15 笑顔
起伏の少ないなだらかな尾根が脈々と続く荒野。
浮島のように点在する森林。それを縫って延びる褐色の土が晒されただけの不整の小径を、サイとゼロットと少量の物資を背にのせた馬が頭を揺らしながら歩いている。その左側面には三人。ケイルを先頭に、リルドとライアスが続いていた。
四囲を連峰で囲まれた盆地には風がなく、夏の暮れの乾いた空気が厚くたれこめている。静かな街道に、他に旅人の姿はない。
えっちらおっちらと足取りも重く歩んでいたライアスは、とうとう騎乗のサイに向けて音をあげた。
「さ、サイミュス先生ぇ……。休憩しませんか? 疲れました」
サイは情けない声音に眦を吊り上げる。
「はあ!? さっき寝て起きたばっかだろぉ?」
一行が王都デリトを出発してから、まる二日が経過していた。草原を森を荒野を、数時間置きの休憩と夜の野営以外には足を止めることもなく、西に向けて進み続けている。
その間、特筆すべきことは何も起こっていない。昨日の日中、顔が醜く歪んだ人面の大型の猫のような動物の群れに襲われた。この世界元来の野性動物ではない。二十年前には見られなかった外来動物、魔物である。しかし、大事にはいたらなかった。
ケイルにとって、襲ってくるものはそれがなんであれ外敵であり、素性など関係ない。そんな異邦の兵器を保有にした一行にとって、もはや並の魔物の出現程度は特記に値しないのだ。それ以降、遠目に魔物の姿を目にすることはあっても、襲われることはなかった。
今は二晩目の野営を終え、進み始めたばかりなのだった。
「あんたそれでも軍人かい? まったく、勝手について来たくせに……。ちったあ根性見せなよ」
「すいませぇん……。でも、ぼくだって、これでも、軍人として体力だけは、人並みにあるんですよ……」
息も絶え絶えに弁明するライアス。体力だけはという言葉がなんとも涙ぐましい。
「ただ、ちょっと、ペース速すぎますって、これ……」
ケイルは足を止め、遅れ始めた後続を一顧した。
先頭を往く彼の歩調に皆が合わせているのだが、ヘカトンケイルにとっての並足と常人のそれの間には大きな隔たりがあるのだった。騎乗のサイとゼロットでさえ、時折手綱を打って馬を急かさなければ遅れてしまうほどなのである。
ケイルから離されまいとしているリルド。彼女はライアスと違い一言も不満を吐かなかったが、涼しげな無表情に伝う大量の汗はまるで氷が溶けだしたようであり、無理をしているのは明らかだ。
ケイルはインタフェイスアーマの情報を管理する相棒に問いかけた。
「王都からどれぐらい進んでいる?」
アーシャは肩をひょいと竦めて鼻を鳴らす。
『たった百七十四キロ』
常識的な徒歩行軍の観点からみれば、それはかなりのハイペースである。この世界の、という枕詞をつければ驚異的とさえいえる速度だった。ただ人と常識を異にするヘカトンケイルにとっては、あまりに遅い。
夜が深まってきたら野営をして、翌朝日が昇ったら再び進み始めるというスケジュールで動いているのだが、ヘカトンケイルにとって野営など時間の浪費でしかない。暗視装置を使えば光源などなくとも何不自由なく進めるし、休息にしたところで週に一回程度、数十分の睡眠と少量の栄養摂取で活動できるよう、彼は造られている。
『まったく情けない。俺の死んだバアサマのほうがもっと速く動けるぞって感じね』
アーシャは厳しくいい伏せるが、文字通り疲れを知らぬヘカトンケイルの早足に二日間も続いているだけでも、二人の王国軍人の足腰は大したものといえた。
わずかに速度を落としながら、ケイルはそっとこぼした。
「……負傷した兵士たちを連れてシェルターへ向かっていた時を思いだすな」
『ああ、あの三人。懐かしいわね。でも彼らは――』
その件の顛末に思いをいたらせたアーシャは、言葉を呑みこんで視線を沈ませた。ちょっとした雑談のつもりで口にしたケイルもマスクのなかで唇を結ぶ。
彼らのもとの世界での記憶には、思い出話が弾むに足る楽しいものは何一つとしてないのだった。
昼時。森林近くの小川にて、水の補給もかねて休憩をとる段になった。
ゼロットが敷物を拡げ、サイは食糧を見繕って並べる。そして毎度のようにそれを物欲しげに見つめるライアス。自ら進んで分けてくれといわないのは、青年なりの矜持と勝手に飛び入り参加した後ろめたさからだった。サイは悪態を吐きながらも三人分の食糧を用意する。
一方、リルドの備えは万全だった。鞄から取りだした小さな球状の食べ物を千切っては口に含んでいる。いわゆる兵糧丸。携帯軍用食糧のようなものである。
旅が始まってからというもの、ケイルは食事の席に加わろうとはしなかった。彼が摂った食事は王都の食堂での昼食が最後だったが、ヘカトンケイルにはそれで十分なのである。
それでも、サイは毎食のたびに乾パンを勧めた。ケイルは首を横に振り、サイは寂しげに苦笑するという遣り取りは、もはや通例になっていた。
食事らしからぬ簡素な栄養摂取を終えたリルドは、煙管をふかしながら彼らの奇妙な遣り取りを見つめていた。
「この二日間、あなたは食事はおろか、水分さえも摂っていないようですが、腹が空いたり咽が渇くということはないのですか?」
「問題ない」
「……そうですか」
言及しようとはせず物静かに顎を引くリルドだが、すぐに違う話題を振る。
「その背に固定された杖のような武器。南門での戦いの時も、昨日の魔物の時も、離れたところに孔を穿っていましたが、石弓の一種なのですか? 名前はなんというのですか?」
「ニューマチックライフルだ。レイピアABR2」
「えーべぁあぅるつー?」
「エアバトルライフル」
「えあばぁとるらいふー?」
「……石弓の一種だ」
早々に説明を諦めるケイル。リルドは納得できずに柳眉を寄せていたが、やはり言及しようとはしなかった。けれども、踏みこもうとしない淡泊な姿勢とは裏腹に、ケイルの身体をなめるように見る不躾な眼差しをあらためようとはしない。
しばしの間。リルドは淡い紫煙をほうっと吐きだして、
「しかし、どうやって背に固定されているのですか? 見たところ負い紐も何もないようですが。右の大腿のその小さなものも同様の武器ですか? というか、その鎧は全体どのような構造なのですか?」
あくまでも淡々と、捲し立てる。
軍人として、近衛兵団長として、未知の装備に身を固めた異邦の戦士への興味は尽きないのだ。そして何より、抑揚を欠いた事務的な声音から、いまだ信用のおけない異形の情報を少しでも引きだそうとする腹のうちは見え透いていた。南門にて同行を請うた時の物言いといい。他者の機微にうといケイルでも気取れるほど、彼女は嘘が下手なのだった。
『ちっ。ちょっとウザイわねキルビル女。ドヤ顔でダンスを踊る小学生ぐらいウザイ。こいつが泣くとこ見てぇー』
「……話は終わりだ」
ケイルは不敵な相棒にも、帯同者の質問攻めにも辟易し、それ以降口を閉ざした。
休憩を終え、一同は歩進を再開する。
小径はやがて針葉樹の巨木が立ち並ぶ森林のなかへ吸いこまれた。
ひび割れた黒い樹皮に被われた巨木の幹は大人の男が三人がかりで抱きついても手を回し切れないぐらい太く、青々とした葉が幾層にも折り重なり空を隠していた。
それでも太陽光を完全に遮断してしまっているわけではなく、ところどころから射しこむ木洩れ日が赤茶けた枯葉を割って芽ぐむ苗木を優しげに祝福している。
ケイルの視界のなか、くるりと四周を見渡したアーシャはほうと感嘆の吐息をもらした。
『いやはや、私たちの世界ではお目にかかれない光景ばっかりね。まさにもののけの世界。もののーけーたちーだけー――』
白いワンピースを揺らしながら裏声で歌い始めるご機嫌な相棒に、ケイルはうめくように失笑した。死角の多い地形へと配る油断ない走査も、今はさほどの鋭さはない。
「確かに。訓練施設の映像教育でも、ここまでの大自然は観たことがないな」
人工子宮のなかで青年体へと急激に成長するバイオロイド。彼らはその間、脳へ送られる信号にて最低限の知性を身につけ、のちの訓練と教育で人並みの知識を学ぶ。そこに遊興の余地はなく、彼らが旅立つ荒野に緑はない。文明が未発達のころのかつての自然の姿など、理解の外のものだった。
『何いってるのよ。デトロ02とオライオ101のレクリエーション施設で観た映画、忘れたの? こんな感じの森が舞台だったわ』
「ああ。待機時間はずっと映画鑑賞だったな」
『あなただって退屈はしなかったでしょうに』
彼らがいうレクリエーション施設とは、比較的大規模で余裕のあるシェルターにのみ設けられた娯楽のための施設だ。そこには映画館、図書館、ゲームセンター、荒廃以前の生活や自然を疑似体験できるバーチャルリアリティ設備など、生きていく上では本来必要のないサービスを提供している。
人は最低限の衣食住が事足りていればそれだけで満足するほど謙虚な動物ではない。生きていくことに慣れればより良い生活を求め、それが満たされれば贅沢をえようと様々な趣向を凝らし、躍起になり始める。欲には際限がないのだ。
『軍設備も充実していたし、私たちのメンテナンス面でもありがたかったじゃない』
「まあな。確かに快適だった」同意したケイルだったが、声を一段と低くしてぼそりともらした。「しかし、愉快ではなかった……」
娯楽施設を備えた複合シェルターとは、初期に建設製造されたものであり、そこに住まうのは政府の高官や役人とその家族が占めていた。肥沃に満たされた環境下で不自由なく暮らす彼らは、アバドンへの対策や、今後の生活、国としてのありかたなどをげに深刻そうに語り合い、それでいて小規模の貧窮にあえぐシェルターに移り住もうとはけっして考えない。
あまつさえ、今こそ耐える時だと、助け合い、手を取り合うべき時だと、他のシェルターへ向けて声高なプロパガンダを発信してはばからない。
ヘカトンケイルとして、大小様々なシェルターを行き来したケイルは、その格差を、いや、落差を、嫌というほど目にしてきた。初めて複合シェルターのドアを潜った時には、その華やかさに、それこそ別世界に来てしまったのではないかと目を疑ったほどだ。
「……まあ、規模が大きかろうが小さかろうが、神出のアバドンの脅威に曝されているという点では、どこにいても平等だが」
訥々と重い述懐に耽るケイルを、アーシャはぷくっと頬を膨らませて睨みつけた。
『つーか昏っ! いちいち昏いわよ! 人が気持ちよくメラさんばりのビブラートで歌ってるのに、台無しよっ!』
「わるかったな」
『違う世界に来たんだから、私たちだけでも楽しみましょうよ! せっかくだから赤の扉開けちゃいましょうよ!』
「……あ、赤の扉?」
ぶりぶりと文句をいうアーシャだったが、ぴくりと肩を揺らした。
センサーが感知した動体の気配に彼女が行く手を振り向くのと、足を止めたケイルが背の小銃に手を伸ばすのは同時だった。
続く一行にもにわかに緊張が奔る。腰を落としたリルドが鯉口を切り、咄嗟に木の棒を拾い上げたライアスは口をへの字に震わせながらもサイとゼロットを庇うように立ち塞がった。
六つの視線と一つの銃口の先、茂みを揺らして現れたのは、一匹の兎によく似た小動物だった。小路の上で鼻をひくつかせて、ぴんと立てた耳をくるんくるんと回しながら黒い眼に旅人たちをまじまじと映し、再び飛び跳ねて反対側の茂みへと消えた。
緊迫は去り、安堵の苦笑がこぼれる。
『……ジーザス。マザファッカーバニー』アーシャは罵り、苛立たしげに後ろ髪をはらった。『今のままじゃあ熱源探知センサーが役に立たないわね。反応が多すぎるもの。ある程度の大きさの反応だけ感知するように調整しておくわよ』
「そうしてくれ」
森林に這入ってからというもの、時折、小動物たちが姿を見せ、一行に物珍しげな視線を送っていた。生命に溢れた土地での行軍など想定されていないヘカトンケイル。彼にとって予期せぬ動体の接近とは魔獣の襲来であり、そのたびに鋭敏に反応していた。また、ここが魔物の領域として悪名高い西方であることを胸に留める帯同者たちも、彼の物々しい所作を目にするたびについつい身構えてしまう。
馬上で兎の行方を目で追っていたサイがのんびりと口を開いた。
「西に向かう人間は珍しいってんで、動物たちも見物に集まってるのかもね」
「そんなに珍しいのか?」
「あたしたちが向かってる古都ニューカは王都の真西に位置してるからさ。その風評で、西っつったら反逆者の代名詞みたいになっちまってるんだよね。実際に魔物の被害が多いらしいし」
他ならぬサイの口から反逆者という言葉がでて、ライアスは顔を曇らせ俯いた。サイは目敏く見咎め、昏い顔すんなっつーの、と馬上から足蹴にする。
リルドは人知れずろうたけた柳眉を顰め、気丈に振る舞うメイフェ家の次女の横顔を見つめていた。
「しかし、西方にだって村や町はあるのだろう?」
王都を発つ前の晩、ライガナ王国の地図を見た記憶を辿ってケイルは問うた。文字を読めず、旅路の計画はサイに一任した彼であったが、そこには確かに簡略化された町村を示す記号が幾つか標されていたのだ。
「もちろんあるさ。でも最新版のあの地図だって、一年前に更新されたきりらしいからね。正直なところ、地図に載ってる町村がすべて存続してるかどうか、あやしいところなのさ。王都からは方々の町を往来する客馬車が定期的にでてるんだけどね。魔物の出現からこっち、それもすっかり当てにできなくなっちまって、とくに西方面にはさっぱりな状態さね」
音信不通、存続不明、そんな町村は後を絶たないとサイは語る。魔物によってもたらされた災禍についてわかっているのはただ甚大というだけであり、その被害の全貌は計り知れないのだ。
王都城壁の門前で締めだしの憂き目に遭う多くの難民。生活困難者として村を離れた年寄りや幼子に混じって見られた、けっして少なくはない男や女。働き盛りであるはずの彼らが難民に成り果てているその事実が意味するところは、故郷の放棄に他ならない。
「この森の出口にあるカボル村。もし無事ならもうすぐ見えてくると思うんだけど、珍しいってんで歓迎してもらえるかもね。狩猟で有名な村さ。きっと名物の山菜と獣肉にありつけるよ」
立ちこめかけた暗澹を掃うよう、サイは努めて快活な声音でいってゼロットの頭をぐりぐりと撫でた。
カボル村、最初の物資の補給地点にしようとサイが選定していた中継地点だった。邪魔そうに手を払いのけたゼロットだが、行く手を見つめる眼差しは郷土料理への期待に輝いている。
ふと、リルドがサイを仰ぎ見た。
「カボルに向かっているのですね?」
「……あん?」
途端にサイは憤然たる面持ちで顎を上げる。王都の西門でリルドが同行を求めてからというもの、兵団長への疑念を隠そうともしない。もっとも、リルドもなんらかの腹案を隠そうともしない不審な物言いをしたのだから、お互い様といえた。
「そーだけど。何か文句あるわけ?」
「いいえ、文句はありませんが。今晩はカボルに宿をとるのですか?」
「宿だって? 田舎の村に宿屋なんて上等なもんがあるわけないだろ。運がよければどっかの家に泊めてもらえるかもってぐらいだよ。高貴な兵団長様には三日間の野宿はキツイかい? わたくしお風呂にはいらなければいけませんのってか」
小馬鹿にするように声を裏返すサイに、リルドはわずかに細い眉を持ち上げた。
「長期行軍の訓練は受けていますので心配には及びません。あなたこそ、その無駄に重そうな胸の谷間に溜まった垢を落とさなければいけないのではありませんか?」
売り言葉に買い言葉。同年輩からの嘲りに涙を呑んで耐えるほどの可愛らしさは、女の身でありながら近衛兵の長にまで登りつめた猛者も有してはいないのだった。ぴきりと、サイの額に血管が浮かぶ。
両者の間で漂っていた不穏な空気がさらに濃密なものへと変化するのを感じ取り、嘆息するケイル、鼻を鳴らすゼロット、おろおろするライアス。アーシャだけは嬉々として二人に熱視線を送っていた。
「ま、そーだよな。あんたのそれは楽そうだ。つるっつるのぺったんこで、流れた汗もするぅーっと直滑降で落ちてくれるだろうし」
「そうですね。口を近づけて啜れるほど、あなたの下品なそれの間には汗が溜まりそうですものね。よく晴れた日には小汚い塩が採れるのではないですか?」
「そーだよな。あんたのそれじゃあなんの収穫も望めないよなあ。丸ぼうず、ってか焼け野原って感じ。一回どっかの農夫に金払って耕してもらったほうがいいんじゃないの?」
「そうですね。あなたの下品なそれには同じく下品な農夫が群がってきそうです。乳牛だと勘違いされてね。毎朝搾ってもらえばもう少し上品なかたちになるかもしれませんよ」
「そーだよな。あんたのそれを耕すにしても、それだけ平べったければもう手の施しようがない。ご愁傷様の手遅れだよな。ああそうだ。あんた今度上半身裸でうろついてみてくれよ。きっと男じゃなくて女にモテるよ。美形の男子っつってさ」
「そうですね。あなたが半裸で闊歩したらきっと刃の切っ先を突きつけられるでしょう。二つの肉の塊をぶら提げた魔物の一種として。というか私が勘違いして首を刎ねてしまうかもしれません」
「そーだよな。あんたのそれを見て―――」
あくまでも静かに、淡々と罵倒し合う二人。燃え上がらないが、いつまでも消えずに延々と続きそうな、恐ろしい地下火災のような口論だった。
話は次第に具体的な乳房の形状や、感度とか先っちょなどといったいかがわしい方面に及び始める。ライアスは頬を染めてもじもじするようになり、ゼロットはくあぁとつまらなそうに欠伸をし、アーシャも興味を失って森林浴に戻った。
『あ、熱源反応。鹿っぽい動物よ。ばかでかい鹿。シシガミクラスね』
賑やかな帯同者を背に、のんびりと草を食む鹿を遠望して、ケイルはたまらず笑い声をもらした。
ほんの一週間ほど前まで、彼らにとっての見るべきものは魔獣の姿であり、聞くべきものといえばそれの跫音だけだった。行けども行けども灰色に染まった瓦礫の街を、単身で静かに這いずり回っていた。それが今は、あまりにも異なっている。もとの世界ではありえない、ひどく牧歌的な旅路だった。
それが現状の不可解さへの自虐的な苦笑なのだとしても、甲虫のようなマスクのなか、ヘカトンケイルH09のバイオロイドの蒼白い面相は、造られて初めて、血のかよった笑顔らしい笑顔をつくっていた。
だが、不意に鼻をついた覚えのある臭気に、笑顔は消えた。
ケイルは再び歩調を早足に戻し、前進を急く。
「あら、ケイル。どうしたんだい?」
「ひえ……。ま、また」
サイの怪訝やライアスの不平に耳を貸さず、彼は進み続ける。
まるで、馴染み深い瘴気に引き寄せられるように、狂気に呼び寄せられるように。
やがてその臭いはヘカトンケイルでなくとも感じられるほど強烈なものになった。鼻腔から這入って脳をうちから圧迫するような質量をもった生臭さ。外気に晒された鮮血と臓腑がはなつ死臭である。
風下から漂うそれは際限なく脹らんでいき、ほどなくして、臭気の原因である音が一行の耳朶を打った。
声である。人間の声。しかし言葉にはなっていない。獣じみた絶叫と断末魔の悲鳴。それが人のものであると聞き分けることを可能にしているのは、声質でしかない。前方の小径、森林地帯の終点である方向から、奄々と鳴り響く。
息せき切って森林を駆け抜けた一同。岩場の急斜面から臨む眼下には、豊かな森に抱かれた集落があった。簡素な防壁である丸材の壁によってぐるりと囲まれたなかに木造の家屋が点在するそれは、最初の中継地点、カボル村に相違なかった。
しかし、昼食の準備をしていたのだろう、竈にかけた鍋が焦げついているのだろう、複数の家屋から淡い黒煙が燻り、村全体が翳のとばりで覆われていたそこに、期待された歓迎はありえなかった。
「そんな……」
旅人を出迎えたのは、もうその顔にいかなる感情も映さない村人たちだった。男、老人、子供。多様な体躯の人間が、腹を裂かれ、四肢をもがれ、首を落とされ、様々なかたちに成り果てて、圧倒的な死だけを共通させて、家屋と家屋の間で無造作に転がっていた。
その光景はかつてのポルミ村を彷彿とさせる。しかし、ある一つの点において、決定的に異なっていた。どうしようもなく懸け離れていた。
「いったいどうして……」
ケイルと並び麓の惨劇を目の当たりにしたライアスは愕然とする。
逃げ惑う子供たちを弓矢で射るのは、跪き慈悲を乞う老人の首を斧で刎ねるのは、嫌がる女を裸に剥いて家屋のなかに引きずっていくのは、
「人間じゃないか」
総じて小汚い襤褸を纏い、剣を持ち、弓を携え、斧を担いだ男たちだった。押し並べて下卑た笑みを貼りつけて、くすんだ肌の色をした大人の男たちだった。狩猟が盛んな地として知られるカボル村でおこなわれていたのは、人間による人間狩りだったのだ。
「……盗賊団のようですね」
ライアスと肩を並べたリルドが切れ長の双眸をさらに鋭く細めた。
「魔物の出現以降、王国軍の勢力は衰え、あのようなならず者が我が物顔で跋扈するようになってしまいました。魔物が多く巡察がおろそかである西方面は特にその被害が多いと聞きます。頻発する村や町の壊滅は、かなりの数が魔物ではなく、人間の手によってなされたものであると予想されています」
淡々とした言ではあったが、表情の変化に乏しい彼女が見せる確かな沈痛の面持ちが、治安維持を司るべき王国軍の現状の無力さを物語っていた。
魔物出現による被害は、なにも魔物によるものだけではないのだ。悪化した治安が悪党をのさばらせ、人間自らの手による惨禍を増殖させている。共通した絶対敵を得ても、人は手を取り合い助け合うばかりではないのだった。
「あんたら軍人だろっ!? どうにかしろよ!」
一つ、また一つと非業に奪われる命を前に、サイは馬から飛び降りてリルドとライアスに詰め寄った。しかし二人の王国軍人は慚愧の表情でうなだれる。
「サイミュス先生。無茶ですよ……。数が多すぎます」
「……我々だけではどうにもなりません。迂回しましょう」
高地から窺えるだけでも暴虐を尽くす盗賊団の数は十名以上。外壁を有したそれなりの規模の集落を丸ごと略奪できるとなれば、その総数は予想もつかない。
義憤に忠実に突進することは容易いかもしれないが、犬死に終わることはもっと想像に容易いのだった。では易々と捨て置けるのかといえば、それも容易い選択ではない。
「迂回って、見捨てるっていうのかよ!」
「ではどうしろと? 突撃して全滅することがあなたの望みですか? それとも蛮行をやめるよう説得してみますか?」
「二人とも、落ち着いて……」
そんな遣り取りを他所に、ケイルとゼロットの二人は地獄の縁に佇立していた。
異形の指先をそっと握る少女。空いた片手で胸に抱えたぬいぐるみは、ぎゅうと締められ、歪に潰れている。頭のなかで降り頻る悲しみの雨が涙となって眸を潤ませ、それでいて胸のうちで滾る憤怒の炎が切れんばかりに唇を噛ませていた。
少女があの墓地で見せた、激情の貌がそこにはあった。
まるで憤激が常態であるような猛る甲虫がごときケイルの面相。赤い鬼火を灯した彼の眼鏡には、惨澹たる光景で跳梁する悪漢たちが、生命の天敵、己の世界の怨敵と比しても遜色のないおぞましい姿として映っていた。片時も目を逸らさぬまま、彼はかつてのように傍らの少女に問いかける。
「憎いんだな」
ゼロットは、肯定する代わりに手をはなした。
異邦の兵器を解きはなった。
「俺もだ」
囁いて、ヘカトンケイルは駆けだしていた。
他の帯同者たちの制止を背に、細い立ち木をなぎ倒しながら斜面を走駆する。その巨躯は転げ落ちる一塊の岩石のように制動を知らず、両手のかいなに得物を収め赤い眼光を悪漢たちに据える姿は血に飢えた猟犬のようだった。
『正面、四十メートル。ポイントマーク』
アーカーシャ・ガルバが最優先目標を定め、使用者の視界に矢印として映す。そこには幼い少女の手を牽いて村から脱しようと外壁の門から飛びだす少年があった。
恐怖と絶望に顔を蒼白にした兄妹であろう彼らの背後には、弓を構えた三人の盗賊たち。嗜虐の闇に心を染めた男たちは、急所を狙って早々に愉しみを失うような不得手はしない。ほら逃げろ、もっと速く動けと、囃し立てながらわざと兄妹を掠めるように矢を射っていた。
『あら、お優しいことで。私たちはそんなに甘くないわよ』
ケイルは駆けながら、三十メートルに迫った三人に向けて据銃した。瞬時に演算された着弾予想地点が光点となって網膜に投影される。赤い光点は銃口のぶれに応じて上下左右に激しく揺れるが、俊敏な魔獣の狩人たる機械化兵装にとって、行進間射撃はお手の物だった。それが停止した標的となれば、あまりに容易い。
『くたばりな!』
死の接点が襤褸を纏った身体に重なった瞬間、引き金が落とされる。
直径六ミリの鉄球が、五発ずつ、初速毎秒七百メートルの速度で盗賊の体幹を射抜く。一人の腹部にミシンがけしたかのような入射孔が奔り、その反対側、背中の射出孔からは赤黒い腸とそのどす黒い内容物が一緒くたになって噴きだした。
仲間の一人の身に起きた惨劇に気がつく前に、もう一人の胸部から肩にかけて同じような点線状の銃創が形成され、腕ごと破断された矢筈を握っていた手が、不恰好なブーメランのように虚空に舞った。
着弾の衝撃で即死、卒倒する二人を呆然と見ていた残り一人の頭部。へ? と驚倒の呟きをもらす顔の鼻から上が鈍い破裂音をともなって飛び散り、桃色の血煙が霧のように立ちこめる。
異形の姿を目にすることもなく絶命した三人。殺しの完成形である銃によってもたらされた破壊の具現を前にわけがわからずに立ち尽くす兄妹。鈍色の疾風は、彼らを一顧だにせず集落のなかに突入した。
『十メートル先、十時方向の家屋のなか。熱源反応が六つ』
慎重さなど、もはやお呼びでない。ケイルにとってこれは殲滅戦である。羊の命があるうちに、どれだけ迅速に狼を駆除できるかということ。彼はノックも誰何も省き、その家屋の扉を蹴破って踏みこんだ。
五人の野盗が裸に剥かれ仰向けに寝かされた一人の女を取り囲んでいた。果てない肉欲の供物となった女はとうに心神を手ばなして、蝋人形のように身じろぎ一つせず天井を仰臥していた。
『お楽しみのところ、悪いわねぇ』
幻影の少女の嘲笑が終わる前には、すでにケイルは鞘鳴りを響かせて距離を詰め、最寄りの一人に向けてファイティングナイフを一閃していた。鋭利な膂力が肩口から腰部のかけて袈裟切りに掻っ捌く。男は塊のような血液を切り口からぼとぼととあふれさせて自らの臓腑の海に沈んだ。
棒立ちだった他の四人は、もう一人にぶつかるように衝突したケイルが三度、その腹部にナイフの切っ先を突きいれ、狭い家屋のなかで響き渡ったおぞましい断末魔を耳にし、ようやく事態を理解して床の武器に手を伸ばした。
だが遅すぎる。いや、機敏に反応していたとしてもどうにもならない。外骨格の人工筋肉と、その負荷に耐えうるバイオロイドの筋骨。二つが揃って初めて実現した第四世代のフルプレート・エグゾスケルトン。その反応速度と挙動性能は、人間の反射神経で追いきれるものではない。
男たちの手が得物に手が届くより速く、次の一人に肉薄したケイルのナイフは柄が埋まるまで頭部を串刺しにしていた。突きあげた力をそのまま遠心力に変え、剥いた白目を真っ赤に染め小刻みに痙攣する死体を力任せにふりまわすと、残り二人にぶつける。
並んで壁まで弾き飛ばされた彼らが死体をどかして顔を起こすと、眼前には白刃を振り被った異形の姿があった。曲げた肘を首の前に持ってくるような構えはその意図を明確に予感させ、二人が、待っ、と命乞いの声を重ねさせると同時、執行される。壁までえぐる横薙ぎの斬撃。その進路上にあった頚部は粘土細工のようにあっけなく切断された。
ごろりと二つの頭部が転がり、まだ指令器官の欠損に気づけぬ心臓から送られた血液が二つの断面からびゅるっと噴きだすより速く、瞬く間にできあがった屍山血河に女がはっした絶叫を置き去りに、百腕巨人は次の獲物を求めて家屋を飛びだしていた。
『通りを進んで。村の中央付近に複数の目標。サークルマーク』
局所を指す矢印ではなく、大まかな方位を指す円を視野の正面に定め、カボル村の広場に達したヘカトンケイル。
狭い集落のささやかな井戸前広場では、十五人もの悪漢が戦利品を貪っていた。
戦利品とは、歳若いの乙女たちだった。一人に何人も群がり、薄汚い手が、舌が、下半身が、絶え間なく蠢き女の柔肌を嬲っていた。それぞれの劣情を満たそうと躍起になった醜い形相には人間性の欠片もない、飢狼そのものだ。
垢まみれの身体に組み伏され、地べたに押し倒され、艶やかであった娘たちの肌には土埃と汗と粘液が黒くこびりつき、表情もわからない泥人形のようになっていた。暴虐の果てに事切れた女の姿もあった。遺体となったその身体さえも、淫虐の祭典から解放を許されず、悪漢たちは飽くこともなく打擲を繰り返していた。
「…………」
それは、終末の世界の兵器であっても一瞬、途方に暮れてしまうほどの惨劇であった。魔物でさえも忌避するような地獄絵図だった。人は人に、どこまで醜くなれるのか。果てのない欲望を写実したようなこの世のものとは思えぬ画が、そこにはあった。
『……下種が」
その、煮え滾る熔岩の気泡からもれでたような恐ろしい声は、ケイルとアーシャ、どちらのものであったのか。ゆらりと、幽鬼のように、ケイルは肉欲の発露に没頭する男たちに歩み寄った。
砂を踏む死神の跫音。一人がはたと振り向き、双眸に鬼火を揺らして静々と迫りくる甲虫がごとき異相をその目に認めた。小さな悲鳴をはっして指先を突きつける。
「な、なんだてめえ。どこから湧いてでやがった! おかしな恰好しやが――」
人の皮を被った悪鬼の言葉を最後まで待つ理由を、ヘカトンケイルは持ち合わせていなかった。歯の欠けた醜い口腔のなかに手刀を突っこみ、物理的に言を遮ると、そのまま手のひらを握り締める。
「あガ。やめ、あががががごごごごご」
ぐつんと顎が外れ、親指が下顎の皮膚を破り、四指が歯を砕き歯茎を割り、直接顎骨を掴んでも、その握力は緩まない。万力のように加減を知らぬ鋼鉄の指先は、骨といわず肉といわず、人体の顎という部位を破壊して、男の下顎があったはずの部分にはケイルの握り拳があった。
生きたまま下顎を握り潰された男は、もう二度と閉じることがかなわない喉から断末魔というにはあまりにか細い吐息をこぼして斃れ伏した。
ようやく淫虐の所業をやめた野盗たちは、佇立する異形に胡乱の眼差しを注いだ。異形が全身から放散させる戦意を認め、その裏で滾る瘴気にあてられた彼らは、しばし慄然の面差しで時が止まってしまったかのように硬直していた。
『カンカンね。何人殺したら残りが逃げだすか、賭けない?』
「却下だな。一人も逃がさない」
搾りかすのようになった肉片をべちゃりと放擲したケイルが血塗れの手でナイフを抜きはなった直後、腹の底から振り絞られたおぞましい怒号が広場を沸騰させた。やにわに得物を拾い上げた悪漢たちは、およそ人のものとは思えないどす黒い貌でぐるりと異形を取り囲む。
『ひひ。映画で観た処刑方法、憶えてる?』
「……ああ。いいだろう」
深淵で岩を転がすようなケイルの低い声色には、かつてない響きが認められた。以前洞窟にて狼男の群れを駆除した時と同様のそれは、あの時以上に濃度を増した、狂喜の声質に違いなかった。
そして、マスクのなかのバイオロイドの貌。漆黒の双眸はどこまでも昏く、薄い唇は際限なくひき歪んでいた。誰かが目にしたら悲鳴をはっすることもかなわない戦慄に囚われるであろう、凄惨な笑顔。
「皆殺しの時間だ」
もう止まらない。絶対悪の敵として造られた彼は、存在理由を満たすに足る恰好の標的を久しく得たのだ。恐るべき魔獣と異なり自身の能力で圧倒でき、歪な兵器としての衝動を思うままに発散できる殺しがいのある獲物を見いだしたのだ。
人が人にどこまでも残酷になれるなら、果たして兵器は人にいかほど冷酷なのか。
地獄となった集落で、文明の果てが生んだ闇の一端が顕現する。