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異形の魔道士  作者: IOTA
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9 城壁



 ライアスは原隊である第八大隊の兵舎、そこの上級士官詰め所の一角にて、終始硬直していた。

 ぴんと背筋を伸ばして椅子に腰掛けた姿勢のまま、まるで見えない針金によって頭から爪先までがんじがらめにされたように微動だにすることさえ叶わなかったが、唯一その縛めを逃れた眼球だけは、狂おしいほどにきょろきょろと泳いでいる。

 彼の惨めな眼差しの先、木製の長机を挟んだ向かいには、第八大隊の大隊長と二十一中隊の中隊長、そして王城近衛兵団の兵団長のすがたがあった。つまりライガナ王国軍部の錚々そうそうたる面々が眼前で鎮座しているのだ。

 日はとっぷりと落ちており、随所のオイルランプの頼りない灯りがそうでなくとも相対した者に緊張を強いる彼らの厳めしい顔に色濃く射影を落とし、より一層険しく見せていた。

 また、近衛兵団長が燻らせる細長い煙管パイプの紫煙が淡いとばりとなって、高級将校たちと、彼らにとっては雑兵に毛がはえた程度でしかない下級士官との彼我を隔てているようでもあった。

 賊容疑者と二人の部外者を含めたライアス率いる捜索隊は、ポルミ村を発ってから一晩の野営を経た明くる日、日を跨ぐ直前に王都デリトに到着していた。その帰路は危惧された魔物との遭遇もなく、順調なものだった。徒歩のケイルに合わせた並足を鑑みればのどかとさえいえたかもしれない。

 だが、捜索隊とケイル一行を王都を囲う城壁の門前で待たせ、一人、先んじて帰還報告に戻ったライアスを出迎えた軍部の反応は、まったくの真逆のものだった。その報せは順調とも受け取られなければ、ましてや遅いなどとは到底思われなかった。むしろ、あまりに早すぎたのであり、そのせいによるちょっとした騒動が巻き起こっていた。

 線の細いひょろりとした印象のある壮年の中隊長は、それが幾度かも定かでない大義そうな嘆息に喉を灼いた。

「まったく……。王都を発ってから四日足らずで捜索隊の一つが帰還したという報せを受けた時には耳を疑ったぞ。そしてそれが貴様の隊だと聞いた時には忘れ物か何かかと心配になったものだが……」

 ライアスのけっして優秀とはいいがたい軍人としての資質を熟知する直属の上官にあたる中隊長。彼の嫌味には、ポルミ捜索隊のとんぼ返りという出来事によって夜分遅くに緊急招集をかけられたことに対する苛立ちが含まれていた。

「それがどうだ。あろうことかこの王都から駿馬で半日とかからぬポルミの農村に、賊が身を寄せていただと? さらには村民に異様なまでの博愛精神を見せたと。貴様が罪状を告げたところ出頭を申し出た……と」

 そしてつるりとした禿頭を神経質そうに撫であげ、悩ましげに目頭を揉むという態度は、ライアスが口述した帰還報告の難解さを物語っていた。

 三者を前に極度の緊張に苛まれたライアスの報告は聞くに堪えない、不出来な腹話術でももう少しましであろう訥々としたものであり、その聞き苦しさに目を瞑ったとしてもどうにも要領を得ないしろものだったのだ。しかしそれも無理はない。

「あ、あの、私も不可解だったのですが、しかしながら、賊に酷似した人物の出頭の申し出を蔑ろにする理由もないかと思いまして……」

 ケイルの一連の言動はそれと直に応対したライアス自身でさえ理解しがたいものだったのだから、事実をありのままに語っても誰の納得も得られないのは自明といえた。

 弁明するようにおずおずと述べるライアスを煩わしがるような手振りで制した中隊長は、意見を求めようと隣の大隊長に目配せをする。

 中隊長に較べると如何にも強面なずんぐりとした体型の大隊長。彼はたっぷりと葡萄酒をたくわえた樽のような体躯を鷹揚に構え、無精な顎髭を指先でもてあそんでいた。中空に視線を固定したまま、おもむろに口を開く。

「村人に狼藉を働こうとして殺害された兵たちは、バリーガ分隊の面々だといったな」

「は、はい。私も止めようとしたのですが、彼らは聞く耳を持たず……」

 ともすれば釈明を挟もうとする脆弱な士官を、中隊長は鋭い眼光で睨み据えた。きつく縛った巾着のように唇をしぼめて項垂れるライアス。

 バリーガの悪名は大隊規模で知れ渡っており、高級士官たちは然もありなんといわんばかりに悪行そのものについては取沙汰そうとはしなかった。しかし、悪名に隠れてしまいがちな、彼らが古強者であるという事実はいくばくかの疑念を抱かせるものがあった。

「確かに素行は悪くともバリーガ分隊は先の大戦にも従軍した歴戦だ。黙って殺されるような者どもではあるまいに」

「それが、その人物は瞬く間にバリーガ分隊の全員を殺害してしまったのです。愚考するにあれは非常に強力な未知の魔術、いえ、魔道だったのではないかと……」

 魔術も魔道も見当違い甚だしいのだが、銃撃という概念を有しておらず、説明しても理解が及ばぬであろう者からすれば、その誤解も無理からぬことだった。ライアスに限らず、バリーガ分隊が殺害される場面を目撃した他の捜索隊兵士も説明を求められたのなら、きっと魔道に違いないと口をそろえるだろう。

 現にケイルが瀕死の狼男にとどめをさした場面を目にしたポルミ村の男たちは、彼のことを魔道士と呼んだ。浅短な者にとって、未知の現象と魔道は等符号で結ばれる。

 だが、その場に居合わせず、身分とそれ相応の学と、また昔かたぎの王国軍人らしく魔道士という称号に関するやや病的な頑迷さを有した大隊長にとって、その言葉は到底聞き流せるものではなかった。

 太い眉をぴくりと寄せると視線を落とし、そこで彼は初めてライアスを直視した。

「魔道だと? その賊が魔道士だと、貴官はそういうのか?」

 中隊長の眦を鋭い槍とするなら、大隊長のそれには大鎚のような物をいわせぬ迫力があった。前者は身を捩って回避したくなるものであり、後者は目を逸らすことを許さない重圧とでもいおうか。

 言葉の選択の拙さを思い知ったライアスだが、覆水盆に返らず。とうにひいていた血の気がその表情から完全に失われ、蒼褪める。

「その称号で謳われる智の者は絶えて久しいが、貴官はこともあろうに王家に害を為した大罪人をつかまえて魔道士だと、そういうのか? 愚考も愚考。口さがない平民ならいざ知らず、代々国に仕えた武人であるアクエの字名を持つ旧家の者が安々と使っていいような言葉ではないぞ」

 眼差しと同じく重く静かな大隊長の叱責。その隣では浅はかな部下を痛罵せんばかりに中隊長が顔をひき歪めていた。

 ライアスは弾かれたようにこうべを垂れ、謝罪の言葉を迸らせようとしたが、それとも、と。

 今まで静観に徹していた近衛兵団長が唐突に口を利いた。

「畏れおおい言葉だと知りつつも、あえて魔道としか形容できないほどにその賊の異能は強力だった。違いますか?」

 突然の発言だったこともさることながら、問いかけというよりも何かわけを知ったうえでの確認というようなその口振りに、ライアスだけでなく大隊長と中隊長も胡乱の面持ちで近衛兵団長を見やった。

 中隊長よりもさらに細身であり、ライアスよりも背丈の低い近衛兵団長。それもそのはず、近衛兵団長は妙齢の女人なのである。

 この重苦しい密室には似つかわしくない、華奢でどこか儚げな、浮草のような彼女はしかし、男たちの眼差しに微塵も物怖じした素振りを見せず、落ち着き払った様子で薄い唇に寄せた煙管をひとくち喫いさし、じっとライアスを見返した。

 隣に並ぶ二人の高級士官たちとはまた別種の、猛禽のような双の眸は、命令しそれが聞き届けられることにいささかの疑念も抱いていないような、まっすぐなものだった。

 彼女はまた淡い紫煙をひく煙管を運び、手許に置かれた小鉢を叩いて揉み草の灰を落とした。その深沈とした所作と相まってか、彼女が帯びる雰囲気は高慢というよりも高貴といった印象のほうが勝る。

 優雅とさえいえそうな仕草を陶然と見入っていたライアスは、かつんと、その煙管を打つ硬質な音を受けて思いだしたように頷いた。思いがけない助け舟に乗ろうと、すかさず述べる。

「は、はい。浅学の身では推測に用いることさえ軽率な言葉でしたが……それでもやはり離れたところにいる兵たちを一瞬で屍の山に変えるなど。そのような魔術も武器も、私は寡聞にして存じません……」

 つまり魔道と呼ぶより他にないではないか、と言外に主張するような物言い。大隊長と中隊長に対する先の失言への弁明のつもりだったが、彼らの関心はもうそんなところにはなかった。

 屍の山。ライアスの口からその言葉がでた途端、ちらりと意味深に目線を交わし、そろって近衛兵団長を窺い見ていた。

 小首を傾げるライアスだが、二人の上官の些細な所作が物語る多くの事実を、すぐに察した。

 六日前に王都内を席巻した賊捜索騒動。それに起因してまことしやかに囁かれるようになった、王城内部での徒ならぬ刃傷沙汰と、そこの守護をつかさどる近衛兵の大量失踪。大隊長と中隊長もその真相は知らないのである。

 だからこそ軍部にありながらその職務柄、独立色の強い近衛兵団の兵団長にこうして不躾な眼差しで言外に詰問しているのだ。そろそろ真実を明かす頃合なのではないか、と。

 しかし、彼らの露骨な視線に気づかないはずがない近衛兵団長はあくまでも澄ました顔で、そうですか、と静かに首肯して問いかけを続ける。

「それで、その賊は今どこに?」

「連行する前にまずは指示を仰ぐべきかと思いまして、城壁の外、南門の前にて捜索隊と共に待機させております」

「そうですか」

 先とまったく同じような抑揚を欠いた声音で素っ気なく相槌を打った近衛兵団長。

 煙管を指先でまわし、長い睫毛に翳る涼しげな目許は思案に沈んでいた。やがてふむ、と小さくうなり、ゆっくりと立ち上がって夜を映す窓辺に歩み寄った。三人は闇夜に溶けるような漆黒の長髪を目で追い、彼女が再び口を開くのを待った。

「私がこれから話すことは、王国の沽券こけんに関わる事情ですので、他言なきよう」

 そう断ってから、近衛兵団長は事件の全容を語り始める。

「六日前のことです。ミリア王女様に仕える官女が、不審な人物が王女様の部屋に現れたと、城内の近衛兵詰め所に半狂乱のていで駆けこんできたそうです。その場に居合わせた部下たちは総員で王女様の部屋へと急行し、そして――」

 言葉を区切り、おもむろに振り返る近衛兵団長。その年頃の女にはあるまじき感情をほとんどおもてにださない氷のような面持ちは、見る者に底冷えを抱かせた。一文字に結ばれていた色素の薄い唇だけが、再び妙にはきはきと動き始める。

「全員、殺されてしまいました。たった一人の賊に、二十八名の近衛兵たちが、全員、一人残らず。奇跡的に一命を取り留めた者もいません。いっそ清々しい、完膚なきまでの皆殺しです」

 三人の軍人たちは一時まじろぎも忘れて息を呑んだ。ひどく平坦な口調で淡々と語る近衛兵団長だが、それは狂おしいほどの自制心をもってしているのは明らかであり、二十八名もの部下を葬られた彼女の途方もない激情を確信させるには十分だった。

 そして何より、精鋭の近衛兵たちがただ一人の賊に圧倒されたという事実。

 近衛兵の勤務は儀仗ぎじょう的な色合いも強く、最前線で戦う兵士ではないが、それでもその兵のなかから特に優れた武術を有する者たちだけが王城に常駐する近衛兵に名を連ねることが許される。つまり、そんじょそこらの雑兵とは較べものにならないほど精強であるはずなのだ。

 そんな彼らがなす術もなく蹂躙されたなど、その件に関して冗談や誇張を持ちだすわけもない近衛兵団長その人の口から語られたのでなければ、にわかには信じられないことだった。

 ただただ驚愕という男たちの反応を見て取って、近衛兵団長はそのとおりですと言わんばかりにゆっくりと顎を引いた。そして長机をまわりこみ、緩慢な足取りでライアスに歩み寄った。

「王国の誉れである近衛兵が、たった一人の賊に遅れをとるなどあってはならないことです。そんな噂が諸外国に広まれば、我が近衛兵団だけでなく、無敵を誇ってきたライガナ王国の兵力までもが疑問に問われてしまう。つまり、それはつけこまれて然るべき弱みです。国々が魔物被害への専守防衛に苦心するこの時勢がらであったとしても、おいそれと口外するのは好ましいことではありません」

 この場ではもっとも階級が低く、また王国の機微など与り知らぬ雑兵に立場が近い下級士官に肉薄した近衛兵団長は、彼をじっと見下ろす。その真摯な眼差しは身分を笠にきた風でこそないけれど、口外はもちろん、反感を抱くことさえも禁じる厳しさがあった。

「それ故の箝口令かんこうれいです。中隊長以上の高級士官には近衛兵に被害があったとしか、下級士官以下にはそういう出来事があったことすら正式には知らされていないはずです。殉じた近衛兵の葬儀ですら、密葬だったのです……」

 語尾には隠しきれぬ憂いを滲ませた彼女だったが、すぐに面持ちを峻厳なる武人のそれに正した。

「捜索隊も疑問に思ったことでしょう。なぜ、たった一人の賊に百人もの兵が出張らなければならないのか。なぜその理由を知らされないのか。それにはそういったやむない事情があったのですよ。理解してください」

 疑っていた箝口令の事情を明かされて、ライアスは顔色を隠すように床を見つめて、唇を強く結ぶ。堕ちるかどうかもわからない王国の面子と引き換えに、自分と部下の命が危険に晒されたのである。それを全肯定できるほどライアスは愚直な軍人ではなかった。

 そんなライアスの心情を察したのか、近衛兵団長はぴくりと柳眉を持ち上げるが、話は終わりだという態度で大隊長と中隊長のほうへ振り返る。

「賊の処遇については、国王ディソウ様の命により、これより近衛兵団が一任させてもらいます。まずは私が直接部下たちを率いて南門へ向かい、丁重に応対したいと思いますが、いかがか?」

 どうするつもりかは知りようもないが、近衛兵団長のいう丁重な応対とは、けっして額面通りの意味合いではないだろう。しかし国王の命があると前置きされた以上は反論などあるはずもなく、大隊長と中隊長は苦々しげに首肯するより他になかった。

 そうして真夜中の緊急会合は静かに、けれどもそこはかとなく剣呑と思われるほうへ舵を切り、終えようとしたのだが、そこで突如として、外から鐘の音が響いてきた。

 一瞬にして一同は色めき立つ。その鐘楼からの音色は魔物の襲撃を報せるものだった。遠方から故に音量自体はかすかなものだったが、休む間もなく乱打しているであろう絶えることのない律動的な金属音は、現地の切迫した状況を克明に物語っていた。

 ほとんど間髪を容れずに部屋の扉が勢いよく開けはなたれ、一人の兵士が駆けこんできた。高階級者が控える室内へはノックをして入室の許可を待つという礼節は、緊急時には無論その限りではなく、それらを意図して省いたであろう齢若い兵の顔色は、狼狽に血相を変えていた。

「も、申しあげます! 魔物です! 魔物の襲撃です!」

 椅子を倒してやおら立ち上がった大隊長が叫んだ。

「魔物ども、間の悪いやつらめ! 兵を集め、部隊を西に向かわせろ!」

 諸事情により、魔物の襲撃は西方に集中していた。それ以外の方角でも勿論ないことはないのだが、西方の頻度に較べれば取るに足らないものだった。王都を聾し続ける警鐘の長さから、今回もまた西方からなのだと決めつるのは性急とはいえまい。

「いや、この音の方角、西ではありませんね」しかし、蔀窓を跳ね上げた窓辺に再び歩み寄っていた近衛兵団長が大隊長の予想を一蹴し、耳朶を打つ鐘の音の音源を定めたに見えて、弾かれたように振り返る。「まさか――」

 城壁外に部下と、そして賊の容疑者を待機させてきたライアスは、のちに続く兵士の言葉を耳にして、事態はさらに複雑な方向へと転がり落ちていくのを予感することになる。

「はい、それが……南です。南門の前に、魔物が大挙して押し寄せています!」




 その少し前。くだんの南門は毎夜と変わらぬ平静にあった。

 しかしながら、その景観は牧歌的とはいえそうにない。

 堅く閉ざされた木製の巨大な門扉。左右の石柱に掲げられた大きな松明がぱちぱちと爆ぜ、その硬く冷たい全容を夜陰にぼんやりと浮かび上がらせていた。

 構造は実に単純であり、切り倒した巨木を縦に連ね、横に渡した鉄板を杭で打ちつけてひとつなぎに固定されているに過ぎない。観音開きではなく、内から外に跳ね上がる仕組みだ。開門するにはてこを利用した装置を介するのだが、それでも数十人の男手が必要になる。

 逆に閉門する際には力は必要なく、固定具を外すだけで事足りる。重力に従った門扉は板状の振り子と化し、凄まじい勢いで振り下ろされ、強制的に閉てきられる。

 視線を脇に移すと、雲の切れ端から顔を覗かせる頼りない月光が切れ目もなく延々と続く壁面を薄青く染め上げていた。高さは十メートルほど、削りだしの無骨な岩のブロックが隙間なく積み上げられ、外界の一切を拒絶する絶壁となって聳え立つ。

 その頂上部をめぐる回廊には鋸歯状に狭間がきざまれ、弓を携えた歩哨と大型弩砲とが等間隔に配置されていた。平野を隔てて眼下に広がる黒々とした森林に油断のない走査を配っている。

 開く際の不自由よりも閉ざす際の速度を優先した門扉、堅牢な城壁、不寝番の多さ。それらすべてがこの世界のおちいる常時戦渦の剣呑さを雄弁に物語っていた。

「あらためて見ると大したものだな」

 一人、門前に佇み、門扉を仰ぎ見るケイルは、歴史的建造物を臨んだ時に人が往々にするように、あまりある想像力を未発達な文明で実現するに伴う苦労と試行錯誤を慮り、素直に感心していた。

 そんな彼の物見遊山的な感慨など傍からは察せられるわけもなく、外壁上の哨兵たちは魔物出現の兆候に割くべき注視のほとんどを真下から不気味なまなじりを寄越す異相の男に注いでいた。毎夜と変わらぬ静けさの中にあっても、そこに務める兵らの心情はけっして穏やかではない。

「この国が大陸で一番力を持っているという話だったが、然もありなんというところか」

 ケイルの言葉を受けて、挑むように頭上を仰いでいたアーシャがふんと鼻を鳴らす。

『ま、この程度の防御態勢、あなたにとってはあってないようなものだけどね。万年フリーパスって感じ』

 そしてケイルを見て、自慢げに笑う。

『実際、六日前はらくしょーで出られたわけだし』

「まあな。だがそもそも脱出ではなく侵入を拒むための構造のようだ。這入るのは容易じゃないだろう」

 実を明かせば、彼らの物言いからわかるように、ケイルとアーシャがこの王都デリトを、ことに南通行大門を訪れるのは、今回が初めてというわけではなかった。

 二度目なのだ。確かに六日前、彼らはこの南門から王都を出ている。無論、彼らのような存在が正式な手続きに則って門を潜ったわけもなく、その方法は誰にも気づかれないように外壁の上から飛び降りるという外壁建造以来空前の、おそらく絶後であろう手法だった。

 そんな、彼らの不穏な過去についてはのちに触れるとして、確かに六日前、現時刻と同じような深夜に、彼らはここに存在していたのだ。

 そして今は、当時は知る由もなかったいくつかの情報をサイから聞き及んでおり、いろいろな考察を巡らせることができる。

「……少なくとも俺にとっては簡単じゃない。物理的な手法に頼るなら」

 意味深につけ加えられた言葉に、アーシャもふぅむと神妙にうなる。

『そうね。二十年前から魔物が現れるようになったと聞いた時には、まるで私たちの世界と同じ惨状だと思ったけれど、やはりこの世界の状況は私たちの世界ほど壊滅的ではないようね』

 頷いたケイルは、今一度外壁に視線を巡らせた。

「アバドンと同じように所構わず魔物が出現するのなら、この壁では無意味だ。むしろ内部に出現を許した場合は檻にしかならない」

『侵入を阻むだけの構造にしたということは、王都の内部に魔物が出現した事象はいまだ確認されていないということなのでしょうね』

「つまり、俺たちの世界では傾向すら見出せなかったアバドンの出現パターンだが、この世界ではなんらかのパターンが確立されている……?」

 ケイルは視線を落とし、丸い双眸にまじまじと相棒の姿を映す。

 片肘を抱いておとがいをつまんでいたアーシャだったが、ふと思案顔をニヒルな失笑に崩した。

『なんでもかんでも私たちの世界と較べて話を進めるのも無為な気がするけどね。ポルミ村のような、なんの防衛策も持たない農村が、まあ私たちが狼男から助けなければ全滅していたでしょうけど、それでも魔物が現れるようになってから二十年間も連綿と営んできたことを考えると、私たちの世界とは比較にならないほどゆとりがあるということでしょ。ここに着くまでも一回も魔物に遭遇しなかったし』

 それに、とアーシャは壁伝いのちょっとした拓地に眼差しを移す。

『巨乳魔術士は囮といっていたかしら。それが本当か嘘かはわからないけれど、あんな脆弱な存在が存命である時点で、比較するのも馬鹿馬鹿しくなるくらいのゆとりよ。ゆとり教育よ』

「ゆとりという物言いが適切かどうかわからないが。巨乳魔術士は明らかに不適切だな……。なんにせよ、まだまだ情報不足だ」

 アーシャの言い草への辟易か。あるいは不可解な現状へのものなのか。ケイルはおそらく両方への気だるげな嘆息を吐き、アーシャのいうところの脆弱な存在のもとへと歩き始めた。

 そこには数十名の人々の姿があった。無光の闇を湛える森林と外壁との狭間、ちょうど海と防波堤の間の砂浜のように設けられた拓地。南門からすぐ近くの一部分だけが開墾作業を途中で放棄した荒地が歪に突出しており、そこにぽつりぽつりと設けられた篝火を車座に囲むかたちで心細げに身を寄せ合っている。

 彼らは町村から王都に救い求めて集まった難民だった。皆が枯れ木のように痩せ細り、面持ちは憔悴しきっていた。生命のあかしはまばたき程度の隠微なもので、それすらもひどく億劫げな間遠なものであり、彼らのもとに去来しているのは単なる睡魔などではなく、きっと安らかな永眠を約束する死神だろう。

 かつて一縷の希望と僅かな食料を抱いて王都へと絶望の旅路に臨んだ彼ら。時には歩けなくなった老人を置き去り、時には病を患った幼子を見捨て、身と心を紅蓮地獄の極寒に腐らせながら、それでも命辛々辿り着いた彼らを待っていたのは、さらなる絶望、無情な門前払いだったのだ。

 いや、サイが語っていた推測が正しいのであれば、門前払いよりもさらに悪い。彼らは魔物への供物、生贄なのだ。魔物が襲撃してきた際、少しでも時間を稼ぎ魔物の腹を満たすための贄。

 そのためここ王都の権力者はあえて彼らを追い返そうとせず、ただただ黙って、集まるがままに、食料が尽きて餓死するがままにしているということになる。半生半死、生殺しだ。

 ケイルはその巨体を滑らせるようにして雑然と地べたに蹲る人々の間を練り歩く。一見しただけで驚嘆に値するはずの異相の姿を眼前にしても、それとわかる感情を表情に宿すものはほとんどいない。疎ましげなまなじりには好奇心に割り当てるべき気力が消失していた。

 難民たちと肩を並べて座りこみ、じっと篝火を見ていたサイとゼロットは、近づくケイルを認めてそっと立ち上がった。

「あんまりうろちょろするんじゃないよ。あんたの格好は弓兵に射かけられてもおかしくないんだからさ」

 ぷっくりとした唇には似合わない、少年のように口角を持ち上げたサイの微笑みは、けれどもケイルの見慣れた疲労の滲んだものだった。

 サイとゼロットはここに到着してからというもの、動きっぱなしだった。到着早々、過去にポルミ村から追放された数人の難民と再開の抱擁と会話を重ね、それからはサイが自宅から持ってきた食糧をゼロットと協力して均等に分配して回っていた。

 門前の惨状を聞き及んでいたサイはこうなることを見越して家から余分に食糧を持ってきたのだが、それでも三十名近い難民の総数を満足させるだけの糧が行き届くわけもなく、一食分の足しにもならない。いや、仮に十分な食糧があったとしても生命の足しになるかは疑わしい。

 サイの足許には穀物の練り物を手にしたまま口にしようとはせず、抜け殻のようにじっと項垂れる少年の姿があった。幼い頭では処理しきれないストレスにより、頭髪はまばらに抜け落ちていた。彼らに必要なのは栄養だけではなく、時間をかけた保養なのだ。

「治癒魔術でもどうにもならないのか?」

 ケイルの問いに、サイは瞳を落としてかぶりを振った。

「治癒魔術は受術者本人の自然治癒力を強化促進させるものでしかないんだよ。栄養失調とかで極限まで衰弱し自然治癒力がすっかり減衰しちまった彼らには、ほとんど効果がないんだ」

 一を十にはできるが、零を一にはできない、とサイは語る。回復へ向かうか否か、もっとも大事なのは傷病者本人次第という点では、通常の医療と同じ基盤を有する概念だ。

『魔法じゃなくて、魔術なんだから。魔法は奇跡を起こすもの。だけど魔術はそれなりの理屈の上に構成された学術の一種なのよ、たぶんね』

「よくわからんが、万能ではないということか」

 口にして、ケイルははっとする。音声の外部出力をオンにしたままだった。アーシャへの返答のつもりが、声にでてしまっていたのだ。そして口にした時点でそれは自動で翻訳され、発声される。

「そうだね。零を一にするのは死者蘇生の領域で、魔道士の領分だよ。あいにくあたしは魔術士でしかないのさ」

 当然、アーシャの存在など知らぬサイは己への言葉なのだと従容と受け止め、時折子供が寄越す無垢ゆえの辛辣な言及に答えるように、穏やかに説明しながらも心痛を滲ませた忍び笑いをもらした。

『あーあ。泣かせたー。いけないんだー』

 相棒の失敗を嘲笑するアーシャ。ケイルはすかさず言い返そうとしたが、同じ轍を踏むことを恐れて忌々しげに瞥見するだけに留めた。

 もとの世界ではアーシャ以外の存在と会話をする機会にほとんど恵まれなかったケイルは、他者とのコミュニケーションに纏わる操作にもともと不慣れだった。そうならぬよう今までは気を遣っていたが、この門前に立ちこめる死と絶望の臭いが元の世界とあまりに似ていたため、自然と口走ってしまったのかもしれない。

 気まずい沈黙から逃れるように背後を振り返るケイル。目尻に涙を溜めて大きな欠伸をしていた王国兵が一人、その眦を受け、びくりと固まった。共にポルミ村からやってきた捜索隊の隊伍だった。報告のために先んじて一人城壁をくぐったライアスから、彼らはケイルの監視を仰せつかっていた。

 百名近い彼らは森を背にし拓地をぐるりと囲むかたちで横一列に整列しており、逆説的にケイルと粗雑な難民キャンプは城壁を背にして捜索隊に包囲された格好になっている。

『健気だこと。雑兵も大変ねえ。いい子はおねむの時間よ』

 アーシャはふあぁと盛大な欠伸をした。システムが見せる幻影の身で眠いわけもなく、真似でしかない。

『ねえ、ちょっと脅かしてみましょうよ。彼らに向かって猛ダッシュするだけできっと蜘蛛の子を散らしたように逃げてくわよ。眠気覚ましにちょうどいいかも』

 眠気覚ましと退屈しのぎのために剣を抜かれたらかなわない。精神的余裕を得てか、元の世界に較べて頻度の増したアーシャの軽口に、ケイルは呆れ半分の失笑をもらした。

「それにしても遅いな。ライアスとかいう隊長さんはどこまで報告にいったんだ」

『もう一時間になるかしら。朝まで待機とか、勘弁よね』

 アーシャがいい終えた、ちょうどその時だった。

 今まで隊伍の後ろで大人しくしていた軍馬が一斉にいななき、落ち着かない様子で身動ぎし始めた。それに刺衝されたわけではく、ほぼ同時に、森で眠りにあった鳥たちが何百羽と飛び立ち、木々を鳴動させる。

 なかば夢うつつにあった兵士らは肝を冷やし、各々の愛馬のいかれる首を抑えて頻りに宥めようとするが、動物たちの恐慌は一向に静まらない。人間よりもはるかに敏感な野生動物の危険予知能力が、身に迫る危機を察知したのだ。

 そしてほぼ間を置かず、野生動物よりも具体的で現実的なヘカトンケイルのセンサーも忍び寄る危険とその重大性を使用者に報せ、行動に移らせていた。

 ケイルはサイとゼロットを手招きし、点在している難民たちを一ヶ所に密集させるよう指示をした。

「いったいどうしたっての。何を始めるきだい?」

「何かが森から近づいて来ている」

 答えるケイルの視線はすでにサイになかった。彼の赤い眼鏡は慌てふためく捜索隊の後方、鳥たちの羽ばたきの余韻によるものにしては嫌に長く、怯えるようにざわざわと鳴り続ける闇夜に満たされた森林に、逸れることなく据えられていた。

『悪しきものの近づく気配がする』芝居がかった口調で冗談めかしていうアーシャだったが、のちに続く発言からは軽薄さが消えていた。『それも大量にね』

 配給の恩義が効いたにみえて、難民たちは訝しげにしながらもサイとゼロットの誘導に素直に従った。ぞろぞろと門の前に集まり始めるが、その億劫な避難が終わるのを待たずして、それは姿を現した。

「うわああああ」

 驚きに心の臓を止めんばかりにひっくりかえった兵士の悲鳴が拓地を駆け抜け、城壁で弾けた。

 皆がびくりと肩を揺らし、恐々と向けられる視線の先では、一人の捜索隊兵士が狂乱をきたしたかのように身を捩り、暴れまわっていた。まるで一人芝居かに見えたが、彼が足を縺れさせどうと倒れ伏す段になって、ようやっと人々の目はその背に取りつく闇の眷属のおぞましき姿に順応し、見開かれる。

 それは影法師の如く黒かった。かたちと大きさは人に似ているが、しかし衣服を纏っておらず、体毛もなく、さらされた全身の表皮は墨のように黒く、罅割れていた。

 人間大の体長に比して不気味なほど小さく細い頭部には点を打ったような眼球が四つ。鼻があるべき場所にしかしそれは見当たらず、頭部の半分を占める大きな顎は、上下ではなく左右にばっくりと割れ、咀嚼を犠牲に捕食に特化したと思しき無数の牙だけが白々と輝いていた。

 兵士は振り解こうと暴れるが、細長い四肢でがっしりと組みついたその怪物は動じない。ぐぐぅと頭部を仰け反らせると獰猛な勢いで彼の首筋に咬みついた。

 獅子が喉笛を潰して獲物を窒息させるように、鰐が転がって遠心力で肉を引き千切るように、その怪物も獲物の殺しかたを本能で心得ていると見えて、そうするために進化した小さな頭を異様な速度で繰り返し左右に倒し、頚部の傷口を拡げ、抉り、貪る。

 気管に流れこんだ自身の血液で溺れる兵士。大量の喀血が苦悶に白く染まる顔を染めた。黒く罅割れた貌を鮮血で潤わせた怪物は狂喜するかのようにより激しく頭を揺らし、すでに事切れた兵士の血肉を喰らい始めた。

「こ、この化け物! そいつを離せ!」

 最寄りに居合わせた兵士たちがやにわに剣を抜き、仲間を救おうと猛然と駆けだしたが、彼らは夜陰の深すぎる木の下闇で炯々と光る無数の四つ目に気づくことができなかった。待ち構えていたかのようにわっと死角から躍りだた黒い奇形に、たちまち組み伏される。

「おい! こっちからも来たぞ!」

「こっちもだ! 囲まれてる!」

 奇怪な食人鬼しょくじんきの襲来は一角だけに留まらなかった。

 拓地に面した樹々の間隙という間隙から、そのおぞましき姿は月光の下に飛びだしてきた。大量も大量。目に映る範囲を埋め尽くさんばかりに、その反射を伴わない表皮の所為によって周囲を一際暗くさせてしまうほどに、闇は次々と怪物を吐きだし続けた。

「ま、魔物だ……」

 呆然とした難民の一言が、喉も裂けよと振り絞られる絶叫の呼び水となる。

「魔物だ! 魔物だぁッ!」

「嫌だ! 助けてくれえ」

 憔悴しきりすでに抜け殻のようだったさしもの彼らも、厭忌を抱かずにはいられないかたちで顕現した死の恐怖に泣き叫び、我先にと門へ殺到した。

 開けてくれと哀願し門扉を殴打するも、細くなった腕では微動させることさえ叶わない。そもそも、防衛のために設けられた門扉をいざ魔物が出現した際に開門させるなど、無理な相談なのだった。

「散らばるな! 横列を維持しろ! 楯を前に、構ええ!」

 一方、彼らを背に魔物の軍勢と対峙した捜索隊兵士たちは、鞘鳴りを響かせ、鬨の声を轟かせる。

 鯨波のような闇の突進を受け止める肉弾の音響と衝撃とが鈍くもけたたましく四囲を圧した。城壁の上部からも弓兵たちの罵声と怒号、そして矢が飛び交い始め、王都内部から鳴り響く魔物出現を知らしめる甲高い早鐘の音とあいまって――

 かくして夜の静けさは一瞬にして消え失せ、いくさ場の大混乱が南門を席巻した。

「あれはなんだ? どういう魔物なんだ」

 ただ一人、騒乱の例外にいるかのような落ち着き払った声の主が誰かは、いうまでもない。

 彼は保持プレートから外したレイピアを把持し、サイとゼロット、難民たちを背に、目前で繰り広げられる兵士と魔物との白兵戦を正視していた。

『わっかんないわね。私の毒々モンスター大辞典には載ってないわ。グールとか、チュパカブラってとこかしら。私ならブラッドサッカーって名づけるわ』

「……人狼ワーウルフと同じ理由で却下だな。食人鬼で十分だ」

 いって、ケイルは首を伸ばし、今をもって食人鬼を排出し続ける森の闇を遠望した。

「それにしても、どこから湧いてでた。俺たちが通ってきた時にはそれらしい痕跡は見当たらなかったが」

『狼男みたいに洞窟かどこかに潜んでいたんじゃないの? あの配色からして明らかに夜行性でしょうし』

「そうであるにしても何かしらの痕跡はあるはずだ。見落とすにしては数が多すぎる」

 ケイルは納得できずにいい募る。

 ポルミ村から王都まで、当然のように彼はただ無為に歩いてきたわけではなく、周囲の警戒を怠らなかったのだ。常人とは比にならないほど研ぎ澄まされた彼の炯眼をもってしてもその痕跡や兆候を発見できなかったということは、そんなものは端からなかったと断じることができる。

『なるほど。まるでアバドンのような唐突さだといいたいのね。この世界の魔物の出現現象は私たちの世界のそれと等しいものなのかもしれない、と。しかし、そうなのだとしたら、さっきのゆとり説に矛盾が生じる。なぜ、この程度の甘い防衛策で文明を維持できているのか』

 淡々と述べて、途端にアーシャは『でもねえ』と気だるげな鼻息を吐く。

 ケイルもそれ以上は言葉を続けようとせず、小さな首肯で議論を結んだ。

 如何に思案を巡らせようとも、現状では建設的な発展は望めず、やはり情報不足という結論に収束するのだった。

『で、どーすんの? このままじゃ食人鬼に兵士たちが食べられちゃうけど』

 狼男とは異なり、食人鬼は単体の戦闘力では王国兵よりも劣っていた。

 鋭い喝と共に押しだされる木楯の壁に突き飛ばされ、怯んだところで一閃する剣や槍が急所を貫く。城壁からの矢も援護射撃としては十分な効果を発揮していた。膂力、肉体強度ともに生身の人間と大差はなく、武装と戦術を有した人間に利があった。不意打ちでもない限り一騎打ちで兵が後れをとることはないだろう。

 しかし、問題なのはその数。いくら果敢に迎撃しようとも、森林から吐きだされる食人鬼はまるで雲霞のようである。兵士の総数は九十だが、今見えるだけでも食人鬼の数は実に二百以上。しかも秒増しに増えていくのだ。次第に押され、取り囲まれて、一人また一人と餌食になっていく。

 事態は、まるで獰猛な蟻が数にものをいわせて獲物を捕食するような、大局的に見渡せばとても戦闘とはいえない形相へと変じつつあり、民間人にその魔手が及ぶのは時間の問題だった。

 ケイルはレイピアの安全装置を解き、据銃した。

「手を貸すぞ」

『ひひ。ジグを躍らせてやりましょう』

 死を思わせる白装束の少女は口角に死神の冷笑を宿す。戦端に備えてその幻影はふっつりとかき消え、代わりにケイルの視界に映るのは赤い光点。

 鬼火のごとくぼうと滲むそれを、彼は右から左へと流し、食人鬼の頭部をなぞる・・・。引き金と融けあった指が痙攣するほど小刻みに動き、圧縮空気式小銃が羽虫の飛翔を思わせる怪音を律動的にはっした。

 途端、怪物の頭は弾けて、裂けて、散っていく。

 瞬時に算出された弾着予想地点であるドット、それが標的と重なった瞬間に引き金を落とせば、着弾するのは道理だった。もっとも、一秒毎に三匹ずつを屠るほどの反応速度は、ヘカトンケイルでなければ到底不可能な業前だ。

 もとはポルミ村の農機具から生成された六ミリの寸鉄。それが指切りによる刻み撃ちで二発ずつ、けっして広くはない兵士たちの間隙を縫って精確に食人鬼の頭部へ叩きこまれる。

 弾丸の初速は矢状弾に劣るものの、それでも秒間七百メートル。音速の二倍という飛翔物が生物にもたらすのは、全身の毛細血管の破裂による磐石なる死。

 醜悪な顔面は柘榴ざくろのように爆ぜ、死相を残すことさえも許されない。首から上を胆汁のような黄色がかった不気味な体液へと変じさせ次々と没する食人鬼。正確無比な死の斉射が二順、三順と往復し、黒い怒濤をひと撫でするたびに、その前列は防波堤で砕かれる波頭のように邪悪な生命を散らしていく。

「なんだ!? どうなっている……?」

 何が起きているのか理解するために、兵士たち時間を要した。ややあって、ポルミ村での一件を思いだした彼らは、仰天の面々を答えを求めて彷徨わせ、背後で奇怪な音を迸らせる杖を構えた異形にそれを見いだし、息を呑んだ。

 門前で泣き喚いていた難民たちも、後方で生じ始めた不可思議な音律に恐るおそる悲痛に歪んだ顔を振り向かせ、そこに奇蹟を認めた。数瞬前まで脳裡に根をおろしていた凄惨な運命への慨歎もふき飛んで、ただただ目を点にして不思議な力で食人鬼の大群を葬る異形を見つめていた。

 ケイルの力を聞き及んでいたサイでさえ、初めて眼前にしたその圧倒的な異能を瞬きも忘れて凝視している。

 ゼロットもまた石像のようだった無表情に驚きを隠しきれずにいたが、次第に少女の表情は喜色を帯びていった。まるで害虫を潰した時のような昏い悦びを湛え吊り上がる口角。爛々と輝く瞳はどこまでも好戦的なそれである。

 そんな衆人の情感などに関与せず、ケイルは殺しに没頭する。加勢のつもりで参戦したケイルだったが、彼は手加減などという器用なまねを知らない。

『弾数残りわずかよ』

「わかってる」

 拡張現実の視界に映る残弾数のカウンターは、折り重なる射殺体に反比例して目まぐるしく減っていく。ケイルは掃射を見舞いながら前進し、ちょうど弾が切れたタイミングで斃れていた兵士の剣を踏み折り、適度な大きさの刀身を爪先で蹴り上げ、銃床上部の開口部へと挿しこんだ。

『うあー、とことんケチ臭いわね。こんな状況でも弾倉を使わないなんて』

 アーシャは不満をこぼすが、もとの世界の戦闘下ではありえなかったその軽口自体が、ヘカトンケイルにとっての現状の容易さを代弁しているようなものだった。

 敵を叩く時は最大限の火力をもってなすのは定石であるが、状況が許すなら節約を考えるのもまた条理。限りある専用弾倉に手を伸ばすまでもない、ケイルは戦況をそのように断じた。

 後退していた兵士の防衛線から単騎で突出するかたちとなったケイル。あまりに自然な足運びに思わず道を空けてしまった兵たちは、はたと気づいて制止するも、もう遅い。

 森を眼前に臨んだ異形に無数の食人鬼が殺到した。身を挺して囮となるような構図だが、実のところひとり舞台に躍りでたといったほうが適切だろう。ケイルにとっては望むところであり、食人鬼にとっては罠に近しい。

 こぞってなだれこむ怪物の群れを待ち受けるのは無骨にして無慈悲な死の間合い。ケイルは大振りのナイフを抜刀し、力任せに薙ぎ払う。膨大な膂力をもって疾駆する漆黒の軌道は、まるで巨大な戦斧ハルバードを振り回しているかの如く、肉を斬って骨も断つ。

『弾丸生成完了。チークタイムよ!』

 全周から押し寄せる魔物の怒濤を、右手にレイピアを、左手にはナイフを、諸手に然るべき得物を携えた百腕巨人は、如才なく射抜いて、隙もなく斬り伏せ、疲れも知らずに葬り続けた。

 鉤爪ので組みつかれても、鋭利な牙で咬みつかれても、縦横無尽に躍動する鋼鉄の巨躯は歯牙にもかけない。魔物の体液が驟雨のように吹き荒ぶ嵐の中心で踊る、猛る甲虫が如き人型は、機鋼の戦鬼と呼ぶにふさわしい。

 邪悪な軍勢にたった独りで対峙する鈍色の巨躯を鈴なりに瞳に映す人々の脳裡には、太古に失われた神秘の英傑の名誉称号がはっきりとうかびあがっていた。魔道を行使する英雄、つまり魔道士。

 発展した科学は魔法と同義――。魔術を日常とした世界でも、ケイルの殺しの叡智は魔術をはるかに凌ぐ超常として受けとめられたのだ。

「おおぉ……。なんという……」難民の老人が両手を組み合わせ涙を流した。

「ほら、見えるかい? あの御姿が見えるかい?」老婆が胸に抱いた幼子の眸にその光景を焼きつけようとする。

「やっつけろ……。いいぞ、そこだ! やっつけろ!」食事もままならなかった少年が扼腕したこぶしを震わせ、声の限り叫んでいた。 

 昂揚しないわけがない。その奇蹟の顕現はなすすべもなく魔物に虐げられてきた彼らにとって、ひたすら胸に堆積させ、どうにもならないととうに諦観したはずの思いの丈の具現でもあった。

 不様な混乱は必至と思われた戦場は、今や獅子奮迅の活劇へと様相を変え、その主役はたった一体の異形と相成っていた。

「……終わりか?」

 戦端と同じく、終息も唐突だった。まるで何者かの合図があったかのようにふっつりと途絶えた食人鬼の進行。夜の森は熱病の悪夢から醒めたように静けさを取り戻した。

 ことが終わった頃、そこには食人鬼の死骸の小山が築かれていた。屍山血河。その言葉にいささかの誇張もない。死肉の山が脈々と堆く積もり、その隙間からは黄色い体液が氾濫する土石流のようにどろどろと裾野へと流れている。

 死骸の小山から飛び降りようとしたケイルだったが、ふと城壁を見上げた。

『どうかした?』

「いや。誰かに見られている気がしたんだが……。気のせいか」

 気のせいとは、彼にしては珍しい感覚である。センサーではなく、人間の部分であるバイオロイドが感じとった曖昧な直感。しなしながら、この状況で何者かの視線に気をもむなど、やや間の抜けた話である。

 アーシャは呆れて失笑し、眼下を見渡した。

『見られてるって……。むしろ誰に見られていないのか教えてほしいわよ』

 難民も、生き残りの捜索隊兵士も、そして兵を引き連れ急行してきた近衛兵団長も城壁の上から、魔物の屍のいただきで闇夜を仰ぐ異形を、夢見ごこちで凝視していた。

「勝ったぞ……。我らは魔物に勝った!」

「あの異形の男は真の戦士だ! 異形の魔道士だ!」

 息を吹き返したような最初の歓声は、捜索隊の兵士からあがった。それは瞬く間に拡散し、魔物出現以降はありえなかった歓喜の熱狂となって南門周囲を湧かせた。兵らは肩を抱き合って歓びを分かち合い、難民たちは深く頭を下げて祈りを捧げる。

 のちに伝説として語られる一夜の奇蹟。絶え間ない喝采と惜しみない謝辞を浴びる異邦の兵器。その相棒は居丈高に胸を逸らし、主役といえば居心地が悪そうに巨体を縮めていた。

 ただ、しばらくは落ち着きそうにもない歓声のなかで一人だけ、近衛兵団長はえも知れぬ不安に震える肘をそっと抱いていた。

「異形の魔道士……。勇者か、それとも悪魔か……?」





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