35 死の嵐
二十年前、どこからともなく姿を現すようになり、人畜問わず猛威を振るい始めた魔物。そしてその事象の元凶と目されている反逆者に対する諸外国の見解は、表向きでは統一していた。
真偽はどうであれ、そのような異端者を国内から、しかも他ならない王家から出したライガナ王国を強く糾弾する一方で、破竹の勢いで支配下を拡げていたかの王国と一時の停戦を結び、とりあえずは自国を魔物から防衛する向きに指針を改め、時には国々で連携して駆逐に尽力すべく協力体制をとるに到った。
八年前にはライガナ王国を主とする多国籍の大討伐戦団を編成し、打倒反逆者を掲げ古都ニューカを囲う森へと踏み入った。結果は凄惨たるものだったが、ただ、領土拡大に腐心し戦争に明け暮れていた国々がそこまでの連携を見せたのはある種、重畳といえよう。
魔物により並々ならない被害をこうむり、泣くに泣かれぬ心境のもとに結ばれた協力体制であり、不幸中の幸いというにはあまりにも打算的かもしれないが、少なくとも下々の者の目には殊勝に映った。
もっとも、あくまでも政治云々が雲の上の話である民草にとってはであり、その協力体制もあくまでも表向きである。
果然、表があれば裏がある。
「反逆者に告ぐ! 我がブルへリア共和国は、其のほうらを受けいれる準備がある! 協力体制樹立の暁には、それを相応の身分を約束しよう!」
黒いローブを纏った老練の魔術士が舞台役者よろしく大仰に諸手を振りかざし、声高に鳴っていた。音を増幅させる魔術越しに発されたその声は、穴蔵の中から振り絞ったように殷々と反響し、彼の眼前に拡がる森の中に染み入っていく。
その深く広大な森こそ、深部に古都ニューカを内包する呪われし森。かつての討伐作戦の生き残りが畏怖をこめて“混沌の森”と名づけた、忌わしき地の中枢だった。
深くいり組んだ樹木の奥は翳に包まれ、曇天という天候を差し引いても、まるで夜陰のごとく異様なまでに暗い。無数に連なる巨木の間隙という間隙が、まるで洞穴のようであり一寸先も窺えない。鳥とも獣ともつかない、遠吠えとも断末魔ともつかない喚声が、どこか遠くから鳴っている。
魔術士の背後の平野には、千名からなる戦団が帯隊形に整列し、森に正対していた。右翼から左翼までの距離が二百メートルもあろうかという規模の隊列、鎧や甲冑で身を固めた兵達がさながら壁のように肩を並べて整然と直立している様は、どこか神々しい厳粛さを帯び、同時に、つつけば途端、波となってうねり狂い押し寄せるような剣呑さを放っていた。
魔術士は小鼻を膨らませ、背後のそれらを自慢げに示す。
「見よ! 我が共和国の軍勢を! 其の方らの仇敵であろうライガナ王国は魔物を忌むだけのものとしていると聞くが、我が国は違う! 魔物を手懐け、配下に置き、有効に利用することを微塵も厭わない!」
隊列を形成するのは人馬だけではない。象のような巨体に蜥蜴の頭部を持った面妖な動物の背には櫓が置かれ、弩弓が据えられている。二つの頭を有した馬ほどあろう大きな犬が二つの首輪を下げられ兵士に牽かれ、空では小さな竜のような生き物が翼をはためかせ、その背には投げ槍を携えた兵士が跨り、巧みに繰っていた。
一人、隊列から突出している魔術士、その立ち位置がそうさせるのか、背後の戦団は自分自身の力の権化であると酔っているように面持ちを上気させ、如何にも大袈裟にローブを翻し、森の中空、東の方角を指差した。
「この地、ライガナ王国! この指の先、王都デリト! そを怨敵とするのは我が共和国も同じである! 魔物をも手懐ける我らが軍勢、そこに其の方らが加われば、ライガナなど堕ちたも同然! この大陸、否っ、この世界を支配下に置くことも夢ではない!」
これがつまり、裏の思惑である。表向きには協力体制を謳っているが、それは薄氷ですらない。
ライガナ王国の隣国であるブルへリア共和国。古都ニューカの眼と鼻の先にある国であり、ライガナ王国に次いで国力を有しているとされている。人間同士の戦乱の時代には隣接する強国同士として互いに牽制しあい、領土侵攻は一進一退という体だった。かつてライガナ王国における西の都市であるヒルドンへと侵攻し、敗れ去ったのもこの共和国である。
通達のない軍勢での他国の領土への進入は侵略行為に他ならず、ブルへリア共和国は現在進行形でライガナ王国へ侵略していることになる。しかしながら、この千から成る軍勢の目的は領土侵略ではなく、反逆者の篭絡にあった。
反逆者は人間であり、言葉が通じる。それでいて魔物を出現させる異能を有しているとされているのだ。更には王都を追われ、辺境の地へ逃れた身であるならば、軍事的に捨て置く手はない。無論、反逆者に関する情報は乏しく、その乏しい情報ですら非常に曖昧で、最寄であるところのブルへリア共和国とてそれは変わらない。このような呼び掛けに応じてくれるかどうか、極めて懐疑的だが、味方に引き込めた時の価値を思えば、労力を割くに値する。
実は、このような呼び掛けは今回が初めてというわけではない。過去には他の諸外国も人知れず国境を越え、反逆者に呼び掛けていた。だが、ブルへリア共和国が篭絡に動いたのはこれが初めてであり、千の軍勢を率いるというパフォーマンスも、初めてのことだった。
そして、見せびらかすためだけに軍勢を率いてきたわけではない。
「繰り返す! 打倒ライガナの旗の下――」
暗雲立ち込める下、咽に痰を絡めながらもめげずに口上を述べていた魔術士だが、隊列から歩み出た指揮官がその肩を叩いた。嘆息混じりに首を振られ、魔術士はがっくりと肩を落としてその場を指揮官に譲る。
反逆者の篭絡が無理ならば、強制的に捕縛する。それがこの戦団に与えられた任務だった。千とはいえ、八年前の多国籍軍とは較べるべくもない少数戦力だが、しかし精鋭である。多国籍軍の失敗から有象無象の雑兵が多いだけでは森の突破は難しいと判断した軍の上層部が下した作戦は、少数精鋭による吶喊。混沌の森中心にある打ち捨てられた古都ニューカへと損害を度外視して突進し、反逆者を捕らえるという非常にシンプルなものだった。
魔物を部隊に組み込むという試みは試験的なものであり、不確定要素も懸念されていたが、戦力が指数的に向上するのは証明されており、諸外国の多様なアプローチが尽く失敗してきた今、初めての試みという点では期待が持てた。
指揮官は森を仰ぐ。歴戦の兵である彼は、予感していた。もしかしたらこの作戦は、歴史に刻まれるものになるかもしれない。この戦団とそれを率いる自分が、世界を変えるかもしれない。
彼は背後を振り返り、戦団を見渡す。危険な任務であると告げられながらも志願した精鋭達の顔付きは、死地を前にしても毅然としており、壮観の一言に尽きる。皆の気概を鼓舞するように鷹揚に頷き、腕を振り上げ、突撃の合図を送ろうとした。
その時だった。
「立ち去れー」
森の中から、声が聞こえてきた。
「悪いことは言わないから、立ち去れー」
何だかやる気のなさそうな、気だるげで間の抜けた女の声だった。だが声音とは不釣合いに音量自体は大きく、戦団の兵士達の耳にも届いたのであろう、動揺が広がる。弩弓を据えた象が、大犬が、飛竜が、途端に落ち着かない様子で騒ぎ出す。
出鼻を挫かれた形で腕を振り被ったまま硬直していた指揮官は、喜々として戻ってきた魔術士を見て、我に返る。魔術士を押し退け、声を張った。
「反逆者の手の者かっ!?」
暫し、張り詰めたような静寂が続き、ほどなくしてやまびこのように応答が返ってきた。
「正確には違うけれど、大局的にそう思ってもらって構わない」
どこか煮え切らない曖昧な言葉に指揮官は眉根を寄せた。
一歩出でた魔術士が口を開く。
「先からの呼び掛けを聞いていたか!? 我が共和国は其の方らを決して悪いようには扱わない。どうか協力してくれまいか!?」
「それは無理」
喰い気味の即答だった。にべもない否定。
「丁重に頼んでくれたのに大変申し訳ないけれど、何を言われたところでこちらの意志は変わらない。だからせめてこちらも丁重に頼もう、立ち去ってくれー」
「………」
なぜ“立ち去れ”の部分だけ典型的な砕けた言い方なのか。おどろおどろしい雰囲気を狙っているのだとしても、浅はかに過ぎる。見当違いも甚だしい。毒気が抜かれてしまう。
困ったような表情を寄越す魔術士に、指揮官は苛立たしげに舌を打ち、鬱蒼と茂る樹木の闇に潜むであろう何者かを睨み付けるように眼光鋭く前方を見据え、再び腕を振り上げた。
「どうしても協力を拒むのであれば、こちらも強引な手段に頼らざるを得ない!」
千の軍勢から、さながら決壊寸前のダムのような雰囲気が充ち満ちる。誰もが表情を固くし、帯剣の柄を握り込み、固唾を呑んだ。決壊後に押し寄せるのは、まさに奔流のような怒涛の突撃である。
飛竜の羽音のみが微かに響く静謐が、気が遠くなるような緊張を強調していた。
沈黙していた森からの声は、不意に再開する。
「立ち去れー」
ぎりっ、と音が鳴るほどに歯を食い縛り、指揮官は腕を振り下ろした。
空気を泡立たせるような怒号。地揺れを思わせる跫音。歩兵が、騎兵が、大犬が、槍を、剣を、牙を瞬かせ、我先にと突進する。その進路を露払いするように弓兵が射った無数の鏃が驟雨の如く森林に降り注ぎ、象の背の弩弓から放たれた投石が巨木を砕き、甲高い声で嘶いた飛竜が兵を乗せて森へ向かって滑空する。
誰もが待ち侘びた戦闘に壮絶に貌を歪め、また誰もが腹の底から雄叫びを発していた。
「残念だ」
だから森からのその声は、落胆と冷たい覚悟を滲ませたその言葉は、誰の耳にも届かなかった。
「――ッ!」
けれども、進行方向、一つの樹木の陰からひょいと、無造作に現れた人影には面食らい、たたらを踏むように先頭集団の足並みが止まる。当然、号令も何もない緩急に過ぎるその停止に後続集団が対応できるわけもなく、隊列は大いに乱れ、先頭集団に圧し掛かるように無様なおしくらまんじゅうが出来上がる。矢の雨が止み、投石が止まり、飛竜兵が空中でつんのめる。
現れたのが、あるいは無数の魔物であるならば、このような無様は起きなかったかもしれない。呼応するような反撃の奔流に、怯むことなくぶつかり合い、真正面から剣戟を打ち鳴らすことができたかもしれない。
現れたのはたった一人、いや、ただ一つの異形だった。
五十メートルに迫った雲霞のような千の軍勢に対峙したのは、奇怪な鎧を纏い、面妖な兜を被った、たった一体の異形。
皆が集団で譫妄を患ったように驚嘆の面持ちでそれに目を奪われる奇妙な一時停止。火蓋を切られ一瞬で霧散したはずの寂静に、場は再び包まれる。
先陣をきって突進していた指揮官、自ずとそれと最寄で相対した彼は尻餅をついてしまい、そのままの姿勢で呆然と眼前に立ちはだかる異形を見上げ、半開きの口から声をもらした。
「貴様は、なんだ……?」
「私は守護者だ」
指揮官はそれが両手に携えている巨大な鉄の塊に瞳を動かす。
「それは、なんだ……?」
「これは貴様たちの死だ」
そうして異形は、祈るようにそっと呟いた。
「南無阿弥陀仏」
死だった。
比喩や誇張なく、そこから放たれたのは死の嵐だった。
隊列の最前にいた騎馬の首が飛んだ。跨っていた騎兵の胴体が消滅し、大腿から断ち切られた両足がぽとりと落ち、重力に従って落下した首も霧散する。その後方にいた歩兵の右肩が吹き飛び、隣の兵の左腕が掻き消えた。二つの首の間から胴体を裂かれた大犬が真っ二つに割れ、手綱を牽いていた調教兵の下半身が消失。後方に密集して控えていた弓兵達の身体がばらばらになり、跳ねた四肢が誰かの顔面にばちんとぶつかり、鼻血を噴き出した誰かは腰斬された誰かに倒れこみ、蛙を潰したような奇声と共にぶりゅりゅと臓物が噴き出す。
指揮官の頭上を通過し、戦団を蹂躙するのは、白い筋だった。異形が腰だめで携える鉄の塊の先端から、筋状に放射される一筋の白煙。氾濫した濁流のような轟音が迸り、一秒毎に数十単位で屠られる兵士達の絶叫と悲鳴と断末魔を、飲みこんでいく。
「あ、悪魔……」
指揮官の投げ出した膝ががくがくと嗤い、目からはぽろぽろと涙が、唇から垂れた涎が整った顎鬚を濡らした。股間からは湯気があがる。
異形はくいと、それを下に振る。指揮官の頭が無くなった。
「守護者と言った。悪魔じゃない」
ゆっくりと、無造作に、異形は鉄の塊を横薙ぎに振る。伴い、放射され続ける一筋の白も右から左へ、矛先を転じる。
全身を甲冑で固めた大柄の兵士、胸元に大きな孔が穿たれ、中身が抉られ、背の装甲が爆ぜた。その破片を顔面に浴びてもんどりうつ歩兵、苦痛の声を発する前に上顎から上が弾け、晒された下顎の喉の奥からかひゅーと奇妙な断末魔を発した。大地を抉った時に生じた石礫が四散し、身を屈めていた者達の後頭部を破裂させる。飛竜の翼を断たれ、共々錐揉みしながら落下する兵士は、眼下の地獄から逃れようと空中で這うように手足をばたつかせるが、あえなく落下し、死の濁流に飲みこまれる。前脚を振り上げて嘶き、歩兵を撥ね飛ばし踏み潰しながら後退しようとする弩弓象、白い筋が肛門付近から穿孔するとその巨体はぶれて見えるほどに痙攣し、悶絶に開口した蜥蜴頭の口から肉片と臓物と血煙とが一緒くたになった白い筋が吶喊する。
まるで蟻の群を放水で蹴散らすかのように、あるいは雑草を芝刈り機で薙ぎ払うかのように、破壊という言葉が具現化したようなそれは進路上にある物を、人と問わず、装備と問わず、馬と問わず、魔物と問わず、大地と問わず、根刮ぎにし続けた。
一分もかからなかった。
屍山血河。約二百メートルという範囲で展開していた戦団。その約二百メートルという範囲が、今は耕されたように均され、一度噴き上がり再び降り注いだ黒色の土砂に混じるように、人馬や魔物、その装具や身体の部位が無数に埋もれていた。にょきにょきと手や足が大地から生え、どこの部位かも判別できないてらてらとした肉片が転がり、突き刺さった剣には腸であろう赤黒い器官の切れ端が絡みついていた。晒されたばかりの体液と臓物が放つガスで、光景は微かに白濁している。
『いやはや、やっぱりこうなるよね』
異形の視界に少年が現れる。白いシャツに黒い半ズボンという姿だった。地獄の畑のような様相になった大地の中心に立ち、諸手を腰に当て見渡すようにしてから、苦笑する。
『にしても悪趣味だ。こんな光景を作り出すなんて、まるで“オーシリーズ”のようじゃないか』
その言葉に肩を揺らした異形は、ぐるん、と首を回した。丸みを帯びた兜の顔面を、少年に据える。
「やつらと一緒にするな。私は何も感じてない」
憎しみなど抱いていない、と異形は言い聞かせるように繰り返した。
少年はもう一度、苦笑する。
『それもそうだね。冗談だよ。ところで、彼らはいいのかい?』
言って、顎をしゃくる少年。彼が示す方向には、約百名ほどの兵士達の後姿があった。この場から離れようと、死に物狂いで駆けている。最左翼に位置していた彼らは早い段階で遁走に転じていたのだ。疎らに逃げる兵士に混じり、弩弓象の巨体や大犬、飛竜の姿もある。隊列も何もなく、誰も彼もがただ前の者の背に追い縋るように取るものも取り敢えず一目散に遠退いていく。
『よっぽど恐かったんだね、逃げるなら自分達の国の方へ逃げればいいのに。あの方向は渓谷だったっけ? 大丈夫かな。僕達の所為で図らずも王国に侵略しちゃってる形になるんじゃないのかな』
異形は逃亡者達が尾根の稜線へと消えるのを見届けて、踵を返す。
「どこへ行こうが私達には関係がない。あの様子なら、もう二度とここへ近寄ろうとはしないだろう、それだけで十分。私達の仕事は、不心得者を彼女達に近付けさせないようにする、それだけさ」
そうして異形は、彼女は、森の中へと戻っていった。
深緑の縁で少年は周囲を見渡すようにする。闇の中で輝く獣の双眸、まるで夜空の星のような無数のそれらは、決して近寄らないよう一定の距離を保ちながら、じっと異形の往く先を追っていた。少年は薄く、ほくそ笑む。
『まるでスカベンジャーのようじゃないか』
「ああ、今日はごちそう、私の奢りさ」
すると、取って代わるように、待ち侘びていたかのように無数の魔物が森の闇から飛び出してきた。土砂を掘り返し、目当ての死体を臓物を死肉を拾い上げ、奪い合うように貪る。ほどなくして餌を尽く腹に収めると、多種多様な魔物達は互いに牽制するように吼え、呻り、時には群の脆弱な固体を見出してそれを捕食しながら、狩場であり巣であり縄張りである森へ、混沌の森へと散り散りに姿を消した。
残されたのは荒れ果てた荒野と破壊され打ち捨てられた装具、それだけだった。数十分前までは確かにここに在ったはずのブルへリア共和国の千の軍勢。国に遺した親族から、歴史を変え、世界を救うことを大いに期待されていた彼らだが、そんなものは端から存在していなかったかのように、一陣の渇いた風が吹き抜けた。