黒の夜
気がつくと男は、玄関の扉の前で寝てしまっていた。彼は靴を履く時のように足だけを地面に放り出し、上半身は完全に壁に預けている。二度三度と瞬きをするが、彼の目は暗い色をしたままである。まだ覚めきっていない頭で考えるものの、何故此処で寝てしまっていたのかがさっぱり彼には分からない。酔っ払った拍子にでも、と思ったのだが、彼は昨日は酒を口にしていないはずだった。
首と肩の痛みに顔をしかめ、男は身体を起こす。手ぐしで髪をとく、というよりは頭を掻くような動作をしてから、彼は玄関へと向き直った。
夢を見たような気がする、と彼は思いだす。だが夢を見たとはいえ、その内容まではぼんやりとしか思い出せない。ただ、彼が覚えているのは二つだけ。第三者のような視点で自分を見ていたという事、そして見た事のある玄関に自分――若い頃だったのかもしれないし、今の自分だったのかもしれない――が、座っていたという事だ。その夢の中では自分が何をしていたのか覚えていないが、その光景自体には彼には非常に心当たりがあった。
(……待っていた)
まだまだ眠気のとれない頭で、彼は考える。目をごしごしと擦り、気の抜けるような欠伸をした。
(……誰を?)
彼は、寝ぼけ眼で玄関の扉を見つめる。
思い当たる節はいくつもあった。ずっと昔から見ていない黒髪の女性や茶髪の男性だったか。いつもやかましい灰色の髪の男性だったか。透き通るような色の髪の女性だったか。それとも、白髪の少女だったか。――否、最後は無いだろう。彼のすぐ後ろの扉の向こうから、その少女の寝顔が覗いているからだ。物音を立てても反応する気配も無く、彼女は深い眠りの世界に入っている。彼の傍にいるのは、今は彼女だけだった。
此処にいないから待つのだ。もう戻って来ないと知っていようが、いなかろうが。恐らく、彼に心当たりのある人物は、少女を除いた全員が戻って来ない部類だろう。少なくとも、一人は確実に。
「戻って来ない事」に対する決心をした筈だった。その人が帰って来ない事が自分のせいだという事を、男は知っていたのだ。だからこそ彼は、また一人に戻ったのはしょうがない事だと考える。
彼は後ろに倒れるように寝転がり、ゆっくりと瞼を下ろした。
静寂が埋め尽くす。廊下の向こう側の部屋から微かに時計の針が動く音が響いてきた。男は閉じた目を自分の腕で覆い隠したまま、ぴくりとも動かない。今の彼には、暗闇しか見えない。
「なーにこんな所で寝てんだ、風邪ひくぞ」
声が聞こえたような気がして、男は勢い良く起き上がった。だが、声の主はどこにもいない。外からは朝日が差し込み、もうすっかり明るくなっていた。
声の主の代わりに彼の目の前にいたのは、白髪の少女だった。彼女は男の膝の上に乗り、肩を揺すっていた手を止める。
「おきた!」
「……あー……」
深夜に起きてから、そのまま寝てしまった事を男は思いだす。おかげで首と背中の痛みが取れず、彼はしかめっ面をした。少女はそんな事もお構いなしに、足をぶんぶん振って笑顔を見せる。
「ねえねえ! ねえねえねえ!!」
「……分かったから落ち着け」
溜息を吐き、男は少女を膝から下ろす。それでも尚、男の目の前から動かない彼女を彼は不思議そうに見た。
少女はえへへ、と満面の笑みを見せた。
「たんじょうびおめでとう!」
そう言って彼女は男の髪をくしゃくしゃと撫で、勢いよく抱きついた。男は目を丸くしながら倒れ込む。少女は足をばたつかせ、先程の言葉を何度も何度も繰り返している。諦めたのだろう、男は軽く少女の頭を撫でた。
男の側には、少女がいた。