14 西へ
アバドンが出現する悪夢の瞬間、H09はそれに直面したことがある。
地上に設置されたモーション・センサーがシェルターに接近しつつあるアバドンの少数の群れを捕捉。約五十名の一個小隊からなる歩兵部隊と、一体のヘカトンケイルH09で待ち伏せ作戦に従事していた時だった。
作戦自体は成功した。事前に設置しておいた指向性地雷の段階起爆によって群れの過半数を八つ裂きにし、間髪を容れずに叩きこまれた自動機銃と歩兵部隊の斉射、そしてH09の狙撃により、八体のアバドンを被害をださずに全滅させることができた。
戦果確認をおこない、控えめながらも作戦の成功に賑わい、近くに隠蔽しておいた移動用車輛へ戻るべく隊列を組み始める兵士たち。狙撃のために一体で廃墟の屋上に陣取っていたH09は、周囲を警戒していた。
部隊の現場指揮官である中尉がH09の合流を促そうと片手を挙げた直後。
まるでそれが何かしらの合図となったかのように、アバドンが現れた。
一団にあった兵士たちの至近。錆びくさい体臭さえ嗅ぎとれる十メートルの距離。埃っぽい空気しかなかったはずのその空間に、二十体ものアバドンが、なんの前触れもなく時空の裏側から具現化した。
まず硬直。瞬きの刹那に眼前に顕現した赤黒い巨躯。入念な待ち伏せ作戦で撃破した敵勢力よりも一回りも多い天敵が、目と鼻の先で犇いているのだ。常識を完膚なきまでに破壊する現実を突きつけられた人々に、世界が凍りついてしまったかのような静止に身を強張らせる以外、何ができようか。
次に疑問。なぜ。どうして。なにゆえ。作戦の成功に押し並べて頬を緩めていた兵士たちの表情が、どうしようもない理不尽に直面した時に人が見せる、疑問符にひき歪んだものに変貌する。
終に咆哮。血管の張りだした太い首をきょときょとと振って左右を見渡したアバドンの大群は、鼻先の新鮮な肉を見つけるや否や、醜い顎のうちにばっくりと底なしの洞をつくり、笑い声のようなおぞましい吼え声を轟かせた。
過程だけ見れば、そこで起きたのは戦闘ではなかった。五秒で灰の街路が赤く染まり、十秒で絶叫は途絶えた。兵士たちの貌が驚倒と絶望のそれに取って代わる前には、すでに肉片は小山を築き、鮮血は河となっていた。
強靭かつ俊敏、そして獰猛な野獣であるアバドンに対し、歩兵が持つことを許された数少ないアドバンテージ。知恵と準備と遠距離兵器。それが完全に消失してしまった突発的な白兵戦。強制的な肉弾戦。そこで起こったのはただの一方的な捕食、絶対的強者による蹂躙、殺戮だった。
結果を勝利と敗北のどちらかに決するなら、軍配は人間側に挙がった。ひとえに、高所にあって地上の混戦をまぬがれたH09の狙撃によるものだ。彼は沈着かつ迅速に援護射撃をしてアバドンを撃ち斃し続けた。だが、最後の一体を射殺するころ、生き残った兵士はたったの三名だけだった。
一人は放心して抜け殻のように立ち尽くし、一人は先から切断された左足首を押さえてのたうちまわり、一人は壊れたおもちゃの人形のような声でけたけたと嗤っていた。
瓦礫の大伽藍のいただきで、赤い眼鏡に地獄を映し、H09は立ち尽くしていた。
『二十年前に現れ始めた魔物、同じく二十年前に確認されたアバドン災厄。私たちの世界ではいかに研究しようとも解明できなかったアバドンの出現現象だけれど、少なくともこの世界には魔物を出現させていると糾弾される人物が存在している。……レイア王女。この王国の第二王女である彼女は、反逆者として追われている』
宿の外壁から張りだした露台にて、ケイルは夜に沈む町並みを眺めていた。
無数に建ち並ぶ住居の蔀窓の隙間からこぼれる淡い灯りが、地上に控えめな星空の瞬きをつくっていた。素顔である彼の漆黒の双眸は、眼下の幻想的な光景を映しながらも、脳裡に焼きついた地獄の回想に深く昏い静謐を湛えていた。
手摺りについた両手に頭を預けていたアーシャは、横目で相棒を瞥見し、夜空を仰いだ。地上よりも暗く、地上よりも鮮やかな、本物の満天の星空。どちらも彼らのいた世界ではとうに失われたものだった。あの厚い闇のはるか彼方には、彼らがもといた世界もあるのだろうか。
少女は儚げに目を細め、状況を整理するための言を続ける。
『……客観的に観察できたわけじゃないからわからないけど、私たちがこの世界に出現した場面、おそらくアバドンのそれと酷似してる。瞬く間に、パッと現れた』
「そして賊もミリア王女の居室に同様に出現し、反逆者の話に興味を示した……」
『そう。あなたの強化外骨格に相似した外見を持ちながら、頭部には金魚鉢のようなユニットを有した人物』
「金魚鉢に心当たりは?」
アーシャは薄い唇に隠微な苦笑を宿して、力なく首を左右に振った。
『金魚鉢っていうのは、全面がガラスのような透過素材のヘルメットってことでしょう。だとしたら、ありすぎるわよ。こっちの世界じゃあどうだか知らないけど、私たちの世界ではありふれていた』
潜水服、科学防護服、戦闘用のフルスクリーンバイザー。全体が透過素材の頭部ユニットという面妖な外観は、確かに特徴的ではあるけれど、枚挙にいとまがないのだった。金魚鉢という証言だけで何かを特定することは不可能である。
しかし、手がかりはそれだけではない。ヘカトンケイルのそれに酷似した外骨格。近衛兵を皆殺しにする殺傷能力と容赦のなさ。現場に残された弾痕と思しい戦闘痕。そして、ケイルが感じた奇妙な感覚、“共振”。
さらされた蒼白いうなじを冷たい鋼鉄の指先で撫でながら、ケイルはいった。
「……そのフルスクリーンバイザーを標準装備した機械化兵装は、俺たちの世界に存在したと思うか?」
存在したかではなく、存在していたと思うかと、ケイルは確たる情報ではなく、意見を求めた。課せられた厳しい情報規制によって、彼らはほかの機械化兵装について、具体的なことは何も知らないのである。存在しているということしか知らないのだ。
アーシャは夜空からケイルへと視線を転じ、まじまじと物憂げな相棒を見つめた。口にださずとも、彼女は相棒が他のヘカトンケイルについて並々ならぬ思いを寄せていることを知っていた。
『あなた、執拗に賊にこだわっているみたいだけど、そういうことだったのね……。バイザー装備の機械化兵装については、なんともいえないわね。存在しても不思議ではない。でもまさか――』
言をふっつりと断った稀薄な少女は、ケイルの背後を見て、鼻を鳴らした。
そこにはゼロットの姿があった。ケイルの外套を抓み、くいくいと引っ張る。無言であり無表情であるが、わずかに首を傾げた不思議そうな仕草は、誰と話しているの? という意思表示を伝えていた。
なんでもない、とかぶりを振って、ケイルは室内に戻った。
洋燈の橙色の灯りが射影を色濃く揺らすなか、サイは寝台に腰かけて天井を仰いでいた。うんざりとした胸のうちを表情と態度にありありと示し、隠そうともしない。部屋の一隅で膝を抱えて背を丸めるライアスは、そんな彼女を恨めしげに睨んでいた。
「……酷い。酷すぎる。……あんまりだ。あんなに性質の悪い冗談、ぼくは知らない」
「あーもー、めんどくせえなあ。だから悪かったって謝っただろ?」
「だからっ、謝る謝らないの問題じゃないんですっ。サイミュス先生があのような神経を疑う冗談をおこなうこと、それ自体が問題なんですっ」
メイフェの屋敷で予期せぬ再会を果たしてからというもの、かつての教育係とその教え子は、この調子なのだった。
「べつにいいだろ。あんなとこにひょっこりとあんたが現れるもんだから、ちょっと驚かせようとしただけさね」
「ちょっと驚かせようとした……? ちょっと驚かせいようとしただけですって……?」
ライアスは膝に埋めていた顔を跳ね上げ、赤くなった目でサイを見据える。
「ぼ、ぼくがッ、ぼくが一体どれほどの想いでサイミュス先生の屋敷を訪ねていたと思うのですか? 先生がいなくなってからも、月に三回はああして足繁く屋敷を訪ねていたというのに……。その二十年間、ぼくがどれほどの想いで……」
「は?」サイが表情を引き攣らせる。「月に三回って、月に三回もあの焼け跡に通ってたのかい?」
「え? あ。いえ……その」正気を疑うような視線を受け、ライアスは失言を気取った。目を泳がせ、言葉を濁らせる。「つ、月に三回というのは大袈裟でした。えと、月に二回、いや、一回ぐらいだったかなぁ」
「うわ。ちょっ、ひくわー……。あの日記の件といい。家の焼け跡に月に三回も通うとか、しかも二十年も。……普通にひくわー。どんびくわー」
「ち、違います。月に一回といったでしょう。あ、いえ、二月に一回ぐらいだったかなぁ」
通っていたことは否定しようとしないライアス。数を減らしたところで偏執的な疑惑を濃厚にするだけだった。見ようによって健気なおこないも、時代が時代ならストーカー行為として訴えられても文句はいえない。
「ところであんた、なんでついて来ているんだ?」
ケイルは必死になって弁明を続けるライアスに訊ねた。高台の屋敷で偶然でくわした捜索隊の士官は、サイに向かってぶちぶちと拗ねながらも、この宿にいたるまで三人に同行してきたのだ。
ライアスはケイルを瞥見するもすぐに床に視線を落とした。尖らせた唇からぼそりとこぼす。
「……あんたのせいだよ」
首を傾げるケイル。サイはぽんと手を打って意地悪さ満面に顎を引いた。
「ああ、はいはい。なるほどね。ケイルを間違えて連行しちまって、捜索隊の隊長さんだったあんたは停職処分かなんかを喰ったわけだ。んで、親父さんとお袋さんに大目玉を頂戴して、家に帰る気にもなれず、ちゃっかりこのままここに泊めてもらおうとか、そんな小賢しいことを考えてるわけだね」
「なっ!?」
ライアスは目を白黒させる。サイの予想は、停職処分の裏にある軍部の心算に目を瞑れば、ほぼ的中していた。教育係としてライアスの家柄にも人柄にも通じているサイからすれば、想像に難くないのだ。
もっとも、王都に向かう野営のおりにライアスの天幕に泊めてもらった恩がある身でありながら、そんな言い草をするのも随分と神経の図太い話ではあるが。
硬直から解けたライアスは、ぶんぶんと首を振る。
「そ、そんなことはありません! 停職処分は、まあ、その通りですが……。泊めてもらおうだなんて、そんな厚かましいことは考えていませんっ」
「へえ、違うのかい?」
「違います! ただ、明日の朝までここに座っていようと思っているだけです」
泊まる気だった。
「夜も深くなれば横になってそのまま寝いってしまうかもしれませんが、断じて泊まる気なんてありませんからねっ!」
泊まる気満々だった。
サイは苦笑いしながら宿代の出資者であるケイルを窺う。
「……好きにしろ」ケイルは肩を竦めて小さく呟いた。
このあと、夕食にでかけようという話になったが、ケイルは断った。ゼロットがなかなかケイルから離れようとしなかったが、サイのコブラツイストに音をあげるかたちで、ようやくケイルは解放された。
一人残されたケイルは、外套のなかの背に手をまわし、腰のバックパックに括りつけてあった麻袋を引っ張りだす。サイが食料を詰めて家から持ってきたもので、装備の収納にちょうどいいからと貰い受けていたのだ。バックパックに収まらない装備とは、外した状態での携行が想定されていないもの。外骨格の頭部ユニットである。
黒に限りなく近い灰色の耳まで覆うかたちのフリッツ型レベルⅥ装甲戦闘用ヘルメットと、ほぼ同じ配色の環境適応式外気遮断型マスク。
ケイルは手許のそれらを、しばし見つめた。マスクの眼鏡、強靭な異種素材積層型のガラス体。反射光を防ぐために淡い赤色に翳ってはいるが、それでも透過素材であるために多少の反射はどうしても隠し切れず、二つの丸窓のなかでは洋燈の光がほのかに揺れていた。
「……金魚鉢か」
小さく呟いて、マスクを装着し、ヘルメットを被った。
彼の視界の右隅には頭部ユニットに内蔵された各種センサーとインタフェイス・アーマとの同期を示す文字列が凄まじい勢いで流れ始めた。眼球の網膜に移植されたサイバネティック・モジュールは、ハードを介さない現実拡張の視野を使用者にもたらす。裸眼でありながら相棒の少女の姿が見えるのも、このためである。
薄暗いレッドから鮮やかなグリーンへと目まぐるしく点っていくステイタスが、外骨格の補完を報せている。対アバドン用機械化兵装、ヘカトンケイルとして成り立っていくことをバイオロイドにいい聞かせている。
五秒と要さずにリンクは完了し、ケイルは外套を脱ぎ捨てた。久しく露わになった百腕巨人の威容。この世界の住人の常識を裏切る非日常の権化のごとき立ち姿。外套と一緒に金貨の詰まった小袋を寝台にほうる無造作な仕草には、躊躇も未練もなかった。
その傍らで肘を抱いて立つアーシャ。寂しげな眼差しで相棒の身支度を見つめていた彼女は、ふと部屋の出入り口である扉に振り返った。目許に諦観のにじむ微笑をやどし、そっと告げる。
『……外から熱源反応が三つ。近づいてきてるわよ』
聞き慣れない相棒の声色にケイルは戸惑いを覚えて視線を投げかけるが、アーシャはあえて言葉を続けようとはしなかった。
ケイルが扉を押し開けると、そこにはゼロットが立っていた。
肩で息をして、荒い呼吸を吐くたびに薄い唇が震えている。そっと手を伸ばし、ケイルの腕、強化外骨格の冷たく硬い指先をきゅっと握ると、唇をきつく結び、精一杯強く首を横に振った。空いた左手では、ケイルが買い与えてからというもの片時も手ばなそうとしないぬいぐるみを大事そうに胸に抱えていた。
後ろの廊下から、サイとライアスが慌てて駆けつけた。
「いやさ、食堂を探してたら、いきなりその子が走りだすもんで……」
膝に諸手をつきながら息も絶え絶えに事情を告げるサイだが、そこでケイルの物々しい姿を見咎めた。すぐに意図を察して、呼吸を整えるいとまも惜しんで詰め寄る。
「あんた、その格好。どこに行く気さね」
「……ここで別れよう」
「なにそれ。あたしはどこに行くんだって訊いたんだっつーの」
苛立たしげに喚きながら胸がぶつかる距離にまで肉薄したサイは、ケイルの顎に指先を突きつけた。重苦しい静けさが室内に停滞する。ライアスは戸惑いを隠せずに二者の間で目線を移ろわせていた。
ケイルは嘆息し、やがて口を開く。
「西に向かう。古都ニューカだったか」
「ニューカだって!?」その悲鳴じみた一驚はライアスからはっされた。「い、今、ニューカといったのか……?」
「そうだ。古都ニューカを目指す」
事もなげに繰り返すケイル。耳の疑いを晴らした王国兵の青年は、今度は目の前の異形の正気を疑って目を剥いた。
「そんな、無茶だ……。知らないのか? 西方は魔物が跋扈する呪われた土地なんだ。この王国だけじゃなく、大陸中の国々の軍隊で編成されたかつてない規模の戦団でも、古都に到達することさえかなわなかったんだぞ。あそこには反逆者が――」
しかしそこで声を詰まらせ、沈痛の面持ちでサイに視線を配った。
反逆者と謗られる一党に実姉をもつ魔術士の女は、ライアスの眼差しをあえて無視した。がりがりと後ろ髪を掻きながら渋面で瞑目し、声にだして嘆息する。
「あんた、ほんとに油断も隙もあったもんじゃないね。屋敷でした話を忘れたのかい。そんなの、あたしもついて行くに決まってるだろ」
そこでゼロットが激しく頷くのを見て、「訂正、あたしたちもね」とつけ足した。
腰に片手をあて片足に体重を預けて立っていたアーシャ。相棒と目を合わせると、口角の端を持ち上げ、肩を竦めた。ケイルは小さくかぶりを振り、深く鼻息を吐いた。
無論、彼らを置き去りにすることは機械化兵装にとっては造作もない。しかし、ケイルとその相棒は、そこまで強行する気にはなれなかった。
それはなぜか。どういった感情に起因するものなのか。現段階では彼ら自身にも定かでない。
王都デリトを囲う外壁の西の通行大門。黎明の輝かしい陽が人々の往来を白く染めていた。
古今東西の品を満載した大陸中の行商人の荷馬車が錯綜し、彼らを迎えいれる門前広場では朝市が開かれ、稼ぎにでる男たちとそれを見送る女たちの威勢のいい挨拶が長旅の陰鬱を吹き飛ばし、無償で振る舞われる穀物酒の甘い香りが疲れをほっこりと癒す。
――本来、デリトの朝とはそういうものだった。しかし今、行商人の姿は絶え、それに伴い市の活況もついえた。ことにここは西の門。魔物が蔓延るライガナ西方への玄関口なのである。
往来するのは互いに見知った都民ばかり、郊外にある王都直営の農場や工場で生産された食料物資を運ぶ荷馬車が縦列になってのろのろと都のなかへと吸いこまれ、その左右では逆に農場や工場へ働きにでかける群衆が、輪をかけて重い足取りで排出されていく。
魔物の出現以降、厳密な時刻制限を設けて門扉を開放するようになってからというもの、お馴染みになった光景だった。漂うのは息が詰まるような閉塞感のみ。どんよりと停滞し、早朝の爽やかな空気を拒んでいる。でるものも、這入るものも、押し並べてその表情は硬く、昏い。
城壁の衛兵詰め所門前にて、ライアスもまたうかない面持ちでのそりのそりと進む人々の足許を見つめていた。
昨晩、宿の親仁から王国の地図を借り受け、夜更けまで旅の計画を練ったケイルとサイとゼロット。ゼロットは途中で眠りこけてしまったが、部屋の一隅で蹲っていたライアスは寝たふりをしてずっと会話に聞き耳を立てていた。
明日の早朝に準備を整え、最初の西門の開門時刻に王都を離れる。過酷が予想される長い旅路への準備を一時で済ませるなど、やや性急だったが、なるべく早く発ちたいというケイルと、長い滞在がもたらすであろう家柄に関する不要な厄介事を避けたいというサイの意見は一致していた。そう決断した彼らは起床して、さっそく物資調達の行動を開始した。
ライアスは挨拶もそこそこに別れたあと、ついつい西門にまで足を運んでいた。
「……何がしたいんだろうな、ぼくは」
単純に家に帰る気にならないからか。見送りに来たのか。それとも自殺行為だと引き止めに来たのか。彼は自分でもいまいちわからない。ただ、再び恩師と生き別れになるかもしれないという予感が、気づけば青年をここにいたらせていた。
「よお、ライアス。こんなところで何してるんだ。さっきからずっと俯いて」
そんなライアスに声をかける兵士が一人。
革製の軽鎧に、同じく革製のハンチング帽を斜に被った弓兵。雑兵らしからぬ洒落た装いである。浅黒く陽焼けした精悍な容姿と帽子に施された鷹の羽飾りがその印象を強めている。名はカイン。士官教育所にてライアスと同期だった男だ。
振るわないライアスの挨拶を受け、カインはにやりと嫌らしい笑みをうかべる。
「ああ、そうか。家を追いだされて落ちこんでるんだな。聞いたぞ。賊を間違えて連行して――」
「待て。いうな、何もいうな」
何も聞きたくないと、ライアスは手を挙げて旧友の言を遮る。カインは嘲笑顔をあらためなかったが、傷心の友をあえて追いつめようとはしなかった。
「お前こそ、こんなところで何してるんだよ。誉れ高き鷹の眼団の期待の新任分隊長様が、外壁の警戒か?」
意趣返しの嫌味たっぷりにライアスは唇を尖らせた。
鷹の眼団。弓術と索敵能力に秀でた兵士のみが入団を許される弓兵小隊である。対人ではなく対魔物戦闘に特化した新進気鋭の偵察部隊だ。ハンチング帽の鷹の羽飾りがそれの証明であり、弓を使うものの羨望の的である。
ライアスと同期でありながら精鋭部隊の分隊長に抜擢されたその若き弓兵は、旧友の問いに顔を顰めた。ライアスの嫌味に渋面をつくったわけではないことは、のちに続いたひそめた声から知れた。
「それがな。例の女傑、近衛兵団の兵団長様から直々に命令があってな」
カインは城壁の上部回廊へ顎をしゃくる。そこには彼の部下である同様の服装をした弓兵たちの姿があった。彼らは王都の外ではなく、内側へ向けて走査の視線を配っていた。
「なんでも、奇妙な格好をした男と、巨乳の女と、無愛想な子供が、ここ西門に近づいたら報告して欲しいそうなんだよ。意味がわからんだろ?」
「きょ、きょ、巨乳……!?」
明らかにケイルたちのことである。ライアスとしては自分の胸のうちに秘めておきたかったサイの胸囲に触れられ、戸惑いを隠せない。
「そう、巨乳だよ。きょにゅー。例の女傑さ、そこの部分を嫌に強調してたな。ありゃ嫉みだね。いやだねー、ツルペタ女は僻みっぽくて」
「つ、つ、ツルペタ……!?」
さらにさりげなくリルドの胸のサイズまで公言してはばからないカインの手腕に驚きを禁じえない。さすが鷹の眼団。見るところが違う。若くして永続的な分隊長に抜擢されるのも然もありなん。
「昨日の朝から、ずっとここで巨乳探しだぜ? 偵察能力の無駄遣いだっつーの。その上、それっぽい巨乳を見つけて報告するたびに、あの女、露骨に機嫌が悪くなるんだぜ。自分で命令したくせに……もう嫌になるよ」
昨日の朝とは、ライアスがケイルの潔白を知らされたのと同時刻である。ミリアとケイルの真夜中の茶会の直後、リルドはほぼ間を置かずに彼らにそのような指令をくだしたのだ。それはすなわち、ミリアが画策した異形の戦士への対応策の一環であるのだが、ライアスは知る由もない。
「巨乳つってもさ、色々あるだろ? ほどよいのか、爆乳なのか、魔乳なのか。そのへんをはっきりしてもらわないことには探しようがないよな。つーか俺、そんなに乳好きじゃないし。こんなに意欲が湧かない任務は初めてだ」
「な、なんだと! 巨乳の文句はぼくが聞くぞ! お前が探しているのは、かたち、大きさ、位置、すべてにおいてほどよい美巨乳だ! 馬鹿にするな!」
「どうした!? なんの発作だ?」
ライアスの突然の激昂に泡を食うカインだったが、ふと首を伸ばし、喚く青年の背後、大通りのまばらな人波を遠目で見た。また後でな、と巨乳の正義を主張してやまないライアスの肩を叩き、慌てて詰め所に駆けこんだ。
怪訝に思ったライアスが後ろを窺うと、そこには西門に近づく例の三人組の姿が遠望された。
「きょにゅ……、サイミュス先生」
「おや? あたなは。きょにゅ、とはなんですか?」
呆然と呟くライアスに背後から声をかける人物。カインの報告を受け、彼と取って代わって詰め所から現れたのは、リルド・オルガン・スパイル。命令を下した近衛兵団兵団長その人であった。
「スパイル兵団長……!」
「停職の処罰を受けたそうですね。軍部の独善的な低頭姿勢ときたら、まったくかないませんね」
目上への敬礼も忘れ驚倒するライアスをよそに、あくまでも冷たい無表情でいいたいことをいうリルド。しかしライアスへの不当な処罰を快く思っていないのは嘘偽りない本心なのだった。歯に衣着せぬ軍部への嫌味から、それは明らかだ。
「尻尾切りの犠牲になってしまうとは、心中お察ししますよ」
「いえ……。そんなことより、なぜここに?」
「その質問、先にあなたに答えてもらいましょうか」
「ぼくは彼らの見送りに……」
「ほう。連行の道程で、彼らとそこまで親しくなったのですか」
「いえ、そうではなくて、サイミュス先生……あの、ポルミ村からケイルに同行している一人の女性と、昔からの馴染みでして……」
つかえつかえに述べるライアス。小心の青年にとって、兵団長の氷のような容貌は直視に耐えない迫力があるのだった。詰所の蔀をそっと開けて推移を見守るカインもそわそわと落ちつきない。リルドはそっと小首を傾げ、小さくうなる。
「サイと呼ばれている彼女ですか。……サイミュス。……まさかメイフェ家の次女か」
徐々に彼らに近づく三人、先頭のサイを窺う涼しげな目許に、剣呑な光をひらめかせるリルドだったが、それは一瞬。おもむろに懐から取りだした煙管を銜え、何食わぬ顔で紫煙を燻らせ始めた。
『うっわ。でたでた。ストーカーとキルビル女』
二人の存在に逸早く反応したのはアーシャだった。
『きっと仲間になるわよ』
不吉な予言に、ケイルは外套の頭巾布で隠したマスクからうめきをもらした。事実、彼女の仲間発言は今のところ100パーセントの脅威の的中率を誇っているのだった。
聞こえたわけもなかったが、ゼロットもケイルの左隣で顎に干しぶどうのような皺をつくり、荷を背負った馬の手綱を牽くサイも渋面はなはだしい。
彼らを慌ただしい旅支度にいたらせた危惧すべき面倒事には、王政からの干渉も含まれていた。その予感をありありと漂わせる王城近衛兵の長が待ち構えているのだから、不機嫌になるのも当然だった。
ともあれ無視するわけにもいかず、三人が足を止めると、リルドは落とした煙管の草薬を足で揉み消しながら、おや? とわざとらしく口を利く。
「これはお三かた。奇遇ですね。どこに向かうのですか?」
「……西だ」代表してケイルがぼそりと告げる。
「それは奇遇ですね。私もここから西の古都ニューカにほど近い田舎の町で、妹が床に臥せっているという報せを受け、見舞いにいこうとしていたところなのです。道中、よければご一緒させてもらってもいいですか?」
大根役者の台本音読がごとき酷く平坦な声でリルドはいいはなった。
「…………」
「聞こえませんでしたか? 私もここから西の古都ニューカにほど近い田舎の町で、妹が床に臥せっているという報せを受け、見舞いに行こうとしていたところなのです。道中、よければご一緒させてもらってもいいですか?」
「…………」
「もう一度いいましょうか? 私もここから西の」
「もういい。……好きにしろ」
「ありがとうございます。助かります」
表情をまったく変えずに心ない礼を述べたリルドは、するするとケイルの後ろに加わった。
『魔術剣士が仲間になった』
「……そうだな、よかったな」
もうどうでもいいと歩みを再開するケイル。どうあろうとも勝手について行くと宣言する他の帯同者同様、頑として断っても尾行されるのは明らかなのだ。そもそも強く拒むほどの理由も気概も、彼にはなかった。
サイは不審に眉根を寄せてリルドの横顔をじろじろと睨んでいたが、まったく取り合おうとしない飄々とした兵団長に観念の嘆息を一つ。ライアスに正対し、いつものように粗野に笑う。
「見送りかい? 悪いね、わざわざ」
「……サイミュス先生」
「じゃあね、ライアスぼっちゃん。あたしの唯一の教え子として頑張っておくれよ。親父さんとお袋さんと仲良くね。なんだかんだいっても優しい人たちだから、きっと今ごろはあんたのこと心配してるさ」
「……違うんです。ぼくは、ぼくなんかのことより、先生のことが気懸りで……」
ライアスはたまらず目頭を潤ませるが、それを隠すために語尾を俯きに沈ませる。
ぽんぽん、と優しく頭を叩いて、サイはケイルに続いた。
門扉の四囲は閉塞感だけではなく、圧迫感も充溢していた。外壁のいただきには弓を携えた歩哨が、そして地上には整列した兵士たちが、人々の行き来を包囲するかたちで立ち並び、目を光らせている。
常時厳戒態勢を強いられる彼らの職務には、魔物に対する警戒だけではなく、外壁の周囲でたむろする難民たちの侵入の防止も含まれていた。ふらりと列に近づくものがあれば矛先を突きつけ、子供だけでもと泣きつかれてもその一切を聞きいれない。
努めて無表情で無感情に振舞う彼らだったが、そのやるせなさは隠し切れない。大規模な魔物の侵攻があった場合の時間を稼ぐための贄。そんな残酷な噂が彼らの心に重く圧しかかっているのだった。
『なによ。ふつーに開いてるじゃん。もののけばりに片手で押し開けてでていくシーンを期待してたのに』
「時刻によって開門するという話を聞いてなかったのか……?」
『だから、聞いてたもくそも私が翻訳してあげてるんだっつーの。ギャグじゃん。まったくあなた、細かいところは変に突っこんでくるわね。なに、ギャグいっちゃだめなの? 私の存在理由の半分が消失しちゃうわよ』
「……半分もか」
閉塞感にも圧迫感にも頓着せず、人知れず暢気な会話を交わすヘカトンケイル。こういってよければ、地下生活を日常としていた彼らにとって、むしろ人々の悲愴感が漂うどんよりとした空気のほうが常態に近いのだった。
しかし、そんなケイルのちょっとした油断が、騒動の切っかけとなった。行列に混じって門扉を潜ろうとしたちょうどその時、一陣の風が狭い通路を吹き抜け、目深に被っていたケイルの頭巾布をめくったのだ。
そうでなくとも長身痩躯の不気味な男として注目を集めていていたなかで、ぱさりと、甲虫がごとき面相が晒されてしまう。ケイルは焦って被り直すが、もう遅い。一昨日の夜更けから王都中を巡る異形の魔道士の英雄譚と眼前の異相とを結びつけた人々は口々に囁き始める。
魔物の大群をたった一人で退けた無敵の戦士……。
難民を護り、大惨事を未然に防いだ守護者……。
魔物を駆逐すべく神が遣わした魔道士様……。
その異形の戦士が今、彼らの目の前で西の門から王都を歩みでようとしているのである。そして西は反逆者が統べる邪悪な方角として忌み嫌われていた。
噂に名高い異形の戦士が魔の領域へ旅立とうとしている。人々の想像はたくましく、そこまで状況証拠が揃ってしまえば、もはや膨らみはとめどない。囁きは今にも弾けそうなざわめきとなり、誰もが足を止め、道を空け、異形の戦士を先頭に歩み続けるその一団を熱っぽい眼差しで追っていた。
『ねえ、お願いがあるんだけどさ。ちょっとこぶしを振り上げてみてよ』
「断じて断る」
猫なで声で擦り寄る相棒をきっぱりと言い伏せるケイル。だが、アーシャのそれに酷似した笑顔をつくったサイがすかさずその腕をはっしとつかまえた。勿論、聞こえたわけもないが、考えることは同じなのだ。強引に天高く振り上げる。
「おい。よせ」
ケイルは素早く腕を振り解くも、やはり遅い。
おおっ、と驚嘆の合唱がどよめいて、歓声が沸き起こった。
この二十年、昏い話題しかなかったなかで、突如現れた一抹の希望。一体の異邦の兵器の存在が、望外の救済を人々の胸に予感させた。割れんばかりのかつてない黄色い喝采が城壁を揺さぶる。西の門扉は、実に二十年振りに、輝きのある表情で鮮やかに彩られていた。
ライアスは、その光景に目を瞠り、心をうちから敲く昂ぶりに気がついた。遠のく四人の後姿を見て、なぜ自分がここに来たのか、自分が本当はどうしたいのか、ようやく気がついた。
「サイミュス先生えぇえぇ!」
知らず、手を振りまわし、涙を流しながら駆けだしていた。
「いきますっ! ぼくもいくッ、いくんだよおぉォ!」
『な、ナランチャっ!?』
「…………」
かくして、アーシャの予言は当たったのだった。