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異形の魔道士  作者: IOTA
14/60

11 断罪




 時間軸を少し戻そう。

 それは、彼がまだケイルという人としての名を知らぬころ、侵略者の大群を前に死を覚悟した直後のこと。終末の人型兵器ヘカトンケイルの存在が異邦の地に認められた最初の瞬間である――。

 高名な意匠が生涯をかけて彫り上げた彫刻、見る角度によって七色に色合い変える輝く甲冑、一粒の値が庶民の住居一棟に相当する宝玉をふんだんにあしらった首飾り、風光明媚な情景を美事に活き写した絵画、不可思議な形の水晶の容器、具体的な名称はおろか用途さえわからない金属製の器具、その他諸々。

 一つひとつが国宝級といっても相違ない古今東西のありとあらゆる宝物が所狭しと、しかし整然と飾られた薄暗い部屋の中心、素足であれば触れただけで恍惚の虜になってしまう毛足が長い絨毯の上に、その柔らかな感触を愉しむどころか埃まみれの無骨な鋼鉄の足で汚す異形が一体、立ち尽くしていた。

 それに名前はまだない。あるのは個体を識別する、 ホテル09オーナイナーという符丁だけ。

 猛る甲虫が如き面頬の眼鏡、淡く赤い眼光をはたと左右に巡らせて、彼は自身の隣で同じように立ち尽くしていた長期単身活動用支援システム、アーカーシャ・ガルバが見せる少女の幻影、アーシャに問いかけた。

「……ここはどこだ?」

『わからない。天国ではなさそうね……』

 理解不能の証左である沈黙だけが確かなものとして降り落ちる。

 彼らは他になすすべもなく再び室内や、自身の身体に目を配る。己が実在しているこの何処とも知れない空間を確かめるように、あるいは己という存在そのものを確かめるように。

「……何が起きた?」

『わからない。死んだわけでもなさそうだけれど……』

 まだ耳に残る、刹那前までの死地の騒乱。この部屋を満たす森厳なる静寂。目と耳を疑うに足る外界の変貌が、あらゆる常識を裏切り、何か途轍もないことが起こり、途方もない場所にいるのだということだけを、残酷なまでに知らしめる。

 H09は強化外骨格に付着する砂塵と魔獣の返り血を指先で確かめ、諸手に握ったままの圧搾空気小銃のまだ熱を帯びた銃身に触れる。間違いなく、数瞬前まで彼は敵と戦っていたのだ。

 鉄骨と瓦礫の大伽藍と化した摩天楼を駆け回り、自身の存在理由にのっとって強大な敵の大群と戦っていた。しかし圧倒的な戦力差を前に彼は自身の最期を悟り、敵の手にかかろうとした。その直後、この部屋にいた。

 まるで始めからそこにいたという風に、この部屋で立ったまま恐ろしく長い夢を見て、たった今現実の世界で目覚めたというように、一瞬の暗転の経て、部屋の中心に立っていた。

「マップを映してくれ」H09は相棒の少女に要求する。

 支援システムの重要な役割の一つには膨大なデータが蓄えられたインタフェースからの情報の参照という機能があった。

 その中でも重宝される三次元マッピングは地上のほとんどの地形を隈なく網羅しており、通信衛星による位置特定システムと併用することにより、バイオロイドの視界に周辺地形が表示される、はずだった。よってヘカトンケイルが所在不明の不様に陥ることはありえない、はずだったのだが。

 しかし今、彼の視界には何も映らない。

 アーシャはやりきれない嘆息に喉を灼き、ゆるゆると首を振った。

『ここがどこだかわからないといったでしょ。通信衛星にアクセスできないのよ。信じがたいけど……圏外だってさ』

 繰り返すが、地上のほとんどすべての地域を隅々まで網羅しているはずである。それが圏外ということは何を意味するのか。惑星の圏外にいるという信じがたい事実がどういった結論を導くのか。H09とその相棒には理解できない。

 何もかもが不明だが、ここでじっとしていても事態は進展しないことだけは確かだった。

「とりあえず外にでよう」

『そうね。でもせっかくだから何かパクっていきましょうよ』

「……正気か?」

『なによう。冗談じゃない』

 どこまでも奔放な相棒にかぶりを振りながら、H09は一歩を踏みだす。

 密室で唯一の出入り口である両開きの扉。かつての人類文明の情報映像でしか見たことのない材木素材の扉をまじまじと観察し、その取手に手をかけようとして、

「――――」

 しかし、ぴくりと肩の装甲を揺らし、そのままの姿勢で硬直した。

 彼は奇妙な感覚を捉えていた。蟻走感に似たそれは、けれども肌ではなく、その奥の脊椎をぞわぞわと伝っているような――。扉に伸ばしていた隻腕が期せずしてうなじへと向かう。外骨格に身を包んでいては、脊椎はもちろん地肌にさえも触れられないが、彼はそれを指先で求めずにはいられない。

『どうかした?』

 アーシャは小首を傾げる。彼女には何も感じられないのだ。感覚的なそれは強化外骨格や強化衣服に搭載された各種センサー類の反応ではない。それの中身であるバイオロイド、ヘカトンケイルに残されたごくわずかな人間の部分が、おぼろげな感覚を、けれどもはっきりと感じとっていた。

 まるで自分の身体から離れた所に大切な感覚器官があり、それが細かい羽毛でなでまわされているような落ち着かない感覚。虫の知らせとは違い、胸騒ぎともいえない。常人にはおよそ知るすべのないそれを強いて言語化するならば、“共振”という言葉がもっとも近いかもしれない。

 ふとアーシャは相棒から扉へと鋭い注視を移した。

『ちょっと待って! 外に熱源反応、複数。こっちに近づいてきてる……!』 

 彼女がいい終わる前には、H09自身の拡張された聴覚も扉の外からの靴音を聞きとがめていた。

 H09はいまだひかない奇妙な感覚への憂慮をひとまず打ち切って、素早く木箱の裏に潜んだ。

 もはや跫音は彼でなくとも聞き取れるほどに近く、大きかった。歩くような足音ではないのだ。駆け足、それも全力疾走といったほうが近い。疾走しながら、その者たちは大声で喚き合っている。

 不明瞭な怒鳴り声にしか聞こえないはずの壁越しの肉声も、ヘカトンケイルの聴覚センサーが増幅し正確に拾う。それは知性ある人の言葉として彼らの耳朶を打った。しかし、H09とアーシャはまじまじと顔を見あわせる。如何に正確に聞こえたところで、その言語を理解できなければ意味がない。

 いよいよH09はレイピアABRを胸にかき寄せ、不測に備える。

 しかし、外の騒乱は扉の前を素通りし、遠退いていった。

『どっか行っちゃったわね。それにしても今の声、データベースに該当言語なし……? ほぼすべての言語を記録しているはずなのに……』アーシャはおとがいをつまみながら眉根を寄せる。『言語学アーカイブと照らし合わせれば翻訳できるかもしれないけど、けっこう時間がかかっちゃうかも。未知の言語に対する精度は怪しいし』

 その言葉は、もはやH09に届いていなかった。

 再び扉の前に移動し、淀みなく取手に手をかける。

『ちょっと! まだでるのはマズイって。なんか外の様子、ただごとじゃない感じだし。きっと何か起きてるのよ』

「ああ。だからこそだ」

 左手で取手をまわし、右手のレイピアの銃口を未知なる外界へ据えながら、ゆっくりと押し開ける。

 H09はまだ例の奇妙な感覚を捉えていた。あるいは囚われていた。

 それがぼうとうかびあがらせるある予感に突き動かされていた。

 外の喧騒の原因と自分の人間の部分が感じた共振の理由が、共通しているように感じていた。なんの根拠もなく、合理性など皆無に等しい。けれども彼は初めて人間として感じた共振の根源を確かめずにはいられなかったのだ。

 扉が開かれ、光の氾濫が異形を包む。

 外は、眩いほどに真っ白い石造りの回廊だった。

 三、四人が横列で楽々と進めるほどの幅があり、天井までの高さはH09の身長の二倍はあろう。それら四囲のすべてが純白で統一され、むせかえるほどの光芒で満たされていた。

『やっぱり天国かしら……』

 たまらずぽかんと口を開けたアーシャの呟きが力なく響く。彼らが数分前まで存在していた暗黒の世界では何よりも映えたはずの彼女の姿も、こぼれ射す陽の乱反射に負けてかすんでいた。この段階で、彼らもここが巨大で豪奢な建造物の内部だと理解した。

 足を進めようとしたH09の耳に、再び怒号のような喚き声が飛びこんでくる。廊下の角、先ほどの跫音が向かった方向からだった。

「天国にしては騒々しいが」

 不敵にこぼして、H09は小銃を接近交戦の構えで保持したまま身長な足取りでそちらに向かう。

 広い廊下に幾重にもこだましていた喧騒は、進むにつれて萎んでいく。声量が小さくなっているのではなく、遠のいているのでもない。音源が減っている。それに比例して、どさりどさりと、人が倒れるような物音が続く。

 ついには声も物音も途絶え、角に達したH09は先を窺う。

 目に飛びこんできたものに、絶句した。

 死体。そこにあったのは死体だけだった。死体しかなかった。死体で溢れていた。

 剣を携えたものが死んでいた。槍を握ったものが息絶えていた。杖を持ったものが事切れていた。甲冑に身を包んだものが果てていた。誰もかれもが徹底的に、完膚なきまでに死に絶えていた。

 人のかたちで溢れているのに、そこに人いきれはなく、ただ大脈破断による出血の噴出音だけがしゅうしゅうと鳴っていた。そこに生気はなく、外気に晒されたばかりの臓器とその内容物からたちのぼる瘴気を孕んだ臭気だけがあった。

 人のかたちでさえ、五体満足なものはほとんど見受けられない。果たして何人が骸を晒しているのかも定かでない。数え切れないほど多いという意味合いだけでなく、単純に細かく分解されすぎて数えられない。

 H09は歩く。肉片や毛髪を残した頭皮がはりつく天井が降らす血の雨を浴び、千切れた四肢の密林を抜け、裂けた腹部から溢流する臓物の沼を渡り、理不尽な絶命への驚倒で固まった死相の峡谷を越える。

 数瞬前までこの場を席巻した途方もない暴力、それが残す過剰殺人の痕跡は、対象の命を完全に絶つことを目的にした破壊を物語り、それを為した何かの合理的なまでに徹底された残虐性を浮き彫りにしていた。

 そしてそれは、H09とその相棒である少女にとって、見慣れた光景だった。日常のよくある風景を見わたすような何気ない仕草で、平坦な心もちで、彼らは無遠慮に視線を巡らせる。

『天国にしては血生臭いわね』

「……彼らの服装や装備。まるで中世の騎士隊だな」

 武装こそ異なるが、遺体の装具は共通して黒色を基調としていた。同一の、それも戦闘を生業にするであろう集団に属するものたち。だがここで起こったのは戦闘などではない。敵対勢力との戦闘であるならば、装いを異にする遺体がただの一つも見受けられないのは説明がつかない。

 彼らが遭ったのは一方的な虐殺。無機質な殺戮だ。かつてここまで色彩が際立つ殺人現場があっただろうか。白いキャンバスに描かれた黒と赤の暴虐は、酷くグロテスクなコントラストをはなち、そしてどこか非現実的だった。

 ふと、H09はある一点に目を留めた。

「あれは……」

 白い壁に黒い粒。血飛沫ではない。何か疵のような、小さな穴のようだった。よくよく見わたせば同様の瑕疵がいくつも見受けられる。

 そちらに近づこうとするも、アーシャの声がその足を止めた。

『動体熱源を感知。この先の廊下に一人。この場から離れて行く』

 この状況で死している者たちが駆けて来た方向とは反対へ、この惨劇の現場から離れようとする人物とはつまり、この地獄を作りあげた張本人。犯人以外に考えられない。

 H09は追おうとするが、センサーで危機を捉えた相棒は再び彼を制止した。

『待って! 左の通路からも来た。八人。右に離れる一人を追ってるみたい』

「ここで死んでいる奴らの仲間か……。どうする」

 犯人を追えば、それを追う他の者たちに見つかることは避けられない。状況をまるで呑みこめない彼らであっても、今この場で発見されるのがよくない結果を招くことだけは理解できた。

 どうするべきか。焦慮に歯噛みするH09だったが、不測は畳みかけるように巻き起こる。

『やばいッ! 後ろからも来たわよ。五人』

「くそ」

 もはや選択の余地はなく、逡巡の猶予も許されない。舌を打ったH09は壁と採光窓に視線を奔らせると小銃を背に預ける。全身を覆う厚い装甲をものともしない軽業師のような身軽さで壁に向かって跳躍すると、壁面を蹴り、反対側の採光窓に飛びついた。窓枠を掴み、身体を持ち上げて外に脱する。

 ごう、と。途端に強風が身体を煽り、強烈な陽射しが目を眩ませた。

「――……」

 眼前で無限の広がりをみせる大展望に、H09とアーシャは絶句した。

 この建造物は、彼らが想像していたよりもはるかに巨大だった。下界には見慣れぬ町並み、木と石と漆喰でつくられたおびただしいまでの家々。そのミニチュアのなかでは米粒のような人々が細々と動きまわっている。拡張された視野に映る活力みなぎる地上での営みに、彼らには目を疑っていた。

 そして、森と青空。ぐるりと市街を囲う城壁の外は未踏の緑にあふれ、はるかなる連峰まで続く樹木の大海原はそよ風に波打っている。葉を食む虫、それを食らう鳥、それを狙う猛禽。あまねく命にそのみなもとを注ぐ陽を抱いた天空は、つき抜けるようにただただ蒼く、千切れ雲が平穏を枕に横たえるようにおだやかに泳いでいた。

「本当に、ここはどこなんだ……?」

『あるいはいつなのか……』

 H09とアーシャはたまらずにあえぐ。

 凄惨な虐殺の現場に直面してもいささかも心乱さなかった二人だったが、この時ばかりは掛け値なく驚倒の虜囚と化していた。目にする営みが、耳にするさえずりが、外界のすべてが、彼らの知るところではなかった。

 彼らが数分前まで存在していた世界では、喫緊の脅威に対処するために未来を犠牲にし、青空は人類自らの手で消し去られてしまった。大気を狂わせるほどの核の炎が地上を焼き尽くしたのだ。しかし、核の冬を越しても、春が訪れることはなかった。惑星浄化計画と謳われた劫火でさえも脅威を死滅させるには至らず、地上を人の住めない灰色の地獄へと変貌させ、人ならざる脅威へ譲り渡してしまっただけだった。

『ほら、気持ちはわかるけど、ぼさっとしないで。見つかっちゃうわよ』

 H09は音をたてないように注意深く屋根に飛びおりた。

 巨大な建造物を囲む庭園には無数の兵の姿があった。狂乱に近しい指示が飛び交い、軍靴の跫音を錯綜させながら慌ただしく駆けまわる。次第にその喧騒は鉄柵を隔てた市街へと延び、市民は何ごとかと戸惑いの顔を見あわせる。

 天上から俯瞰すれば点々と犇く黒衣は餌を捜し求める蟻のようだった。そしてまさしく屋根からそっと見おろしているH09のほうを仰ぎ見るものはない。灯台下暗し、内部に不審者の姿がないのなら外に違いないという先入観がそうさせるのだろう。 

「あの虐殺の犯人を捜しているんだな」

『でしょうね。……まったく、一体全体何がどうなっているんだが、さっぱりわけがわからないわね。私のスパコンもショート寸前よ』

 お転婆な少女らしく両足を投げだして座りこんだアーシャは、澄み渡った青天を仰ぎ、眩しそうに手を翳した。

『なんにせよ、しばらく動けないわね。夜まで待機して、この街を脱出するプランを進言するわ』

「脱出か」

『そう。情報を収集するにしても、ここはおそらく適さない。あまりに人目が多過ぎるもの』

 H09は曖昧にうなって、再び眼下に視線を這わせる。先刻の虐殺の犯人であり、自分が感じた共振の原因であろう何かを捜していた。しかし、高所からの走査でもそれらしき人影を捉えることはできなかった。

「ひとまずは、そうするしかないな」

 夜の帷がおりた市街地。彼らは脱出にとりかかった。松明やオイルランプが主な光源であるこの文明の夜陰は濃い。並外れた運動能力を有し、暗視装置を備えたヘカトンケイルにとって、隠密行動はそう難しいものではなかった。

 一度も危うい場面はなく、街を囲む城壁を越え、密林の闇へ姿を消した。

 翌日、小径に沿って森林を進んだH09は、文明的な集落を発見するにいたる。森のなかの小さな農村。しかし、彼が真っ先に感じ取ったのは馴染みのある血の臭い。その集落は残虐なる魔物による蹂躙の渦中にあった。

 集落を射角におさめられる小高い丘に陣取ったH09は、レイピアの照準を狼男に定め――



 そして今。 

 壁面に等間隔に設けられた灯火器の暖色がクリーム色に四囲を揺らす長い回廊を、三人と一体と一つの幻影は歩んでいた。

 背後を一顧だにせず黙々と進むリルド。彼女に導かれるものたちは庶民では立ち入りが許されないはずの王城内部の豪華絢爛な内装に目を奪われていた。ただ、ケイルと相棒の注意深い視線はサイとゼロットのそれとは意味合いを異にしている。

 ここはまさにあの惨劇の現場である。黒衣のものたち――あの時、ケイルは知る由もなかったが――王城近衛兵の骸が累々と果てていた場所だった。無論、数日が経った現在、酸鼻きわまる光景が当時のまま保存されているわけもない。

『きれいさっぱり片づけられてるわね。ま、とーぜんでしょうけど。死体を調べられれば何かわかったかもしれないの』

「……死体だけじゃない。あの時、壁に穴があったことに気づいたか?」

『あな?』

 ケイルがいっているのは壁にあった奇妙な痕。

 この世界について多少なりとも学んだ今ならば、あの種類の傷痕はこちらの世界では形成されえないであろう予感が、彼にはあった。すなわち、弾痕。銃器から発射された弾丸が壁に穿たれた跡だ。あの酷く損壊した遺体にしても、強力な銃撃による銃創のように見受けられた。

 もっとも、あの時は近衛兵の気配に迫られていたので悠長に現場検証をおこなっている余裕などなかった。もしかしたら見間違いや気のせいかもしれない、とケイルはこぼす。

 少なくとも、遺体とともに王城回廊を汚す瑕疵は国王の指示ですべて補修された今、その推測を裏づける証拠は塵一つ残されていなかった。まさに何事もなかったかのように。

 颯爽と歩いていたリルドは不意に立ち止まった。

 俯くその視線の先には赤黒い斑点のような汚れ。血飛沫の掃除もれである。

 膝を落としたリルドは懐から取りだした手巾を唾液で湿らせ、その固まった血液を丁寧に拭きとり始めた。切れ長の双眸は胸のうちで渦巻く無念を隠しきれず、わずかに歪んでいる。

「どうしたんだい、急に。何かのまじないかい?」

 事件のことなど露とも知らず、血糊にも気づかなかったサイとゼロットは小首を傾げるが、拭き終えたリルドはすぐには答えず、ケイルを見やった。感情の読み取りにくい冷淡な面差しと、いかなる表情も映さない鋼鉄の面頬とが無言のままに互いを正視する。

「……べつになんでもありません」

 不意に視線を切り、リルドは先導を再開した。

 この場で惨殺されていたのは王城近衛兵であり、そこの兵団長を務めるリルドにとっては直属の部下だったのである。賊と見做されているケイルは城を囲う鉄柵の衛兵をしていた近衛兵たちが突きつけたような憎悪に塗れた視線で注されて然るべきなのだ。

 リルドがそれをしないのは、誉れ高き一団の長として彼女が身につけた弛まぬ自制心の賜物であり、ケイルが門前で告げた毅然とした潔白の言も多少なりとも影響していた。

 もっとも彼は詳しい経緯は何も語っていない。多くを語ろうとしないその姿勢が期せずして説得力を増加させたのだ。いきなり忽然と現れて、事件当時に自分もこの場に居合わせ、人知れず王都から脱したなど、さすがのケイルでもそこまで明かしてしまえば針の筵は避けられない。強く追及されないかぎり、彼は語り明かすつもりはなかった。

 ほどなくして、再び歩みを止めたリルドは無数にあった扉の一つを開けた。

 十畳ほどのゆったりとした広さを持つ、様々な調度品が置かれ落ち着いた雰囲気のある一室。来賓用の客間であった。扉の両端には甲冑を纏った近衛兵が二名、室内に正対したまま直立不動の姿勢にある。

「あなたがたはこちらで待機していてください」

 あなたがたとは無論、サイとゼロットの二人だ。

「おいおい、なんだよ。ここまで来て、あたしらだけのけ者かよ」

 サイは腰に手をあて反駁するが、リルドはまったく取り合おうとしない。扉を開けた姿勢でサイをじっと見据える。

 サイはがりがりと後ろ髪を掻き、舌打ちを一つ。

「わかったよ。せっかくだから豪奢なお部屋でくつろがせてもらってるさ」

 ケイルから離れようとしないゼロットの腕をつかまえ、ずかずかと部屋に這入っていく。別れ際にケイルへと視線を配る。小さくも力強い首肯は心配無用の意を告げていた。

 閉ざされた扉を見ながら、ケイルは口を開く。

「わかっていると思うが、あの二人は関係ない。勝手について来てしまっただけだ」

「彼女たちの身の安全は我がオルガンのあざなに懸けて保証しましょう。こちらです」

 気品ある断言に確かな説得力を含ませたリルドは、黒衣を翻して歩み始める。

 颯爽とした足取りを追いながら、ケイルとアーシャはちらりと目配せした。潔癖な言い回しだからこそ滲みだすかすかな不審。彼女たちの安全保証されたが、そこにケイルは含まれていないのだ。何かしらの危険に遭っても、リルドは嘘を吐いたことにはならない。

 それ以降、一切の言もなく、灯火器の淡い導きに沿って二者は進み続けた。革靴の律動的な靴音と鋼鉄の足の無骨な跫音、それだけが先の見えない正方の闇に吸いこまれていく。回廊を渡り、広間を抜けて、螺旋階段を延々とおりていく。

『遠いわねえ。広けりゃいいってもんじゃないでしょうに。起きて半畳寝て一畳って言葉を教えてあげたいわ』

 アーシャの軽口に感化されたわけではないが、ずいぶんと長い道案内にケイルが口を開こうとしたところ、純白の大理石で統一されていた城内はその装いをがらりと変えた。

 地下に達してすぐの通路、両壁を埋めるのは大理石ではなく、地中の岩盤をそのまま利用した削りだしの裸身像がずらりと並んでいた。それは一連の物語りを映した大絵画の様相となっており、芸術というものを介さないケイルらにも、悲愴な顔が並ぶそれがけっして楽しい命題をもとにうき彫られたものでないことは理解できた。

『いかにもボスの間って感じね。セーブしといたほうがいいんじゃない?』

「……緊張感ってものがないのか、お前には」

 リルドは突きあたりにある黒塗りの両扉を前にケイルを一顧する。その仕草もそこが終点であることを物語っていた。ぎぎぎぃ、と重みのある軋みをはっしながら扉はゆっくりと開かれる。

 そうして、ケイルが案内された先は、途方もなく広い大広間だった。王城はその地下も含めていかほどの広がりを見せるのか。左右と頭上は暗闇に塗り固められ部屋の広さの正確なところは把握できない。鎖で吊るされた篝火皿の毒々しい赤光が、等間隔に並ぶ石柱に施された茨のような彫細工を、まるで無数の蛇が絡みあい、蠢いているかのように揺らしていた。

 常人であれば立ち入るだけで神罰への畏れを抱くであろう異空間。だが、暗視によって如才なく全容を把握した異邦の生体兵器には、幻想的な情緒も荘厳な雰囲気も無縁であった。

「あんな高いところの篝火、どうやって火を点けるんだろうな」

『……あなたもたいがい緊張感ないわよね』

 ケイルを従えて広間のなかほどにまで達したリルドは、かしこまって片膝をつき、頭を垂れた。

「畏れながら、国王ディソウ様に申し上げます。かのものを連れてまいりました」

 二人の正面には白い外衣を羽織った者たちが横一列に並んでいた。ぞろりと長い外衣のフードは鼻梁までさげられ、その表情はわからない。闇にぼうと佇む白い人型は幽霊のようであり、儀式的な妖しさを漂わせている。そして彼らの中央には鉄製の箱のようなものが鎮座していた。楯型の縁取りに勇ましい大鷲の紋章があしらわれている。

 リルドの正視は白装束のものたちにはなく、その箱にこそあった。

 やがて、くぐもった重々しい声が箱のうちからこぼれだす。

「……ご苦労であった。下がれ」

 声の主は箱のなかにあるのだ。他の何ものでもない、国王ディソウ。ラナ大陸でもっとも国力を有したこのライガラ王国を統治する王自らが箱を隔てて、賊容疑者と空間をともにしている。

 熱源感知センサーにより箱のうちに何者かがいることを察していたケイルらも、その正体には一驚を覚えた。面頬のうちで内々に囁きあう。

「まさか国王が出張ってくるとはな」

『何か特別な事情があるのかしら。……それにしても、王様を箱のなかに詰めこむなんて。やっぱり文化が違うのね。普通は逆だもの』

「身を護るという意味ではこのほうが効率的ではあるが」

 ケイルの勘ぐりのとおり、この方法であればどのような脅威からでも身を護れるのだ。王国きっての鍛冶職人に鍛造され、さらに高尚な魔道士によって硬化魔術を付呪された守護の籠。一も二もなく守護すべき国王を武装も解除していない賊と同じ空間に同居させるわけもなく、これはケイルが武装解除を拒んだことで急遽とられた措置であり、実はリルドが長々とケイルを連れまわしたのは、この会場設営のための時間稼ぎであった。

 回れ右をしたリルドが部屋の一隅にまで下がると、姿なき重厚な声は異形の男へ注がれた。

「……見慣れぬものよ。素性を答えよ」

 どうしたもんか、とケイルは心うちでこぼしてアーシャを窺う。知らないわよ、と薄情な相棒は澄まし顔でひょいと肩を竦めた。黙秘は許されず、騙る知識もないのなら、正直に告げるしかない。鼻から嘆息し、一息に言葉を継ぐ。

「東部方面防疫哨戒隊特別装備、対アバドン用機械化兵装。個体識別符丁H09」

 ぴたりと時が止まったような静寂がその場を支配した。

 低い声にかすかな狼狽をにじませたディソウのうなりが響く。不動にあった外衣のものたちはたまらず視線を見交わせ、部屋の隅ではリルドも怪訝そうに柳眉を歪めた。

 アーシャが翻訳しているとはいえ、それは可能なかぎりでしかない。アバドンや機械化兵装などといったこの世界には存在さえしない言葉は翻訳できるわけもなく、当然理解できるわけもない。ただ、硬質で物々しいニュアンスだけは確かに伝わっていた。

「そのほう、軍属なのか?」

「そうだ」

「どこの国のものだ」

 首を左右に振り、ケイルは再び嘆息する。

「この国じゃないとしかいえない。教えてもきっと伝わらない」

「……素性を明かす気はないと?」

「違う。素性ならさっき答えた。詳しく話したところで、どうせ理解できないから意味がないといっている」

「先ほどから、ずいぶんと豪胆な物言いではないか。身のほどをわきまえる気はないようだな」

 苛立たしげな響き。端から重苦しかった雰囲気がにわかに不穏となって密室を席巻した。ディソウがはっするであろう次の一言を予期した外衣たちは緊張に身を強張らせるが、思案の沈黙を経て守護の籠からもれでた声は、その内容も、声質も、彼らの予想に反したものだった。

「……そのほう、反逆者の手のものなのか?」

 声にこもる色合いはこれまでのものとは明らかに毛色が異なっていた。逡巡に滲むのは隠しようのない憂慮。事実、それこそがディソウがもっとも気がかりだったことであり、それを見定めるためだけにあえて自ら賊容疑者と相対しているのだった。

 ケイルも質問にこめられた徒ならぬ気配に眉根を寄せながらも、やはりあまりにも無知識であり、正直に答えるしかない。

「反逆者……? 知らない。俺は誰の手先でもない」

 そうか、と。ディソウの返事は思いの外素っ気ないものだった。

 くっくっくっ、と不気味な含み笑いが続く。落胆と諦観を孕んだ昏く冷たい笑いだった。

「家臣どもの反対を押し切ってまでこうして質疑応答に乗りだしたが、不毛であったな。どんな答えであれ、それが嘘か真か、確かめるすべはないのだから」

「……確かに、俺が何をいったところで証拠はないな」

「ほう、殊勝ではないか。では我が城で狼藉を働いたものの末路も予想できよう。弁明に何を述べようともその論拠はないのであろう?」

 挑発的な声色には明確な敵愾心があった。どうあろうともこの結末は決まっていた。のこのこと王城に出向いた賊容疑者の処遇は当初からの決定事項だった。魔女裁判に等しい。つまり、疑わしきは罰せよ。

 それは突然だった。

「もうよい。殺せ」

 興味を失った子供のような、一つの命を左右するにはあまりに素っ気ない処刑の号令。十の外衣がはためく。怨――と、魔術士であった彼らは禍々しい詠唱の喚声をはっし、まったく同時に両手を合わせた。柏手の小気味よい音が広間に鳴り響く。それはまさしく命を閉ざす鎮魂の合掌だった。ケイルの立つ床面で光の筋が縦横に奔る。瞬く間にそれが描きだしたのは、複雑な様式の魔方陣。

『高温を感知ッ!』

 途端に魔方陣は赤い光線を放射状にはなつ。ぐらぐらと火口を思わせる揺らぎをともない、ぐつぐつと熔岩を連想させる滾りをみせて、次の瞬間、平面では抑えきれなかった熱量が紅蓮の業火の噴出となって立体化した。

 大気を貪りごうごうととぐろを巻く焔は、半球形のドーム状に形成されていた。魔方陣のなかでのみ威力を発揮するように押しこめられ、凝縮されているのだ。ケイルの姿はもはや影もなくかき消えていた。

 部屋の一隅にて、暗かった部屋を灼熱色に染め上げる厚い焔のベールを見つめるリルドは、人知れず呟きをこぼした。

「……こんなものか」

 城壁にて、異形の戦士の一騎当千の働きを目の当たりにした彼女。あの強力な武器も、魔物を両断する腕力も、数匹を同時に相手取る反応速度も、自分たちとはいるべき次元が違い、住むべき世界を異にすると、彼女は本能に近い部分で見抜いていた。

 だが、この“断罪の間”の裁きからは何人たりとも逃れることはできなかった。

 ケイルは知る由もなかったが、ここは断罪の間と呼ばれ、直接的に王家ないし国家に害をなした大罪人に然るべき罰を与えるための一室である。罪の有無を問う裁判所ではなく、既に罪が確定した者を処するための場所、いってしまえば処刑室。

 今回は王国開闢以来、初の珍事に関する重大にして特殊な事案であり、国王のわがままもあって御身自らが糾弾をおこない、その結果の如何でどう対処すべきか定めることになっていたが、それはあくまでも名目上。この広間に連行する時点でこの結末は目に見えていた。

 部下を非業に殺めた最有力容疑者への当然の仕打ち、異形の男への落胆、それらがリルドの胸のうちで同居し、互いにせめぎ合いながらも、どちらが勝るにせよ、こんなものか、という独白に収束し、彼女の心が晴れることはなかった。

 しかし、がしゃん、と。金属の衝突音が鳴った瞬間、その心は戦慄に染まる。

 断罪の間の裁きからは何人たりとも逃れることはできない。その事実は未来永劫揺るがない。

 しかし、ケイルはそこに含まれない。彼は人ではないのだから――

「へえ。これが魔術か」

 先の物音とその奇妙にこもった面頬越しの声は、人々の頭上から降ってきた。

 慄然と白ちゃける面々の眸に、ぎしりぎしりと軋む大きな篝火皿と、その上で鎖を掴んで立つ異形の姿が鈴なりに映った。

 大魔方陣の眩い閃光が人々に刹那の盲目をもたらした瞬間、ケイルは跳躍したのだ。石柱へ跳び、石柱を蹴って、滞空を経て、篝火皿を吊るす鎖へと飛びついた。起動から発動まで一秒足らず、直径五メートルの範囲を灼熱地獄にかえる神の裁きから逃れるものがいるなど、誰が予想できようか。

「面白いもんだな」

 ましてや、魔術の名家から選出された王城仕えの魔術士十名が数時間かけて練った大型魔方陣を易々としりぞけて、まるで路上パフォーマンスの手品を見たかのような軽い感想をこぼす異形の男の思惑など、埒外もはなはだしい。

 国王をはじめ、魔術士たちの無意識に横たえていた慢心を映したかのように、火勢を削がれた魔法陣の炎は萎み、細かな火花の残滓が口惜しげに漂わせて霧消した。

 反射によって鮮やかに輝いていた赤い眼鏡は、途端に闇を吸って黒く濁り、流血のごとき色合いとなって白い外衣のものたちにじっとりと注がれる。ケイルが初めて目にしたその魔術は、議論の余地もなく攻撃的で、絶対の殺意をもってはなたれたものだったのだ。

「それにしても、端から殺す気だったとは――」

『ずいぶんよね』

 闇にぼうとうかぶ二つの鬼火は人の本能を恐怖に染めるに足る威容があった。ただただ絶句していた魔術士たちは肩を揺すってたじろいだ。

「何をしている! そいつを殺せ!」

 しかし、角度の関係でその眼光をまぬがれた籠のなかのディソウの叱責によって意気地を取り戻した彼ら、各々が各々様の構えをとった。両手を天に翳すもの、ケイルに指をさすもの、首飾りを両手で握りこむもの。

「我が傍らに集いしイカヅチの精敵を切り裂く剣となり矢となり破壊となりて――」

「盲目の竜魂の片割れを風として我に授けよ天を割り大地を削ぐ風雨の片鱗を――」

「彼方より来たりし古の左右の暴君右は敵を討ち倒し左は我を護る重厚な盾に――」

 早口で捲くし立てるように唱えるそれは、魔術の詠唱であった。精神動力を鼓舞する自己暗示の真言が、大気であれ、地であれ、装飾品であれ、いかなるときも離れず、絶えず祈りを捧げる媒体を介して出力される。

 十の殺意の具象。それは渦を巻く炎、眩い紫電、鋭い氷柱、大量の石礫となって、ケイルに延伸した。

 しかし、あまりにものろい。即効性の罠型魔術、ましてやその不意打ちを躱してみせた異邦の兵器が、わざわざそれを浴びる理由など皆無だった。断罪の間の虚空を斜に裂いた攻撃魔術の束は天井を焦がすだけに終わった。篝火皿の鎖を揺らすことさえない。それは、再び軽々と宙に跳びあがったケイルの脚力によってぶっつりと裁たれていたのだ。

 空中にありながらケイルはナイフを抜刀し、青眼に構えたそれを最上段に振りかぶり、身体を弓なりに仰け反らせて自由落下する。人工筋肉のおびただしい膨張が外骨格の体躯を普段とは別人と見紛うほどに脹らませた。全身全霊、重力と自重と渾身の膂力とを相乗したその矛先は――

 篝火皿の落下音が響きわたることはなかった。それをはるかに凌ぐ大音響が皆の耳を劈いた。明くる朝、夜更けに地震がなかったかと口々に囁かれることになる激震。床に地割れをつくり、壁を剥落させ、至近の魔術士を転倒させた衝撃波に雑じって、金属の裂ける高音が肌を粟立たせる。

 涅色のナイフの切っ先は、国王を守護する籠の上辺に深々と突きたっていた。

「ひゃぅぅぅ……ばぁ、馬鹿なぁ……」

 突如として頭上から降りかかってきた衝撃と眼前に飛びでてきた黒い刃に、品格も体裁も思考さえも、すべてを粉々に打ち砕かれたディソウはあうあうとあえいで股を濡らした。

 そしてその出来事は、王国きっての魔術士の攻勢、他国に比類なき鋳造技術、名高い付呪士の硬化魔術、それらすべてを単純明快な暴力がたったの一撃で粉砕したことを意味していた。まだ人間に多くが残されたこの世界にとって、滅亡と隣り合わせの世界で製造された兵器は、膂力一つとっても桁外れなのであった。

 めぎ、とナイフを引き抜いたケイルは、籠を足蹴にしたまま、亀裂からディソウの蒼白な顔を見下ろした。

「面と向かって話の続きだ。俺はあんたたちの捜している賊じゃない」

 ケイルは噛んで含めるように陰々と続ける。

「証拠はないといったが、根拠はある。俺はあんたを何時でも殺せる。出頭する義理もない。だが俺はあんたを殺さないし、素直に登城した。それが根拠だ。俺もその犯人に興味があるからこそ、わざわざここに来たんだ」

 自身の兵器としての威力こそが何よりの論拠だと、ケイルは語る。

 身をもって、嫌というほどそれを見せつけられたディソウはしかし、もはや得心するどころではなかった。整えられた白い顎髭に王たる威厳は影もなく、赤子のように垂らした涎がいやいやと首を振るたびに糸をひいていた。

『あちゃー、こりゃ駄目ね。ジジイびびり過ぎ。精神的にお話にならない感じ』

「やり過ぎたか……」とケイルがこぼした。

 瞬間、後方からの鞘鳴りを認めた彼の身体はぐるりと反転し、ナイフを翳していた。

 剣戟の火花が長々と散る。銀の白刃はケイルの首筋まであとわずかというところでナイフにいなされ、ぎりぎりとわなないていた。

 急襲の剣士はリルドだった。眉を戦意に吊り上げた近衛兵団長の凛然たる面差しが甲虫のごとき面頬と肉薄する。

『ちょっとちょっと。今めちゃくちゃ速かったわよ。伝える暇もなかったわ。きっとこのキルビル女は魔術剣士なのね』

 アーシャの推測するとおり、剣士の身でありながら特殊な魔術を修める近衛兵団長。

 王国の名だたる剣勇であっても必死と恐れられた強襲を防ぎ、今もなお渾身の力で振り抜こうとしているのにそれを歯牙にもかけない異形を睨むリルドの脳裡には、確かにケイルの意図に副った、無敵を証左とする無実の論拠といった論理がかすめ過っていた。

 リルドは刀剣を交えたまま、おもむろに口を開く。

「賊は全身を、頭部までもを奇妙な甲冑で固めていたという。そして単身でありながら我が近衛兵団の精鋭たちを瞬く間に虐殺した。……貴様ならば、それだけの行為が可能なように思える。つまり外見もその力も、貴様以外には考えられないのだ」

 そう。皮肉なことに、無敵なればこそ、という思いがわきたつのも道理なのだった。

 そしてケイルからすれば、だからこそ従順に登城したのである。

「外見も力も、そこまで似た犯人に俺は興味がある。だからあえて足を運んだといっている。あんたも自分で訊いてきただろう。なぜ出頭するのかと。俺が本当に犯人なら、のこのこついて来ると思うか?」

「……確かに貴様の物言いには常識がある。だが言葉以外のすべて、貴様という存在はことごとく非常識だ。そんな得体の知れない男を易々と信じられるわけがない」

 刃を交えたままの剣呑な問答は、出口の見えない水かけ論に変じつつあった。

 二者の足許にて譫妄状態にあるディソウと、推移を見守るしかすべのない魔術士たち。もはや解決はないと思われたが、ふとアーシャがもらした一つの疑問が進展の糸口となった。

『そういえば、外見特徴の証言があるってことは、目撃者がいるのかしら?』

「そうだ、目撃者。その賊を見た人間がいるのだろう? その人に会わせてくれ。そうすればはっきりする」

「それはッ……」リルドは初めて明確な動揺を語勢ににじませた。刀剣を握る姿勢は揺るぎなかったが、鋭かった眼差しは憂慮をおびてわずかな翳りをみせた。「それはできない」

「なぜだ?」

 答えようとせず、きゅっと唇を結ぶリルド。

 彼女も目撃者の召喚こそがこの進退窮まる問答の解決策としてもっとも合理的であることは重々承知しているのだ。しかし近衛兵団長の一存で決められるような事案ではなく、何よりも彼女自身の感情が危険な場への目撃者の登場を頑なに拒んでいた。

 しかし、そんなリルドの願いを裏切るように、かの人物はひょっこりとやってきた。

「目撃者なら、ここにいますよ」

 広間の入口から響く軽やかな名乗り。

 両開きの扉を重そうに押し開ける一人の女。背後に続く官女たちがあわてて代わる。あどけなさをわずかに残す面持ちに照れ笑いをひらめかせ、女はするすると入室した。

 背でなびく白金の長髪は通路の朱光を抱いて光輪のようにたおやかな体躯を縁取り、金糸の精緻な刺繍がほどこされた黒地のドレスからすらりとはえる細腕は陶器のように白く、その対比は毒々しいほどに目映い。その女をかたちづくる明暗際立つ色合いのなかで、深海のように蒼い眸だけが神秘的な光を湛えていた。

「いけませんッ! ミリア王女様!」

 リルドは跳ねるようにケイルから離れ、その女との間に立ち塞がった。

 ミリア王女。賊を目撃して生き残ったのはただ一人、それが彼女、ミリアなのだ。そしてそれこそリルドが目撃者によるケイルの面割りを渋った理由だった。唯一無二の目撃者ではあるが、同時にこの王国で唯一無二の王女でもある彼女を危険な賊容疑者の証人喚問に召喚するわけにはいかなかったのだ。

『おやおや、王女様までおでましよ』

「ようやく建設的な話し合いができそうだ」

 ケイルはナイフをシースに収めて守護の籠から飛び降りた。

「下がれ! 近づくな」

 リルドは歩み寄ろうとする異形を刃先で制した。近衛兵の長でありながら女の身であり、同年代であることを考慮され、ミリアの側近としての任も授かる彼女。守護の籠の容積は一人分であり、それをディソウが占める今、身を挺して御身を隠そうとする。

「危険です! 下がってください!」

「あら? どうして?」

 だが当のミリアはどこ吹く風。小首を傾げつつも躊躇いのない足取りでリルドの背後にまで達すると、その肩に両手をかけ、ひょいと背伸びをするようにケイルを見やった。爪先から頭まで、じっくりと視線を這わせながら小刻みに頷くと、はにかんだように薄く笑う。

「あらぁ。あらあら。やっぱり」

「ミリア王女様……?」

 リルドの呼びかけに、ミリアはすとんと踵を落とし、今度は刀剣を握った腕に手をそえる。

「剣を下ろしなさい、スパイル兵団長。あのかたは賊ではありません。私の部屋に来た人とはちょっとかたちが違うみたい。人違いですよぉ」

「人違い……?」

 その言葉に、リルドだけではなく、魔術士たちも、自失にあったディソウも、目を丸々と剥いた。あんぐりと開かれた口は息も忘れ、視線だけがミリアとケイルの間を忙しなく往来する。彼らの頭のなかでは同じ疑問符がぐるぐると旋回していた。人違い? と。

 ミリアはリルドの前へ歩みでて、ケイルに正対すると小さく目礼した。

「どうか無礼をお許しください、見慣れぬ人。……あらいやだ。私ったら。処刑されかけたのですから、無礼どころの話ではないですわよね、ねえ?」

 のんびりといって、目を弓なりに細めて笑う。うふふふふふ、と。

 つい先まで断罪の間を支配していた剣呑な雰囲気も今や消え失せ、なんとも締まりの悪い一拍に暢気に過ぎる笑い声だけがころころと響いた。空気を読まないことにかけては右にでるものがいないと思われたアーシャも、たまらずケイルと顔を見あわせる。

 ミリアはダンスに誘うような調子でドレスの裾をついとつまみあげた。

「こんな夜分に紳士を誘うのは不躾だと思いますが、どうかお茶の席に招待させてくださいな。冤罪へのお詫びといってはなんですが、あなたが気にされていた犯人について、私の知るかぎりのことをお伝えしましょう」





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