7 賊捜索
ライアス・アクエ・ハイントン百人隊長は、馬は手綱を握りながら嘆息を吐きだした。
彼が馬に跨ってから、果たして何度うだるような溜め息に咽を焼いただろうか。しっとりと汗に光る馬の首は、発汗によるものだけではなく、もしかしたら吐息の蒸気も含まれているのかもしれない。
彼の前方では一騎の騎馬が前列から横に飛びだして、路肩に馬を停めていた。その馬上にはライアスの溜息の原因の代表格たる男、バリーガ分隊長が振り返り、狡猾な蛇を思わせる嘲笑顔で隊列中央のライアスが達するのを待ちかまえている。狭い小径だ。それにより隊列が乱れるがバリーガはそんなこと意に介さない。
バリーガが蛇なら、さしずめライアスは蛙であろう。かなうのならば馬を停めたいという態度をありありとその表情に宿しながらも隊伍に沿って進むより他になく、馬頭を揃えたバリーガは当然のなりゆきとして馬の腹を蹴りライアスと併進する。そしてそれが与えられて然るべき権利であるかのように軽薄そうな薄い唇を開くのだ。
「なあ、隊長。今回の任務、本当に賊の捜索なんすか?」
敬意も何もない馴れなれしい言葉遣い。もし仮に両者が竹馬の友であろうとも、指揮官たる百人隊長に対して分隊長ごときが、なあ隊長なんて、厳格な軍では許されない。しかしライアスは渋面をつくったもののそれを取り立てて咎めようとはしなかった。非礼はもはや諦観している。
「……私はそう聞いている」
「私はそう聞いている、ねえ。その聞かされた話をそっくりそのまま信じてるんですかい? ほら、これが見えないわけじゃあないでしょうや」
バリーガは一度手綱を離して舞台俳優のように大仰に諸手をかかげ、ライアスの前後を振って示した。
隊長であるライアスを中央に、前方に五十、後方にも五十、都合百名からなる騎馬隊が縦列を成して、鬱蒼とした木々に挟まれた小径を粛々と進んでいる。
端からけっして広くはなかった、昼なおほの暗い森林の街道は、魔物の出現以降、人々の往来の減少にともなって草木の侵食に脅かされ、今や獣道と五十歩百歩という有様だった。そんな地形上の已むない一列縦隊であり、極力個々の間隔を狭めているとはいえ、その全長は三百メートルにも達していた。元よりこの道を進むことを想定していたのなら、戦略的にあまり相応しい規模とはいえない。
バリーガがなにをいわんとしているか、嫌というほど察しているライアスはわざわざ前後の隊伍を窺おうとはせず、じっと黙して二の句を待つ。
「百人の騎馬隊ですよ、百人。ちょっとした城塞なら落とせるぐらいの戦力ですぜ。あと一人増えればどっかの物置も大丈夫じゃなくなるぐらいでさあ。でも、なんでも賊はたったの一人だそうじゃないですかい。しかも、遠目からでも一目でそれとわかるおかしななりをした野郎なんでしょう? 大規模な盗賊団が相手でも百の騎馬隊なんて大袈裟なのに、誰にでも見咎められるような一人の賊になんだってこれだけの兵士が出張らなきゃならないんです?」
最初に知らせた通り……、ともごもごと口のなかでささやかな嫌味を述べてから、ライアスは続ける。爬虫類を思わせるバリーガの眼差しとはけっして目を合わせようとはしないその態度に、自信のなさが表れていた。嘆息の数もわからなければ、ましてや気の弱そうなたれ目を物憂げに伏せた回数など到底定かでない。
「今回の任務は遠征になる。その道程には当然、魔物との遭遇も予想される。魔物との戦闘で消耗し本来の賊捜索という任務に支障が生じる可能性を考慮した結果、百名という規模が妥当であると決定されたのだ」
王都デリトから賊捜索のために出立した騎馬隊は四つ。四つすべてが百名の規模である。王都から周辺の村や街へと四つはそれぞれ別の方角に進行し、目ぼしい各所で捜索と聞きこみ調査をおこない、定められた終点に達したら引き返すという作戦概要だった。
その四つの騎馬隊にはそれぞれ一番最初に到達することになる最寄の村や街の名が名称としてあてがわれている。ライアス率いるこの騎馬隊の名はポルミ捜索隊。王都からほど近いポルミ村が最初の捜索地点なのだ。
何事もなく進行したとしても、彼らが終点である港町のマルアインに到着するまでの予想日程は一月。往復で二月という長期間の捜索行脚だ。十分遠征といえうる過酷な道程である。
しかし、ライアスが喋っている途中からすでに人を食った嘲笑をうかべていたバリーガは、ライアスがいい終わると同時、まるで待ちくたびれたという風に、へっ、と鼻を鳴らした。
「だから、その聞かされた話をそっくりそのまま信じてるんですかい? そのおつむは立派な兜を載せるための台座じゃねえんでしょう。そもそも魔物との戦闘を想定するなんて、根本からしておかしいでしょうや」
ライアスはさらに目を伏せた。その憂いにはバリーガの無礼な言葉への苛立ちが含まれていないわけもなかったが、それ以上に、彼の言葉が正論だからだった。バリーガに限らず、四つの捜索隊の誰しもが疑問に思っている。そしてそこには一つの捜索隊を預かるライアス自身も含まれた。
過去を振り返っても少数の賊捜索に用いられるのは駿馬を駆る一分隊、つまり十名ほどで編成される少数精鋭の騎士隊が妥当であり、魔物との戦闘を一切避けて捜索活動にのみ重きを置くのが常道だ。それに較べて大規模戦闘を想定した百もの雑兵隊伍となると進行速度がどうしても鈍重となり、魔物との戦闘を避けるのは難しい。そんな不必要な危険を鑑みてまで通常の十倍の百という兵をだした上の考えに、彼らは首を傾げるしかない。
まるで、たった一人の賊に対して、王国的に失っても痛手にならない規模の最大戦力を動員しているようだった。
大隊長から命を受けた時にはライアスも耳を疑ったほどであり、当然、その折にライアスもバリーガ同様の疑問を口にしたが、大隊長から返ってきたのは先にライアスが述べた言葉と一言一句ほぼ同様の一見あたり障りのない、けれどもよくよく考えれば矛盾した理屈と、察しの悪い子供にものぐさな大人が向けるような鋭い眼光だけだった。それは大隊長自身も知らないか、あるいは百人隊長以下の下士官への箝口令の存在を暗示していた。
箝口令。賊が具体的に何を為したのか。何の容疑で追われているのか。彼らは知らない。王家に害を為したと、罪状というにはあまりに漠とした情報しか聞き及んでいないのだ。
ただ、王城で徒ならぬ刃傷沙汰が起きたという噂がまことしやかに囁かれ、さらに四日前の王都内での賊の捜索騒動以降、王城に仕える近衛兵の姿が目に見えて減ったという事実が、ことの重大さをほのめかしていた。
「で、我らの百人隊長様はそこんとこどう考えてらっしゃるのかと、このバリーガ分隊長めは賎しくも意見を頂戴したいわけですよ」
慇懃無礼極まれりといった言葉遣いで訊ねるバリーガ。数名の部下の命を預かる身として任務の不審を訴える実直な分隊長という態度では、けっしてない。答えを欲しているわけではなく単に嫌味をいいたいだけ、あるいは答えられないということを見越して困らせたいだけという素振りを隠そうともしない。
そしてバリーガの見越した通り、上層部への不満の緩衝装置たる中間管理職に就くライアス下級士官としては、上への不審にも取られかねない自身の考えを曝けだしたり、また隊を指揮しなくてはならない立場からしても、不思議だね、なんでだろうね、と気安く語らうわけにはいかない。
ゆえにライアスは精一杯の威厳をこめて、
「……ふむ、貴官はどう考える?」
と、なんだか老練の指揮官が腹心に意見を求めるような気取った物言いで、その実、質問を質問で返すのだった。
これが実直な分隊長なら、いや、そもそも分別のある人間なら端から相手が答えに窮することが目に見えた質問などしないのだろうが、もしそうであると仮定するのなら、ライアスの心情を察して身を引くだろう。
「はあ? わからねえから訊いてるんですぜ」しかしバリーガはにべもない。絡みつくようなねつい口調で言い募る。「平民出の賤しい俺らなんかにゃ考えも及ばないことでも、アクエの字を賜るハイントン家のご子息なら当然のようにすきっとご明察だと思いやしてね」
ライアスは意をけっして固くなった唾を呑みこみ、バリーガ分隊長、とやや厳めしく、改めてその名を呼びつけた。
「……う、上の指示に不満があるのか?」
先よりも強い威厳をこめているつもりなのか、面持ちは渋いが、けれどもうわずる声と彷徨う視線がその効果を裏切っていた。バリーガは締まりのない嘲笑顔をさらに下品に歪めると、肩を竦める。
「いえいえ。そんな畏れおおいことはありませんですぜ、はい」
そして馬の腹に内臓が傷むのではないかというほどの強い蹴りをくれ、ライアスに土埃を盛大に浴びせながら隊列に戻った。
ライアスは咳きこみながらバリーガが割りこんだ前列を窺う。何人かの兵士がバリーガと談笑し、そして涙目のライアスのほうを一顧し、してやったりという風に肩を小突き合いながら再び談笑している。いや、嘲弄だ。
肺のなかの空気を暑く気だるげな吐息に変換してから、ライアスはそっとひとりごちる。
なんだってぼくがこんな目に、と。
代々から名門の軍家として王国に仕えてきた貴族ハイントン家。そんな家柄に似合わず、人一倍温和な性格の彼は、自分は軍に向かないとかねてから切実に訴え続けていたが、そんな我が儘が許されるはずもなく、不承不承ながら軍の士官教育所に入り数年にも及ぶ長く苦しい教育課程を経て、下級士官の称号を賜ったのがつい先々月。
教育所といえどそこはすでに軍の一部であり、戦闘訓練の一環として魔物との実戦に参加したことも何度かあるが、百人隊長として兵を率いるのは今回が初めてだった。
そして今回ライアスが率いることになった兵卒のなかには、実に厄介な者たちが混じっていた。バリーガの分隊だ。バリーガ含めて八名からなるバリーガ分隊は、数多もの実戦を経験したベテラン部隊だ。魔物との戦闘だけでなく、絶えて久しい他国との戦争にも従軍した実績をもつ。
見た目からしていかにもな、むくつけき壮年の男たちであり、地肌や愛用の武具にある無数の創が歴戦の猛者であることを証明していた。
平民の出身でも類稀なる武勲を挙げれば軍の階級だけでなく身分の昇進も約束される、いわゆる叩き上げ制のあるライガナ王国において、なぜ歴戦の彼らが昇進することもなく兵卒に甘んじているのかといえば、その理由は素行の悪さの一言に尽きる。
上官に対する不審、不服従、暴言。自国民に対する横暴な振舞い。通常であれば処分されて然るべきだが、その後ろ盾には歴戦に従事したという軽んずるべきではない功績がある。処分されない代わりにうだつも上がらないという政治的取引にも似た妥協的な軍上層部の決定が裏にあり、それにより困るのは現場、つまり中間管理に位置する下級士官であり、すなわちライアスだった。
とどのつまり、ライアスはバリーガ分隊の面々になめられている。なめられていると知りつつも、弱気であり新米であるライアスには強くでることができない。下級士官に昇進したばかりでいきなり二ヶ月間にも及ぶかもしれない捜索任務を命じられただけでライアスはすっかり意気消沈としていたのに、ましてやその苦行を悪名高い兵卒らと共にしなければならないとなると、泣きっ面に蜂、傷口に塩。端的に彼の心情をいい表すなら、泣きたい気分だった。
けれどもその実、彼は己の気弱な性格と新米の立場に感謝するべきだったのかもしれない。枚挙にいとまのないバリーガ分隊の悪行、それは表沙汰になったものばかりであり、人知れない行為のなかには上官へ闇討ちという穏やかならぬ所業も含まれているのだから。闇討ちという凶行を為すに値しない若輩であり、からかいがいのある性格の彼は幸運だった。もっとも、その事実を彼が知ったところでこれ僥倖と手ばなしで喜ぶわけもないけれど。知らぬが仏である。
鬱々と項垂れていたライアスは、前方から逆走してくる馬蹄の音にどきりと顔を起こした。
しかしそれはバリーガではなく、隊列から少し距離を置いて先行していた斥候要員だった。
「百人隊長へ申し上げます」
丁寧な口調で告げる斥候の兵士。バリーガのような成らず者の部下ばかりではないことを思いだしたライアスは勇気づけられ、鷹揚に頷いて発言を促した。
「前方にポルミ村が見えてまいりました。いかがなされますか?」
「そうか。このまま進み、村民に聞きこみだ。この方面に賊が逃れたのだとしても王都にほど近い田舎の村に足を止めたとは思えないが、警戒は怠るな」
「はっ」
威勢のよい返事を残して再び最前へと馬を駆る兵士の背を見送りながら、ライアスは今晩の野営はポルミ村に協力を仰ぐか、と思案を始めた。自身で警戒を怠るなと指示していたくせに楽観しているライアス。最初の調査地点である王都最寄りのポルミ村で何らかの成果が挙がるとは当初より誰からも期待されておらず、彼の楽観を若輩の油断と断じてしまうのはいささか酷かもしれない。
しかし事実、その楽観は数分後に打ち砕かれることになる。粉微塵に。
陽気な歌声や手拍子、それに合わせて踊るお調子者。ほどよく酔いがまわり、宴もたけなわとなったポルミ村の広場にて、ケイルは不意にすっくと立ち上がった。村の郊外、森林の方向を見渡し、やがて森のなかに延びる小径の一つに視線を固定する。
「何かくるな……」
『馬の群れのようね』
やや険しく細められた端整な目許は、面頬に隠される。
怪訝に思った村人たちは戸惑いながらもそれに倣い、ほどなくして皆の耳にも馬の蹄が地を打つ音が届き始めた。その聞き覚えのある音に彼らは愉しげだった雰囲気を一変、酔いも醒めて押し並べて陰鬱とした面持ちになった。
「王都の兵だ……。また税の徴収なのか」
「前回からまだ三月と経ってないぞ。魔物の所為で不定期になるのはわかるが、回数が増えるなんておかしいだろ」
「収穫だってまだなのに、一体何を徴収しようというんだ」
「何もケイルさまのもて成しの最中に来なくとも……」
まだ姿も見えないというのに小声で囁くように吐かれる不平不満。しかし音が村に近づくにつれ、いつもとは違う音の多さに、不満のうめきが不安のどよめきに変わる。地揺れのような無数の蹄音。雑木林の樹冠がわずかに鳴動するほどのそれは、徒ならぬ緊張感を帯びていた。
そして森林の木下闇が延々と吐きだす騎兵の列に、村人たちは目を剥く。いつまで経ってもその隊伍が途切れることはなく、最後の一騎がいでるころにはその姿は目視がかなわず、村人たちの眼前には四囲をぐるりと囲う人馬による壁ができあがっていた。
栗色の毛並をした軍馬には、くすんだ鉄製の兜を被り、鎖帷子を纏った男たちが跨っている。胸当てに設えられた宝玉と槍を持った大鷲の紋章は一見してライガナ王国の兵団と知れる。剣や槍や弓矢、斧や大鎚など、実に剣呑な武器の数々を身に携え、何人かはいつでも使用できるようすでに手綱の対の手に握っていた。
ふと人馬の人垣の一部が左右に割れた。出来上がった無骨な花道を通り、一騎の騎馬が村人たちに近づく。
それは背が低く、せんの細い印象のある男だったが、装備が他の兵とは明らかに異なる。鮮やかな真紅のマントを背に纏い、鎖帷子のような量産品ではない白銀の甲冑で身を固め、頭には飾羽による控えめな装飾が施された兜を被っている。はね上げられた面頬のうちから覗く顔立ちはまだあどけなさの抜けきらない青年のものだ。望まぬとも柔和な印象が滲みでる糸目を威厳よいでよと精一杯に吊り上げた彼は、ポルミ捜索隊のライアス百人隊長だった。
「…………」
馬上からのありありと威圧感を含んだ視線の束から、少しでも遠ざかろうと敷物の中央に密集する村人。咳払いさえも躊躇われる緊張に皆が面持ちを強張らせ、身を竦めていた。
泣きだしそうな表情でケイルのたくましくも冷たい腕に縋りつく少女たち。ケイルは黙したまま細腕をそっと振り払い、歩み始める。
『穏やかじゃないわね』
アーシャの由々しき声音を聞きながら、ケイルは流れるような動作でレイピアABR2圧縮空気式自動小銃を取り外し、機関部左側面から飛びだしたレバーを手前にぐいと引いた。ぜんまいと連動した永久磁石の小型回転子が発電を開始、くぐもった律動音をはっしてコンプレッサーが圧縮した空気で内蔵タンクが満ちる。同時に、銃把を握る右手親指では安全装置を解除していた。
兵たちがそうしたように密集する村民の人垣が自ずから左右に割れ、ライアスがそうであったように一団から突出するかたちでケイルは騎馬隊と正対した。
隊伍の間でにわかにざわめきがたった。
明らかに税の徴収部隊でない規模の兵団に包囲された村民たちの当惑も並々ならぬものではあったが、あるいはそれ以上に、包囲した側であるはずの彼ら、捜索隊の面々も困惑しているのは間違いない。
肌が外気に触れている箇所がただの一点も見受けられない、まるでそういうかたちの躰であるかのように筋骨隆々たる奇怪極まる鈍色の全身甲冑。魔物の一種と見紛わんばかりの異様な形相。その自らの目を疑わせるに足る怪人の姿形は、彼らが王都を発つ前に知らされていた賊の外見特徴と完全に一致していたのだ。
ポルミ捜索隊が赴く予定であった村や町、そのなかでも最寄りの目的地であり一番寂れたポルミ村では賊の情報を得られる可能性は極めて低いと考えられていた。それなのにいざ到着して見れば、賊の外見特徴にことごとく合致する人物が村の中央にいた。そればかりか、どうやら村人と一緒に宴会の最中だったようなのだ。さらには、逃げようとも抗おうともせず、威風堂々たる態度で自ら進んで騎馬隊の前へと歩みでてきたのである。
本来であれば有無をいわせずだんびらの切先を突きつけ、縄で縛って連行するのが賊の扱いとしては自然であり当然であるが、あまりにも予想外で不可解な事態の連続が、彼らを戸惑わせ、慎重にさせた。
ライアスは馬に跨ったまま、眼下の異形の姿を今一度まじまじと観察してから、露骨に怯えた眼差しを寄越す村民を見渡して、口を開いた。
「我らは国王ディソウ様の命を受け、馳せ参じた。その命とは、王家に害を為した賊の捜索だ。そして、賊の外見特徴が、そのほうと一致する」
持ち上がった指先は淀みなくケイルを示していた。
それを受けた村人たちは一驚にざわめき、ケイルへと、ライアスへと、忙しなく困惑の視線を彷徨わせた。素性の知れぬ正体不明の男がその実、犯罪者だったなど、ましてや王家に害を為すなどという大罪人だったなど、ケイルを手厚くもて成してしまった彼らからすれば寝耳に水という譬えも生温いほどの驚倒であろう。
けれどもケイルの善行があったからこそ諸手を広げて彼を歓迎したわけであり、村民たちは半信半疑、そんなはずはないという風に声をださずとも訴えるようにライアスに向けかぶりを振るものも少なからずいた。
一方、ケイルは幻影の少女と人知れず顔を見合わせていた。アーシャは小首を傾げ、ふるふると首を振る。その表情は村人のそれとは異なり、否定ではなく、不明の色合いに曇っていた。面頬のなかではケイルも同様の表情をうかべ、ライアスへと視線を転じた。
「俺の外見特徴と一致するといったか」
おもむろにはっされた硬質な声。兵たちにわずかな動揺が広がる。彼らの知るどんな文明にも類似しないが精巧な人工物であることだけは辛うじて理解できるからくりの男が、流暢な言葉をはっしたという驚きも、その動揺には少なからず含まれたが、それ以上に、いかなる強者であっても多少の怯みが生じるはずの馬上からの視線を満身に浴びているにも関わらず、その声音は冷静どころか、凄みある威圧感が含まれていたのだ。
「それは間違いないのか?」
淡々と繰り返される唐突で不躾な詰問に一瞬ぎくりとしたライアスだが、面持ちを硬くして眼下の異相を睨み返した。ケイルのような面妖ななりのものがそうそういていいはずがなく、人違いとは考え難いのだった。ましてやその異様さを一際異形たらしめている甲虫のような面頬越しでは、本当に不思議そうに問うているケイルの顔色は外界からまったく窺えず、彼の言葉は弁明と受け取られて然るべきものだった。
「その者を連行しろ」
ライアスが短く指示すると、周りの兵が馬から降りて、武器や縄を手にケイルを取り囲む。その敵愾心の中心たるケイルは彼らのほうに一瞥もくれようとはせず、思考に目線を俯かせていた。
豪胆というよりも、まるで眼中にないようなその奇妙な態度に、兵らはやや躊躇って目配せをするが、身動ぎもしないという点では縛につく賊にしては素直に違いない態度でもあり、慎重にじりじりと距離を詰めていった。村人たちは息を呑んで推移を見つめるより他にない。
その張り詰めた緊張感は、突然の絹を裂くような悲鳴によって寸断された。
一同が弾かれたように悲鳴の聞こえたほうに視線を転じる。
「あいつら……」
ライアスは溜息を通り越し頭痛を覚え、心底忌々しげに罵った。
頭痛の種と悲鳴の元は、バリーガ分隊だった。皆が密集する村の中央から少し離れた位置にて、勝手に隊を離れたバリーガが嫌がる若い女の村民に組みついていた。
気づけば、他のバリーガ分隊の面々も家屋に侵入したり、敷物の上に並べられていた料理や葡萄酒に手をつけたりと、その傍若無人な振る舞いたるや、野盗そのものだった。
「おっと。すいやせん。こいつが騒ぐもんで」
皆の視線に気づいたバリーガはこれ見よがしに女の胸を揉みしだき、ほっそりとした首筋に唾液にまみれた舌を這わせる。女が苦悶のあえぎをはっすると、その頬を強くはって黙らせた。
衆目の只中にありながらそこまで居直れるとは、良識はいうに及ばず常識からも逸脱した大胆不敵さである。村人は捕われた娘への心痛も忘れ、また兵らも同僚の悪行への嫌悪を忘れた様子で、目を点にしていた。
魔物との戦闘が予想されるばかりか、上層部への得体の知れぬ不審も漂う今回の賊捜索任務。捜索隊の兵はそのほとんどが任務を楽しんでいるとはいえなかったが、すべてではなくほとんどという言葉をあえて用いらなければならない原因は、バリーガ分隊の面々にあった。彼らだけは愉しみかたを心得ているのだ。
遠征は憲兵の監視から逃れられることを意味し、唯一の目の上のたんこぶである隊長が頼りがいのない弱輩となれば、それは彼らにとって劣情を発揮できるまたとない好機、犯罪旅行に他ならない。
その場でことを始めんばかりにうら若き乙女の柔肌を蹂躙していたバリーガは、ひらひらと片手を振って見せた。
「こっちはこっちでよろしくやらせてもらうんで、そっちはそっちで勝手に進めててください」
「ま、待て、バリーガ分隊長! 貴様、王国軍人として恥を知れ!」
いかに気弱なライアスといえど、部下と村民の手前、それ以前に人間として、この上ない犯罪行為を看過するわけにいかず、明確な激昂を顕にした。
しかし当のバリーガはどこ吹く風。微塵も怯まずに口をへの字にして肩を竦めると、戦利品か何かを扱うように力なくへたりこんでいた娘を無造作に担ぎ、最寄の家屋に向かって口笛混じりに悠々と歩き始めた。
手馴れたものだといわんばかりのその態度、バリーガの激昂した上官をあしらう手際は見事とさえいえた。実際、精一杯の叱責をそのように軽くあしらわれてしまったライアスは二の句を継げず、口をぱくぱくさせるしかない。
取り直すように舌を打ったライアスは、ケイルを取り囲んだまま固まっていた兵らに小声で作業を続けるよう促す。縋るような村民の眼差しを避けるよう慚愧の念を隠しきれずに俯いていた彼だが、
「おい。あんたが大将なんだろ」
今一度、唐突に発されたケイルの問いにぎょっと顔を起こした。
ケイルは、武器の切先を先頭に並べて距離を縮める兵らには目もくれず、またライアスへ向けた言葉に違いないのだが、彼のほうにも瞥見もくれず、その発光する鮮血のような双眸は人馬越しに窺えるバリーガ分隊長に、今や己の運命を悟ったのか絶望の嗚咽をもらす娘ではなく、無辜の民を脅かす存在である一人の王国兵に、いささかのぶれもなく据えられていた。
レイピアの前部銃床を支える左手の四指が、小指から順に畳まれ、こつりこつりと時計が時を刻むような硬質な音が静かに響く。そして酷く平坦な声色で言葉を続ける。
「今すぐ、奴らを止めろ」
取り囲む兵は、それを見下ろすライアスは、そして外周に位置する村民も、思わず息を呑んだ。人垣の中心に立つ異形が全身から放散する雰囲気は、今にも捕らえられそうな賊が発するべきものとは懸け離れていた。
当初より異質だった態度だが、それが今や周囲の兵の敵意などまるで問題視していないどころか、むしろ絶対的な優位にあるような有無をいわせぬ命令口調なのだった。また村民にとっては、外見は不気味だが心優しいと思われた勇者が、初めてはっした攻撃的な言葉でもあった。
『紳士の時間は終わり』
ケイルの視界のなか、アーシャの眼差しの先、村の外れでは、適当な家屋の扉を開けたバリーガが、娘をなかに投げ飛ばし、自身も這入ってから後ろ手で扉を閉めようとしていた。
ただ一人、この後の展開を予見する白い少女は、ケイルに振り向くと、大きなつり目を三日月のように歪め、こぶりの唇を弓なりに引き歪めた。
『暴力のでる幕ね』
ああ、と洞のなかからはっするような酷く低い声で端的に肯定したケイル。耳にするものに徒ならぬ底冷えと得体の知れぬ焦燥感を抱かせていた前部銃床を指先で叩く律動的な音が、ぴたりと止まった。
「時間切れだ」
まさしく時間切れ。機械仕掛けの処刑装置が執行時刻に淀みなく作動するように銃口が跳ね上がり、昨夜、村を襲う狼男の群れにそうした時ほどの躊躇もなく引き金が切られ、それはもたらされた。この場合の処刑装置とは、悪人の断罪に相応しい、ギロチンだった。
再び先と同じ娘の悲鳴。いや、音源は同じだが音質は懸け離れ、喉も裂けよと振り絞られた発狂せんばかりの奇声だった。瞬く間に奇怪な挙動を見せた異形に奪われていた皆の意識が、今一度、村の外れに転じられる。
無数の視線の束と一つの銃口の先で、バリーガの頭が消失していた。開けはなたれた扉に体重を預けた身体は頭部を失った事実にしばし気づけず、覚束ない足取りでよたよたと二、三歩進もうとする。
さらに奇声を振り絞り後ずさる娘の頬を、虫食いのような頚部の切り口から心臓の鼓動に合わせてびゅるっびゅるっと筋状に噴きだした血液が赤く染める。己の身体に生じたおぞましき惨劇を尻もちをつく娘よりもさらに低い視点である己の身体の股下から他人事のように眺めていたバリーガはぱちくりと瞬きをし、びくりびくりと痙攣し脱糞と失禁を迸らせながら倒れこむ大柄の図体の下敷きになった。
「え?」
ライアスの疑問符がもれると同時、すでに次の標的を照準していたレイピアの銃口から迸る靄のような圧搾空気が大気を白濁させ、薄い皮紙を引き裂くような鈍い銃声がうなる。密集する人垣の空隙を縫って飛翔した局所的な弾幕の射線上には、盗んだ食料袋を肩に提げて意気揚々と家屋からでてきた二人組みのバリーガ分隊員があった。
ばしん、と。頸椎が両断される音は生木を圧し折るそれに近い。血をあらん限り撒き散らしながら目まぐるしく回転する一人の頭部を、刹那の時間差を置いてそれに倣い胴体と生き別れになったもう一人の頭部が不思議そうに眺めていた。
ギロチンの正体は頚部に集中した横薙ぎの短連射。ヘカトンケイル特有の精確無比な射撃精度と貫通力の高い通常弾を毎分千発の連射速度で吐きだすレイピアを併用することで成せる業、両断という意味では如何なる刃物も到底敵わぬ貫通銃創のミシン掛けだ。
誰もが目の前で起きた瞬間的な超常にただただ呆然とし、それが果たして何者による所業であるかという一目瞭然の事実でさえもいまだ理解が及ばぬなかで、
「こ、この野郎ぉ!」
逸早く反応らしい反応を見せたのは敷物の料理を漁っていた五人のバリーガ分隊員だった。腐っても歴戦。いかなる理屈か見当もつかないが、それでも離れた位置にいた仲間の首を次々と刎ねているのは奇妙な杖を構える異形だと察し、やにわに噴飯し、獣じみた怒号をはっして武器を手に取る。
だがその殊勝さが命取りとなった。殊勝というならば彼らはどう足掻いても敵わない差異を、力量の多寡では埋めようのない戦闘理念の違いを察するべきだった。
右足を軸に身体を反転させたケイル。その旋回に合わせて流れていたレイピアの銃口が散発的に圧縮空気を噴く。胸部や腹部から粉砕された鎖帷子の破片が舞い、肉片が弾け、分隊員たちは大皿や料理を撒き散らしながら卒倒する。
そうして体幹への被弾で即死できた者は二名、不要な苦痛もなく逝けたその二人は幸運だった。ケイルを捕えようと取り囲んでいた比較的無害な兵のわずかな間隙を縫って送りこまれた銃弾は、必ずしも急所を捉えたわけではない。敵か否かの未確定要因を射線に収めることを避けた気遣いが、敵だと断定された三人に腕や脚や、股間をふき飛ばされる生き地獄をもたらす。
「ぎょわあ。ひ、ひ。腕、俺の腕が」
「いぎぃいい。脚だ。返せえ。それは俺の脚だよおおぉ」
「ま、ま、まいった。堪忍してくれえ」
敷物の上は刹那にして阿鼻地獄と化すが、それもまた一瞬でしかなかった。もんどりうって赤子のように泣き喚くむくつけき男たちには、もう一巡標的を走査に戻った銃口からの死が叩きこまれ、悲痛な喚声は矢継ぎ早に消沈する。
そうして、ケイルに向かって一歩を踏みだすことさえ叶わず、歴戦の猛者であり軍部の腫れ物であり、また異邦の生体兵器に敵と断定されたバリーガ分隊は、ことごとく絶命した。
辺りは水を打ったように静まりかえっていた。目に留まる動体は射殺体から広がる血だまりのみ。こぼれた葡萄酒が斑に混ざり、異様な色合いに模様づく。
「え? あの、え、え?」
ライアスは意味のない疑問符を吐きだし続けていた。成らず者ではあったが捜索隊の中では一番腕が立つはずのバリーガ分隊。それが一瞬で全滅してしまった事実に、彼の思考はまだ追いついていない。
ケイルの間近に立っていた捕縛要員の兵たちは蒼白にした顔面から玉のような冷や汗を噴き、恐ろしく強力な魔物に出くわしてしまった時にそうするように、見咎められないようじりじりと摺り足で後退する。
「け、ケイルさま……なんということを……」
ケイルの徒ならぬ強さを片鱗だけではあるが聞きかじり、数分前まで陽気に讃美していた村民たちでさえ、初めて目の当たりにした異能の途轍もない強大さに後ずさりし、同時、異相の男に抱いていたはずの温情と彼が瞬く間に作り上げたおぞましい光景との不一致に、戸惑いを隠しきれなかった。
だが、隊伍から距離を置き、比較的小高い丘の上から事態を客観視していたゆえに冷静だった数名の弓兵は、強張らせた面持ちを見合わせ、頷き合うと、矢筈を弓の弦に番えようとした。異形の付近の仲間や隊長を慮って、その動作はそろりそろりとした慎重なものだったが、
『二時方向。稜線の兵士に動きあり』
異邦の生体兵器が見逃すはずもなかった。ぐるんとそちらに赤い眼鏡を転じ、瞬時に銃口を跳ね上げる。用心金にあてていた人差し指が引き金に載り、数ミリの遊びが殺されて、今まさに銃弾がはなたれ、取り返しのつかない火蓋が切られようとした。その時だった。
「やめときな!」
女の大音声が轟いた。
皆の視線を浴びながら大股で歩み寄る長身の女は、サイだった。その背後には例の浅黒い肌をした少女が続いている。彼女らもまた、騒動を聞きつけ、事態の推移を遠目から見やっていたゆえに冷静なのだった。
村人の人垣を割ってケイルの横に並んだサイは、馬上で呆然としたままのライアスを見上げる。ふと、つつけば途端弾けそうな緊迫感に相応しくない粗野な微笑がその口角に滲んだ。
「まさかとは思ったけど、やっぱりそうだ。泣き虫のライアスぼっちゃんが百人隊長とは、王国軍はよっぽど人手不足みたいだね」
「サイミュス先生……?」
呆然が唖然に変わり、憔悴した様子でぽつりと呟くライアスだったが、サイを凝視する表情が見るみる驚嘆のそれに取って代わる。あるいはケイルを目にした時よりも激しい驚きに駆り立てられ、馬から落ちんばかりに身を乗りだした。
「こ、こんなところに落ち延びていたのですか!? いったい僕がどれほど心配したと――」
しかし周囲からの胡乱の眼差しを受け、はたと言葉を止めた。神妙な面持ちとなり言をあらためる。
「サ、サイミュス・ミレン・メイフェ! 地に堕ちたミレンの字名を持つ者が、よもや王都にほど近いポルミの村に身を窶していたとは」
「おやおや、昔はあんなに可愛がってあげたのに、寂しいねぇ」
「くっ!」
何やら顔見知りらしい二人。ひょいと肩を竦めておどけるサイに怯んだ様子を見せるライアス。だがそもそも取り直すべきはサイへの態度などではなく、旧知の女の横に立ち並ぶ異形への対応であるということをようやっと思いだした。はっと細い目をいっぱいに見開いて震える指先をケイルに突きつける。
「そんなことより! 先の発言はどういう理由か! 王家を害した賊を庇い立てするというのか!?」
「その王家を害した云々ってのはわからないけど……」サイは寂しげな表情でちらりとケイルを窺い、次いで敷物の上の惨状を見やって表情を曇らせるが、すぐにライアスに向き直る。「あたしが庇ってあげたのはあんたたちのほうさね」
「なんだと!? それはどういう意味だ!」
「そのままの意味だよ。見てただろ? あんたのろくでもない部下を一瞬で皆殺しだ。悪いけど、あんたらが束になってかかってもこの男、ケイルには敵わないと思うよ。大袈裟じゃなくね」
「な、なにを! さっきは不意を突かれただけだ!」
「じゃあ訊くけど。大型の魔物二十匹からなる群れを討伐するのに何人ぐらいの兵が必要かわかるかい?」
「馬鹿にするな!」怒鳴ったライアスだが、律儀にも思案の一拍を経て、サイを見下ろした。「そ、そうだな。百か。いや、二百が妥当だな」
「ご名答。流石は百人隊長殿」サイはまるで心のこもらない拍手を送ってから、気安い調子でケイルの肩に手を置いて続ける。「さて、じゃあ、あんらが二百がかりでやっとこなその大型魔物二十匹を、ケイルがたった一人で、しかも無傷で屠ったといったらどうする?」
「な、なんだとッ!? 嘘をいうなっ。そんな与太話、信じられるか!」
「嘘じゃないよ。魔物を退治して村を救ってくれたから、こうしてもて成してたんだよ。なんなら、ほら、そっちのほうにケイルが今朝獲ってきたばかりの魔物の大将首が転がってるだろ」
まるで庭の畑から野菜か何かを収穫してきたかのようにいうサイ。
彼女が指し示す方向に居合わせた兵士は、足許を見渡して、奇妙な物体に目を留めた。馬から降りて確認すると、確かにそれは魔物の首なのだった。視界に入っていたはずなのに彼らが見逃したのは、あまりの大きさに岩か何かと思っていたからだ。
「た、隊長! 間違いありません。魔物の首です!」
「こんな大きな魔物、見たこともありません!」
素直な部下からの驚嘆を隠そうともしない報告に、ライアスは顔を引き攣らせた。
あらためて見渡せば村人には手負いの者も多く、魔物の襲撃があったという事実は推し量れようものである。その襲撃者たる、兵ですら見たこともないような大型の魔物を村民が自力で撃退したとは到底考えられず、にわかには信じられないサイの話が俄然真実味を帯び、異形を見る兵の目の色にさらなる畏怖が加わる。
そして、そのような事情を聞き及び、捜索隊の面々が否が応でも想起させられるのが、捜索任務に感じていた違和感。軍の上層部がたった一人の賊に対して可能な限りの兵を投じた理由。
ライアスはいたった解答に戦慄した。
「……そういうことなのか。なんてことだ」
何も難しいことはない。至極単純な理屈だった。上層部がたった一人の賊に対して可能な限りの兵を投じた理由は、そのたった一人の賊が可能な限りの兵力を割くに値する戦闘能力を有しているからだった。
しかし、賊の異常な戦闘能力を予測していた上層部がなぜそれを現場に伝えなかったのか。その事実は元より心中に漂っていた灰色の不審を限りなく黒に近い裏切りと呼べるものにまで濃くするには十二分であったが、兵たちはそれをしなかった。
今はそれどころではないのだ。なにせ、上層部が妥当であるとした百という兵力でさえ太刀打ちできないかもしれない存在が、今まさに目前に立ち、不気味な双眸で睨め上げているのである。
ごくり、と。誰かが息を呑む音がそんな彼らの心中を雄弁に物語っており、かような些末な物音でさえ響く無響の静寂は、昨夜の魔物の蹂躙をも凌ぐやもしれぬ血の惨事への村民たちの恐怖に張り詰めていた。
ライアスは血の気が引いて土色になった表情でただただ硬直していたのだが、
「もう一度訊くが」
三度唐突に発されたケイルの言葉に、ひぃ、と見っともなく悲鳴を上げて馬上で仰け反った。
「その賊の外見特徴が俺と一致するといったな」
ケイルにそのような意図があったわけではないのだが、もう一度訊くという前置きは、耳にする者にもう一度だけしか訊かないという最終警告じみた緊迫感を抱かせるものがあった。
ライアスもその例にもれず、震える身体を誤魔化そうともせずにかくんかくんと必死に肯首する。
そうか、と物静かに相槌を返したケイルは、アーシャに視線を転じた。
自閉した頭蓋のうちで、二つの意識が議論を交わす。
「どう思う?」
『王家を害した事件というのは、きっとあの件でしょうね』
「しかし、俺の外見と一致するというのは……」
『なんともいえないわね』
傍目には、じっと虚空を正視する異形の態度は不可思議なものだった。サイが前屈みになり、およそ思惑の知れぬ双眸を覗きこむが、それを避けるようにケイルはこうべを起こし、再びライアスを赤い眦に映す。
「じゃあ、詳しく話してもらおうか。その話次第では、ついて行ってもいい」
「……は? つ、ついて行く……?」
ライアスの疑問は、彼だけでなく、この場に居合わせた皆の心内を代弁していた。
ついて行ってもいい。それはどのように受け取っても、自ら進んで王都に赴くという意味に相違なかった。言い換えるなら、出頭である。
飽和した緊迫が、どこか決まりの悪い間の抜けた静けさに取って代わった。