16 ネクタイ
その娘を犯して殺せ。
一年近く経った今でも、少年はその言葉を頻繁に思い出す。
寝ている時や朝起きた時、食事をしている時や剣を振っている時。その言葉を思い出す度に少年はぴたりと、凍り付いたように硬直し、脳裏にはあの夜の出来事が克明に甦る。
夜中、母親に揺り起こされた少年は、まず母親の見たこともないような鬼気迫る表情に驚き、次に村の異様な慌しさに気が付いた。
荷物をまとめて村から逃げる。母親にそう言われ、少年は最初その意味が理解できなかった。だが、開け放たれた扉の外では父親や他の大人達が皆、母親と同じような表情で支度を整えているのを見て、おぼろげながらも意味を理解し、隣の家の女の子が泣きながら小父さんに腕を牽かれているのを見て、少年も泣きながら母親に抗議した。
なんで村を出なくてはならないのか。嫌だ嫌だと、少年の方に見向きもせず恐慌とした様子で身支度を整える母親の隣で駄々を捏ね続けた。
癇癪を起こしたように母親が少年の頬を張って、強く肩を掴んで何かを言い聞かせようとした時、悲鳴が聞こえた。
その直後に馬の嘶きと蹄が地を打つ音。それが無数に、あらゆる方向から聞こえてきた。
母親は少年を裏口から逃がそうとしたが、ほとんど間を置かずに家の中に数人の男達が踏み入ってきた。村人ではない。傷んだ鎧や襤褸を身に纏い、押し並べて小汚く、抜き身の剣や短剣を手に持っていた。
少年は男の一人に腕を取られ、家の外に出された。最後に目にした母親は男達に殴られ、蹴られ、衣服を毟りとられていた。
外には、たくさんの襤褸の男達と、もっとたくさんの村人達が倒れていた。手足を落とされ、胸を貫かれ、腹を裂かれ、みんな死んでいた。その中には少年の父親の姿もあった。腹から血を流し倒れていたが、まだ生きていた。しかし、襤褸の男の一人に後ろから髪を掴まれ、仰け反るように引き起こされ、ぼろぼろに刃の欠けた鋸のような短剣で、ぎこぎこと喉笛を引き裂かれ、死んでしまった。
村の広場には少年と年の頃が近い男の子達が集められていた。みんな少年と同じく、顔を歪めて、わんわんと泣いていた。少年を連れて来た襤褸の男が少し離れたところを指差し、お手本を見ていろ、と言った。
そこにはたくさんの女の子達が裸で倒れていた。一人に何人も襤褸の男達が群がり、圧し掛かっていた。
女の子達の泣き声や悲鳴が聞こえなくなった頃、襤褸の男達は男の子達に、俺達と同じようにやれ、と言った。
泣くばかりで動こうとしない男の子達。襤褸の男達は苛立たしげに喚き、少年と比べたら少し年上の一人の男の子を押さえ付けると何度も剣で斬り付け、切り落とした首を掲げながら、やらなければこうなる、と言った。
男の子達は力なく横たえる女の子達の前へと襤褸の男達に乱暴に押し遣られ、ズボンを下げられた。
その娘を犯して殺せ。少年の背後で襤褸の男が囁いた。
少年の足元で裸になっているのは、小父さんに腕を牽かれていた隣の家の女の子だった。
他の男の子達は泣きながら女の子達の上に圧し掛かっていた。おかすという意味はわからなかったが、少年も泣きながら隣の家の女の子の上に圧し掛かった。
泣きながら動いていたら、一振りの剣を手渡され、殺せと言われた。
他の男の子達は泣きながら女の子達の胸を剣で刺していた。殺せという意味はわかったが、少年も泣きながら隣の家の女の子の胸を刺した。金切り声のような悲鳴が上がる。力が弱く、半端にしか刺さらなかった。悲鳴が聞こえなくなるまで何度も刺した。
襤褸の男の一人が言った。
世界はこういうしくみなんだ、と。俺達と同じようにやる、そういうしくみなんだ、と。
少年は左右を見渡した。自分達にやるべきことを教え、導いてくれる大人の村人達はもういない。代わりの大人達は襤褸を纏った男達だった。
「たっ、頼むから止めてくれ、な?」
少年の前では一人の男が尻餅をついて震えていた。
「そんなことをしちゃ駄目だ。……わ、わかるだろう? だから、な? 剣を下げてくれ」
少年は剣を振り被っていた。隣の家の女の子の胸を刺した剣だ。最初は白銀に輝いていたのに、今では刃は欠け、赤茶けた錆が浮いていた。
「好きでやってるわけじゃないんだろう? 君は奴らに騙されてるんだっ。おじさんにはわかるよ。だ、だから、助けてくれっ」
少年は剣を振り被った姿勢のまま、小首を傾げた。
この男は何を言っているのだろう。好きでやっているとか、騙されているとか、よくわからない。わかるのはこの世界のしくみだけだ。襤褸の男達に言われた通りに、同じようにやる。
「……そういうしくみだから」
少年は呟き、剣を振り下ろした。
男の肩口に落とされた剣は、鎖骨まで減り込んだ。真っ赤な血が噴き出す。悲鳴を上げる男。少年は悲鳴が聞こえなくなるまで、鈍の剣を叩き付けるように何度も振った。
少年のすぐ後ろには、同じ村で襤褸の男達に加わった男の子が二人。彼らの前には幼い子供を胸に抱えた老婆が眼を血走らせ、懇願するような呻き声を発していた。一人が胸の子供ごと老婆を槍で突き刺し、倒れてのた打ち回るところをもう一人が手斧で繰り返し殴打した。
男の子達は村を出たばかりの頃は十人いたのに、多過ぎると五人が殺され、一人は病気で死に、一人は逃げようとして殺されていた。
「………」
三人の少年達は、無言で、確認し合うように向かい合った。襤褸を纏い、返り血に染まっていない肌は垢や埃で煤けている。そこにいるのは襤褸の男達と同じ、襤褸の男の子達だった。それが三人に、奇妙な安心感を与えた。
あの夜のような涙は、もう誰も流してはいなかった。
不意に、悲鳴が聴こえる。
村の広場の方から、助けを求めるような悲鳴。聞き覚えのある、襤褸の男達の内の一人の声のようだった。
三人はそちらに向かって走り出す。
脳の奥に停滞し、目玉を押さえ付けるような臭気。外気に曝されたばかりの血と臓物が放つ臭いは、生臭さと焦げ臭さと糞尿を混ぜ合わせたようだった。
カボル村の通り、先頭を抜刀したリルドが警戒しながら進み、その後ろには馬の手綱を牽いたサイがゼロットの肩を抱えながら歩き、涙眼で口元を押さえたライアスが続いている。
切れ味の悪い刃物を何度も打ち付けられたようにささくれだった裂傷が奔る細い手足。本来あるべき場所から落とされ、表情を苦悶に歪めた生首。木に括り付けられ針鼠のように全身から矢を生やした人の形をした血の塊。
見たくなくても、嫌でも目に付いてしまう。
サイはまだ息がありそうな村人を見つける度に駆け寄っていたが、すぐに心痛の面持ちで列に戻った。大半の者が救いようのない致命傷を負い死に絶えており、微かな身動ぎを見せる者にしたところで、それは最後の時に人が迎える筋肉の痙攣と弛緩に因るものでしかなく、治癒魔術でどうにかできるものではなかった。
ふと、全裸の一人の女性が前方の家屋から歩み出てきた。扉の縁に手を掛け、ふらふらと崩れ落ちる。
サイが駆け寄って近くの布切れで女性の身体を隠し、肩を抱く。無表情でじっと家の中を見つめるリルドに倣って、ライアスも中を覗いたが、すぐに後悔する。
正面には木製の机が一つ、その周囲はバケツで撒いたように真っ赤な血に染まっていて、血溜りに浮かぶように様々な形のものが転がっていた。様々ではあるが、どれも数分前までは人間であったという意味で共通している。熱気を伴って漂ってくる刺激臭から顔を背け、込み上げてきた黄水をなんとか飲み下した。
一体何が起こったらこんな有様になるのか。当然、サイに抱えられ呆然自失とした様子の女性の仕業ではないだろう。
女性は中空の羽虫を追うように焦点の定まらない瞳を小刻みに揺らしていた。
不意に泣き喚くような絶叫が聴こえる。
通りの奥、村の中央の方からだ。
「ひ」
女性は小さな悲鳴を上げ、肩を抱いて痙攣するかのように激しく震え始めた。
「速かった。……すごく、速い、あれは……悪魔……おそろしい、悪魔よ。悪魔だわ」
宥めるサイの方を見ようとはせずに、うわ言のように繰り返す。
一同は再び通りを進み始める。
慎重な足取りで声が聴こえる方に向かうが、ふと声が途切れた。だが間を置かずに叫び声が再開する。今度は違う男の声だった。やめてくれと、来るなと、懇願しているようだったが、すぐに意味を成さない絶叫に変わる。
家屋の角を折れ、村の広場に達した一同の眼に飛び込んできたのは、地に横たえる盗賊達だ。
総じて継ぎ接ぎの襤褸や粗末な皮製の鎧を纏っているが、奇妙なことに、そのどれもが上半身の部分だけ鮮やかな赤色に染まっていた。首には見慣れぬ形の飾りを貼り付けている。
広場の隅から、咽の奥で何かがつまったような奇声。そちらを見る。
ケイルが立っていた。彼は盗賊と思しき一人の男の頭部を右手で掴み上げ、左手は――
皆が一瞬、目を疑い、見間違いや錯覚でないことを確信し、硬直する。
「う――ぷ」
ライアスはそれに背を向け駆け出した。彼がそれを見て連想したのは鶏の屠殺。間に合わず、その場で蹲って胃の内容物を吐き出してしまう。
ケイルは、左手を男の下顎に突っ込んでいた。文字通り、突っ込んでいるのだ。耳から耳へと顔面をなぞるようにU字に裂かれ、大量の血が流れる咽の切り口に、手首までずっぽりと手を突っ込み、強引に弄り、そしてずるんと、掴んだ何かを引き摺り出す。
ケイルが手を放すと、男は二、三歩ふらつき、確かめるようにぺたぺたと首に手を当て、有り得ないところから突き出した何かがぶるぶると揺れ動き、目を限界まで丸く剥いて、倒れ込む。
上半身の衣服を染めているのは血液であり、首飾りに見えた何かとは、舌だった。
ネクタイ。ケイルの世界の旧時代で、主に麻薬組織が見せしめのために使った殺害方法だ。
事前にレイピアで両脚を撃ち抜き、逃げ出せなくしておいた残り一人の盗賊に、ケイルは向き直り、歩み寄る。
「もぉう、くるなよー。こっちくんなよー」
無精髭を蓄えた如何にも厳しい壮年の男は、血に塗れ痙攣する両足を投げ出して座り込んでいる。股の間には明らかに出血に因るものではない黒い滲みができていた。
「なんだよ、なんなんだよー。もおー。おまえもうやだよー」
尿だけでなく、涙と鼻水と涎を垂れ流し、駄々を捏ねる子供のような声色と表情でいやいやと首を振る。最後の一人故、目の前で無残に殺され続ける仲間を見て、地獄を見て、とうに壊れてしまっているのだろう。
「やめろよー。やだよー」ケイルは禿げ上がりかけた頭髪を頭皮ごとむんずと掴み、身体を引き起こす。「あ、あ、やめ、やめっ、やあぁめえぇえてえぇぇよおおぉぉおぉ」
ぶすりと、ナイフの切っ先を耳の下に刺し入れ、びりびりと、下顎を奔らせ、反対側の耳の下まで切り裂く。咽の奥から迸っていた絶叫が水道管がつまったような音に変わり、台地から流れ落ちる滝のように鮮血が流れ、襤褸を見るみる赤く染め上げていく。血に塗れたままのナイフを胸の鞘に収める。ごぼと鈍い音を立てて、鞘から泡状の血が吹き出すが、ケイルは意に介さず、淀みなく、淡々と単純作業をこなすように、左手を男の咽に捻り込む。
生きたまま咽から口内へと手を突っ込まれた男は、涙を流し、痙攣し、声を出せずに静かに嘔吐く。ケイルは手探りで弾力に富んだ舌を探し当てると、引っ掴み、強引に引き摺り出した。
人間の舌は意外に太く、長い。根元にぼつぼつとした無数の粒と青筋が浮いた舌が、下顎の切り口から垂れ下がり、自身の血を舐めるように首に張り付く。
ネクタイの残忍さは、怖気が奔るような死体の形状と、それをされた被害者がすぐには死ねないことにある。
ケイルが手を放すと、その男もやはり首に手を当てる。自身の身に起きたどうしようもない部位破壊だが、顎の下故に目視することすら叶わずに、何も考えられない混乱と絶望の極致で死に往くことになる。
ぺたりと、理解と命を諦めたように内股で座り込み、男はそのまま絶命した。
見開かれた目の中心の瞳孔が急速に開き、舌の消えた口の中は深い洞のようだった。
突如、複数の怒声がケイルの後ろで響いた。
『背後。熱源、三。急接近』
三人の少年だ。まだ声変わりもしていない甲高い声を精一杯張り上げながら、剣を、槍を、手斧を振り被り、ケイルに向かって突進してきた。
即座に背に手を回し、レイピアABR2の銃口を振る。赤い光を放つ双眸の残像が軌道を奔った。
「ケイル! 待っ――」
サイが制止の言葉を言い切る前に、すでにレイピアは死を囁いていた。
胸に、腹部に、頭部に、二発ずつ、コンマ五秒の間に鉄片が送り込まれる。
高速の弾丸はその着弾の衝撃波により、七割が水分である人間の身体の中に空洞を形成する。その空洞を埋めるようにゼラチン状になった周囲の組織が流れ込み、取り返しの付かない致命傷を人体に与える。確実な死を齎す。人体が小さく、それが二発となれば、最早磐石だった。
三人の少年は、見えない壁に衝突したかのように弾き飛ばされ、砂埃を散らして倒れ込む。既に事切れている幼い顔立ちは、酷く汚れていること以外は同年代の男の子達同様、あどけない無表情だった。
『おそらく今ので最後。オールクリアね』
死する少年達とは対に位置するような、生気に溢れた無邪気な笑顔で死体を見下ろすアーシャ。
『いやー、見事にネクタイだらけ。カボル村の通勤ラッシュって感じ』
ケイルは小銃を背に固定し、広場の入り口で佇むサイ、ゼロット、リルド、ライアスの姿を認め、そちらに歩み寄るが、ふと途中で足を止めた。
「……どうした?」
彼らの面持ちがどこか変だった。
表情を硬くし、血の気が引いたような顔色で、まじろぎもせずケイルを凝視していた。
「なんだ? どうしたんだ」
「く、狂ってる……」ライアスが口元を拭い、目尻に涙を浮かべながらケイルを睨み付ける。「あんた、……あんた、正気じゃないッ。狂ってるよ!」
その隣のリルドは無言ではあったが、以前のように、ケイルの潔白が証明される前のような冷たく張り詰める雰囲気を放ちながら、片手の剣を鞘に収めようとはしない。刃はケイルの方を向いていた。
ケイルはたじろぎ、踏み出していた右足を後退させる。
「何を言ってるんだ? なぜだ? 何かまずかったか」
「まずかったかって……」サイは顔を顰め、ケイルの左方、無造作に転がる三人の少年の遺体を一瞥し、強く下唇を噛んだ。「こんな殺し方しなくたって……。それに、こんな子供まで……」
「殺し方がまずいのか? 子供を殺したからまずいのか? なぜだ?」
ケイルが口を開く度に、彼らの表情は曇る。
「敵意を向けてきたんだぞ。この連中はこの村の人達を虐殺していたんだぞ」
今の彼らの表情は、ポルミ村で狼男の雌のアルファの生首を持ち帰った時の、村人達のそれとは明らかに違う。狼藉を働こうとしたバリーガ分隊を殺した時の反応に少しだけ近いものがある。恐怖とは違い、畏怖に類似するが、最も近い言葉は嫌悪。だが、それでもその嫌悪感の濃さはあの時とは懸け離れているように見えた。
「何が気に入らないんだ。魔物の時はそんな顔しなかったのに、人間だからか? 人間だろうが同じだろう。こいつらは“敵”だろう? 違うのか?」
「………」
彼らは答えない。
「アーシャ。どう思う?」
『……さあ、ちょっと私にもわからないわね。強過ぎて引いてるとか、そんな感じじゃないし』
アーシャもケイル同様、困惑したように小首を傾げ、眉根を寄せていた。
ケイルは彼らに視線を戻す。
何か、どうしようもなく醜いものを見るような目で、おぞましいものと正対するような眼差しで、けれどもどこか辛そうに、切なげに、こちらを見ていた。
ケイルには、そんな目で見られる理由がわからない。
ただ、その眼差しには既視感のようなものを覚えた。
「なあ、あんた、名前はなんて言うんだよ」
背負った兵士が、後頭部から問い掛けてくる。
H09は背後に横顔を向け、すぐに正面に戻して、「……いや」と小さく頭を振った。
「いや、じゃなくてさ。名前だよ名前」
兵士は笑い出し、しかし不意に舌を打って顔を歪める。彼の左足首から先は消失していた。包帯が真っ赤に染まっている。だがそれでも痛みを誤魔化すような明るい声色で尚も言い募る。
「まさかイヤって名前なのか? 死んだアーミーの死体を繋ぎ合わせて作られたのかい? んなわけないだろ」
「おいっ。やめとけって」
後ろに続いているもう一人の兵士が少し不愉快そうな声を上げた。彼はもう一人、呆然と中空を見上げ覚束ない足取りの兵士の手を牽いていた。
「なんでだよ。名前訊くぐらいいいだろ。名前まで軍事機密扱いなのかよ」
「そういうわけじゃないけどよ……」ヘカトンケイルについて、多少の知識があるらしいその兵士は言葉を濁らせた。「たださ……」
「悪いが、名前はないんだ」やや間を置いて、H09は続ける。「人造の俺達に人間の名前は与えられない」
「あ……」背負った兵士は小さな驚嘆を発し、ばつが悪そうに身動ぎした。「すまねえ」
「何を謝る? 別にいいさ。本当のことだ」
件の待ち伏せ作戦の後、アバドンの出現に因り壊滅した小隊の三人の生き残りを引き連れて、H09は最寄のシェルターへと徒歩で帰投していた。移動用車輛もあったのだが、四名の内受傷者が二名もいる現状では一輛しか操縦できず、走行音をアバドンに聞き付けられ戦闘となった場合、たった一輛の火力ではあまりにも心許ないという判断から、已む無く徒歩移動と相成った。
瓦礫の尾根を上り始めるが、ふと、H09は視界の隅に映したガイガーカウンターの数値に足を止め、小さく嘆息し、迂回するように進路を変える。
地上を核で焼き払ってから、十年以上が経過しているが、今も尚場所によっては濃度の高い放射線が残留していた。H09の強化外骨格は放射線の防護機能も備わっており、数百グレイの高濃度まで耐えられるのだが、兵士達の装備はその限りではない。一応、彼らも気密型の放射線防護戦闘服を纏ってはいるのだが、それは動きやすさを重視した、言ってしまえば気休め程度のものでしかなく、積層装甲板の幾層に鉛が仕込まれた強化外骨格のそれとは比べるべくもないのだ。
「あんた一人ならもっと早く帰れるだろうに」
アバドンの強襲で精神を病んでしまった一人の足元に注意を払ってやりながら、唯一健常である兵士が申し訳なさそうに言葉を続ける。
「悪いな。俺ら、足手纏いになっちまってる」
「だから何を謝るんだ? あんたらの警護も仕事の内だ。当然のことだろう」
「……そうだな」その兵士は苦笑する。「頼んだよ」
シェルターまであと十キロと迫った時、不意に銃声が轟いた。
H09のすぐ後方、甲高い音をたてて瓦礫の地で粉塵が噴き上がる。
二発目、三発目と、弾ける破片に追い立てられるように、H09は兵士達を最寄の廃墟の中へ避難させた。
「くそっ。どこからだ!?」
「火薬式の銃声だぞ。骨董品じゃねえか」
騒ぐ兵士達を手振りで静めて、H09は壁に背を預け、敵影を探す。
「アーシャ。銃声が聴こえた方向、絞り込めるか?」
『諒解。サークルマーク』
視界に映った円は五十メートル先、通りの対面にある一棟の廃ビルを囲っていた。眼を凝らす。見つけた。三階の左側、一つの窓、身動ぎをする人影が見えた。
H09は見咎められないようにゆっくりレイピアABR2を持ち上げ、人影を照準。引き金を切った。
人影はがくんと頷くように頭を振り、窓の内へと沈む。暫しの間。新たな敵影はない。周囲は再び静寂に包まれた。
「様子を見てくる。ここを動くな」
「おい。ちょっと」
兵士の制止に聞く耳を持たず、H09は廃墟を飛び出す。遮蔽物から遮蔽物へ、例の廃ビルからの発砲を警戒しながら素早く進む。
廃ビルに達すると、踏み入りながらアーカーシャ・ガルバに熱源走査を要求。
『三階、東側。先の狙撃地点付近に動体熱源反応、二つ』
ゆっくりと慎重に、足音を立てないように階段を上り、熱源を目指す。
すすり泣くような声が聴こえた。
通路の左側は例外なくガラスが消失した窓枠が並んでおり、通りの向こう、先の廃墟から三人の兵士がこちらに向かって来るのが見えた。健常である一人が負傷した一人を背負い、その後ろをふらふらともう一人が続いている。
何をやっているんだ、と舌を打ちそうになるが、構わずに進み続ける。
狙撃地点である通路の奥には三個の空薬莢と少量の血痕があり、それが右側の一つの部屋へと続いていた。すすり泣きが大きくなる。
部屋に踏み込み、銃口を振り上げる。
赤い光点に重なるのは、二人の小さな子供。
座り込む男の子と女の子。頬に涙の筋をつくり呆然とH09を見ていた。彼らの膝元には、一人の女性が倒れている。
ひゅーひゅー、と頼りない息を吐きながら、虚ろな眼で天井を仰いでいた。手には旧時代の狩猟用ボルトアクションライフル。胸部には赤黒い入射孔が見えるが、出血は少ない。銃弾は肺を貫通したのだろう。だが、肺への貫通銃創ではもってあと十分だ。
三人の兵士達が部屋に踏み入ってくる。
荒い呼吸を吐いて肩を上下させながら、健常の一人は負傷した一人を床に降ろし、その女性を見て、顔を顰めた。
「やっぱりだ……。くそッ」
「知り合いか?」
「俺達のシェルターの」そこで言葉を止め、子供達を一瞥し言い淀んだようだったが、小声で続ける。「……娼婦だ」
その一言で、H09は彼らの素性に察しが付いた。
ほぼ全てのシェルターで売春は違法行為である。ここから最寄のタワラ87シェルターもその例外ではない。ただ、そのシェルターはお世辞にも余裕のあるシェルターとは言えず、食糧の配給も限られたものでしかない。女一人で子供二人を食わせていくだけなら問題ないだろうが、もう少しいい暮らしを望むなら、比較的優遇される傾向にある兵士達にでも身体を売り、対価を得るしかない。
しかし違法であるが故、憲兵に見咎められれば、相応の刑を与えられることになる。余裕のないシェルターでの刑とは、即ち、シェルターからの退場だ。放射線に侵され、アバドンが闊歩し、食料も何もない地上への強制退場。ほとんど、死刑と同義である。
お母さん、お母さん、と子供達は死に往く女の身体を揺さ振っている。
余裕がない故に、受刑者の家族が他に身寄りもなく自立も難しい幼子や老人であった場合、一緒に退場するケースが多かった。刑法的にはそのような規則はないのだが、犯罪者の家族として、余裕もなく治安も悪いシェルターで残された彼らがどのような扱いを受けるのか、想像に難くないからだろう。
女の呼吸が止まると、年上の男の子が喚くのを止め、H09を見た。眉間に深く皺を刻んだ睨み付けるような表情だった。
地上に放られた彼らに残された道は二つ、だが行き着く先は一つ。黙って死に往くか、抗って死に往くか。彼らは後者を選んだのだろう。隠れていたこの廃ビルで、偶然H09と兵士達を見つけ、食糧を得て数週間でも数日間でも、少しでも生き長らえるために、偶然手に入れたライフルで狙ったのだろう。
突然、男の子が女の持つライフルに手を伸ばした。
「よせ――!」
兵士の制止。男の子に言ったのか。H09に言ったのか。どちらにせよ、H09は引き金を切っていた。
小さな頭部が弾ける。ライフルがくるくると虚空を舞い、女の死体の上に落ちた。
呆然としていた女の子は、ライフルと、部屋に隅にまで吹き飛ばされた男の子の遺体を交互に見て、震える手をライフルに伸ばす。
「やめろ!」
兵士が駆け出すが、女の子が重そうに持ち上げたライフルの銃口がその兵士に向けられると、H09は即座に引き金を落とした。
ライフルと小さな腕が、轟爆に撒かれたように一緒くたになって飛散する。女の子は呆然とした面持ちのままで、仰向けに卒倒した。
「いひ、いひひ、ひひひひひひひ」
不意に、けたけたと、精神を病んだ一人の兵士が笑い始めた。だが、急に真面目な顔になったかと思うと、レッグホルスターに手を奔らせ、拳銃を抜いて、部屋の中央に立つ健常の兵士に銃口を向けた。
「は?」
銃声が鳴った。
頚部から血を噴き、兵士はゆっくり崩れ落ちる。正面に立っていたH09のマスクに鮮血が振りかかり、視界に映った血は驚くほど赤く鮮やかだった。
拳銃を握る兵士は、壁に背を預けていた負傷した兵士の方へと、銃口を振る。
H09は射った。
防護服の面体が吹き飛び、後頭部から灰色の脳漿が霧状に噴き出した。
「………」
拳銃の銃声の音響と硝煙だけが、部屋を満たしていた。
「……な、なん、なんで……?」
一人、残った兵士は咽の奥から漏らすように呟いて、座り込んだまま顔を両手で覆い小刻みに震え始めた。
「大丈夫か」
H09の問い掛けに、兵士は小さな悲鳴を発して顔を跳ね上げる。
面体の中の双眸に宿るのは、どうしようもなく醜いものを見るような、おぞましいものと正対するような、そんな眼差しだった。
突然、ゼロットが駆け出した。
彼女だけは終始無表情で、いつもと同じ感情を感じさせない面持ちでケイルを見つめていた。
サイが小さな声を発して制止しようと手を伸ばすが、振り切って、ケイルに元にまで来ると、左手に向かって手を伸ばした。
ケイルは自身の左手が血塗れであることに気付き、焦って引っ込めた。
似たような場面、ポルミ村でサイと初めて会った時、彼女に握手を求められた場面が脳裏を過ぎったが、あの時とは何かが明らかに、決定的に違っている気がした。
「………」
ゼロットは顔を起こし、どこか寂しそうにケイルを見ていたが、不意に振り返り、サイ達の視線からケイルを隠すように、彼らを睨み付けるように、立ち塞がった。
静謐が流れる。
「サイ」
ケイルからの呼び掛け、初めてはっきりと彼女の名を呼んだ。
サイは小さく肩を揺らし、窺うような上目遣いでケイルを見た。
「な、なんだい?」
「負傷者を看てやってくれ」
「あ、ああ……。そうだね」
曖昧に頷いたサイは、地に伏した女性の一人に向かって小走りで駆け出した。
広場はケイルが殺害した盗賊の死体で溢れかえっているが、そこここには陵辱されたがまだ息のある女性が倒れたままなのだ。
ケイルも、手で乳房を隠すようにして上半身を起こしていた一人の女性の視線に気付き、そちらに歩み寄る。
「――ひ。来ないで……化け物っ。こっちに来ないでえェ!」
だが女性は顔を歪めて泣き叫びながら後ずさった。
ケイルは足を止め、辺りを見渡す。
他の女性達も、リルドも、ライアスも、女性を救護するサイも、生きている者は皆、嫌悪感を顕にした辛そうな面持ちでみじろぎもせずにケイルを見ていた。
視線を落とし、自身の身体を見る。左手だけではなく、強化外骨格は本来の色がわからなくなるほど、斑な血に塗れていた。
「………」
ケイルは盗賊の死体に向き直り、一つを肩に担ぎ上げ、二つを両手で引き摺りながら、広場を離れ、村の外に投棄した。広場に戻り、死体を担ぎ、外へと運ぶ。皆の視線を浴びながら、ただただ黙々と自分にできる作業を続けた。
ゼロットも死体の一つの脚を掴まえ、引き摺ろうとしていたが、大の男の死体は彼女には重過ぎるようだ。ケイルは苦笑し、ゼロットの頭に手を置こうとするが、未だ自分の手が血塗れであることに気付き、やはり引っ込めた。
触れるのは盗賊の死体だけにして、村人達の死体には手を出さなかった。どこに運ぶにしても、おそらく自分が触れるのは喜ばれないだろうと、そんな気がした。
死体を片付け終わったら、村の近くに流れていた小川に向かった。
盗賊達が乗り付けたであろう馬の群が見えたが、近付いてくるケイルの姿を認めると、どこかに走り去った。
小川の辺に腰を降ろし、強化外骨格の血を洗い流す。日の光を受けてちらちらと煌く水面が、薄い赤色に染まっていく。水中に見える小魚は血には近付こうとしない。
上流の無色透明な水流に顔を近付け、水を飲むゼロットを見て、ケイルも僅かな咽の渇きを覚えたが、なぜかマスクを外す気にはなれなかった。
ウエポンステータスを視界に映す。全てに於いて異常はない。装弾数はフレシェットが十三発。ボールが二十五発だった。
盗賊の死体から失敬しておいた短剣を取り出し、刀身を割り、レイピアの銃床上部のハッチを開け、挿入する。僅かな振動と熱を感じ、すぐにハッチ側面の小さなランプが緑に点った。
銃床下部にある不純物排出孔から砂や細かい鉄粉、血の塊であろう赤黒い粒がぱらぱらと落ちる。
「……やっぱりゴミが多いな」
小銃の側面を叩いて、塵を除去しながら、ケイルは小さくぼやいた。