33 風呂
アバドンは人間を殺していた。
肩口を掴まれ胸を斜に引き裂かれる男性。乳房を食い破られ上半身を真っ赤に染める女性。引き摺り出された腸を生きたまま啜られる少女。一喰いで頭部をもぎ取られ電撃を打たれたように手足を痙攣させる少年。
真新しさのないアバドンによる蹂躙。交通事故に遭うレヴェルで語られる不運。どこかで起きた有り触れた悲劇。飛び散った血液がレンズを覆うまでその狂気を一部始終録画していた定点カメラの映像を、血飛沫の一滴まで鮮明に映し出す高解像度大型モニターは垂れ流していた。
モニターに映る人間は誰もが混乱に恐怖に絶望に、顔を歪めて泣き喚いていた。人間が勝っているのはスピーカーを割らんばかりの断末魔の喚声だけだ。
それを観るのは十数名の少年と少女。身体年齢は皆が同一に十五歳。中で急成長した人工子宮から這い出た日を出産日とするならば、生後三ヶ月だった。画面の中の人々同様、彼らも顔を歪めている。ただし、食い入るように爛々と目を見開くその表情に宿るのは恐怖でも絶望でもない。色白で整い過ぎて人間味に欠けた容姿には似つかわしくない明らかな憎悪。激情の貌だった。
ただ一人、どこか納得できないように、不思議そうに小首を傾げていた少女。その隣に座る少年は少女の態度を怪訝に思っていたのだが、ふと視線が重なると、少女は違和感の正体に思い到ったようで物憂げな顔をして、ぼそりと言った。
「ああ、そうか。……あれは私達と似ているんだ」
その少女は次の日から姿を見せなくなった。誰も何も言わなかったが、廃棄処分にされたのだと、少年は察していた。当然だと思った。あれは相応しくないリアクションだ。あの映像を見て、あのようなわけのわからないことを言う少女は、失敗作だったのだと、同期生が優劣で間引きされていき、その施設でサイバネティック・モジュールに適応した唯一の存在になってからも、少年は、H09はそう思い続けていた。
H09は敵を殺していた。
味方に銃口を向けた娼婦とその子供、気の触れた兵士、無辜の人々を害する王国兵と盗賊、身体に爆薬を巻きつけた男、それを為した傭兵。彼らが弁明に何を言っても、泣き叫んでも、敵であるが故に気兼ねなく容赦なく蹂躙し続けた。
ふと、気付くと、H09は原型留めぬ死体に溢れた血塗れの箱の中に佇んでいた。濃密な血煙により澱んだ空間。モニターの内側だった。外から視線を寄越すのは防護服に身を包んだ兵士達や、ポルミ村やカボル村の村人達、そしてサイ達だった。粉塵塗れの少年と顔に火傷の痕がある傭兵の姿もあった。誰もが嫌悪に冷ややかに顔を顰めていた。
粉塵塗れの少年がH09を指さして口を開く。
悪魔だ!
火傷の男が怒声を放つ。
魔物め!
ただ呆然と立ち尽し、彼らの謗りを浴びていたH09は視線を下げ、自分の両手を、身体を見る。湯気がたつほどの鮮血に全身が隈なく染まり、強化外骨格の表面に張り付いた肉片と臓物が蛞蝓のようにずるずると這っていた。
「私達はあれとそっくりなんだ」
処分された少女の寂しげな声が遠くから聞こえた。
場面は不規則に、不条理に移ろう。
今度は暗闇だった。左右も上下も、何もわからない暗闇。ただなぜか奥行きだけが把握できて、その深い深い深淵の底に、一人の男が膝を抱えて蹲っていた。落ちていたのか、吸い寄せられていたのかもわからないが、気付くと男が目の前にいた。
ゆっくりと頭が持ち上がる。そこにあったのはH09の甲虫のようなマスク――を表面に映した全面透過素材ののっぺらぼうだった。金魚鉢、そんな言葉が脳裏を過ぎった途端、奇妙な感覚が首筋を奔り、全身が総毛立った。まるで自分の身体から離れた所に大切な感覚器官があり、それが細かい羽毛で撫で回されているような落ち着かない感覚。それは、いつか感じた“共振”に違いない。
徐に右手を持ち上げた男は、顔面の目にあたる部分であろう箇所を突くように、人差し指と中指でとんとんと叩き、その指先をH09に転じる。顔は見えないはずなのに、H09は目の前の男が笑っていると確信した。そして男は言った。
――お前を視ているぞ。
ケイルは覚醒し、三重の意味で驚いた。
まず、夢のようなものを見ていたような気がする。夢境というのは初めての経験だった。しかし、思い出そうとしても雲を掴むように酷く曖々昧であり、覚醒していく意識と反比例するように徐々に薄れていき、そもそも本当に夢なんて見ていたのだろうか、とそれすら定かではなくなってしまう。ただ、得体の知れないもやもやとした感覚だけが、漠然と胸の内に残っていた。
次に、自分の睡眠時間に驚いた。朝日の日照から判断するに二時間近くも寝入ってしまったようだった。寝坊というものも初めての経験だった。遺伝子操作による生体としての変質とナノマシンの作用により、常人と較べて極端に少ない休養で活動を続けられるヘカトンケイル。一応、一日に一度は睡眠を摂るように推奨されてはいたが、ケイルは実戦に投入されてからというものその推奨を守った日数の方が少ない。一週間に一度、数十分程度の休眠で問題なく活動できることは自らの経験則で知っていた。
これまでも疲労を自覚した時は確かに多く休眠を摂っていたし、特に今回はかつてない疲労度だったと推察もできるが、これといった自覚症状のなかったケイルは、二時間という数字に驚きを禁じえなかった。
最後に、息がかかるほどの至近で添い寝するサイとゼロットに驚いた。マスクの中で目を点にし、声を発しそうになった。仰天したといってもいい。度肝を抜かれたといっても大袈裟ではなかった。これも初めてである。
安普請で決して大きくはないベッドは、成人男性約二人分の体重のヘカトンケイルと女性一人、子供一人の重量により、枠木が弓形に撓ってしまっている。借り物の寝巻き姿で泥のように寝入る二人は、離すまいとしているかのようにケイルの両腕に密着していた。サイのふくよかな胸は潰れるほどにケイルの腕に圧し付けられているが、無論、強化外骨格越しでは感触など望むべくもなく、ケイルも望んではいない。
ただ、彼の相棒は違ったようだ。
はっと顔を起こす。
アーシャが天井に貼り付いてた。両手の平と足の裏に吸盤が仕込まれ、天井が床でありそこにブリッジしているかのように、真上から三人を凝視していた。にやり、とこれでもかというほどに邪悪に笑う。ホラーである。
『うひょ、うひょひょひょひょ! 朝チュンキタコレ! しかもサンドイッチ、サンドウィッチよ! ねえ、どんな感じ? 気持ちいい? ねえ、気持ちいいのか? オイ、なんとか言えこら!』
一日千秋の想いで待ち侘びていたのか、水を得た魚のように、これを為すは我にありといった風に奇声を発し続けるアーシャ。
未明に戦闘を終えた後、幾つかのすべきことを為してから一同は宿屋に向かった。大通りの三叉路にある宿屋である。人知れず異邦の傭兵に支配され、町が異様な雰囲気を帯びるようになってからというもの、忌わしき方角である西の地方都市故に端から少なかった旅人は減少の一途を辿り、主に旅人や行商人を相手に商売をする宿屋はこの一店のみを残して廃業に追い込まれていた。
昨夜の騒動の最中に安眠していた町民などいるはずもなく、更にはバルコニーにて重機関銃を連射されるという散々な一夜を明かした宿屋の主人は当然のように起きており、部屋を貸して欲しいという一同の願いを戸惑いながらも承諾した。部屋の支度をするから待って欲しいと告げる店主に、疲労困憊で今すぐにでも休みたかった一同はベッドが幾つかある大部屋一つでいいと申し出て、今に到る。
ベッドが三つ置かれた十畳ほどの大部屋。隣のベッドにはライアスが、その向こうにはリルドが横になっていた。サイにより治癒されたとはいっても時間的制約のあったあの状況で施されたそれはどちらかといえば応急処置に近く、完治には遠い。時折二人とも寝苦しそうに身動ぎするが、疲労の睡魔が勝っているようで起きようとはしない。本人は寝過ぎであると自覚しているが二時間程度の睡眠で起床するケイルが例外なのだろう。
妖怪か何かの一種のように天井で唾を飛ばし続けるアーシャを無視して、ケイルは二人を起こさないようにベッドから出た。途端、ゼロットがうなされるように両手を彷徨わせ始めたが、サイの乳房に落ち着き、鷲掴みにした。サイは眉根を寄せるが、満更でもない様子で艶っぽい嬌声をあげて頬を染める。
『お約束キタコレ! ほらほら、チャンスよ。あなたもちょっと触ってみなさいよ。ユーも混ざっちゃいなよ、揉みしだいちゃいなヨ!』
就寝前、自分は床でいいと述べたケイルだったが、きちんとベッドで寝なくては駄目だとサイが聞き入れなかった。サイはケイルを慮っており、また同じように皆の疲労を慮ったケイルは口論していても仕方がないと了承。なし崩し的に三人は添い寝することになった。だから添い寝されていたことそれ自体には驚きようもなかったのだが、ただ、就寝中に身体が触れるほどに密着されても目覚めなかった自分に、ケイルは驚いてた。元の世界では些細な物音一つで鋭敏に覚醒していたというのに。それほど疲れていたのかもしれない。もっとも、そもそもヘカトンケイルは誰かと添い寝をするなどという状況は想定されていないであろうから、考えようによっては無理からぬことなのかもしれないと、ケイルはそんな風に少々杜撰に自分を納得させた。
窓辺に近付くと、バルコニーでは小鳥が不思議そうに五十口径の空薬莢をつついていた。――美しい世界。シェパドの言葉を思い出し、極力静かに戸を開けたのだが、小鳥は飛び去ってしまった。餌を持っていなかったからなのか、接近するのがヘカトンケイルだからなのかは、わからなかった。
ケイルは小さく鼻を鳴らし、背のレイピアを取り外した。早急に確認しなければならないことがある。
まず、ウエポンステータスを視界に映す。ほとんどの項目がグリーンに点るが、ただ一つだけ、照準センサーがイエローに点滅していた。そのタブを脳波コントロールで選択し項目の配下を子細に分岐させると、ヘカトンケイル同期システムの文字列がレッドであり、更に枝分かれした諸項目も同様、真っ赤に点り、頭に小さなバツ印が付いていた。
「やはりか」嘆息混じりにひとりごちる。
それはレイピアABR2と強化外骨格とのセンサーがリンクしていないことを意味していた。各種センサーから得られた情報はインターフェースアーマーに一度集計され、算出された数値が自動照準補助システムを完成させるのだが、現状では相互のリンクが断たれ、レイピアのみで完結してしまっている。その結果が、銃把を握った瞬間から機関部上面に目に見える形で現れている。立体投射型照準器だ。
ケイルは肩付けで据銃し、適当な家屋に壁面を照準してボールとフレシェット、発射モードを何度か切り替えてみた。それに伴い照準器の形も微細に変化する。外枠である五十ミリ大のリングの中央にサークルがあり、その中心にドットが映るのが中距離射撃用のボールの照準。遠距離射撃用のフレシェットではサークルが消え、ドットもより小さいものになる。銃口を振り照準を遠方に転ずると、照準点は僅かの間微動を繰り返し、ほどなくして落ち着く。レイピアに搭載されたセンサーのみで自動でゼロイングをしているのだ。
ただレイピアに組み込まれたセンサーは多くはない。反映されているのはレーザー測定によって得られる射程と弾丸の弾道データぐらいだ。その数値だけで調整された照準に確実性は望めない。発射毎に数値と環境条件を鑑みて弾体の形状を加工するフレシェットモードでは殊更だろう。針の穴を通すような精密射撃、百発百中はもう期待できない。
「直せると思うか?」
『無理でしょうね』天井のアーシャはケイルの隣に移動していた。真面目な顔で腕を束ねて鼻から息を吐く。その切り替えの早さもある意味、人を食ったようである。『センサーの同期システムが故障しているとなれば、とてもじゃないけど手に負えないわね。部品交換が必要になるだろうけど、そもそもその部品がないし』
長期単身作戦行動を旨とするヘカトンケイルだが、限界はある。想定されるありとあらゆる可能性の保険を装備という形で身に纏ったとしたら、その重量で身動きがとれなくなってしまう。もっとも、レイピアに限ればその保険が立体投射型照準器なのだが、遠距離射撃の際は自動照準補助システムに依存していたケイルにとっては、少々心許ない。
こうなってしまえば照準という点においては一般歩兵に支給される無印のABRと大差なく、ヘカトンケイル専用のABR2に残されたアドバンテージは鉄屑から弾丸を生成する機能ただ一つである。
『もうこうなっちゃたらさ、開き直ってあれ使いましょうよ。あれ』
「あれか」ケイルは腰のバックパックの容積の半分を占めていたレイピア用の邪魔なアタッチメントの存在を思い出し、顔を顰める。「至近距離戦闘用とかいって支給されたが、装着したらかさ張るし、使う機会がないし、普通に撃った方が手っ取り早いと思うが……」
『バカねえ。あれはロマン武器よ、男の浪漫武器。使いこなすには愛が必要なのよ』
「ロマン武器……。余計に使いたくなくなる響きだな」
言いながらも、まずケイルは皆を起こさないよう静かにレイピアを通常分解して、外装や内部の汚れを丁寧に除去してから結合し直し、例のアタッチメントを取り付けにかかった。
不意にライアスが小さな悲鳴をあげて飛び起きる。呼吸が荒く、顔色も悪い。自分の居場所を確かめるように左右を見渡し、ケイルと視線が重なる。ライアスは弱々しく微苦笑し、目を逸らした。
「……あ、あのさ」言って、しかし中々言葉を続けようとはせず、見えない何かを拭おうとしているかのように頻りに口許を擦っていた。「僕、人を殺したよ。それも……酷い殺し方をした」
「そうか」
「殺さなくちゃいけないって、そう思った。でもそれ以上に……僕はあいつが憎かったんだと思う」
訥々した言葉、最後の部分は消え入りそうだった。ケイルはもう一度、そうか、と頷いた。
「ケイル」ライアスはケイルに顔を正対させた。きょろきょろと泳ぐような視線でありながらも、真摯な声色で問い掛ける。「人を殺して、夢見が悪くなったことあるかい?」
「いや、ない」
ケイルは今朝の夢のようなものを思い出したが、果たして本当に夢だったのか、本当にそんなものを見ていたのか、既に定かではなく、そもそもライアスの言う夢見の悪さとは別種であるような気がしたので、正直にそう答えた。
掛け布団に視線を落とし、沈黙するライアスに向け、ケイルは続ける。
「あんたが排除しなくてはならないと思って、憎いと感じたのなら、それは正しい行動だったんだろう」
「正しい行動か……」ライアスは希薄に笑い、枕に頭を預ける。「そうだね。……ありがとう」
正しい行動。この場ではその言葉が正しくなかったこと、少なくともライアスの望んだ言葉ではなかったこと、それだけはケイルにもわかった。
「ケイル」もう一度名を呼ばれる。ライアスは横になったままリルドの方を向いていたが、はっきりとした口調で言葉を継ぐ。「狂ってるなんて言って、……ごめん」
なんと返したらいいのかわからず、いや……、とだけ答えて、ケイルは曖昧に頷いた。
皆が起き出し、本格的に活動を開始したのはそれから二時間後、正午過ぎだった。
サイがリルドとライアスに昨日にはできなかった治癒魔術の続きを施した後に、交代で風呂に入り、昼食を摂りに宿の食堂に向かった。リルドは部屋には戻らず、その足で町民達と今後についての話し合いに出かけた。騒動の直後、恐るおそるという風に家屋から顔を覗かせた町民達に、リルドが端的に事の顛末を告げ、ルイードの弔いを願っていた。領主の絶命と自己犠牲によって咎が及ばないことを知らされた町民達は酷く悲嘆し、とても今後云々の話を詰められるような状況ではなかったのだ。
「いやあー、さっぱりした。久々にまともな風呂に入ったよ」
解いた髪をわしわしと布切れで拭きながら、口笛混じりで部屋に戻ってきたサイ。
「いきなり泊めてくれとか、食事とか風呂とか」その後ろのライアスはばつが悪そうに頬を掻く。「店主に無理言っちゃって、悪いことしましたね」
「なに言ってんのさ。こっちは客で向こうは商売人。金貨をチラつかせて嫌な顔するやつはいないよ。金の正しい使い方さね」
きしし、と意地が悪そうに笑うサイだが、ふと窓辺に目を留める。
食事も入浴も断ったケイルが、なにやら悪戦苦闘していた。水で湿らせた布切れで強化外骨格に付着した煤や泥を掃除しているのだ。就寝前、ベッドに入る折にも水で洗い流す程度はしたが、細かな汚れはまだまだ残っている。元の世界ならシェルター内の高圧洗浄機で数分で完了する作業なのだが、手作業では中々うまくいかない。外されたヘルメットとマスクはともかく、首から下は着用したまま掃除しようとしているのだから、尚更である。どう足掻いても背中などは無理だった。
「なにしてんのさ?」
「いや、ちょっと掃除を」
「見ればわかるけど、なんで脱がないわけ?」
「……ああ、まあな」誤魔化すように曖昧に頷くケイル。
呆れたように小首を傾げるサイだがケイルの背後に回り、ちょっと貸してみ、と布切れを奪い取り掃除をしようとする。ゼロットも駆け寄り、サイに加勢した。大丈夫だとか必要ないとか、少々うろたえるケイルを他所に背中を流す要領でごしごしと擦る二人。しかし不意にサイが顔を顰め、ケイルの黒髪に鼻を近付けた。
「つーかさ、あんた、風呂は?」
「え。あ、いや。まあな」
「いやいやいやいや。まあな、じゃなくて、風呂は? そーいや、水浴びも一回もしてないよね」
「そうだったな」
「いやいやいやいや。そうだったな、じゃなくて、なんで入らないわけ?」
「……まあ、その、色々あってな」
どこか煮え切らないぼかすような言葉を続けるケイルに、サイの目が妖しく光った。
「あんたまさか、風呂嫌い?」
「………」沈黙で答えるケイル。何よりの肯定だった。
「えー、うっそーん。その年齢と容姿で風呂嫌いはないわー。いらない属性だわー。はっきり言うけど、ふつーに臭いよ、あんた」
サイに散々な文言を吐かれ、ケイルは渋々風呂場に向かった。
遺伝子操作により物質代謝に手が加えられ、通常の人体と較べて老廃物の分泌が極端に少なくなっているバイオロイドだが、まったくないわけではない。少ないにしても溜まるものは溜まる。地肌に纏うインターフェースアーマーには老廃物を分解する機能があるとか、そういった利便性までは残念ながら考慮されていない。
こちらの世界にきてから十二日が経過しており、元の世界でも二十日以上は入浴というものに縁がなく、都合一月も身体を洗っていないことになる。ヘカトンケイルに限らず、戦場では取り立てて騒ぐような事態ではないのだが、入れる時に入っておいた方がいいのは間違いない。
『あら。意外とちゃんとした風呂なのね。どっちかっていうと東洋の風呂に近いけど』
アーシャの言う通り、風呂場は思いの外しっかりとした造りだった。窓辺にある大きな浴槽は削り出したような繋ぎ目のない石造りで、目に見えない底部を鉄板が覆い、外で薪がくべられているのだろう。七分ほどになみなみと注がれたお湯からはほのかに蒸気があがっている。無論、シャワーなどありはしないが、その代わりの手桶が幾つか並び、タワシまで完備されていた。
他の風呂を知らないケイルでもこれが立派なものなのだと理解できた。石と鉄の産出だけでなく、加工も盛んな鉱山の町ならではの浴場である。
到着してからもケイルは暫し逡巡してしまうが、どちらにせよ早晩にでもやらなければならないことがあった。脳波コントロールで各部のロックを解除、気密が解かれた空気が抜けるような音、機械的固定具が外れる金属音、自動ボルトが緩む高音、様々な音が全身から鳴り、途端、結合が解かれ人工筋肉としての機能を失った各部がずしりと重く感じる。手首のギャップが広がった両腕部を、長い手袋を脱ぐ要領で抜き取り、前面胴体部を取り外し、最後に両膝をつき、下腹部から脚部、背面部で一繋ぎになった下半身部を脱ぐ。脱ぐというよりも這い出るという感覚に近い。
強化外骨格が外されたケイルはやや長身の痩躯であり、三分の一にも身体が縮んでしまったように思える。細身な体躯を隙間なくぴったりと包むインターフェースアーマーがその印象を強めていた。ナノマシンが産んだ電力と身体の挙動を電気信号として強化外骨格に送るセンサーが幾何学的な白い線状に奔り、強化外骨格同様、全体的に鈍色で極々淡い光沢を放っている。昨日の負傷の際の出血が強化外骨格とのギャップの間に入り込み、皺状にこびり付いていた。
二本の腕と前掛けのような前面胴体部、膝をついた姿勢のままで脱皮した後の殻のように鎮座している下半身部。そしてヘルメットとマスク。強化外骨格は頭部も含めて大きく五つのユニットに分かれていた。細かな分解ができないのは人工筋肉を利用する性質上の仕様であり、また接合箇所を増やし防御力を減衰させないためにも理に叶った形状であった。
「………」
床に並べたそれらを無表情で見下ろすケイル。開放感などという感覚からは、やはりほど遠かった。ケイルは風呂嫌いというわけではなく、ただ強化外骨格を脱ぐのが嫌いだった。今は、どうしようもなく無防備である。もし今目の前にアバドンが現れたなら、なす術もなく八つ裂きにされるだろう。人間よりも肉体的にやや強化されたバイオロイドとして、強化外骨格に頼らない生身での戦闘訓練も受けてはいるが、近接したアバドンの前では毛ほども役に立たないことは嫌というほど目にしてきた。強化外骨格を纏ってこそヘカトンケイルであり、それを脱いだ今の自分は何者になるのか、そんな取り留めのないことを考えずにはいられなかった。
ケイルは屈み込み、前面胴体部の左胸に取り付けられていたファイティングナイフを引き抜き、バックパックから取り出した糸鋸状の高周波高熱溶断器でしっかりと刃を殺菌してから、やらなければならないことを手早く済ませることにした。
ほどなくして、突然、がらっ、と風呂場の戸が開け放たれた。
「っ!」びくりと硬直するケイル。強化外骨格なき今は熱源探知も機能せず、誰かの接近にも気付けなかった。
そこには満面に悪戯な笑みを浮かべるサイと無表情のゼロットが立っていた。しかし、風呂場の光景を目にした途端、サイの表情は見るみる曇り、さっと顔から血の気が引いた。
風呂場は血塗れだった。いや、血塗れというのは少々大袈裟だが、ケイルの座る床には血溜りができ、そこここに飛び散っている。彼の左足とそこに自身の手で剣先を突き立てられたナイフからは、大きな血の雫が滴っていた。
「えー、ちょっ、えー。目の保養を期待してたのに、どんなスプラッターだよこれ」
「いや、違うんだ」
というか、覗きにきたことを普通に迷惑に感じるケイルだが、サイは自分のことを棚にあげてドン引いている。
「あんたさ、どんだけ血が好きなんだよ……。つーか、自傷趣味の気があるなんて」
「だから違う」
「リストカットならまだしも、足を切り落とそうとするとか、アグレッシブ過ぎるだろ……」
「だからそうじゃない、違うんだ」
ケイルは床の血溜りを手で浚い、一粒の鋭利な鉄片を抓み上げるとサイに見せた。
「なにそれ?」
「榴弾の破片だ。昨日の戦闘時に左膝窩、膝の裏に突き刺さったんだが、摘出してる暇がなくてな」言いながらナイフを鞘に収める。つなぎのようにファスナーで着脱するインターフェースアーマー、左足側面のファスナーだけが全開にされ、大腿部まで捲り上げられていた。「今済んだところだ」
ああ、なぁんだ、と納得しながら、サイはまじまじとケイルの足許を見る。体毛の薄い細く白い足、伝い落ちる血の筋は鮮やかなほどに赤く映えていた。ふーん、と鼻を鳴らしながら吟味するようにじろじろと全身に視線を這わせる。
「顔付きから想像はしてたけど、なんか、女の子みたいな足だね。全体的に線が細いよ。ライアスぼっちゃんが華奢なら、あんたは撓やかって感じ。男娼屋でも始めるか、ヒモにでもなれば一世代築けるんじゃないのかい」
褒めているのか貶しているのか、よくわからない物言いだった。
『おっ。それいいわね。今からでも遅くないんじゃない。激しく同意、強く推奨するわ。長く細く理想のヒモせい――』
「まあそういうわけだから、これから風呂に入る」
アーシャの忌わしき文言を遮るようにやや強引にケイルは言う。しかしサイは、どうぞ、と頷くだけで動こうとしない。
「いや、これから入るから」
「うん、どうぞどうぞ、ごゆっくり」
「いや、だから、悪いが出て行ってくれ」
「うんうん、わかるよ。男が風呂に入ろうとしてるなら、女であるあたし達は退場するのがマナーさね」腕を束ねてうむうむと頷いていたサイだが、不意に手の平をケイルに翳し、無駄に堂々とした態度で言い放った。「だが断る」
「な、なぜ……?」
「あたしは目の保養にきたんだよ。早くその気色の悪い肌着を脱いでもらおうか。今、目の前で、恥らうようにあたしの顔見ながらやれ」
随分と偉そうな覗きがいたものだった。居直り強盗ならぬ、居直り覗き魔だ。いつかの水浴びの時のライアスといい、この世界には覗きに関して独特の価値観でもあるのか。
沈黙するより他にないケイル。憮然としていたサイは不意に破顔し、顔の前で手を振った。
「冗談だよ、冗談」言いながら、サイはケイルに肩を掴み、浴槽の縁に座らせると膝の前に屈み込んだ。「あんたが怪我してるのは知ってたからさ、治しにきてやったんだよ」
「ああ、そうか」どのような意図があるにせよ、いきなり戸を開け放たれた事実は変わらず、自分が全裸だったらどうするつもりだったのだろう、と思わなくもないケイルだった。「しかし、俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃないだろ。こんなに深く自分で抉っちゃって、ごついナイフ使うからだよ。右肘も切れてるじゃないか」
「いや、本当に大丈夫なんだ。なんと言ったらいいのか、俺は普通より傷の治りが早いんだ。それに、あんたも疲れてるだろ」
サイは起き抜けにリルドとライアスの治癒をおこなったばかりだ。立て続けにおこなえば、昨日のように疲弊してしまうのではないかと、ケイルは気を遣う。
「あれま、ほんとだねえ。昨日の傷だろうに肘のはもう塞がりかけてるじゃないか」ケイルの右腕をとり、物珍しそうに眺めるサイ。手を放すがその場から離れようとはせず、ケイルの左足の膝こぞうにびしびしとチョップを放つ。「だったら尚更屁でもないさ。自分の限界ぐらい心得ているよ。ほらほら、いいから足出しな」
「………」
ケイルは黙って、左足を前に屈曲させた。
浴槽の水をかけて血を洗い落としてから、左膝窩を包み込むように両側から手を添えるサイ。薄く目蓋を閉じ、子供に童話を読み聞かせるような朗らかな声音で詠唱を始めた。口調は悠然としていて、リルドのような聞き取れない速さの詠唱ではないはずだが、その囁きはアーシャには翻訳できない類の言葉のようだった。常用語ではないのだろう。
靄が極局所に充満したような球形の空間がサイの手許からケイルの膝にかけて包み込み、傷口が帯びていた熱がすぅと遠退いていく感覚、けれども冷気を感じるようなことはなく、ほのかに温かくもある。ヘカトンケイルであるケイルには適切な比喩表現が思い付かないほどに、筆舌し難い感覚だった。けれども、決して不快ではない。
アーシャは興味深そうにその様子を観察していて、一方ゼロットはこちらも興味深そうに、いつか狼男の生首をそうしていたように、床に置かれたケイルのマスクを覗き込んでいた。
唐突に詠唱を止め、サイが口を開いた。
「シェパドの家で言ってたけどさ。あんた、やっぱり違う世界の人間なんだね」
「……いや」人間という言葉を同意することに抵抗を覚えたケイルだが、否定すればそこを掘り下げなくてはならなくなることを察して、その展開は望むものではないので、素直に頷いた。なぜ望まないのか、その根底を曖昧なままに。「ああ、そうだ」
「あんたのいた世界、どんな世界なんだい?」
やや喰い気味に発されたサイの言葉。ケイルはサイを見下ろす。詠唱は止めたが治癒を続けるサイは顔を上げようとしない。ゼロットは二人に向き直り、じっと会話を聞いているようだった。別段示し合わせたわけではないのだろうが、二人共、落ち着いてゆっくりと話す機会を得るためにも、こうして風呂場にやってきたのかもしれない。
軽く宙を仰ぎ、観念したように小さく息を吐いてから、ケイルは言う。
「シェパドの世界みたいにここより科学が発展していて、ここみたいに魔物が現れる、そういう世界だ」
「魔物って」サイはここで顔を起こし、驚いたように僅かに目を見開く。「あんたの世界にも魔物がいるんだ」
「いや、いるというよりも現れるようになったんだ。ここと同じく、二十年前に」
二十年前、と呟き、その共通点を怪訝に思っているのだろう。サイは思案するような難しい顔をした。
「それで、あんたの世界には、ここで言うところの反逆者みたいなのはいるのかい? 魔物を出現させていると目されている容疑者っていうべきか」
「いや、いなかった。まったくの原因不明とされていた。少なくとも俺の知っている範囲では」
「ははーん、なるほどね。だからこっちの世界の反逆者に興味があるわけだ。それであたしの話を聞いて、西に行こうと思ったわけだね」
「ああ、それもある。それに本物の賊が古都ニューカに向かったと聞いたしな」
「本物の賊? 容疑は晴れたんだろ。なんで今更あんたがそいつを追うのさ?」
「……なぜだろうな」ケイルはこの世界に現れた直後、王城で感じた“共振”を思い出し、首筋に手を触れた。下顎まで覆うインターフェースアーマーのゴムのような手触りがあるだけだった。「わからない」
視線を落とし、サイはぽつりと呟く。
「あんたも帰りたいだろうね、元の世界にさ」
返答はなく、沈黙が続く。奇妙な空気にサイは目線を上げる。ケイルが僅かに目を剥いて、サイを凝視していた。
「ど、どうしたんだい?」サイは戸惑ったような苦笑を浮かべる。「あたし、なんか変なこと言ったかい?」
「いや……、きっと変じゃない」
変なのは俺なのだろう、という言葉は呑み込み、ケイルは首筋の手を口許に移した。
元の世界に帰りたい、そのように思ったことは今の一度もなかった。今、サイから面と向かって言われて初めて、そういった種の思考が存在して然るべきことに思い至ったほどだ。
炎に炙って殺した年若い傭兵の言葉、シェパドとフライの会話、それらから彼らが帰郷を望んでいたことは推測できる。この世界が好きだと言っていたシェパドだって、もし簡単に帰れるという確約を得られれば、躊躇なく帰るだろう。本物の賊にしたところで、それを望むからこそ古都ニューカへ、一縷の希望を胸に反逆者の元へ向かったのかもしれない。それらは想像でしかないが、ケイルがこれまでかように思ったことがないのは、揺るぎない事実だった。
ケイルは今更ながら、ここで初めて自問自答する。もし帰れるとしたら、自分はどうしたいのだろうか、と。
「えっと、帰りたくないのかい? 親とか残してきたんじゃないの?」
「親はいない」
思考に沈んでいたケイルは反射的にそう答えてしまった。これからの会話の推移を危惧し、後悔するがもう遅い。
「そっか。悪いこと訊いちゃったね。あたし達と同じってわけだ」
案の定、危惧した通りに勘違いしたサイはゼロットを見遣り、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。このまま勘違いさせておくのも気分がよくないので、ケイルは嘆息し、正直に打ち明けた。
「そういう意味じゃない。俺には最初から親はいない。魔物と戦うために人間の手で製造されたんだ」
「は? 製造って……なんだよ、それ」
「王都で自分でも言っていたじゃないか」名刀や名弓。城壁の前にて、ケイルが食人鬼の群を圧倒した場面を目にしたサイは、彼を武器に喩えて評価した。単純明快な暴力だ、と。「俺は兵器として製造されたんだ」
「………」
まじろぎもせずにケイルを凝視するサイ。無論、人工授精やバイオロイドなどの概念を理解していない彼女には疑問だらけだろうが、そんな疑念を差し置いても、言葉の持つ救いようのない冷たさに、絶句しているようだった。
「もういいよ。だいぶよくなった。ありがとう」
不意に視線を切って、ケイルは言った。左足を前後に振って見せる。完治には遠いが、粗方出血は止まっていた。
気遣うように曖昧に頷いたサイは、ゼロットを連れ立って浴室から出て行った。
簡単に身体を流したケイルは、インターフェースアーマーを纏い、強化外骨格の掃除に取り掛かった。
『ヒモの話をまぜっかえすわけじゃないけどさ』と、アーシャが姿を現す。『あなたの好きにすればいいと思うわよ。ま、さっぱりわけがわからない現状では、そもそも帰るか残るかの二択しかないのかもわからないんだけれども。少なくとも軍務に従う義理はないと思う。時間軸が等しくて同じ時を刻んでいるなら、元の世界じゃとっくにKIA扱いだろうし』
主たる任務が単独による長距離強行偵察であるヘカトンケイルにとって、長期間の行方不明は戦死とほぼ等符号で結ばれていた。今頃は戦死者、否、損失備品としてH09の符丁がリストに記されているだろう。
「ああ、そうだな……」
相槌を打ちながらも、ケイルは手を止めずに掃除を続けた。両腕部、手先の各関節や細かな疵に入り込んだ鉄錆色の滓が中々取れない。血の汚れだった。元の世界でも、こちらの世界でも、やっていることに違いはないように感じた。だから、もし帰るか残るかの二択を迫られた時、自分はどうするべきなのか、どうしたいのかも、ケイルにはわからなかった。
望まないことは多かった。強化外骨格を脱ぐことを望まない。無辜の人々の血が流されることを望まない。サイ達に自分について、ヘカトンケイルについて明言することを望まない。英雄と囃し立てられることも、悪魔と誹られることも、どちらにせよあまり目に付くことは望まない。
それに対して望むのは一つだけ。はっきりとケイルが自覚できる願望は、元の世界でもこちらにきてからでも寸分も変わらない。
他のヘカトンケイルと一度でいいから会ってみたい。ただそれだけだった。
無意識的に伸びた手が、再び首筋を擦っていた。
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