29 責任
ヒルドン郊外の路地。
暗がりの中、アカリとリルドの背を追っていたサイは、ふと振り返った。
ゼロットが足を止め、宙を仰いでいた。見慣れたはずの年齢にそぐわない無愛想な無表情が、今はどこか落ち着かない様子で不安げに曇っていた。終始手放そうとしない不恰好なぬいぐるみが、ぎゅうときつく胸に抱かれて潰れている。
「どうしたんだい? お腹痛いのかい? 雨ん中走り回れば無理もないけど、うんこなら我慢しなよ」
粗野に笑いながら下品なことを口走り、行こう、とゼロットの手を取るサイ。ゼロットの不安の理由を察しているからこそ、あえて触れなかった。幾度となく去来する憂慮について問答しても、堂々めぐりにしかならないことは心得ていた。
それでも、北西、町の入り口の方角に視線が頻りに向かってしまうのは止められなかった。
つい先ほど、鼓膜が痛むほどの大音響が轟き、激しい地揺れが旋風のように町中を駆け抜けた。今は産まれたてのような奇妙な静けさに満たされているが、音源であろう方向には、天を燻るような巨大な黒煙が焚火の赤い光に照らされ棚引いている。手狭い路地からでも家屋の屋根越しに見て取れるほどに巨大だ。
「……あなたは本当に下品ですね」
耳聡く聞いていたのだろう、追い縋ってきたサイに向け、リルドが冷たい視線を送る。ゼロットの無表情を人形のような硬質なものとするのなら、リルドのものはつんと澄んだ冷水のようなそれである。ただ、その視線はサイの顔ではなく、駆けることにより弾むように揺れる乳房に突き刺さっていた。
本当に下品という言葉も、果たして排泄物云々についての言及なのか、怪しくなってくる。
「あんたさ、なに? 乳になんか恨みでもあるのかい?」
「別に恨みなどありません。ただ無駄に大きな脂肪の塊を見ると斬り落としたくなるだけです」
「それを恨みって言うんだっつーの。自分より乳のでかい女全員を斬り殺したら、あんた、一人になっちまうよ」
「一人ということはないでしょうっ。私よりも貧相な女性だっています!」
僅かに動揺し、声を荒らげるリルド。抽象的な罵り合いではなく、具体的な話には弱いようだった。
サイは呆れたような渇いた笑いを発する。
「あんたの感嘆符、初めて聞いたよ。その貯金、こんなところで使うんだ……。つーか、あんたより貧相な女って、例えば誰?」
「うぐ。それは……」視線を彷徨わせたリルドは、はたとサイの背後に目を留める。「そう、例えばそこなゼロット嬢とか」
降りかかった思わぬ飛び火にさしものゼロットもぴくりと反応し、抗議するような視線でリルドを睨んだ。サイは渇いた笑いを更に重度なものへと変える。口角がぴくぴくと引き攣っていた。
「いや……、幾つ年下だと思ってんの? 発育段階の子供を含めちゃダメだろ。てーかさ、きっとこの子とあんた、いい勝負だと思うよ」
「なんということを。そんな侮辱を受けたのは初めてです。何ならいざ尋常に見せ合いっこで白黒つけようではありませんか」
冗談ではなく、本気で黒い制服のボタンに手を掛けるリルド。齢十そこそこの少女に肉付きの勝負を持ちかける時点で尋常ではないし、そもそもそんな勝負に必死になって他人を巻き込む時点で人として負けているようなものだった。ゼロットはリルドの鋭い視線から飛ぶ火花から、身体を隠すようにしている。
いや、そもそもというのならば、と。ぽかんと放心して推移を見守っていたアカリがたまらず割って入る。
「あ、あのさ、早く行こうよ。遊んでる場合じゃないって」
「遊んでいるわけではありません。人権を懸けた真剣勝負です」リルドはちらりとアカリの胸元、同年代の少女と較べてもやや発育しているであろう前掛けの膨らみを見遣る。「将来有望な自分は関係ないとでも? 不戦勝気取りですか、そうですか、そうでしょうね。だったら黙っていてください」
「えー、なにこの人? こんな人だったっけ……?」
そんな取り留めのない遣り取りが、果たして緊張感や他所にいる仲間への憂慮を和らげるための雑談として意図されたものなのか、疑わしい限りだが、非戦闘員を含んだ四人が恐怖に立ち竦むような事態には陥らずに足を進めることができたのも、また事実だった。
普段は人間は通らないであろう極端に狭い路地裏や、時には家屋の庭先を点在する焚火を避けるように進み、一度も危うい場面はなく、一行は館の周囲を囲む広場に面した路地へと到達した。
激戦を予想させる戦闘音が再開されていたが、銃声だけではなく長く尾を引く爆音も加わるようになり入り組んだ路地では散々に反響し、その音源がどの方向からなのか、ケイルなのかシェパドなのか、あるいはどちらもなのか、いまいち判別できなくなっていた。
暗所の角から広場を見渡すアカリ。館の中から引っ張り出したであろう調度品が点々と積まれ、炎に包まれていた。赤い光と黒煙の中に揺れる町並みは、アカリに半年前の夜を彷彿とさせた。
だが、今は無力だったあの時とは違う。レインコートのフードを目深に被り、唇の端に垂れてきた水滴をぺろりと舐める。ペッパーボックスマスケットの銃把を握り直しながら背後の一同に顔を振り向かせた。
「陽動、うまくいってるみたい。誰もいないよ。館の裏手、確か窓から一階に這入れるはず。行こう」
急くように端的に告げ、飛び出そうとするアカリだが、待ってください、とリルドが制する。
「貴女がたがハイントン下級士官があそこに囚われていると考えるなら、当然敵もそれを予想するはず。言わばあの館が本丸なのでしょう。なのに誰もいないということがありますか?」
「そりゃあ、中には敵がいるかもしれないけどさ、でも広場には誰も見えないよ。陽動のおかげで敵はみんなそっちに行ったんじゃないの?」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」
「罠だって言うのかい……?」サイの呟きに、リルドは頷いた。
「あの焚火の多さも気になります。本当に手隙ならああも執拗に照明は取らないのではないでしょうか」
「………」アカリは昨日の日中、町に向かう王国兵団を受けて偵察に出掛けた時のことを思い出して、固唾を呑んだ。まさにこの広場で百名近い王国兵の人馬が一瞬で蹂躙され尽くしたのだ。累々と転がる無惨な屍、その光景は脳裏に焼きついて間もない。「でも、じゃあどうするの? 館に這入るにはどうしても広場を抜けなきゃいけないよ……?」
市街地を円形にくり貫いたような広場、その中心に館が建ち、半径は四十メートルといったところか。その間には細い樹木や小さな公園がある程度で、人が隠れられるような目立った遮蔽は見当たらない。広場に敵が潜んでいるという可能性は消えるが、同時に館まで移動する間の無防備も意味する。そして現在路地裏に身を寄せる自分達と同じように、広場を外周から遠望する敵の視線がないとは限らない。
リルドはアカリの持つマスケットをしげしげと注視した。遥か離れた標的を非常に速く射抜ける強力な石弓。そのような武装を有した敵の視線に無防備な状態で曝されればどうなるか。死は免れないことは残酷なほど容易に推測できた。
「私が館まで走りましょう。安全を確認できたら、皆で向かってきてください」
「おいおいっ、なんだよそれ。囮かよ」サイが苛立たしげに割って入る。「なにかっこつけてんだっつーの」
「囮というか、斥候です。別に格好をつけているわけではなく、至極合理的な判断かと。貴女方の足では務まらないでしょうし、もし敵が攻撃を仕掛けてきた場合はアカリ嬢の武器でなければ応戦できません」
しかしなあ、と反論しようとするサイを、リルドは前に歩み出ながら遮るように続ける。
「私は王国軍人です。そして賤しくもこの身は、軍の誉れたる近衛兵団長なのです。貴女は気に入らないかもしれませんが、王国軍にも矜持があります。危険が予想される行為を民間人に任せるわけにはいかないのですよ」
アカリに並んで路地の出口に立ち、広場に正対したリルドは背筋を伸ばした姿勢でそっと深呼吸した。左腰に差した剣の柄に手を添えると軽く下に押して、梃子の要領で脚の邪魔にならない位置に鞘を持ち上げる。
「それに足には自信があります。漆黒の陣風、何を隠そう、それが私の二つ名です」
「中二臭い二つ名だね」無理な当て字が最高にそれっぽい、とサイは粗野に笑ってゆるゆると首を振る。「そのダっサい文言が辞世の句にならないように、精々死に物狂いでダッシュしてくれよ」
「否応もなく、無論です」
皆に背を向けたまま希薄に微笑み、リルドは詠唱する。
誰にも聴き取れないほどの速さで、囁くように魔術の発現を捲くし立てる。オルガンの字を持つスパイル家に相伝される特殊な魔術。そしてそれこそが秀でた剣筋を持つ武家に授けられるオルガンの字をスパイル家に齎した奥義であり、リルドが若くして、しかも女の身でありながら異例的に近衛兵団の長へと登り詰めた秘儀でもある。
跳ねるように踏み切り、両足の裏が地から浮いたその途端、リルドの身体は弾かれたように加速した。媒体は己の肉体、起こしたのは風だ。風速毎秒三十メートルを越えるほどの颶風と呼ばれるような風、それに一定の指向性をつけて背後で生じさせる。それは即ち、自身を吹き飛ばすほどの追い風だった。
風の魔術自体は水のそれと並んで初歩的で基本的な魔術である。だがリルドが発現させたような強力な風を遠隔発現、つまり術者の遠方で発生させるのは神話時代の魔道士の所業であり、現在では肉体から精々数メートルの至近で発現させるのがやっとだった。火や冷気の魔術と掛け合わせて、火炎や氷の礫を遠方に飛翔させるのに使用されるのが一般的な使われ方である。それが初歩で基本とされる所以であり、風単体で用いられることはほとんどない。
しかしスパイル家は違った。魔術を用い武術を強化させることに執心した先達は、風の特性に目を付け、己の肉体を飛翔体としたのである。白兵戦の最中に使用できるよう詠唱を改良し研鑽し極端に切り詰め、その一種独特な詠唱の早口を幼少から徹底的に叩き込まれる。魔術士ではなくあくまでも兵士の系譜なのだと、剣技とその風の魔術以外は一切を蔑ろにし、病的なまでに教育される。
好敵手である他の男兄弟を頭一つ突き放し、リルドは唯一免許皆伝を授かっていた。つまり彼女はこちらの世界では人間最速、そんな風に形容しても決して大袈裟ではないだろう。
もっとも、今回の場合、リルドは加減した。ただ速く動けばいいというものではないのだ。目にも留まらぬ速さで移動してしまったら、斥候偵察としての役割を果せない。敵の視線に留まりつつ、自分の身の安全も確保できる速度に調整しなければならない。
推進力である風は六割ほどに留め、直進するのではなく、緩急を付けてジグザグに移動する。右背面の追い風に乗り身を流したら、刹那の間を置き、左背面に風を転じる。蛇行ではなく、文字通り角度をつけたジグザグだ。カクカクと言い換えてもいい。六割と言わず十割でそれを行ったのなら、左右に交錯するように出現と消失を繰り返しながら移動するという、恐ろしくトリッキーなものに見えるだろう。
そして、果たして銃弾は、飛んでこなかった。
館の外壁に背を預け、リルドは緊迫の面持ちで左右に視線を奔らせる。物静かとは言えない。遠い戦闘音と焚火の爆ぜる音が広場を満たしている。だがそれだけだ。先と寸分違わない。
「杞憂でしたか……?」
どこか納得し切れない様子で独白しながらも、路地から顔を覗かせる一同に手招きをする。
それでも油断なくアカリの援護を受けながら一人ずつの横断となったが、やはり銃撃に襲われることもなく、サイがゼロットが、最後にはアカリが渡り、無事に到着した。
一同は息を殺し、身を低くしながら館の裏手へと向かった。
おせえよ、間抜け、と。
高性能爆薬の発破の衝撃とそれに伴う坑道の崩落音をびりびりと背面に感じながら、シェパドは心の中で嘲笑った。
岩山の斜面を滑るように駆け下りる。雨に濡れた岩肌は黒く、僅かな月光を吸収し切ってしまっていたが、坑道の中ですっかり闇順応したシェパドの眼は的確に障害物を見分け、足取りは円滑だった。中腹にまで下りたところで、一際大きい岩に身体を預けて、息を吐きながら背後を一瞥する。坑道の出口、靄のように黒煙と粉塵が充満し、時折岩が転がってくる。
人間爆弾。シェパドの世界の戦場、こちらの世界にくる直前、最後に居合わせた砂漠の戦場では特に常套された手段だった。方法は酷く簡単、爆薬を身体に巻き付け、敵陣で自爆する。それだけだ。
本来であれば追い詰められた貧者がピンポイントミサイル攻撃の代わりに一矢報いるために使われる最終手段だが、その有効性に目を付けた準軍事組織が拐した民間人を爆弾の運び屋として利用することも度々あった。ダンシング・サイクロプスもその一つだ。
風の乗って漂ってきた覚えのある独特なきな臭さに、シェパドは口許を歪める。
使われたのはトリニトロトルエン、即ちTNT高性能爆薬だ。メディアでお馴染みのコンポジションC4だが、大国の正規部隊ならいざ知らず、高価であるためただ発破を目的とする場合は使われることはほとんどない。人間爆弾にも比較的安価な爆薬が使われる。道徳的な社会なら金銭にはかえられないと謳われる人命だが、道徳のない戦場でも値がつかないのは同様、ただしそれはつまり無料と同じ扱いだった。
先ほど、坑道の出口で佇んでいた二人のヒルドン町民。二人共爆薬を巻かれていた。突然他所で轟いた爆音、二人がびくりと身体を固くした隙に、そして遠方で爆薬の無線スイッチを握り込み二人を監視しているであろう傭兵の注意もそちらに割かれたことを予感し、シェパドは躊躇なく引き金を落とし、二人を無力化した。弾かれたように駆け出して坑道から飛び出し、遅れて爆発が起き、今に至る。
一人目は頭部を撃ち抜き、即死させることができたが、爆音に紛れることを意識した咄嗟の照準では二人目は胴体への射撃で妥協するしかなかった。地に伏す二人の脇を駆け抜けた時、まだ生きていた一人はシェパドを凝視していた。理不尽な死に、憤るでも悲しむでもなく、ただただ疑問符に塗れた、そんな顔だった。
「……すまない」
煙を見据えながら今度は声に出して謝罪するが、それは薄情ともとれるほどに短かった。感傷に囚われていたのでは、もっと大勢の無辜の命が失われることになる。即座に身体を翻し、眼下、ヒルドンの市街地を見下ろす。
点々と灯る赤い光が薄く町並みを包んでいた。照明の篝火代わりに町民の家財道具を燃やしているのであろうことは容易に推測できる。町の随所に点在する駐屯団の家が標的だった半年前の騒動に較べて、今回の照明は要所に絞り込まれているように感じる。大通りから館の在る広場にかけて、特に明るい。陽動の成果か、単に頭数が減り手が回らなかったのか。
町の入り口付近、もうもうと立ち上る黒煙が目を引いた。先んじて生じた爆音の正体であり、人間爆弾に因るものであり、そしてケイルがいる地点であろうことは想像に難くない。凄まじい戦闘能力を有した違う世界の兵士――いや、兵器なのか。あのあんちゃんなら余計な罪悪感に囚われることもなく、その辺とことん合理的なんだろう――ちらりと思ったが、それも余計な感傷だった。
シェパドは耳元からの囁きを聴き、どっこいしょ、と腰を上げて町へ駆け下りる。
ここは浅い俯角ではあるが真東から町を一望できる地点、偵察で最も多用したポイントだった。ただ見透かしたようにここにだけ二人の人間爆弾を配置していたことから察するに、実際に見透かされていたのだろう。もしかしたらこれまで行ってきた偵察も、気付かれていたのかもしれない。実害があるわけではないと、お情けで見逃されていたのかもしれない。
どちらにせよもう使えないし、使う気もなかった。偵察は今日限り、今日で全てに決着をつける。五年前からのファンタジックな異世界生活も、ヒルドンを苛む悪夢も、もう醒めてもいい頃合だろう。
シェパドは家屋の壁面に到達し、細い路地に向かってAK47を据銃する。
計ったようにほとんど間を置かず、路地の向こう、一人の傭兵が家屋の裏口から飛び出してきた。右手は右耳に添え、肩から襷掛けにしているバッグに左手で小さなリモコンのような装置を突っ込んでいる。爆殺が失敗したことを察し慌てて監視地点から飛び出してきた人間爆弾の起爆担当だった。
「やっぱりお前か。駄目だろ、監視者が他所の発破に気を取られちゃ」
その声と、シェパドの姿を認めると、男は凍り付いたようにそのままの姿で硬直する。は? という間の抜けた声が聴こえてきそうだった。
「お前は爆薬の取り扱いはピカイチだったが、注意力が散漫なんだよ」
「だッ、黙れ、じじいぃッ!」
激昂したように負い紐で吊っていたAK47に手を伸ばすが、据銃した相手を視認してから銃を構えるのでは遅過ぎる。
照門の切り込みの間に覗く棒状の照星を男の体幹に乗せたシェパドは、淀みなく引き金を切った。二回ずつ、指切りの二点射。白濁した硝煙の向こうで、男は膝から崩れ落ち、ヨガか何かのポーズのように仰向けに反り返る。
シェパドは素早く駆け寄り、男を見る。腹部に穿たれた銃創から真っ黒な血が滴り落ち、雨に濡れた石畳に薄く広がっていく。額の右側が裂け、白っぽい頭蓋の内で脂光する脳漿が覗いていた。無理な姿勢を正そうとする意識も、そもそもそれを苦痛に感じることも、死体にはない。
男の肩から地に落ちたAK47に銃口を向けるシェパドだが、ふと思い止まる。AK47を蹴っ飛ばし、ブリッジの姿勢の男の背に滑り込ませると、レインコートのポケットからM67手榴弾を取り出し、ピンを抜いた。レバーが跳ね上がり遅延信管が点火した弾体を、AK同様、男の背と石畳の間の空間に転がす。
「悪いな。死体も残してやれないで」
謝りしながら、その場から離脱する。人間爆弾の起爆者だった男への意趣返しというわけではなく、それらの起爆装置を有した男の装備を破壊するための行為だった。この男に限ってはAKを破棄するだけでは足りない。
こもったような爆音。直後、ばらばらに引き裂かれ宙に噴き上がった男の身体の部位が、装具が、臓物が、にわか雨の如く降り頻っているであろう水分を含んだ落下音が聴こえた。怖気が奔るようなその鈍い音は極力聴かないように努めながら、別種の音に意識を集中させる。
『くそが! 音信が途絶えた。爆破係が死んだぞ』
『うろたえるな。少し後退してポイントBで網を張るぞ。急げ』
シェパドは躊躇のない足取りで路地から路地へ疾走する。息を上げ、「禁煙しなきゃな」などという常套句を宣いながらも、まるで明確な目的地へショートカットするかのように、先回りするかのように。
『諒解、今酒場の通りに出た。もうすぐ着く。……でもよ、いくらなんでも速過ぎないか? 爆破からあいつが死ぬまで、時間差がなさ過ぎるだろ』
『……ああ、確かに。ボディアーマーの野郎はメインストリートなら、こっちに来たのはじじいか――って』はっと息を呑んだように声が一瞬止まる。『今すぐ無線を封鎖しろ! 聴かれてるぞ!』
「ようやく気付いたか。ちょっと遅過ぎるぞ、ヌケサクども」
シェパドは首に巻いたスロートマイクに左手を添え、声を吹き込みながら、路地から躍り出た。AK47は片手保持の腰だめで前方に据えており、その銃口が向かう先、すぐ目前、通りの路肩で耳元に手を当てた男が目を剥いて固まっていた。
「『く、くそじじい!』」
左耳に差したイヤホンタイプの受信器からも、肉声でも、男の怒声が響き渡る。
引き金を絞った。無造作な照準での連射を浴び、男は不恰好に踊るように錐揉みしながら、家屋の壁面へと縫い付けられ、力なく崩れ落ちた。
シェパドは雑木林にて、死した傭兵からAK47を含む装備を一式、収得していた。それには奇妙な形の首輪、即ち個人携帯型短距離無線機も含まれていた。声帯の振動を拾うスロートマイクと片耳に差すイヤホン、それらとケーブルで繋がったポケットサイズの本体から成る通信範囲一キロにも満たない小型のトランシーバーだ。
幾つか設定された相互通信領域の会話を聞き分け、自分が相手にすべき最寄の分隊の通信内容を盗聴するのは、通信内容からどのような戦法を採り、誰がどこを移動しているのか推測するのは、嘗て部隊に身を置き、ヒルドンの町並みにも精通したシェパドには容易かった。
ごぽ、と喀血の混じった咳を吐き、壁に背を預けて座り込む男。壁には血の跡が赤く残った。歩み寄ってくるシェパドを虚ろな視線で睨め付ける。
「うら、裏切り者め……」
「裏切ったのはお前らだろ。命令を無視して勝手にカタギの人間まで殺しやがって」
「へ……無能な指揮官から指揮権を剥奪するのは、当然の権利だ……。そもそもあんたが、あんたが、ひ、一人で日和ってるから……」
そこまで言って、長く弱々しい吐息を吐き、男は事切れた。
反論の言葉を言い返そうと半開きにした口をそっと閉じて、シェパドは下唇を噛み締め、男の遺体を見下ろしていた。だがそれは一瞬、視界の隅に動体を認め、右方、家屋の入り口である石造りの小さな階段の裏へ咄嗟に転がり込んだ。直後、劈くような連射音が大気を切り裂き、階段を削らんばかりに粉塵が爆ぜる。
「じじい! 死ね! お前はもう死ね! ここで今ここで死ねえ!」
銃声と着弾音に負けじと、男の狂ったような絶叫が聞こえてくる。
極僅かなスペースに身体を押し込め、身動ぎしながら呻くシェパド。飛散した石の破片を顔面に受け、無数の切り傷が生じていた。左目が明かない。塵が入っただけなのか、眼球が傷付いたのか。外的損傷に伴う物理的な恐怖に笑い出しそうになりながらも、歴戦の経験が自ずと冷静に戦況を判断する。
先までの通信内容から察するに、銃撃してきている男が町の東方面の防衛を担っていた最後の一人だった。装備はRPK、カラシニコフ軽機関銃だ。その名の通り、AK47と同じ大国の兵廠で設計され、ベースにAKを使っているだけに外見も酷似した軽機関銃である。ただし延長された銃身と大型の銃床、そして七十五連のドラム型弾倉を装備するという点が異なっている。
時折途絶える定期的な連射音、だが舞い散る粉塵が雨粒により鳴りを潜めるほどの間断はなく、破片が降り注ぎ、煙幕の如く爆発的に立ち込める。制圧射撃を見舞いながら距離を詰めているであろうことは容易に推測できたが、推測できたとしても実際に離脱が叶わないのならば意味がない。軽機関銃の装弾数の多さというアドバンテージは、制圧射撃でこそ威力を発揮する。
「くそ、鉄火場か。嫌いじゃないがね」
不敵というには少々虚勢気味に嘯きながら、シェパドはAK47の弾倉を交換にかかる。残弾数の少ない弾倉を取り外し、投げ棄て、ポケットからはみ出ていた新たな弾倉を放り投げるように引っ張り出し、開口部に銜え込ませる。片目が潰され、無理な体勢でも、流れるような一連の動作は身体が覚えていた。
身体が曝せないのならと、銃と腕だけを突き出し、連射する。いや、乱射だった。シェパドは負傷した左目だけではなく、強張るように右目も瞑り、知らず、喉の奥から怒声を迸らせていた。ブラインドファイアと呼ばれる、遮蔽に身を隠したままでの牽制射撃だ。そこには精確性など無論なく、一糸報いるつもりでのやけっぱちに因るところが大きい。
だが、中らない可能性の方が高いと理性で理解していても、自分のいる方向に向けて銃を撃たれるというのは、当然気持ちのいいものではない。もしかしたら、という心理だけではなく、発射炎と供に銃口から散布される衝撃波は実際に人間の内臓を震わせ、生理的にも不快にさせる。常軌であれば、そこに怯みが生じるが、ただあくまでも常軌であれば、だ。分隊でただ一人になってしまい、その仇が目前に隠れているという状況下に置かれた傭兵の精神を、理性や心理、生理といった概念が上回ればの話だ。
やけっぱちというのであれば、RPK射手も同様だった。ブラインドファイアを受けても怯む気配はなく、そもそも気付いてすらいないという風に、連射と呪詛のような絶叫は止まらず、階段を抉る弾道が徐々に浅く、刻々とシェパドに迫ってくる。
「あっ――ぐ」
鋭い衝撃。突き出していたAK47が弾き飛ばされ、石畳の上を転がる。銃身は拉げていた。シェパドは痙攣する右手を見遣る。人差し指が根元から千切れ、中指は第二関節で皮一枚ぶら下がっている状態だった。寸断された血管から、水風船を無数の針で刺したように筋状の血液が噴き出す。痛みはない。被弾の衝撃で麻痺している。すぐに押し寄せてくるだろう。それまで生きていれば、だが。
「くそっ……」
罵り、階段に後頭部を預け、シェパドは覚悟した。諦観といった方が近いか。ロマンチックな辞世の句も感傷も、何も浮かばない。ただ呆然とした倦怠感と奇妙な安堵感があるだけだった。
「死ね死ね死ね死ねよおらあ、あ、あ?」
だが、何が災いするかわからないのと同様、何が幸いするかもわからない。禍転じて福となる、というわけではなく、両者は常に表裏一体。
ケイルのように論理的に銃撃に怯まないのではなく、所詮はその場限りの自暴自棄、その強みは付け焼刃でしかなかった。理性をかなぐり捨てた戦法というのならば、彼は突撃を選ぶべきだった。下手に迂回するようにじりじりと距離を詰めるのではなく、一心不乱の連射をもって一直線の突撃をなせば、あるいはそれが起こる前にシェパドを射線に収めることが、撃ち斃すことが叶っていたかもしれない。
通りの中央に呆然と佇む傭兵。銃口から硝煙を燻らせるRPKの引き金に置いた指が、虚しく空を切っていた。映画のようにわかり易い金属音が鳴ることさえない。弾切れだった。七十五発という装弾数を買い被っていた。いや、強迫観念に囚われていた精神ではそんなことを意識する余裕もなかった。
我に返ったように腰に吊っていた替えのドラム型弾倉に手を伸ばすが、鋭利な金属音に、停止する。
立ち上がったシェパドが、左手だけで構えたライフル銃を、男に据えていた。
「確かに俺は無能な指揮官だった。五年前、この町を魔物から助ける決断をしたのは俺だ。そのままこの町の厄介になる決断をしたのも俺だ。その癖、現地人との諍いに疲れて、一ヌケして、一人で隠居を気取って郊外に移り住んだのも俺だ。……そして、半年前、指示を仰いできたフライに、最悪駐屯団と事を構える必要があるかもしれないと、いい加減に示唆したのも、俺なんだ……」
先の元同僚には言えなかった言葉を、本当に言うべきだった科白を、自然、シェパドの口は発していた。
「だからこそ俺には、この町に、お前らに対する責任がある。終わらせよう。俺に終わらさせてくれ」
男はきつくシェパドを睨め付けるが、RPKを手放した。無骨な音を伴って石畳に落下する。
「殺せよ……。殺せよ! おっさん」
爆ぜろ。シェパドは念じた。胸部に飛び込んだ鉄の礫が男の心臓を破裂させる。真っ赤な血煙が噴き上がるが、幻のように雨粒に掻き消された。
大の字に倒れた男からRPKを、先に斃した男からAK47を取り上げたシェパドは、二つを魔蓄鉱で破壊するが、途中で右手から垂れ宙ぶらりんになった中指を煩わしく感じ、雑木林でAK47のM43弾をそうしたのと同様、躊躇なく引き千切り、投げ棄てた。自身の指は、M43弾よりも遥かに軽く感じた。
思い出したように激痛が襲来する。当たり前だった部位が消失したどうしようもない違和感と、意識が遠退きかけるほどの疼きが秒毎に脹らんでいく。喚き散らし、歪な断面を壁に叩きつけたくなる衝動を耐えながら、シェパドはレインコートの端部を裂いて右手に巻きつけ、誤魔化すように独白する。
「酷いなりだな、こりゃ」
顔は噴き出る脂汗と無数の切り傷から滴る血と、そして雨により、ぐちゃぐちゃになっていた。更に銃撃の粉塵を浴びたことにより、灰の中を転げ回ったかのように全身が白く、埃っぽかった。
「それにしても、へへ、おっさんか……。じじいから二階級特進だな」
五年前のニューカの森の地獄から這い出て、魔物から町を救った時のような満身創痍の姿で、あの時から始まった己の責任を果すために、左目からは赤い涙を流しながら、シェパドは館へ向かった。
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