大干ばつで領地の井戸が次々と枯れています。水を求めて岩山を切り拓きます。
「南部の畑で、作物が枯れ始めています」
農政官の言葉に、私は顔を上げた。
「被害はどのくらい広がっているの?」
「川沿いの畑は、ほぼ全域で水が不足しています。井戸に近い畑はまだ持ちこたえていますが、遠い場所では、すでに収穫を諦めた農家も出ています」
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。もう何週間も、まとまった雨が降っていない。
領地を流れる川は干上がり、農民たちは井戸の水を桶で運んで作物を守っている。しかし、その井戸さえ水位が下がり続けていた。
「飲み水は?」
「各村の井戸を優先して確保しています。水が不足している集落には、まだ余裕のある井戸から運んでいます」
「それは続けて。人が飲む水を畑に回すわけにはいかないもの」
農政官が頷く。私は机の上に広げられた地図を見下ろした。
領地の南部には、広大な農地がある。その北には険しい山々。そして、山の向こう側には、大きな湖があった。
「山の湖は?」
私は地図を指さした。
「水量は十分です。雪解け水が流れ込むため、今のところ干上がる心配はありません」
「だったら、そこから水を引きましょう」
農政官は困ったように首を振った。
「領主様。湖と農地の間には、岩山がございます」
「知っているわ。でも、湖の水面は農地より高いのでしょう?」
「はい」
「なら、水路を造れば自然に流れるはずよ」
農政官が口ごもったところで、土木技師長が口を開いた。
「技術的には可能です。しかし、山を掘り抜く必要があります」
「どれくらいかかるの?」
「通常の工法では、何か月も」
私は黙った。何か月。その間にも、畑は次々と枯れていく。
「迂回する方法は?」
「山の西側を回る経路は調査済みです。しかし、距離が長すぎます。東側は谷が深く、大規模な水路橋が必要です」
「……どちらも、すぐには使えないのね」
「申し訳ございません」
技師長は頭を下げた。
私は地図を見つめた。水はある。山の向こうには、農地を救えるだけの水がある。それなのに、たった一つの岩山が邪魔をしている。
「もっと早く水を通せる方法を探しましょう」
◇
その日の午後、私は技師長を連れて岩山へ向かった。
山のこちら側には、干上がった畑が広がっている。土はひび割れ、作物の葉は力なく垂れ下がっていた。ところどころには、すっかり茶色くなった畑もある。
農民たちは井戸から水を運び、一本でも多くの作物を守ろうとしていた。
「領主様!」
畑にいた村長が駆け寄ってきた。
「水は……水は何とかなりそうですか?」
「今、方法を探しているところよ」
「そうですか……」
村長はうつむいた。私はその肩に手を置いた。
「必ず何とかする、とはまだ言えない。でも、諦めるつもりはないわ」
村長は顔を上げ、深く頭を下げた。
「お願いいたします」
私たちは山の麓へ向かった。岩肌がむき出しになった険しい山だ。ここを掘り抜けば、湖の水が農地へ届く。だが、目の前の岩山はあまりにも大きかった。
「……本当に、邪魔な山ね」
私が呟くと、技師長が苦笑した。
「昔から、この山には良質な石材がございます。領地の建物にも多く使われております」
「石材?」
「はい。西側には、古くから使われている石切り場がございます」
私は顔を上げた。
「石切り場?」
「ええ。現在も職人たちが働いております」
「それ、山の中を掘っているの?」
「はい。岩盤の内部へ坑道を伸ばして採石しております」
私は技師長を見た。
「案内して」
「……石切り場へ、ですか?」
「ええ。今すぐ」
◇
石切り場には、岩を砕く音が響いていた。大勢の職人たちが石材を切り出し、荷車に積み込んでいる。
私たちが到着すると、職人頭の大柄な男が駆け寄ってきた。
「これは領主様! 何かご用でしょうか?」
「坑道を見せてほしいの」
「坑道、ですか?」
「ええ。山の中をどこまで掘っているのか知りたいのよ」
職人頭は不思議そうな顔をしたが、すぐに案内してくれた。
坑道の中はひんやりとしていた。外の猛暑が嘘のようだ。壁には採石の跡が残り、ところどころに木材で補強された通路が続いている。
「ずいぶん奥まで掘っているのね」
「ええ。何代にもわたって掘り進めてきましたから」
「この先は?」
「行き止まりです」
職人頭は奥の岩壁を指さした。
「この先は採石しておりません」
「どうして?」
「水が出るんです」
私は足を止めた。
「……水?」
「はい。奥の岩盤を掘ると、割れ目から水が染み出してきまして。以前、一度だけ大きく崩したことがあるんですが、そのときは坑道の床が水浸しになりました」
技師長が眉をひそめた。
「地下水か?」
「おそらく。ただ、山の向こうには湖がありますからね。あちらの水が岩の割れ目を通ってきているのかもしれません」
私は奥の岩壁に近づいた。確かに、岩の表面が湿っている。足元には、小さな水たまりができていた。
「ここは湖より低い場所?」
技師長が地図を取り出した。
「はい。坑道の高さは湖の水面より低いはずです」
「そして、農地よりは高い?」
「……その通りです」
私は岩壁を見つめた。湖より低く、農地より高い。山の中を、すでにここまで掘り進めている。そして、岩壁からは水が染み出している。
「技師長」
「はい」
「この坑道を、水路にできないかしら?」
二人が同時に私を見た。
「……水路?」
「そうよ。山を一から掘り抜くのは時間がかかりすぎる。でも、ここにはもう坑道がある」
私は奥の岩壁を指さした。
「もし湖の近くまで掘り進んでいるなら、残りをつなぐだけで済むでしょう?」
職人頭が目を丸くした。
「まさか、湖の水をここへ?」
「ええ」
職人頭は口を開けたまま、しばらく黙っていた。やがて、苦笑した。
「なるほど。俺たちが何年もかけて掘った穴を、水の通り道にしようってわけですか」
「そういうこと」
「しかし領主様。水を通したら、ここではもう石を採れませんよ」
「わかっているわ」
私は職人頭に向き直った。
「だから、あなたたちの仕事も守る。別の採石場所を用意するし、水路の整備にも力を貸してほしい。もちろん、賃金は領主館から払うわ」
職人頭は腕を組んだ。
「……領主様」
「何?」
「俺たちは、この石切り場で飯を食ってきました」
「ええ」
「でも、俺たちの家族が食う飯は、畑で作ってるんです」
私は黙った。職人頭は、にやりと笑った。
「畑が全滅したら、石なんか掘ってる場合じゃありませんや」
そして、坑道の奥を振り返った。
「おい! 親方連中を集めろ! 領主様が、とんでもない仕事を持ってきたぞ!」
◇
翌朝から、石切り場は水路工事の現場に変わった。
技師長は坑道の測量図を広げ、湖との位置関係を調べた。職人たちは奥の岩壁を確認し、湖側からも調査を進めた。
その結果、坑道は湖の南岸近くまで達していることがわかった。ただし、岩盤はまだ残っている。
「この距離なら、両側から掘り進められます」
技師長の報告に、私は身を乗り出した。
「本当?」
「はい。ただし、湖側には仮締切を設けなければなりません。掘り抜いた瞬間に大量の水が流れ込めば、作業員が危険です」
「それは絶対に必要ね」
「それと、坑道の床も整えます。水を流すための勾配を確保し、崩れやすい場所を補強しなければなりません」
私は頷いた。
「安全を最優先にして。急いではいるけれど、事故を起こしていい理由にはならないわ」
「承知しました」
工事が始まった。職人たちは岩を削り、床を整え、弱い部分を石で補強していく。農民たちも集まり、掘り出した石の運搬を手伝った。
私は領主館から食料と飲み水を運ばせた。
◇
「領主様。東の村でも、作物が枯れ始めました」
農政官が報告する。
「……そう。まだ緑が残っている畑は?」
「村の北側にございます。しかし、井戸から水を運ぶだけでは、とても足りません」
「飲み水を優先して。畑には、水路が完成するまで持ちこたえてもらうしかないわ」
私は窓の外を見た。今日も、空には雲がなかった。
◇
「領主様。坑道の床を整え終わりました」
技師長が報告する。
「水は流せそう?」
「はい。勾配は確保できました。現在は、崩れやすい区間の補強を進めています」
「よかった。湖側の工事は?」
「そちらも進んでおります。ただ、まだ岩盤が残っています」
「……急いで。でも、無理はしないでね」
技師長は深く頷いた。
◇
「領主様。西の村で、井戸が一つ枯れました」
農政官の報告に、私は顔を上げた。
「残りの井戸は?」
「まだ使えます。しかし、村人たちが水を汲むために列を作っています」
「隣村から運んで。飲み水を優先して」
「承知しました」
農政官が退出する。
私は机の上の地図を見つめた。干ばつの被害を示す印が、また一つ増えていた。
◇
「領主様! 坑道の補強が終わりました!」
技師長が駆け込んできた。
「本当?」
「はい。あとは湖側との接続だけです」
私は思わず立ち上がった。
「あと少しなのね!」
「ええ。ただ、最後の岩盤が予想より硬く、掘削に手間取っております」
「……そう」
私は椅子に座り直した。
もう少し。あと少しなのに。
◇
「領主様。西の村へ送る水が、確保できなくなりました」
私は顔を上げた。
「隣村からは?」
「そちらも井戸が枯れ始めています」
「では、もっと遠くから運んで」
「すでに手配しております。しかし、運搬に時間がかかり、必要な量を届けられておりません」
「……今日の飲み水は?」
「何とか確保しました。ただ、明日も届けられる保証はありません」
私は唇を噛んだ。
「飲み水だけでも、何とか確保して」
「承知しました」
◇
「領主様。湖側の掘削が、最後の岩盤まで到達しました!」
技師長の声に、私は顔を上げた。
「じゃあ、もうすぐ?」
「はい。職人たちが慎重に作業を進めております。接続できれば、あとは安全を確認するだけです」
「お願い。もう少しだけ、頑張って」
「必ずや!」
技師長は深く頭を下げた。
◇
「領主様。北の村でも、井戸の水位が下がっています」
「飲み水は足りている?」
「今のところは。しかし、今後も雨が降らなければ……」
「輸送の準備を進めて。飲み水だけは切らさないように」
農政官は動かなかった。
「……どうしたの?」
「領主様。もう、ほかの村から水を運ぶことはできません」
私は息を呑んだ。
「……どういうこと?」
「どの村も、自分たちの飲み水を確保するだけで精一杯です。これ以上、ほかの村へ分ける余裕がありません」
「……領主館の井戸は?」
「すでに、村へ送っております」
「ほかには?」
農政官は首を横に振った。
「ありません」
私は机の上の地図を見下ろした。
畑が枯れ、井戸が枯れ、家畜の水まで不足している。
そして今、飲み水を運ぶことさえできなくなった。
「……わかったわ」
私は静かに答えた。
「残っている水は、各村で大切に使ってもらって」
「承知しました」
農政官が退出した。
私は拳を握った。
もう、ほかに打てる手はない。
山の向こうには、水がある。
その水を通す道も、あと少しで完成する。
お願い。
間に合って。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「領主様!」
扉が勢いよく開く。飛び込んできたのは、土埃まみれの技師長だった。
「つながりました!」
私は椅子から立ち上がった。
「……え?」
「湖側と坑道が、つながりました!」
一瞬、言葉が出なかった。
「本当に?」
「はい!」
技師長は満面の笑みを浮かべた。
「最後の岩盤を取り除き、接続部の確認も終えました。坑道の補強も完了しております!」
「じゃあ、水を流せるの?」
「はい。湖側の仮締切を開けば、水が流れます」
私は机を回り込んだ。
「行きましょう!」
「どちらへ?」
「決まっているでしょう!」
私は笑った。
「水が流れるところを、この目で見るのよ!」
◇
農地のそばには、大勢の人々が集まっていた。村長も、農民たちも、石切り場の職人たちもいる。
誰もが、山の出口を見つめていた。
私は水路の脇に立った。
目の前には、乾ききった大地が広がっている。葉を垂らした作物。ひび割れた土。そして、まだ緑を残している畑。
山の上から旗が振られた。
放流開始の合図だった。
私は息を止めた。
湖側の仮締切が開かれる。
しばらくは、何も起こらなかった。水路の奥は暗いままだ。誰も声を出さない。
やがて。
ごうっ。
低い音が聞こえた。
私は顔を上げた。
ごうごうと、山の中から響いてくる。まるで、山そのものが唸っているようだった。
「……来る」
誰かが呟いた。
音が近づく。大きくなる。
そして、暗い坑道の奥に、白い流れが見えた。
「水だ!」
次の瞬間、大量の水が山の出口から流れ出した。
「うわあああああっ!」
歓声が爆発した。
水が来た。本当に、水が来た。
山の向こうにあった湖の水が、今、私たちの目の前を流れている。
水は整備された水路を走り、乾いた農地へ向かって進んでいく。
私は駆け出した。村長も、農民たちも後に続く。
「こっちだ! 水門を開けろ!」
「南の畑にも流せ!」
「来たぞ! 本当に来たぞ!」
水路の分岐が開かれる。水が畑へ流れ込む。
乾いた土が、みるみる色を変えていく。ひび割れた地面に、水が染み込んでいく。
私は立ち止まった。
目の前には、枯れかけた麦畑がある。その根元へ、水が届いた。
細い葉が、流れる水に揺れていた。
「……間に合った」
声が震えた。
「間に合ったのね……」
農民たちが歓声を上げた。石切り場の職人たちも、拳を突き上げている。
私は水路のそばにしゃがみ込み、両手で水をすくった。
冷たい。
なんて、気持ちのいい冷たさだろう。
思わず笑ってしまった。
「……やった」
小さく呟く。
そして、今度は大きな声で叫んだ。
「やったああああっ!」
農民たちが笑った。職人たちも笑った。
誰かが歓声を上げ、また別の誰かが叫んだ。
その声は、乾いた大地の上にどこまでも広がっていった。




