22 異邦人
六畳ほどの手狭い部屋、オイルランプの薄暗い明かりに浮かび上がるのは、どれもこれも奇怪なものばかりであった。無造作に籠に放り込まれた細長い鉄の筒。小鉢に山盛りに詰まれた小さな鉄球。削り出しであろう不可思議な形の木材が床の隅に無数に転がっている。
机の上には何枚も皮紙が折り重なり、描かれているのはどれも何かの図面のようだったが、果たして何の用途に使うものなのか、どの角度から眺めてもまるで想像がつかない。
小首を傾げて木片を爪先でつつくサイ。鉄球の礫を抓み、指先で転がすリルド。鉄の筒を手に取り、中から向こう側を覗き見るゼロット。共通して怪訝げに眉根を寄せていた。
『ちょっとちょっと、これって――』
「……ああ」
ただ一人、一枚の図面を手に取り、まじまじと凝視したケイルだけは、隣で図面を覗き込んで目を玉子のように丸くするアーシャ同様、そこに引かれた無数の線が形を成すものを理解した。マスクの中で人知れず瞠目し、部屋の中央で背を向けて佇むシェパドに視線を移す。
工房へ案内しよう。
唐突にそう切り出し、踵を返して奥の部屋へと向ったシェパド。アカリとエバが這入ったのと同じ部屋だった。中は簡素な寝室のようだったが、粗末な造りの寝台の下には跳ね上げの戸が設えてあり、梯子の下には如何にも隠し部屋といった風情の物に溢れた窮屈な地下室に続いていた。
上の寝室にもこの地下室にも、二人の少女の姿はなく、奥の開け放たれたままの扉の先は上方に傾斜した闇を湛えるトンネルが窺え、外に繋がっているのだろう、不気味な風の音が鳴り、雨の水流が地を這い、流れ込んできていた。
「顔も合わせずに行きやがって……」入室した途端、その扉へ正対しぴたりと動きを止めていたシェパドが深刻げに呟く。「後生だから、無理だけはしてくれるなよ……」
それはきっとトンネルから散歩に出掛けたであろうアカリとエバに向けた言葉に違いないが、なぜどこか悲痛な声色でそんなことを口にするのか、一同は理解できなかった。
すぐに動きを再開したシェパドが扉を閉める。途端、風の流れが途絶え、室内は息の詰まるような地下特有の空気に満たされた。シェパドは振り向いて、机に向かい、椅子は使わずに机上に尻から寄り掛かるように体重を預け、一転、のんびりした調子の微笑を浮かべた。
「はてさて、何から話せばいいのやら。別に焦らそうってわけじゃないんだが、話すべきことが多過ぎて、まいっちまうな」
マイッチングまちこ先生だよ、とそこだけは例の異国の言語で、ケイルがアーシャの翻訳システムに頼らなくとも理解できる言葉で付け足した。
『この男、やはり徒者じゃなかったわね……。つーか古っ』
自分達の世界と同じ言語であることは理解できても、膨大な知識アーカイブを有するアーシャと違い、ケイルは元ネタなど理解できない。ただ、語感の持つ人を食ったような調子だけは汲み取り、僅かに顎を下げ、睨め付けるようにシェパドを見据える。ふざけているのか、真面目なのか、真意を測りかねていた。
その反応を愉しむように頬を緩めていたシェパドは、「そんなおっかない顔しなさんな」と肩を竦める。
「今の言葉も伝わったみたいだな。シンプルな日常会話だけじゃなく、かなり難解な冗談まで伝わるところを見ると、どうやら俺とあんたの世界は、かなり類似しているらしい」
「あんたは――」
ケイルが言葉を紡ごうとするが、おーいっ、とサイが割って入った。
「なぁにさっきから野郎二人でいい雰囲気になっちゃってんのさ。内緒話は嫌いだよ。私達にもわかる言葉で喋ってくれるかい?」
苛立たしげに言い、腕を束ねるサイ。
シェパドは苦笑し、頷いた。
「お察しの通り、俺はこっちの世界の人間じゃない」
おぼろげながらも察していたとはいえ、そのはっきりとした宣言に、一同は瞬きを忘れたようにシェパドを凝視した。シェパドは追い討ちをかけるように続ける。
「勿論、異国の人間って意味じゃない。俺の世界にはライガナ王国なんて国もなければ、ヒルドンなんて町もない。魔物もいないし、魔術もない。世界が違うっていうのは、そういう意味だ」
やはり、とケイルはシェパドを見遣る。
並行世界における、違う世界の住人。彼はまさしくケイルと同じ立場の異邦人だったのだ。驚きは覚えるが、それ以外の特別な感情は湧いてはこない。目の前に立つただの中年の男が、自分達の宇宙とは違う宇宙の住人だと聞かされても、実感などまるで湧かなかった。どんな感慨を抱けばいいのか、前例などなく、手本もないのだ。
ふと、シェパドと視線が重なる。
「並行世界について、あんたには説明は不要だろ?」と再びケイルの世界の言葉で問うてくる。
「……ああ」
「そのこと、彼らには?」
サイ達の方を顎でしゃくるシェパド。ケイルは小さく頭を振った。
「マジでか。一緒に旅してたんだろうに、説明ぐらいしとけよ。どんだけミステリアスなんだよ。面倒くせえな」
「訊かれなかったからな」サイは違う世界の存在について仄めかしている節があったが、直接的に問われたことはなかった。問われたとしても、素直に知り得る限りを語り聞かせたかは疑わしいが。「それに俺自身、よくわかっていないんだ」
「んなこと言ったら俺だってそうだよ。ま、俺も現地人に説明なんてしたことねーけど」
「現地人か……」
自分以外の異邦人を知らなかったケイルには、その言葉がとても新鮮に聴こえた。
またしても異国の言葉で会話を始めた二人に、サイが文句をつけようとするが、わかったわかった、とシェパドは手で制し、尻を机から離した。なんて言えばいいんだろうな、とぼやきながら机に向き直ると、鉛筆代わりであろう細長い木炭を手に取り、白紙の皮紙に絵を描き始めた。
円を三つ、横に並べて描き、そこに幾つかの単語を書き込む。この世界の文字であり、そうなると果然ケイルにはミミズが這った不可思議な形にしか見えず、この世界の文字にほとんど触れる機会のなかったアーシャにも置換できない。
しかし、サイ達は狭い机に密集し、興味深げにシェパドの手元を覗き込んでいた。ケイルは一歩後退し、机上を見ようとぴょんぴょんと背後で飛び跳ねていたゼロットに場所を譲ってやる。
シェパドは描き終えると、一番左の円を木炭の先端で示す。
「まずこれがこの世界。俺達が今現在、存在している世界だ。ここにはライガナ王国があり、ヒルドンがあり、魔術がある。あんたらが住んでる世界だ」
サイ達に目配せをするシェパド。きっと書き込んだ単語はライガナ王国や魔術といった意味を持つ言葉なのだろう。シェパドは次に隣の円を指し示す。
「で、こいつが俺のいた世界。ライガナも魔術もないけど、勿論国があって、人が生活している。ちなみに科学もこっちよりは少しばかり発展してる」
最後の円をとんとん、と木炭でつつく。
「んで、これがその鎧のあんちゃんの世界。詳しくは俺も知らない。知るわけがない。ただ、どうやら俺達の世界よりも更に数段、科学が発展してるようだ。その鎧とマスクを見ただけでわかるよ。想像もできない、テクノロジーの集合体だ」
シェパドにつられるようにケイルに注目する一同。少し距離を置いて佇むケイルは、何も言わなかった。
不意にシェパドは、三つの円の周囲に同じ大きさの円を無数に描き殴り始めた。顔を引き攣らせる一同を他所に、鬼気迫る様子で気が触れたかのように凄まじい速度で描き続け、皮紙に収まらなくなったところで手を止めた。
「これがライガナはあるけど魔術のない世界。こっちはライガナはないけど魔術がある世界。こいつは俺の世界に似てるけどライガナがあって魔術のある世界。これは鎧のあんちゃんの世界と見せかけてライガナがある世界。はたまた人間は住んでなくて気味の悪い化け物が支配してる世界……ってな具合で、似通ってたり懸け離れてたり、違う形の世界がお互い交わることなく、無数に存在してるという説がある。ここまで理解できてるか?」
「………」
サイとリルドとゼロットは、難しそうな顔を並べ、シェパドを見ていた。疑問だらけだが何を質問すればいいのかもわからない。そんな様子だ。当然の反応だろう。並行世界の理論はケイルの世界でも未だ証明されていない、言ってしまえば不確かなものなのだ。宇宙という概念があるかどうかさえ疑わしいこの世界の住人にいきなりそんな話をして、理解しろという方が無理だろう。数字という概念を理解していない幼児に、因数分解を教えようとするようなものである。
もっとも、彼らは科学的概念こそ理解していないだろうが、きっと超常や幻想といった意味では、おぼろげながらも違う世界の存在について潜考する機会は度々あっただろう。ケイルという、明らかにこちらの世界の常識の枠には収まらない人物と行動を供にしていたのだから。特にサイは、幼少の頃から姉に聞き及んでいたというのだから。
窺うような、確認するような視線を寄越す一同に、ケイルは僅かな抵抗を覚えながらも、頷いた。
「その男の言う通り、俺も違う世界の住人だ。気が付いたら、こちらの世界に来ていた」シェパドの説明を補足し、彼らの理解を助けるために続ける。「簡単には行き来できない、遥か遠い異国の人間だと、そう理解してくれれば問題ない」
その実は、詳しい話を聞きたがるであろう彼らの心理を先読みし、誤魔化すための発言だった。
ケイルは自分の世界について彼らに語りたくなかった。サイやゼロットやリルド、それにライアスに、自分の世界について、自分について、できることならば知って欲しくはなかった。いつの間にか強くそう思うようになっていた。それがいつ頃芽生えた感情なのか。なぜそのように感じているのか。自分でもわからない。
アーシャと目が合う。アーシャは僅かに微苦笑するだけで、何も言わなかった。
「ああ、まあそうだわな。そういう理解でも構わない」シェパドがケイルの言葉を受け、感心した風に鼻を鳴らす。「科学的な理屈を無理に理解する必要なんてねーし。さっきの説明の世界って言葉を、ちょっと変わった異国とでも置き換えてくれや」
それでもどこか納得し切れないといった面持ちの一同だったが、構わずにシェパドは話を進める。
「ヒルドンの町の異常について説明するとだ、結論から言って、あの町の自警団は全員、偽者だ」
シェパドを注視する一同の目が丸く見開かれる。町の酒場で遭遇した三人の自称自警団員の下卑た笑顔と、剣呑な態度が脳裏に浮かんでいた。
サイは若干語勢を荒らげて問う。
「それはどういう意味だいっ?」
「そのままの意味だよ。約半年前、本物の自警団は町に駐屯していた王国兵諸共、連中が皆殺しにしちまった。それ以来、連中が自警団に挿げ替わった」
さらりと言ってのけるシェパド。サイは驚愕の表情で見つめ、皆殺し……、と慄くように繰り返した。
「半年前……、定期連絡が途絶えた時期と一致します。その間、偽者である彼らが自警団として振舞っていた、と」
リルドはおとがいに手をあてながら呟き、酒場での遣り取りで感じた不審を思い返す。
近衛兵団長という身分を明かしても、あの三人は微塵も怯まずに不遜な態度を続けていた。町制から成る自警団でも、軍組織に関する教育を多少は受けているはずであり、居住まいを正して畏まるのが、然るべき反応だ。あのような態度をとり続けるのは常識的に考えて不可思議だったが、あれは不遜ではなく、近衛兵団長という肩書きはおろか、職業軍人には服従するという両者の間の不文律でさえ、彼らは本当に知らなかったのだろう。
「半年前に一体何があったのですか? 偽者という彼らは何者なのですか?」
「傭兵」
ぼそりと言って、俯くシェパド。彫りの深い顔立ちであるシェパドは、僅かに目を伏せるだけで、酷く憂いているように見えた。
「違う世界、いや、ちょっと変わった異国からやってきた傭兵なんだよ。俺達はな」
「俺達?」
「そう、俺達。仲間だったんだよ、俺は、連中とな」
「仲間って……」
「仲間だっただ。過去形さ。今はもう違う。連中曰く、俺は裏切り者なんだと。……違うな、腰抜けと言った方が正解か。裏切り者だったらとっくに殺されてる」
自嘲するように力なく笑ったシェパドは、ヒルドンという町で起こった歓喜の奇跡と、そして嵐のような一夜の悲劇の物語を、静かに語り始めた。
どうしてこうなったのか。
闇に満たされた執政室、机に両肘をつき、組んだ両手に額を圧し当てながら、領主ルイードは幾度となく繰り返している自問を、再び問い掛けていた。
全ての始まりは五年前にまで遡る。
大規模な魔物の襲撃があった。
筋状に棚引く黒煙、人々の怒号と悲鳴、累々と朽ちる無残な亡骸。この執務室の窓から見た地獄のような光景は、今でも色褪せることなく脳裏に焼きついている。
突如、大型の魔物が大挙して押し寄せ、町の入り口の防衛線は瞬く間に崩壊。救援の報せを走らせる間もなかった。王国兵と自警団から結成された駐屯団は果敢に戦っていたが、絶えることのない雲霞のような魔物の群に、防衛線は奥へ奥へと押し遣られ、死守すべき王座とも言える、領主の館の目前にまで迫っていた。
嘗て、国同士の諍いに明け暮れていた時代も、辺境の要処であるヒルドンは度々戦禍に巻き込まれたが、それでも壊滅寸前にまで追い込まれたことは一度もなかった。当時は戦時下であり、かなりの規模の戦団が町に配備されていたのだ。現在の百名にも満たない駐屯団とは比べるべくもない。
館に避難してきた町民達は、取り残された家族を襲い、喰らい、力をつけ、更なる血を求める魔物の咆哮に、涙を呑んで震える身体を寄せ合う他になかった。
その時、颯爽と彼らが現れた。
あっという間だった。何が起きたのか、わからなかった。聴こえたのは、魔物の咆哮をいとも簡単に掻き消すほどの劈くような破裂音。見えたのは、先端から白煙を噴く奇妙な杖。その先で血を噴き、薙ぎ倒される魔物達。外の平地から町の中心部、終には館の目前にまで、破竹の勢いで魔物を蹴散らし、生き残った町民を助け、眼下の広場に集結していた。
見慣れぬ衣服に身を包んだ二十名程度の男女。
酷く消耗しているように見受けられたが、それは町での戦闘に因るものではなく、以前からすでに憔悴し切っているような、最後の気力を振り絞り、ヒルドンを窮地から救ったような、そんな様子だった。
恐るおそる館から顔を覗かせたルイードに向けて、奇妙な者達の代表者であろう男が歩み出て、たどたどしい片言で、このようなことを言った。
「自分達は異国の人間だ。どうかこの町に身を寄せさせて欲しい。どうか内々に匿って欲しい」
拒否などしようはずもなかった。誰もが諸手を広げ、歓迎した。内々に匿って欲しいという言葉に従い、彼らの存在は町一丸での秘密となった。生き残った駐屯団の者も、王国兵も含め、口を閉ざすことを彼らに固く誓った。絶望の淵から町を救いせしめた救世主達の願いを、ほうほうの体でありながら町のために尽力してくれた、神の軍団とでも言うべき力を有した彼らの懇願を、無碍にしようなどという人間は、誰もいなかった。
何事もなく二年が過ぎた。魔物の襲撃で欠けた駐屯団の穴を埋める形で、町の防衛という役割を引き受けてくれた彼ら。守護神である彼らがいる限り町は安全だと深く感じ入る町民。最初は深く交わろうとはせず、どこか近寄り難い雰囲気を帯びていた彼らだったが、次第に言葉を覚え、打ち解けていった。
三年が過ぎた頃、些細な諍いが目立つようになった。主に酒場や食堂などで、彼らの横柄な振る舞いが目に付くようになったのだ。それでも町民達は多少の横暴には目を瞑り、ルイードは努めて、彼らに好意的な印象を抱き続けるよう、訴えを起こそうとする少数派を説得していた。
四年目には諍いが頻発し、絶えないようになり、とうとう殺人事件が起きてしまった。口論が切欠で、町民一人と自警団が二人、彼らの手によって殺害されてしまったのだ。彼らの代表者である男とルイードは、何とか両者の仲を取り持とうと忙しなく駆け回っていたが、彼らに反感を覚える者達は、もう少数派とは呼べない数に膨れ上がっていた。
五年目になってから、彼らを追い出そうという意志で団結したタカ派が、不穏な動きを見せ始めていた。王都に報せを走らせ、彼らの存在を暴露しようというのである。タカ派の主要メンバーは町の治安維持を担う駐屯団であり、治安悪化の原因である彼らの存在をどうにかしようという思いは、当然のものだった。それでもルイードは、思い止まるようタカ派を説得し続けた。し続けながらも、限界が近いということをルイードは薄々ながら感じ取っていた。
そして半年前の夜。
それは起こった。五年前の魔物の襲撃同様、火災に照らされた筋状に棚引く黒煙、人々の怒号と悲鳴。そして町の至る所で響き渡る劈くような破裂音。町中の駐屯団員の家に、彼らはほぼ同時に夜襲を仕掛けたのだ。数でいえば駐屯団の方が上回っているはずなのに、戦いにもならなかった。五年前の襲撃同様、あっという間に終わってしまった。
明くる日には、タカ派の、駐屯団とその家族の骸を埋葬することになるということを確信しながら、布団に包まり、目を閉じて耳を塞いで、子供のように震え続ける他になかった。
どうしてこうなったのか。
切欠は彼らの方にある。徐々に町民に対して狼藉を振るうようになった彼ら。素性は予想だにできないが、彼らも自分達と同じ人間でしかないことは理解していた。そしてそここそが問題だったのだろう。片や、ただの人間。片や、恐ろしいほどの力を有した、ただの人間。辺境の閉ざされた町で、両者の間に横たえる埋めようのない力の差。力を持つ者が力なき者に対して横暴に振舞うようになるのは、人間なればこそ、自明の理だったのかもしれない。
両者の亀裂を埋めようと奔走していたルイードだが、いつの間にか町を窮地から救ってくれた彼らに対する感謝の念は消え失せて、ただただ恐怖に支配されていたように思う。町を壊滅させるほどの魔物の大群を瞬く間に屠ってみせた彼ら、その強大な力の矛先が自分達に向かないなど、誰が断言できようか。神の軍団に歯向かった人間を待ち受けるものは、破滅でしかない。
今になって思えば、魔物の襲撃があったあの時、もうすでにこの町の破滅の運命は決まっていたのかもしれない。一見、救世主だと思えた彼らを受け入れてしまった時点で、町に残された道は一つだけ、耐え難きに耐え、彼らと共存するよりもう他になかったのだ。
ルイードは、下唇を結び、ぎゅうと目を瞑り、更に強く、額を手に圧し当てる。
どうしようもなかった、けれども、どうしてこうなったのか、と。自問自答を繰り返さずにはいられなかった。
「よお、ルイルイ」
「ひ」
いつの間にか執政室の扉が開け放たれ、そこに寄り掛かるようにして、彼らの今の代表者たる、火傷の男が立っていた。
いつもの自警団用の皮鎧ではなく、五年前に初めて目にした時のそれと似通った、見慣れぬ、けれどもものものしさは克明に伝わってくる出で立ちに、ルイードは戸惑いを覚える。また何かを始めようというか、と。
「地下室の拷問部屋でな。一人死んでるから、後片付けを頼むよ」
「またっ……」ルイードも町に旅人が這入ったことは知っていた。彼らがその内の一人を捕らえて、地下で拷問していたことも。「また殺したのか……?」
しかし火傷の男はゆるゆると首を振る。
「違う違う。残念ながら、殺されたのは俺の部下だ」
「え、部下? そ、そうか、わかった。埋葬しておくよう手配する」
なぜ拷問する側だったはずの彼の部下が殺されるのか。そして仲間だったはずの者の死でさえ、どこか愉快げに口にするこの男の神経は果たしてどうなっているのか。湧き上がってくる疑問や疑念を気取られぬよう、ルイードは視線を逸らせながら事務的に応じた。
「土葬でも火葬でも好きにしてくれや。あと、同じ部屋に半死半生の男がのびてるんだけどよ、水でも与えといてやってくれ。俺らはちょっとの間出払うから、留守を頼むよ」
「……ああ、わかった」
くるりと身を翻し部屋から出て行く火傷の男。
出払うという言葉に、微かな希望のようなものを感じたルイードは腰を浮かせる。もしかしたら、その男を逃がしてやれるかもしれない。当然、後に責められることになるだろうが、うまく言い包めることができるかもしれない。勇気を振り絞り、早足で部屋を出るが、出た瞬間、凍り付く。
火傷の男が扉の脇に立っていた。にたにたと、見透かしたような笑みを浮かべて。
「言い忘れたが」とわざとらしく区切り、続ける。「くれぐれも、変な気は起こすなよ?」
「………」
「その男、どうやら王国軍人なんだけどよ。そいつを逃がして王都に垂れ込まれでもしたら、わかるだろ? この町全体で罪に問われることになる。脅されてたから仕方がなかったなんて、通用すると思うな。俺達という異常な存在を匿い続けた罪。王国兵を含めた駐屯団の排除を黙認した罪。そいつらの死体を勝手に埋葬した罪。ああ、あと昼の捜索隊の死体もな。重大事案隠匿、殺人幇助、死体遺棄。罪のオンパレードだ」
沈黙したまま俯くルイード。火傷の男は嘲笑うように鼻を鳴らす。
「それに、もし罰を覚悟して密告したとして、それでどうなるか。半年前の思い出の夜を忘れたわけじゃあるまいよ。また戦争さ。戦場はこの町だ。たった二十人で国を相手に勝てると思うほど楽観的じゃないが、断言するけど、俺達は殺すよ。攻めてきた兵士も、この町の人間も。死力を尽くして、殺しまくる」
背を向け、ひらひらと後ろ手を振りながら、火傷の男は声高に宣言した。
「もうこの町は、俺達と一蓮托生なのさ」
俺達という存在はこの町そのものなのさ、と残して、今度こそ去っていった。
足元の床が抜け、底なしの深淵の闇へと真っ逆さまに落ちていく感覚。下半身が遠退きかけたが、へたり込むという所作でさえ見咎められるのが恐ろしくて、ルイードはその場に立ち尽くしていた。
どうしてこうなったのか。もう、どうにもならない。
語り終えたシェパドは、一同を見渡しながら問い掛ける。
「あんたら、ニューカに向かってるんだろ?」
「なんでわかるんだ?」
わからいでか、と日中、サイに応じた時と同様にシェパドは言う。
「このご時勢、異邦人のあんたが西方面を旅してれば、そういう特別な意志があるとしか考えられんよ。反逆者の本拠地、古都ニューカ。……ちょっと変わった異国から、不意に飛ばされた俺らは、そのニューカを囲む森に出たんだ」
「不意に飛ばされただって……?」
言って、シェパドとケイルを順に見遣るサイ。並行世界をいまいち理解していないサイ達からしたら、不可解な響きなのだろう。だが不可解なのは彼らも同様。シェパドの苦笑とケイルの沈黙を受け、言い募ろうとはしなかった。
リルドが、ふむ、と小さく呻る。
「ニューカの森といえば、呪いの森として言い伝えられています。反逆者討伐のために組織された多国籍軍を以ってしても突破が不可能だったと。幾度となく恐ろしい魔物の襲撃に遭ったと聞き及んでいます」
「ああ、ありゃあ難儀だ。俺らもしこたま、たまげたよ」
冗談めかして言うシェパド。口調からは苦労が伝わってこないが、あえて多くを語ろうとしないその態度が、切実に当時の凄まじさを言い表しているようだった。
ケイルは同情を禁じ得ない。シェパドの世界には魔物は存在していなかったと言っていた。そんな常識を有する彼らが、おぞましき魔物の巣窟に突然放り込まれたのだ。きっとその時の彼らの反応は、アバドンの出現現象を受けた兵士のそれと酷似するものだったに違いない。驚愕、驚倒、唖然。いや、ただ魔物に囲まれるだけでなく、不意打ちで見ず知らずの土地に現れたという混乱も加味すれば、それ以上か。
「負傷者や戦死者、行方不明者が何人も出たけど、辛うじて森を脱したわけだ。何日か彷徨って、ヒルドンの町を見つけた。だがそんなことがあった直後だから、慎重になってた。ずかずかと踏み入ろうとはせず、ちょうどこの雑木林の辺りに暫く潜んでたんだ。偵察や密偵を出して、こっちの世界の情報を集めようとな。している内に、魔物の大群が町を襲い始め、後はさっき語った通りさ」
地下室であるという状況を差し引いても、重苦しい停滞したような静謐が流れる。
はたと、ケイルがまだ図面の一枚を手にしているのに気付いたシェパド。机の引き出しを開けた。ころころ、と中で何か軽いものが転がるような音が鳴り、その一つを抓み上げ、ケイルに投げ渡した。
空いた片手で受け取り、見ると、ただの小さな石ころのようだった。
「これは?」
「魔蓄鉱。説明は必要か?」
「いや……」家を訪れる前にサイから説明を受けていた。「しかし、これがそうなのか?」
オイルランプに翳して、よくよく見れば、黄金色の金属の結晶のようなものが粒状に輝いていた。それでもただの石だと言われても納得してしまう程度のものでしかない。
「魔力を流してみな」
「は? いや、どうすればいいんだ」
「いいか、こう詠唱するんだ」言って、シェパドは右手を振り翳し、叫ぶ。「天上より見下ろせし銀の羽衣を纏う孤高の住人! 我の腕に邪を討ち滅ぼす力を与えたもう主に栄光あれ! 我その力を御身のために用いる契りを今ここに交わさん!」
「こ、断る」
「おいおい、それじゃ話が進まないだろ」
『空気っ。空気読んでっ』小声で耳打ちするように言うアーシャ。
この一連の遣り取りの方が著しく空気を乱しているように思えてならない……。ケイルは逡巡していたが、仕方なく、咳払いを一つ、小石を頭上に持ち上げた。
「て、天上より見下ろせし孤高の住人……。我に腕に邪を討ち滅ぼす力を与えたもう主に栄光あれ。われ……、我その力を御身のために用いる契りを今ここに交わさん……」
何も起こらない。静寂が虚しく流れる。シーン、という擬音が聴こえてきそうだった。
「うっわ。ほんとにやっちゃったよこの人」口に手を当て、肩を寄せるシェパド。
「け、ケイル」口角を引き攣らせるサイ。
「銀の羽衣を纏うが抜けていましたよ」冷静に指摘するリルド。
ぽん、とアーシャがケイルの肩に手を置き、ふるふると首を横に振った。憐憫の眼差しである。無表情のゼロットでさえ、どこか寂しげな面持ちで見上げていた。
「………」
黙して、徒ならぬ負のオーラを全身から放つケイル。しかしシェパドはどこ吹く風で、手から小石を引ったくる。
「どうすればいいって訊く時点で、たぶんあんたにゃ魔術の才覚はない。こんなもん、何となくのイメージだよイメージ。全身を流れるエネルギーを手繰り寄せ、手から指先に放出する感じで」
シェパドは唐突に、コインを弾くように親指で小石を跳ね上げる。
すると、中空を舞っていた小石の周囲、鋭い破裂音を伴って橙色の閃光が弾けた。
「!」
その突然の出来事に、一同はびくりと肩を揺らす。
小石は何事もなかったかのように床に落ち、閃光が生じた辺りの空間では青白い煙のようなものが淡く漂っていた。
「今のはなんだい? 一体、その魔蓄鉱に何の魔術を付与したんだい?」
「魔術じゃあない、ある特殊な現象だよ。どうやら異邦人であるところの俺にも極僅かな魔力を流すぐらいの才能はあったみたいだけど、未だに魔術は使えない」
魔蓄鉱に付与できるのは何も魔術だけではない。自然現象も付与することができ、微量な魔力を流すだけで取り出せるようになると云う。果たしてその自然現象がどこまでのものなのか、サイの説明だけではいまいちわからなかったが、きっとそれは風や冷気や、そして火といった程度のものであり、非常に高価であるという観点から、一部の金持ちが扇風機やクーラー、灯火やライターの代わりに日常生活で利用しているのだろうと、ケイルはそのようにあたりを付けていたのだが。
部屋に充満する独特のきな臭さ。ケイルは悟り、目を剥いてシェパドを見遣る。この世界の住人には馴染みのない現象。この世界ではおそらくまだ発見されていない特殊な自然現象。それも一種の燃焼には違いなく、火を付与できるのならば可能であるのかもしれないが……、この男は、とんでもないものを付与してしまったのかもしれない。
シェパドはゆるゆると首を振り、きっとあんらには理解できないだろう、とサイ達に断ってから、ケイルに視線を転じ、言い放つ。
「ニトロセルロース基材のシングルベース。今のは、無煙火薬の爆発さ」
今一度、ケイルは手に持っていた図面に目を落とす。
鉄の銃身に、木製の銃床。非常に単純な、原始的とさ言ってしまえる構造であり、だからこそきっとサイ達はその設計図を見てもケイルの持つレイピアを連想しなかったのだろうが、それは、ライフル銃以外の何物でもなかった。
「言ったろ? 俺は鍛冶屋であり武器屋であり発明家だって。とは言っても、一人でできることには限界がある。火薬を一から精製するほどの知識も持ち合わせちゃいなかった。……それにこっちの世界の黒のベルホルトにはなりたくなかったしな。黒のシェパドなんて通り名、些か中二過ぎるだろ」
力なく苦笑するシェパド。
『黒のベルホルト……。驚いた。そんなところまで私達の世界とかぶってるなんて』驚嘆するように言うアーシャは、ケイルに向けて補足する。『ベルホルト・シュヴァルツ、もっとも忌わしい伝説の発明家。悪魔の力を借りて、黒色火薬を発明したとされる人物よ。まあ、架空の人物という説の方が有力なんだけど』
シェパドは小石を引き出しに戻しながら、続ける。
「そこで魔蓄鉱にガンパウダーの炸裂を付与して、それを弾丸の発射媒体にした銃を作ってみたわけだ。安全装置は魔術の才能。誰にでも使えるわけじゃなく、最悪、誰かの手に渡ったとしても、広く普及はしないであろうことを見越してな」
「そのなものまで作って、あんた、何をする気だ?」口振りから察するに、商売のために作ったわけではないのは明白だった。「傭兵達の仲間だったと言ったが、どうしてこんな所に隠れるように住んでるんだ?」
しかし、その問いにはシェパドは答えず、机上に両手をつき深く嘆息。
「あんたらはついてない。昼間、あんたらが来る少し前、王都からの兵団が町に向かった」
「それは捜索隊に違いありません」僅かに目を見開いたリルドが問う。「彼らはどうなったのですか?」
「全滅だ」
酷く端的にシェパドは断言した。
ケイルは日中、この家に初めて訪れる前に耳にした雷鳴を思い出す。あの時は雷鳴であると、この世界でそのような類の音が聴こえていいはずがないと、自身を納得させてしまったが、やはり爆発音だったのかもしれない。
「アカリに様子を見に行かせて、その帰りにあんたらと偶然出会ったってわけだ。……町が傭兵に占拠されて、異様な雰囲気を帯びてからこっち、極端に少なくはなったとはいえ、それでも旅人や行商人が這入ることは度々あったんだけど、連中は監視するだけで積極的に動こうとはしなかった。だから大丈夫だろうと油断してた。だが今になって思えば、連中、その捜索隊の一件があった直後で気が立ってたんだろうな。そこにあんたらの登場だ」
淀みなく持ち上げた手で、リルドとケイルを指し示す。
「ただの旅人とは思えない形をしたお二方。連中は放っておかなかった」
「じゃあ、ライアスぼっちゃんは……?」
「ああ、十中八九、連中に捕まってる」
「くそっ! なんてこった」サイは歯噛みし、髪を掻き毟った。「早く助けに行かないと」
その時、奇妙な音が聴こえた。
落雷というには澄み渡っていて、太鼓というには鋭過ぎる、遠方からの反響が谺となって僅かに地下室を震わせた。
それが二回、三回と続き、呼応するかのように劈くような連射音が響く。
先の魔蓄鉱の炸裂が遠くで連続しているような音。銃声だった。
「畜生……。やはり攻めてくるか」シェパドは強張るように両目を瞑り鼻から強く嘆息、どん、と机を拳で打つ。そして願うように、祈るように呟く。「アカリ、エバ……。頼むから無理はするな」
「攻めてきたって、傭兵か? 戦ってるのは彼女達なのか?」
「……そうだよ」
机に向かって俯いたまま、シェパドは静かに、悲痛の滲んだ声色で、まるで罪を告解するかのように言葉を継ぐ。
「アカリ、エバ、ククル。あいつらは、復讐の女神なのさ」
説明ばかりになってしまって、申し訳ないです。
あと、タイトルにも含まれている『異形』という言葉ですが、読み仮名は“いぎょう”です。“いけい”と読まれてしまったので、参考までに。語感的にいぎょうの方がすっきりしていると思うので。まあ、自由なのですが。