プロローグ
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
おまえが深淵をのぞく時、深淵もまた等しくお前をのぞいているのだ。
――フリードリヒ・ニーチェ
そこは、光にあふれた回廊だった。
高い位置にある採光窓から射しこむ陽の束が、壁と床の境界が曖昧になるほどに白く磨きあげられた大理石で照り返され、そのむせ返るほどの光芒たるや、不慣れなものであれば目を痛めかねないほどだ。
そんな無節操なまでの反射が織りなす光の紗を被せたような光景は、目にするものに等しく荘厳という感慨を抱かせるだろう。
しかし、そんな神々しい廻廊で無秩序にこだまする鬼気迫る靴音は厳粛な雰囲気を遠ざけ、十数人の従者を引き連れて前進を急く国王ディソウの表情にいたっては、もはや醜悪とさえいってしまえるものだった。
平時には衰えではなく老練の威厳を抱かせる面差しが、今は眉間と口角に亀裂のように奔った縦皺に歪み、血走ったまなこは落ち着きなく彷徨っている。自身の住居であり、また権力の象徴でもあるはずの王城を往くに相応しい表情では、けっしてない。
いうなれば、おぞましい魔窟を往くような相貌であり、そして事実、この白妙の王城はおぞましい魔窟と譬えるにいささかの遜色もない様相を呈していた。
死屍累々。廊下には点々と、時には数名が折り重なるように、近衛兵の屍が無造作に転がっていた。
王家および貴人の守護を司る近衛兵団は、純白の造景である王城に映える黒色を制服や鎧の基調としているのだが、その黒い亡骸からは大量の血液が流れ、壁や床、時には天上までも、斑な赤に穢している。
本来ならば鮮やかな対比を織りなすはずの純潔な白と重厚な黒が、今や赤黒い不純物によって不気味な絵画のような毒々しさを相乗させるばかりだった。
「……何が起きたのだ」
ディソウは切歯した喉の奥から、忌々しげな独白をもらさずにはいられなかった。
すべての近衛兵が身体に奇妙な創を負っていた。剣や槍によるものではないことは一目瞭然だった。恐ろしく強力な弩弓で射られたように、何か鋭利なものが突き刺さり、周囲の組織諸共貫けていったような傷口には、しかし奇妙なことに、そうであるならば必ずしも残るはずの鏃が、ただの一つも見受けられないのである。
軽装の近衛兵だけではなく、重装近衛兵の隙のない戦甲冑にまで同じような孔が穿たれている。戦で用いるような大弩弓の直撃を受けても、こうはなるまい。
一同の進む先、廊下の突き当たりにある両開きの扉の前には一際おびただしい数の屍が折り重なるように斃れていた。正視に堪えないその光景に、思わず皆が口許を覆ってうめきをもらした。
「これは、ひどい……」
「……まるで屠殺場じゃないか」
体幹を半分も抉られた胴からは鈍く脂光りする臓腑がこぼれ落ち、右の頬から頭頂部までぱっくりと消失した頭の鉢の中には、空気に晒され灰色に変色し始めた脳が渦を巻いている。流れでた血液と脳漿と臓物とが小さな沼を作り、その臭気たるや頭痛を伴うほどであり、まだ熱を帯びた血肉から立ち昇る蒸気は一種の瘴気となって充満していた。
ディソウは文字通り屍山血河と化した扉の前で立ち止まり、顔をさらにひき歪めた。緻密な刺繍が施された豪奢な衣裳を翻し、背後の従者に向かって鷹揚に顎をしゃくる。
すかさず駆け寄った従者の一人だったが、死肉の沼の前で足を止めた。ディソウの苛立たしげなうなり声に肩を揺らし、こみ上げてきた黄水を飲み下すように目許を潤ませながら、そろりそろりと差し足で踏みいり、ゆっくりと扉を押し開けた。
なかには、数名の女官たちが怯えるように肩を寄せ合い、立ち尽くしていた。天蓋つきの寝台を取り囲む彼女らの不安げな眼差しの先では、一人の年若い娘が俯き、顔を両手で覆っている。
ディソウの衣裳とよく似た装飾のドレスを纏っており、生来のものである白銀の長髪の毛先は、僅かな震えに伴って小刻みに波打っていた。ディソウの娘であり、同時にこの国で唯一の王女、ミリアであった。
脇によけてこうべを垂れる女官たちの間を進み、ディソウはベッドに腰掛けるミリアの前に屈みこんだ。
「私の娘よ……。一体何があったのだ? 話してごらん」
「…………」
しかしミリアは答えない。外界のすべてを拒むようにきつく両の手で顔を隠したまま、震えるばかりだった。
「畏れながら」従者の人垣から一人、室外の骸のものと同様の黒染めの制服を纏った細見の女が歩みでた。ディソウに一礼すると言葉を継ぐ。「正体不明の賊がミリア王女様の部屋に侵入したのです」
ディソウは弾かれたように振り返る。女兵士を睨みつけるその表情は一瞬で憤怒に様変わりし、癇癪を起したように怒鳴った。
「見ればわかるわ、たわけが! なぜミリアの部屋に賊の侵入を許したのだ!? 全体どうやって賊はこの部屋に這入ってきたのだ!?」
他の従者が一様に王の激昂に肩を竦めるなか、女兵士は再び一礼すると、いまだに顔を起こそうとしないミリアを気遣うようにちらりと見やり、ディソウに顔を近づけた。やや逡巡するように視線を伏せながらも、やがて重い口を開く。
「……どうやら賊は魔道を使うようです」
「魔道士だと!?」
ディソウの吃驚にその場は一瞬硬直。女兵士と、そしてミリア以外の部屋に居合わせた誰もが目を丸くし、息を呑んだ。魔道士という、その言葉に席巻されたようであった。
ややあって、女兵士は言葉を続ける。
「賊は奇怪な姿をしており、恐ろしく強力な未知の魔道、あるいは武器を有していたらしく、単身でありながら駆けつけた近衛兵を次々と殺害したようです」
「単身と言ったか? 賊は一人だったのか!?」
「畏れながら……」
ディソウは反駁しようと薄く口を開くが、二の句を失った。慙愧の念に駆られて深く俯く女兵士の苦渋の表情が、にわかには信じられない言葉の何よりの裏づけだった。
「……なんという」
こぼれ落ちんばかりに剥かれた目に焼きつくのは、この部屋の外に広がる、今もなお醒めやらぬ悪夢のような惨状。
王国の中枢たる王城を、まるで戦場に変えてしまったかのような死体の数。転がるのは近衛兵の亡骸ばかりで、それ以外の死体が一つもなかった。その事実から、如何に一方的な戦いであったかが推し量れる。否、それはもう戦とはいえまい。虐殺だ。そして、その虐殺は近衛兵の戦力を上回る大群によって為されたものでさえないのだ。たった一人で、ただ一つの身で、数十名の近衛兵を瞬く間に蹂躙し尽くした。
「魔道士とはいえ、それほどの手練を余は見聞にして知らぬ。その賊は魔物の類か、よもや……」と、そこで言葉を区切り、後に続いた声は先までの激昂に反し、どこか怯えたようにか細く、年相応にしわがれていた。「……よもや反逆者の手の者ではあるまいな」
「申し訳ありませんが、現状ではいかとも判断できません」
ディソウは一向に顔を見せようとしないミリアを一瞥し、再び女兵士に問う。
「して賊は?」
「すでに城を離れているのは間違いないかと。範囲を城下町にまで拡げ捜索させているのですが、いまだ発見かなわず。……おそらく王都からは脱しているのではないかと思われます」
「兵をだせ。その賊をなんとしても探しだすのだ。そして可能ならば生きたまま連行しろ」
「仰せのままに」
女兵士は一礼し、足早に部屋から離れた。
ディソウも続いて扉に向かうが、ふと途中で足を止め、再びミリアを振り返った。目を細め、鼻から息をもらす。その眼差しに宿るのは我が子への心痛といったものではない。どこか訝しげに翳り、隠しきれない不審を帯びていた。
「表の死体を片付けろ! 臭くてかなわんわ!」
国に忠誠を誓い殉職した兵士の亡骸に手向けるにはあまりに心無い言葉を吐き捨てながら、ディソウは部屋を後にした。
ディソウが去った後、女官たちはミリアに頻りに声をかけた。もう心配いりませんよ。怖かったのですね、おかわいそうに。大丈夫ですか、お怪我はありませんか。言葉は違えど、諭すような控え目な声音は共通して惻隠の情に満ちている。
しかし、ミリアは一切の呼びかけに応じず、顔を包み隠して小刻みに肩を揺らすばかりだった。
もし、ディソウが我が子の様子をつぶさに観察していれば、あるいはその小さな違和感に気づけたかもしれない。こもった啜り泣きは、笑い声を必死に堪えているように聞こえなくもないことに。その口角が弓なりに吊り上がっていたことに。指の間からかすかに覗く双眸が、三日月のように歪んでいたことに。
極限の恐慌により精神を病んだのか、もしくは緊張の糸が切れた時の渇いた失笑なのか。それとも――。
いかなる感情の発露であるにせよ、麗しい容貌には似つかわしくない歪な笑顔で、ミリアは人知れず嗤い続けていた。