ろすつり目は、如何にも利発そうであり気の強そうな、伝法とさえいってしまえそうな輝きを帯びていた。
ただし、それは幻影でしかなかった。傍目には、異形が一つ横たえる光景に変化は見られない。白い少女の可憐な立ち姿は実像を結ぶことはなく、幼い声質には不釣り合いな不遜な声音が空気を震わせることもない。実のところ、姿を現したという表現は正しくはなく、あくまでも彼女は男の視界と意識のなかにのみ存在しているのだ。
――この両者、あらゆる面において奇妙で、すべてにおいて異様といえた。
もっとも、彼らがいかに面妖であったところで、その存在がこの世界に実在しているという事実ほど、彼らが現在進行形で陥る状況ほど、不可思議で、現実離れして、混迷極まるものなど、そうそうありはしないのだろうが――
「そのつもりだが」
機鋼の男、H09はぶっきらぼうな調子で幻影の少女に答えた。
「見過ごせないだろう。アーシャ」
すでに、隆々とした無骨な彼の諸手は、同じく無骨な長身銃を伏射の姿勢で支えているのだ。前部銃床の先端に取りつけられた折り畳み式の二脚架は八の字に展開され、鋭利な先端部が大地に食いこみ、固定されている。
どこからが機関部でどこからが銃身なのか、煩雑さと脆弱性を徹底して排したようなシンプルな形状ゆえに定かでないが、特徴的な長く肉厚な八角柱の先端には確かに銃口があり、その小さな、けれども深淵のような果てのない闇を宿した暗渠は、それを携える男同様、淀みなく集落を俯瞰していた。
アーシャと呼ばれた少女は、悩ましげに細腕を束ねた。
『でも不用意な戦闘はまずくない? 積極的な行動を起こすのは、この状況、いや、この世界の情報をもう少し収集してからのほうがよくない?』
「では、捨て置けと?」H09の望遠の先、集落の惨劇は刻一刻と悪化していく。「情報収集も何も、このままだとあの村は全滅するぞ」
『……しゃーないわね』
アーシャは嘆息を一つ。慎重な進言とは裏腹に、彼女の本意とH09のそれに、さしたる隙意はないのだろう。投げやりな調子でひらひらと手を振ったかと思うと、顎を引いて双の大きな眸を昏く輝かせた。
『威力偵察を始めましょうか』
返事を省いたH09の面頬の口部から、すぅー、と吸引音がかすかにもれでる。それは射撃に適した呼気の調整に相違ない。
小銃をかき寄せ木の下闇にうずくまる異形の男は、まるで遠く漂ってくる血の臭気で肺を満たすように深く息を吸ってから、銃把を握る右手の親指ですぐ上に設けられた安全装置を解除した。
『優先順位の目をつけておくわよ。最初はデカブツね』
H09の赤い眼鏡は幼女の命をもてあそぶ一番大きな狼男に定められていた。一見すると照準眼鏡の類はおろか、金属照準器でさえも装着されていないその小銃だったが、彼の視界そのものが集束するように拡大され、様々な数値が彼の視野の片隅に現れる。
目標との距離、射角度、風速、弾丸の沈降率――。
「射線と重なりそうな民間人もマークを頼む」
『りょーかい』
そして最後に縦横から伸び中心で交わる十字線が現れた。
H09は頻りに小銃の銃口を振り動かす。その微細な動きによって、拡張された視界と現実の世界の接点である十字線の中心は寸分も違えずに狼男の右目を捉え続け、けっして逃がさなかった。
「最優先標的。ヘッドショット、エイム」
くぐもった声で端的に告げて、
『ファイア、ファイア、ファイア』
少女の声に、引き金を落とした。
発射炎は瞬かず、銃声らしい銃声もない。
凄まじく静穏性に富んだその銃撃は、しかし途方もない速度と膨大な威力を有した暴力の塊を吐きだして、二百メートルの距離を半秒で縮め、狼男の右眼球にするりと穿孔した。
軟組織をさんざ抉りながら血肉の海を泳いだ飛翔体は硬質な頭蓋の内壁にぶつかり、その衝撃を利用し、ばくん、と傘の骨組みのような膨らみをみせた。変形型安定多目的弾。シンプルに矢状弾と称される銃弾の真価であり、本性だった。
この時点で狼男の原始的な意識は蝋燭の火を吹き消すが如く一瞬にして掻き消えていたが、それは物理法則には関係のない話だ。銛状に変貌を遂げた矢状弾の骨組みは一本いっぽんが剃刀のように鋭く、脳漿を掻き混ぜ、筋繊維を断ちながら、より深く、より軟らかいほうへと貪欲に突き進む。
立つ死体への蹂躙にあいた出不精な弾丸はようやっと首筋にその出口を見つけ、蹴破るように飛びだした。放射状の刃によって赤黒い不気味な花弁がぱっくりと開く。やや遅れて血液と膨らんだ矢が細かく刻んだ諸々の組織が、液状化した生命が、ちょうど花弁が花粉を放出するように、射出孔から噴出する。
ぱっと虚空に広がった己の血煙を枕に、狼男は頭部を仰け反らせ、そのままゆっくり後ろ向きに斃れ伏した。予断なく命を絶たれた肉体は自傷への気遣いもなく、後頭部をしたたかに打ちつけ、内部に歪な空洞を形成された頭の鉢は卵のようにくしゃりと潰れた。
不意に自由になった幼女は何が起きたのか皆目わからず、茶褐色の砂塵が被膜のように浮かぶ生温かい血だまりの中にぺたりとくずおれた。
『ヘッドショット、ヒット。ひひ。ワンころの眼球にブルズアイ』少女の幻影はあやしく吊り上げた口許に小さな歯を覗かせて、ぞっとするほど陽気な声で唄うようにうそぶく。『犬の目にブルズアイとはこれいかに』
「次だ」
H09は次の標的へ銃口を振りながらにして、さらにその次の標的を見定めつつ、発砲する。楽団の指揮者を思わせるほどに淀みない緩急をもってして振られる銃身。そのタクトが奏でる演奏を題するなら、驚倒と死。
『一時方向。百九十メートル。危機的民間人あり』
尻もちをつき恐怖に白く染まる目をいっぱいに見開く青年の眼前、狼男の鋭い鉤爪が彼を引き裂かんと振り上げられた瞬間、右腕がすっぽぬけるかのように肩から飛んだ。飛び散った血飛沫を浴びる青年の見開かれたままのまなこに宿る主が、恐怖から驚倒にすげ替わる。己の片腕に生じた欠損と地に無造作に転がる身体の一部だったはずの物体を訝しげに観察していた狼男だが、次の瞬間には鈍い破裂音とこぼれ落ちる眼球を伴って頭頂部が裂けた。
『十一時方向。二百五十二メートル。家屋入口』
家屋への浸入を試みる狼男とそれを防ごうとする少女と母親。瓦解寸前の扉越しの狂乱は両者を隔てていた木製の防壁に突如として穿たれた丸い孔とそこから流れこむ鮮血をもって終焉をみた。机を真っ二つに裂いて壁に深々と突き立った奇妙な矢を見て、母娘はぎょっと目を剥いた。後頭部を串刺しにされ、その射出衝撃によって扉に磔刑にされた狼男は、帰宅を懇願する酔漢のように扉に身体を擦りつけてずるずると崩れ落ちた。
『同方向。二百二十メートル。標的二つ。食事中よ』
若い娘のまだ温かい肉体を奪い合うように喰らっていた二頭。一頭の眉間が水筒を割ったようなくぐもった音を伴って爆ぜ、さらされた女の肋骨の上に横臥するのを、片方の乳房を平らげもう片方にあふあふと喰らいついていた一頭は横目で傍観していた。直後、食事の同席者の屍を映す眼球が灰色の粘液と化して飛び散り、反対側の側頭部が赤黒いかたまりとなって飛散し女の呆然とした蒼白な死顔に真っ赤な死化粧をほどこす。
「次」
H09の人差し指が引き金を切るたびに、機関部の吸気口がうなり、銃口付近で砂塵がわきたち、空気が割れるような高音が控えめに響く。
迷いも手落ちもない。機械を纏う男はその硬質な外観と同じく、まるでそれを為すための機構であるかのような素早さと精確さで、実に如才なく狼男の死体を量産していった。
ほどなくして、少女はふうん、と嘆息した。
『つまんない。目をつけるまでもないわ。まるで鴨撃ちね』
ようやっと異常に気づいた狼男の群れは、明後日の方向に喧しく吠え、右往左往するばかりだった。頭部や頚部、胸部から血を噴き、次々と斃れていく同属を見ても、反撃はおろか、隠れようともしない。
確かに、減音装置が組みこまれた非燃焼銃器特有の澄んだ銃声は、約二百メートル先にあるものの可聴域から外れていた。きゅーんと、弾が空を裂く甲高い音にしたところで、標的が耳にすることは不可能だ。音を音として理解する生命をことごとく刈り取る弾丸は音速を置き去りにしている。
ただ、昏迷は粗暴な野獣だけに留まらなかった。村人たちもまた不用意に立ち上がったり、きょろきょろと周囲を見渡したり、わざわざ安全な家から飛びだして、駆けまわっていた。何を勘違いしているのか、跪き、天に向かって両手を組むものもいる有様だ。
単に混乱という言葉では片づけられない奇妙な所作の数々。そこから連想されるのは無知。事実、集落に居合わせたものは、ただ一つの例外もなく何が起きているのかわかっていないのだった。なぜならば――
「おそらく、この世界には銃撃という概念すらないのだろう」
かような世界の住人から見れば、減音狙撃というどこまでも現実的なはずの隠密攻撃が織りなす血生臭い光景でさえ、まるで天上から大いなる存在が無造作に命を抓み上げていく奇蹟として映っただろう。この場合の大いなる存在とは、神は神でも、死神に違いないが。
当初は十頭だった狼男の群れは、ものの二十秒もかからずに残り二頭になった。
二頭は何度か吠え合うと、東西に向かって同時に駆けだした。その先には森林がある。逃亡しようとしているのだ。
『おっと、逃げるだけの頭はあるようね』蔑むようにこぶりの唇を歪め、アーシャは告げる。『東をやって。西に目をつけとく』
「諒解」
狼男は速かった。二足歩行から四足獣と化し、大地を這うような前傾姿勢で疾走する狼男に対して、慎重に狙いを定めていたのでは照準が追いつかない。人間の全力疾走など較べものにならず、おそらく身体能力においては人間のそれを凌駕しているのだろう。故に丸腰で村を襲い、悪逆の限りを尽くせるのだろう。
だが一方、異形の戦士、H09はあらゆる面においてこの世界の常識から逸脱していた。銃床を支えていた左手で地に張り手をくれるようにして上半身を跳ね起こし、鉄塊を思わせる身体からは想像もできない流れるような一挙動で片膝立ちになると同時、小銃を構えなおしながら安全装置と兼用されている発射機構を指先で弾く。
弾種六ミリボール、フルオートモード。
小銃は内部からわずかな機械音をはっするも、外観に変わり映えはない。だが、四倍率に拡大されていたH09の視野は二倍ほどに引き戻され、照準の形も十字線から赤い光点へと変化していた。それは精緻な死から圧倒的な破壊への変貌を意味する。
狼男の進路を見越し、リードをとった地点に照準を載せ、引き金を絞った。
先ほどとは違う、大型の羽虫が耳許で羽ばたくような鈍い振動音が迸る。間近で耳にしてもそれと気づけぬ微細な異音は、紛うことなく銃声だった。
発射されたのは矢状弾ではなく、直径六ミリの通常弾。それが毎分千発の連射速度でばらまかれる。すなわち、たった一秒間引き金を絞るだけで、二十発近い不可視にして不可避の弾幕となって降り注ぐ。
雑木林まであと数歩というところの狼男だったが、絶対の殺意をもってはなたれた驟雨の雨宿りは叶わなかった。土の間欠泉がごとく無数の砂柱がその周囲で噴きたち、野獣の巨体な横殴りの突風を受けた朽木のように土埃のなかに転がった。
『三時方向。二百四十三メートル。ポイントマーク』
しかし、それでも獣の疾駆は速いことに違いはない。
H09はアーシャが指示した地点、拡張現実が視野に映す矢印を追うように西に銃口を振るが、標的の姿はない。矢印の示す地点からやや距離をおいた深い藪のわさわさとしたざわめきが、遠退く気配の残滓をむなしげに知らせるばかりだった。
ちぃっ、とアーシャは可憐な姿にはおよそ似つかわしくない舌打ちをした。
『速いわね。さすがライカンスロープ』
「ライカン? なんだそれは」
『ギリシャ語で狼男を指すリュカントロポスの変形語。つまり狼男のカッコいい言いかた』
展開させたままだった二脚架を銃身にそって畳むと、H09はゆっくり立ち上がった。腹這いでも片膝立ちでもその長身は十分に想像できたが、やはり亭々たる長躯であった。
二メートルをやや超える背丈の異形と、輪郭の淡い小柄の少女。巨船の竜骨と傍らで芽ぐむ鈴蘭を思わせる両者が立ち並ぶと、その光景はいよいよ見るものの目に不調和を抱かせるものがある。もっとも、両者が並ぶ姿を見るものなどありえはしないので、それは杞憂といえた。
その存在を唯一認識できるH09もまた、不調和など与り知らず、少女を見下ろして鼻を鳴らした。
「ふん、さすがアーカーシャ・ガルバ。物知りだな」
アーカーシャ・ガルバとは、虚空蔵菩薩 のサンスクリット語であり、無限の智恵と慈悲を持った菩薩である。アーシャという呼び名の由来になっているは想像に難くない。
H09は傾げた首をそのまま左右に倒して、ホースのような太い管が無数に這う首筋から湿った音を鳴らすと、つけ加えた。
「智恵はともかく、慈悲とは懸け離れているがね」
『お互い様でしょうが』
眦をあげて鋭くいい返した少女は、腕を束ねて横目で集落を見下ろす。
『それより、どーすんのさ』
野獣の暴虐から解放され、ようやく日暮れを思いだせるほどの余裕をえた集落には、ぽつぽつと篝火が灯り始めていた。H09は淡く輝く眼鏡を奔らせて周辺を走査し、郊外のほうへ固定する。
「最後の狼男、おそらくまだ息がある。近くで見てみよう」