夢十夜
こんな夢を見た。
夢の中で私は見知らぬ地に立っていて、遠くに広がる夜空を眺めていた。夜空には星が散らばっていた。月は浮かんでいなかった。唯小さな星々だけが暗い夜空に散らばっていた。月は見えなかった。
私の隣には一人の女性がいた。彼女は私より少しばかり背丈が低かった。彼女は星を纏っていた。小さな光の群が彼女の周囲を回っていた。
その女性の容姿については何も覚えてはいない。私は彼女がどんな顔をしていたか思い出すことができない。けれどふと夜空から目を離して彼女のほうを向いたとき、私は彼女を美しい女性だと考えたことを覚えている。彼女は私のことを見てはいなかったと思う。彼女の顔を、私は思い出すことができないから。
私は彼女を後ろから抱きしめた。寂しそうな様子をした彼女のためではなくて、人肌の温かみを求めた私自身のために。彼女は何も言わなかった。夜空は沈黙していて、私たちも黙っていた。夜空は綺麗なままだった。
人肌は確かに温かった。彼女の温かさが冷えきった私の体を温めた。抱きしめたとき、彼女の豊かな髪が私の肌をくすぐった。彼女の髪からは百合の花の匂いがした。私はそれを嗅いだ。透き通った香りだった。彼女は何も言わなかった。体験した夢のとぎれとぎれの記憶から、そこで感じた様々な印象が断片となって私の中に浮かび上がってくる。
夢の中で私は彼女に何か言おうとしたことを覚えている。「月が綺麗ですね」と彼女に言うことで私は彼女に好意を伝えたかったとおもう。だが、美しい夜空には月は浮かんでいなかった。私はあきらめて何も言わずに彼女の隣で佇んでいた。彼女も黙っていた。星が天球を回っていた。私は静かな幸福の中でじっと存在していた。私は安楽椅子に座る心地よさを感じたが、あの夜空の下で彼女が何を考えていたか、私は今でもわからない。夜空に星が流れた。私はなにも願わなかった。世界は沈黙していた。夜明けはまだ己の寝室で眠り込んでいた。夜はまだ寝るつもりはないことを私たちに示していた。
それからのことを私は何も覚えていない。その後あの場所で体験したすべては私の中から消え去ってしまった。夜明けが訪れていた。
気が付いたら私はいつものベッドの上で目を覚ました。見知った風景だった。朝日と冷たい空気が私に朝の挨拶を言った。私は返事をしなかった。少し悲しかったから。
百年は私のために過ぎ去らず、変わらない日々が夢から覚めた私を待っていた。日常だった。
俺の人生はこんなものか、と私は思った。接吻しようと首をこちらに傾ける百合の花も私には見えなかった。独りよがりの孤独を勝手に感じながら私は目をぬぐった。なぜか瞳が涙で潤んでいた。溢れるほどの涙が瞳の奥の悲しみを覆い隠してしまっていた。
私は朝の支度をしに部屋を出ていった。先ほどまで私の頭があった枕元に、小さな白い百合の花が静かに咲いていることに気付かぬまま。白い百合は朝日の届かない陰で、涙を流す代わりに湿った香りを漂わせていた。百合はもしかしたら私に抱擁を返そうとしていたのかもしれなかった。
誰もいない寝室の奥で、馥郁たる百合の香が誰にも嗅がれることなく漂っている。その香りは内に悲しみを秘めながらも何も語らず、静かに佇んでいる。




