13 生家
暑く太く長い溜息に気管を灼きながら、ライアスは自宅である屋敷から抜けだした。
這う這うの体である。陽が頂点を過ぎて間もない大通り、佳境となった賑わいと反比例するかのように肩を落としてよたよたと歩く青年の姿は、今際の際のロバのようで、路地裏で葡萄酒のボトルを舐めていた浮浪者でさえも、思わず憐れみの視線を投げかけるほどの有様だった。
ひどく切なげに、ライアスはうめく。
「……怒られちゃったよ」
ライガナ王国軍下級士官の肩書きを持つ彼は現在、無期限の暇をだされていた。有り体に言えば停職処分である。
昨晩、賊容疑者だったケイルを王都へと連行し、大隊長らを前に経緯を報告したライアスは、そのまま兵舎にて夜を明かした。そして今朝、直属の上官にあたる中隊長から蔑みの眼差しで瞥見され、衝撃的な言葉を告げられた。
「貴様が連行した賊な。人違いだったらしいから。貴様、しばらく来なくていいから」
普段は如何にも軍人といった厳格な言葉遣いの中隊長から、嫌にフランクな口調で、それでいて酷く平坦な声色と空気を見るような無表情でそう告げられ、ライアスは卒倒しそうになった。
鬱々とした気持ちで帰宅した彼を待ち受けていたのはさらなる災禍。アクエの字を持つ誉れ高き武家のハイントン家にて、自身も第三大隊を率いる軍人でもあるライアスの父親には当然のように事の顛末が伝わっており、史上最大といっても過言ではない叱責を頂戴する破目になったのだ。
「貴様のような蛆虫は生まれてこのかた見たこともないわッ! つーかその蛆虫と二十七年も同じ屋根の下で暮らし、しかもわしの血を引いているとは……これはなんの冗談だ!? 悪夢か!? そうだ、悪夢だ! おい、蛆虫! この悪夢をどうしてくれる! きっとどうしてもくれないんだろうなこの蛆虫は! 厠の糞に集るのが関の山だろう蛆虫! そうだろう!? そうだといえこの蛆虫! 黙れ! 蛆虫が喋るな! 集るにしても我が家の厠にだけは集ってくれるなよ。わしはこれから、蛆虫を見るたびに貴様の顔を思いだして踏み潰すことにすると決めた! 今決めた! だが貴様のような蛆虫中の蛆虫、キング・オブ・ウジムシにはわしの靴の裏の汚れにすることさえもったいない! 公衆の厠のなかで誰かの糞に挟まれながら息絶えるのがお似合いだ! どうだ!? なんとかいえこの蛆虫! 五月蝿い! 蛆虫が口を利くなといっただろう!」
酷すぎる。叱責というよりもただの罵倒だった。きっと自分の隊の新兵にも、ここまでの罵詈雑言を吐いたことはあるまい。
父は思いつくかぎりの罵りをライアスに浴びせたかと思うと、やはりお前に軍人は無理だったか、などと遠くを見るような悲しげな面持ちで呟き、終いには、もうどうでもいいから好きにしてください、となぜか丁寧語で呟いて頭を抱える彫像と化した。
母親は熱をだして寝こんでいると聞いたライアスが寝室を訪ねると『蛆虫、近寄るべからず』という張り紙があった。この家は蛆虫になんの因縁があるのか。
そのうえで家に居座り続けるほどの図太さをライアスが持ち合わせているわけもなく、彼は石畳を見つめながらあてどなく歩き続けている。
「……なんでぼくだけがこんな目に」
そもそもライアスはケイルのことを賊だなんて、一言もいっていない。最初にケイルを発見した時は、ライアスも賊に違いないと決めつけていたが、かかわりを築くにつれ、その考えは懐疑的なものになっていた。
従順で柔和な人物とはとてもいえないが、それでも上層部が語り伝えるような大罪人には見えなくなっていたのだ。だから報告の際にも“賊に似た人物”という曖昧な呼称をあえて用いた。
いや、事は国の大事である。たとえ賊当人でないにしても、素性の知れない異形を連行するという行為は、褒められこそすれ、失態だと罵られる理由はないはずなのである。
実のところ、ライアスへの処罰は、ひとえに軍部の建前によるものだった。断罪の間での失態――王城仕えの魔術士をもってもたった一人の処刑もかなわなかった――は、無論、おいそれと口外していいようなものではなく、当事者たちだけで内々に処理されたが、国王がいたくご立腹であるという触れこみだけが広く伝わっていた。逆鱗の飛び火を恐れた軍部の落としどころが、捜索隊責任者への停職処分だったのだ。
「……ケイルとかいうあいつ。……全部あいつのせいだ。……なんなんだよ、あの変な鎧」
行き場のない不満は責任転嫁に捌け口を見つけるも、それを長々と続け自身を励ますことができるほど、ライアスは器用な人間ではなかった。ケイルに非はないのだ。彼からしたら人違いの傍迷惑もいいところであり、彼を責めても惨めな気持ちになるだけだった。
しかし、賊でないとするならば、彼は一体何者なのか。弁明するでもなく、なぜ王都に連れていけなどと要求したのか。そして本物の賊は、全体どのような者なのか。
多様な考えが巻き起こるが、一介の下級士官が如何に考えたところで理解が及ぶことではなく、職を解かれているライアスにはもはや関係のないことだった。父のいっていた、もうどうでもいいから好きにしてください、という投げやりな力ない言葉が妙にしっくりとくる、そんな心境だった。
「…………」
心は昏く淀み、いよいよ独り言を吐く気力も費えた。
あてなく彷徨っているつもりの彼だったが、ふと、自分の足がある場所に向かっていることに気づく。なだらかな坂をのぼり、あざなを持つ貴族の屋敷が軒を連ねる高台にでると、途端、風が運ぶ煤の臭いが鼻腔をかすめた。
風上には、焼け落ちた廃墟があった。豪奢な門構えが並ぶなか、その一戸だけ世界から見はなされたような無惨な佇まいだった。
「……サイミュス先生」
意味がないと知りつつも、彼は時折、かつてのように、ここに足を運んでいた。
二十年ほど前、暴虐なる怪物、魔物の存在が真しやかに囁かれ始めたころ。幼少のみぎりにも、ライアスはあの時の一連の出来事をはっきりと憶えている。
皮紙に、筆記用具に、サイの好物であるお菓子を少し。ライアス少年が自宅にて、いつものようにメイフェの屋敷へと向かう準備を整えている時だった。深刻な表情をした父と母が彼を引きとめ、こう告げたのだ。今日からは家庭教師を雇うので、あの屋敷にはもう行かなくていい。泣きながら理由を問うても両親は硬く口が閉ざすばかり。ライアスは家を飛びだしてメイフェの屋敷に駆けた。
誰もいなかった。サイも、優しかったその姉も、両親も、誰もいない。蛻の殻だった。慌しく、逃げるように準備をしたのであろう散乱した家財道具だけが嫌に目につき、もう二度と会えないという確信に近い予感に、ライアス少年は塞ぎこみ、毎夜のように枕をぬらした。
それからほどなくして、魔物の存在が噂ではなく確たる被害情報として広まり、王国中が恐慌とした空気に包まれた。そしてほとんど日を置かずに、メイフェの屋敷が焼け落ちた。
反逆者の一家への当然の報いだ――大人たちのそんな心ない誹謗が、幼少のライアスにも事態を理解させた。魔物の出現への関与が色濃く疑われる第二王女の一党。王都を脱したことにより、いよいよ反逆者と蔑まれるようになったその一味の筆頭には、ライアスの慕っていたサイの姉の名があったのだ。
「あたしの姉ちゃん、名前はスーラっていうんだけどさ。ガキの時分からそりゃまあ優秀な魔術士で、ミレンのあざなの看板を背負っていたようなもんだったわけさね」
すきま風になびくはね毛を掻きあげながら、サイは述懐を続ける。
「ミリア王女の妹君にあたるレイア王女の教育係として城に仕えてたんだ。それがどれだけ栄えあることなのか。ま、あんたらにはわからないだろうけど」
暗澹を嫌って粗野に笑うも、無表情に聞きいるケイルとゼロットを前に、虚勢の虚しさを自覚した彼女は、目線を落とし、力なく息を吐いた。
「でも……魔物の出現が確認され始めたころ、どういう経緯があったのか、下々の者にはさっぱりわかんないけど、レイア第二王女が魔物を出現させている邪悪な魔道士だと、そんな噂が流れ始めた」
ケイルはわずかに目を細めて、相棒を見やった。
アーシャは慎重に顎を引いて、翻訳を継続する。
「そしてある日、レイア王女と彼女の側近たちは王都から脱した。その側近には当然、教育係として誰よりも王女の近くにいたスー姉ちゃんも含まれてる……。だから、彼らを総称して反逆者と呼ぶわけさ」
腕を束ねたサイは部屋の一角を瞥見した。窓枠の近く、ソファだったであろう焼け焦げた物体があった。家庭で誰かの定位置になるような、日当たりがよく心地よさそうな場所だった。
「その報せを受けて、あたしの親父は泡を食って城にすっ飛んでいったよ。事の真偽を確かめるために、本当だとしても何か誤解があるのだと訴えるためにね。だけど、反逆者を庇う罪人として投獄され、ついには処刑されちまった」
いやいやっ、とサイは顔の前で手を振る。
「もう二十年も前の話だから、そんなおもっ苦しい雰囲気をださなくてもいいって。まぁ、あんたらの表情はいつも重苦しいけど」
ケイルは鼻息を吐いて付近を軽く歩き回り、ゼロットは胸のぬいぐるみの足をぱたぱたと振った。わざとらしい振る舞いは、他者の情緒にさほどの頓着を示さない彼らなりのなけなしの気遣いだった。サイは苦笑いで続ける。
「んで、あたしとお袋は急いで支度をして、王都を離れた。べつに罪人の家族はみな罪人って取り決めがあるわけじゃないけどさ。そんな噂が流れた以上、これまで通り平穏無事に過ごせるとは到底思えなかったからね。ほら、現にこの有様だろ?」
組んでいた手を解き、焼け崩れた生家を示す。
「それからは、まあお察しの通り、ポルミ村に二人で引っ越して暮らしてたってわけ。もうちょっと遠くに行くことも考えたんだけど、なにぶんか弱い女二人だろ? 当時はあのぐらいの冒険で精一杯だったわけさね」
王都にほど近い村に反逆者の噂が届かないとは考え難い。貴族として何不自由なく暮らしていた母子が自給自足の農村で、排他的な境遇のなか、簡単に新生活を始められるわけがなかった。今でこそサイはポルミ村にて信頼を得ていたが、そこにいたるまでの苦労は推して知るべきものだった。
「……母親はどうしたんだ?」
ケイルの率直な問いに、サイは小さく頷いた。
「六年ぐらい前に病気で死んじまったよ。治癒魔術でもどうにもならなかった。もともと身体の強い人じゃなかったし、そんなことがあったから心労が祟ったんだろ。もう五十を過ぎてたから、大往生だったほうだと思うよ」
ケイルの左隣で、ゼロットがわずかに俯いた。
ケイルがゼロットと出会ったあの墓地には、サイの母親の墓もあったのだろう。そしてポルミ村を離れる際、ついて来ようとした天涯孤独の少女をサイが突きはなそうとしなかったのは、独り残されたかつての自分と重ね合わせていたからだった。
サイは戸棚から背を離して、こっちだよ、と追従を促した。
廊下を玄関とは反対方向に進むと、小さなテラスに突きあたった。高台にあるこの屋敷から、低地の市街地を一望できる小さな庭園だ。暮れなずむ王都。右手に窺える巨大な王城の外壁は、毒々しいまでの赤光に染まっていた。
「あたしとスー姉ちゃんはさ、ここでよく話をしてたんだ。他愛もない姉妹同士の会話さ。姉ちゃんの場合は、あたしがガキで難しいことがわかんないのをいいことに、城にまつわるちょっとヤバめな話まで愚痴ってたって感じかな。……だけど、姉ちゃんが反逆者として失踪する少し前、おかしなことを口走ってたんだよな。レイア王女は魔術の枠に収まらない異能を持っているだとか、城で不穏な動きがあるとか……」
手摺りから身を乗りだして城を眺めていたサイは言葉を区切り、振り返った。傾き始めた陽を背にした長身の女、整った顔立ちはかつてなく真剣に引き締められ、眸は逸れることなく異邦の男に据えられていた。
「あと、違う世界の存在、とかね」
「…………」
ケイルもかすかに口許を引き絞り、サイの正視を受け止めた。
硬い空気が漂う一拍を経て、サイは相好を崩し、かぶりを振った。
「ポルミ村であんたと会って、あたしたちの知らない医療技術や、あたしたちの常識とは懸け離れた戦いかたを目の当たりにして、スー姉ちゃんの言葉を思いだしたんだ。こことは違う世界の存在。……だから、あんたについて行こうと決めたんだ。べつにどうこうしたいって具体的な考えがあるわけじゃないけどさ。ついて行かなけりゃならないって、なぜかそう思ったんだよね」
ポルミ村のサイの自宅でケイルがこの世界について、魔術について問うた時、サイが怪しむでも言及するでもなく、素直に教えてくれたのは、ケイルの素性についておぼろげながらも察していたからなのだった。この世界の住人ではない、と。
ケイルの視界の端で、アーシャがぴくりと宙を仰いだ。
『……ご歓談中悪いけど、集熱センサーに感あり。反応が一つ。屋敷に這入ってきてる』
背後に向き直るケイル。外套をはためかせ、背の小銃に手を伸ばした。
その物々しい所作に、サイとゼロットは小首を傾げた。
ライアスは焼け果てた屋敷を彷徨いながら、溢れそうになる涙を堪えていた。
棒切れでちゃんばらごっこをした広い居間、料理を抓み食いした食堂、絵本の英雄譚に目を輝かせた書斎。もはや影もかたちもないというのに、炭につぶされた思い出の場所に出くわすたび、彼の脳裡では色褪せることのない当時の記憶が鮮明に蘇った。
今まで何度となく屋敷の前まで足を運んだ彼だったが、こうしてなかにまで踏みいるのは今日が初めてだった。つらい現状に救いを求める心境が重い足に一歩を踏みださせたのかもしれない。
蔀窓が焼失した窓枠から広場を見渡す。女を先生にするなんて貧弱だ――。ふと遠い記憶の罵倒が彼の耳朶を打った。脳裡に焼きつくかつての光景には、近所の身体の大きな男の子たちに捕まり、泣かされている少年の姿があった。そこに少女が駆けつけて、執拗な飛び蹴りで男の子たちを撃退し、少年を振り返り、闊達に笑った。
「……サイミュス先生」
その名を口にするたびに目頭が熱くなることを痛感しながらも、彼は力ない呼び声を喉からこぼれさせずにはいられなかった。声が嗄れるまで叫んでも、応えはないというのに。
しかし、この日、この場所に限っては、違っていた。
「ライアスぼっちゃん……」
耳をくすぐる懐かしい応答。ライアスは周りを見渡すも、そこには黒く焼け焦げた壁が見えるばかり。何者の姿もない。
「ライアスぼっちゃん……」
しかし、どこか遠くから呼びかける優しげな声は、確かに聞こえるのだ。
「さ、サイミュス先生ぇ」
ライアスは声の主を探して、屋敷のなかを駆けずりまわった。だが探せど探せど、誰も見つからない。そのうちに、急く足がもろくなっていた床を踏み抜いて転倒してしまった。簡素な麻の平服は襟のなかまで煤まみれになった。
薄黒く汚れた頬に一筋の涙が伝い落ちた。一体、何をやっているのか。聞こえるはずのない声を聞き。いるはずのない想い人を探している。青年は自分の惨めさに嗚咽をもらした。
「ライアスぼっちゃん……」
絶えない幻聴に答えるよう、彼は天を仰ぎ、とうとう咆哮した。
「さ、サイミュス先生えぇ! ぼくは、ぼくはっ、うおおぉぉぉ!」
「う、うわー。シャウトでちゃったよこれぇ……ひくわー」
「なっ!?」
勿論、それは幻聴であるはずもなかった。
テラスがある小部屋の角から、ライアスの訪問に気づき悪戯を仕掛けていたサイが、意地の悪い笑みをうかべてひょっこりと姿を現した。その後ろには、冷たい無表情をしたケイルとゼロットが佇んでいる。
最初は呆然とした面持ちで三人を見つめていたライアスだが、
「う、ううぅ……。うっおー! うおー! ふぉーすふろだァー!」
もう、色んな感情が弾けてしまい、何も見えなかったことにして魂の雄叫びを繰り返した。その声が帯びる切実な波動たるや、きっと悪辣なる竜でさえも憐れみに打たれて飛び去るに違いないほどだった。
『……ま、まさか彼はドラゴンボーン!?』
アーシャの驚愕。
ケイルは意味がわからなかったが、とにかく無視をすることにした。