酔っ払った勢いで子どもを授かりました。って、相手は誰?
絶対に待っていてください――
瞼の向こう側が眩しくなって、エリサリナはハッと目を開けた。何か夢をみていたような気もするが、目覚めと同時にその内容もすっかり忘れた。
さらに、自分の置かれている現状が理解できない。
(喉が渇いた……そして、身体が痛い……)
ここはどこだ、とエリサリナは横になったまま確認する。
見慣れぬ天井、見知らぬ部屋。そして、身体にある違和感。ゆっくり身体を起こせば、足の間から何かがとろりと漏れ出る感触があった。
(うっ……もしかして、もしかしなくてもやっちゃった……?)
室内に残る淫靡な空気は、情事の残り火を醸し出す。
(うぅ……やばい……覚えてない……)
がくっと項垂れつつも、昨日の出来事を必死に思い出そうと試みた。
エリサリナは、王国騎士団に所属する女性騎士だ。王都の学園で学んだ後、騎士団に入団したのが十八歳のとき。数少ない女性騎士というのもあり、第二王女の専属近衛騎士として抜擢された。
その第二王女が先日、新しい年が明けてすぐに、公爵家に嫁いだ。侍女であれば婚家についていく者もいるが、エリサリナは騎士である。王女付きだったとはいえ、国に仕える人間なのだ。そんな彼女が公爵家についていくことはなかった。
第二王女は涙を流し、エリサリナとの別れを惜しみ、挙げ句「これからは社交の場で気軽に話しかけてちょうだい」とまで声をかけてくれた。
エリサリナだって二十二歳になり、結婚適齢期、いや、この国ではギリギリ適齢期なくらいである。あと数年過ぎれば、行き遅れと揶揄されるような年齢であるため、両親がこれを機に騎士を辞めて家に戻ってくるよう言い出したのだ。
昨日が騎士団任務の最終日だった。お世話になった人たちに挨拶をし、その後、気心しれた仲間たちと夜の街に繰り出したのは覚えている。彼らがエリサリナの送別会を開いてくれた。
美味しい料理に豊潤な酒は、エリサリナの舌を楽しませるのに十分なものであり、次から次にグラスと皿を空け「おかわり~」と陽気な声をあげていたのだが――
(あれ? 店を出た記憶がない……)
どうやらお酒を飲み過ぎたせいか、送別会の途中からの記憶がなかった。
(あぁ……きっと彼らの誰かが送ってくれてここまで来て……まぁ、そういうことね……)
慣れ親しんだ仲だからと油断したのだろう。彼らはエリサリナを女と見ていなかったし、エリサリナも彼らに恋情を抱いたことはない。
(過ぎたことは仕方ないか)
現状を把握できたところで、ベッドから下りた。相手がいないのは、寝ているエリサリナを気遣ったからなのか、それとも逃げたか。
どちらにしろ、エリサリナは今日、王都を発つ。一夜のこの関係を引きずる必要もないだろう。
少し身体に痛みは残るものの、動けないほどではない。どういう抱かれ方をしたのかわからないが、胸と腹部、内ももにまで赤紫の痕がいくつも残っていた。
(誰だろ?)
これからその誰かと顔を合わせるのであれば気まずいが、今後、その誰かと会うこともない。
となれば、一夜の秘め事として胸の奥にしまっておけばいい。この国では結婚に必ずしも処女性が求められるわけでもなく、結婚前の火遊びとして割り切る女性も多い。
エリサリナは浴室で昨夜の名残を洗い流してから着替えた。
(お迎えは……十時だったかな……って、今、何時?)
室内をぐるりと見回し時間を確認すると、朝の九時を過ぎた頃。時間に余裕はあるが、騎士団であればとっくに朝議が始まっている時間である。相手が送別会の出席者のうちの誰かと考えるのであれば、間違いなく騎士団の人間。となれば彼は、朝議に間に合うようにとここを出たのだろう。
そして部屋を見回して気がついた。
(もしかして、いい部屋だった……?)
一夜の関係を楽しむための宿ではないようだ。なんとなくいい部屋だろうなとは、浴室を使っても思っていたのだが。
テーブルの上には鍵が置かれていたため、それを手にしたエリサリナは部屋を出た。
(あ……やっぱりいいところかも……)
通路を照らす明かりも花の形をしていて華やかで、壁の装飾も繊細なものだ。吹き抜けの天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。
螺旋階段をゆっくり下りたエリサリナは、そこでやっと理解した。
(違う……お父様が準備してくれた宿だわ……)
エリサリナは昨日付で騎士団を退団となった。騎士団の宿舎で寝泊まりしていたため、昨日付で騎士団を辞めたエリサリナは、昨日から今日にかけては宿舎で休めない。だから、父が代わりの宿を手配してくれたのだ。
送別会後、酒を飲んで酔っ払ったエリサリナを親切に宿まで連れてきた人がいて、その人と身体の関係を持ってしまったと考えるのが妥当だろう。昨夜の参加者をざっと思い返すものの、それすら記憶が危うい。出席者の名前を全員あげろ、と言われても答えられない自信がある。
エリサリナは手にしていた鍵を受付窓口へと返却する。
「いってらっしゃいませ」
受付の女性はにこやかな笑顔で声をかけてくれるが、肝心の精算をしていない。
「あの、精算……」
遠慮がちに声をかければ「支払い済みでございます」と、これまたにこやかに答えてきた。
「あ、そうでしたか……では」
ぺこりと頭を下げたエリサリナは、心の中で父親への礼を叫び、宿のエントランスホールで迎えがくるのを待っていた。
* * *
リュミエール伯爵領に戻ったエリサリナを待っていたのは、母と義姉による立派な淑女になるための教育だった。つまり社交の場で、意中の殿方を振り向かせるための振る舞い方や、社交界を生き延びる話術など。もちろん、今までそういった縁とほど遠かったエリサリナにとっては、騎士団での訓練よりも血反吐が出るような気持ちで授業を受けていた。
夜会や茶会の誘いを受けた母や義姉は、ここぞとばかりにエリサリナを連れ出す。華やかな場に馴染みのないエリサリナにとって、話を聞いては相づちを打つくらいしかできない。
異性からダンスに誘われたら踊りなさいと、母からきつく言われているものの、そもそもエリサリナに声をかけるような異性は、うんと年上の男性か見るからに不誠実そうな男性くらいしかいない。つまり、家族が望むような「適齢期で家柄の良い独身貴族」は、まるで現れない。
恐らくエリサリナの年齢と肩書きが原因だろう。行き遅れの一歩手前の状況。さらに、王国騎士団の元女性騎士。騎士団に所属していたときはさほど気にならなかったが、やはり華やかな社交の場となれば、元騎士という肩書きは「守るべき者」の対象から外れるようだ。どちらかといえば「守ってくれる者」。いや、国と通じている者だったからこそ、下手をすれば自分に「害をなす者」と考えている人も多いらしい。
「はぁ……」
騎士を辞めて戻ってきたというのに縁談は一向にまとまらない状況では、ため息もこぼれてしまう。せめて剣でも振り回せれば気分転換にもなるのだが、それすら家族からは禁じられている。とにかく、見た目だけでも可憐な女性になれるように、というのが理由である。
こんなことなら騎士を辞めず、一生を騎士道に捧げればよかったと考えてしまったが、女性が結婚をせずに仕事に生きたという前例はない。となれば、このまま結婚できなければ、神に生涯を捧げ、修道院で慎ましく暮らす道しかない。
この際、相手を選んでいる場合ではないだろうと、誰もが思い始めたそのとき、一通の手紙が届いた。
「カルデナ侯爵家からです」
家令が口にした名は、歴史ある名門だ。そんな家から、田舎貴族のリュミエール伯爵家に手紙とは、いったいどのような内容か。
「……縁談だ。エリサリナを妻に望むと」
信じられないと言いたげな父親は、その場で放心していた。信じられないのはエリサリナも同じである。なぜなら、カルデナ侯爵家とは今まで縁がなかったのだから。
もしかしたら、社交の場で見かけたかもしれないが、かもしれないというものであって、はっきりそうだとは言えない。つまり、エリサリナはカルデナ侯爵家を認識できていない。
「カルデナ侯爵家って、確か……」
義姉が言うには侯爵は五十代。長年、子に恵まれず、昨年、夫人を病で失ったとか。
「この際、年上だろうが後妻だろうが、関係ない。この縁を逃すな!」
どうやら父は、カルデナ侯爵家という家柄に屈したようだ。いや、リュミエール伯爵家から修道女を出したくなかったのかもしれない。未亡人でもないのに、修道女になるというのは、それだけわけありだと認識されるからだ。
だからリュミエール伯爵が急いで返事を書き、また相手から手紙が届き、十日後に顔合わせが決まった。
となれば、母と義姉がああでもないこうでもないと、エリサリナのドレスを選び、また厳しく指導する。この家族は、エリサリナによってカルデナ侯爵家と縁続きになるのを望んでおり、かつ修道女を輩出したくない。それがひしひしと感じられた。
だが、連日の準備でエリサリナも自分で気づかぬ間に疲労がたまっていたらしい。顔合わせを三日後に控えたとき、真っ青な顔をして気を失ってしまったのだ。
「サリー!」
母親が名を呼ぶ声からは、娘を案じる様子が伝わってきた。
お母様、大丈夫です……。
そう言いたかったのに、エリサリナの意識は真っ黒に染まった。
エリサリナが次に意識を取り戻したときには、自室のベッドで横になっていた。右手にぬくもりを感じる。
「サリー。気がついたのね?」
そう声をかけてくれたのは母親だ。ずっと手を握っていてくれたのだろう。右手が母親の両手で包まれていた。
「お母様。心配かけてごめんなさい」
「疲労だそうだわ。こちらに戻ってきてからというもの、あなたを振り回してばかりだったわね」
そんなことない、と言いたかったがそれは事実であるため、言葉を呑み込んだ。嘘はつきたくない。
「ところで、サリー。いい人がいるならば、どうして紹介してくれないの?」
「ん?」
「あなた。妊娠三か月だそうよ」
母親の言葉が信じられず、エリサリナは大きく目を見開く。
「相手はどなた?」
声は穏やかなのに、母親の笑顔は不自然だ。目が怒っている。
ひゅっと周囲の気温が五度くらい下がった気がした。
* * *
「ま~ま~」
見ているだけでもヒヤヒヤするような足取りで、一歳になったリザリアが駆け寄ってくる。
「つかまえた」
エリサリナは愛娘が逃げないようにとぎゅっと抱きしめる。
「歩くようになったら、本当に大変ね」
エリサリナが大叔母に笑顔を向けると「あなたの小さい頃にそっくりよ~」と笑いながらリザリアの金色の髪をなでている。
リザリアの髪は不思議な色をしていた。光に当たれば金色なのに、暗いところでは黒く見えるのだ。きっと相手の髪色を受け継いだのだろうとは思うが、その相手に心当たりがない。ちなみに瞳の色はリュミエール伯爵家の血が色濃く出ている。
「おーばー、おーばー」
妊娠が発覚したエリサリナは、伯爵領から逃げるようにこの地にやってきた。ここは母方の大叔母、つまりエリサリナの母方の祖母の妹が嫁いだ田舎の小さなメラーズ子爵領。田舎だが一年中気候は穏やかで、過ごしやすい。
この地に行くようすすめたのは母親だった。大叔母ことダフネは夫に先立たれ、離れで慎ましく暮らしているのだとか。家のことは長男夫婦に任せ、余生を楽しんでいるという連絡をもらったばかりらしい。
両親が急いで連絡をとったところ「喜んで」と返事が来るのを待たずに、旅の用意は整えられていた。田舎といっても、馬車で二日。エリサリナの身体のことも考え、母親が同行してくれた。
その間、父はカルデナ侯爵に顔合わせ延期の手紙を書いたようだ。顔合わせ延期からの「この縁談はなかったことに~」を狙っていたらしい。エリサリナが重い病気にかかってしまい、侯爵夫人は務まらないという理由をつけるストーリーまで考えていたようだ。
とにかくカルデナ侯爵の件は父に任せ、エリサリナはダフネのところに身を寄せた。
現メラーズ子爵も、エリサリナの置かれた状況を察したのか、あれこれうるさく言ってこない。むしろ、ダフネが元気になったと喜んでいるくらいだ。
やはり夫との別れは、知らぬうちにダフネの心にぽっかりと穴を空けていたに違いない。ダフネの孫、子爵の子どもたちは大きくなり、寄宿学校に通っているから屋敷に子どもの声はなかった。
そんななか、エリサリナがリザリアを出産したものだから、リザリアはあっという間に人気者になってしまった。ダフネだけでなく子爵夫妻もリザリアを可愛がってくれる。挙げ句、リュミエール伯爵夫妻も定期的にこちらに足を運んではリザリアを愛で、「リザリアを連れて帰る!」と暴れそうになる父を母がなだめながら帰っていくというのが、恒例になっていた。
子爵の子どもたちも長期休暇に帰ってきたときは、まだ赤ん坊のリザリアを珍しがり、しかも男児しかいない子爵家では、お姫さまのように扱われていた。
突然やってきて、子どもをポンと生んだエリサリナを、こうやってあたたかく迎え入れてくれたメラーズ子爵家には感謝しかない。それもこれも、リザリアが愛らしいからだろう。子爵なんかは「下の子のお嫁さんにどうかな?」と、将来の娘になるのを期待しているくらいである。まだ一歳だというのに。
歩くようになったリザリアは一気に行動範囲が広くなった。今も、身体を動かしたくてうずうずしていたリザリアを庭に連れ出したところだった。
「子どもの成長は、早いわねぇ」
ダフネがしみじみと口にする。エリサリナもそう思う。一年とちょっと前まではお腹の中にいたというのに、今はもう一人でしっかり歩いている。
だがリザリアの成長を目にするたび、エリサリナは不安に襲われた。
いつまでここにいられるのだろうか――。
父がエリサリナをメラーズ子爵領に預けたのは、縁談を断る口実を作るためだ。さすがに、他の男を妊娠したから縁談はなかったことに、なんては言えるわけがない。相手は侯爵家、格上の相手である。そのため、病気療養のためという話を作っていた。
それにしても両親が堕胎を口にしなかっただけはありがたい。兄なんかは「私のところの養子にしたっていい」と口にしてくれたくらいだ。
とはいえ、ほとぼりが冷めたら伯爵家に戻っていいのだろうか。兄夫婦のことを考えれば、誰の子かわからぬ子を育てているエリサリナは、彼らの側にいないほうがいい。
だからっていつまでもメラーズ子爵の好意に甘えているわけにもいかないだろう。やはりリザリアを兄夫婦の養子にして、自分は修道院へ身に寄せるのが妥当なのか。
ここでのエリサリナは「夫(となるべきだった人)に先立たれたかわいそうな(親戚の)娘」的な立ち位置だ。同じように夫に先立たれたダフネを頼って、互いに傷を慰め合っていると、そんな話が広がっているのは知っている。この話を広めたのが父親だから、彼の情報操作力には舌を巻く。
とにかくしばらくはここにいてもよさそうだが、それが一生ではないということだけは確かである。そのため今後の生活を考えては不安に押しつぶされそうになってしまう。自分が恵まれた環境にあるとはわかっているはずなのに。
「母さん、母さん。大変だ!」
メラーズ子爵自ら走って、ダフネのところにやってきた。家令を使わず、子爵自らというのは非常に珍しい。いや、エリサリナが知る限り、初めてである。
「まったく、いつまでたっても落ち着きがないこと」
ダフネにとって、我が子はいくつになっても子どもなのだろう。三十過ぎの男性にかける言葉というよりは、子どもを諭すような口調だ。
「これが、落ち着いていられるかい。客人だよ、カルデナ侯爵が来たんだよ」
「カルデナ侯爵……? こんな田舎にいったいどのような用かしら?」
「それが、サリーさんに会わせてほしいって……」
子爵とダフネの視線は、エリサリナを捉える。
「え? 私? なんで……?」
「それはこっちも聞きたい。サリーさん、カルデナ侯爵とは知り合いなのかい?」
「えぇと……」
子爵に詰め寄られ、エリサリナは考え込む。
縁談があったというのは、知り合いだと答えていいのだろうか。
* * *
リザリアをダフネに預け、エリサリナはメラーズ子爵と一緒に客人の元へと向かった。
子爵に案内され、エリサリナは頭を下げた。
「お初にお目にかかります、エリサリナ・リュミエールです。このたびは――」
「探しましたよ……」
低く響く威圧ある声色に、エリサリナはぱっと頭を上げた。
「え、アイゼル? カルデナ侯爵がいらしているはずでは?」
その部屋で待っていたのは、エリサリナもよく知っている男だった。彼の名はアイゼル・モルゲン。エリサリナより一つ年下であるが、騎士団で共に剣を振るった仲だ。モルゲン子爵家の次男で、家は兄が継ぐから自分は騎士になったと、そんな話を聞いた記憶がある。
「サリー。何を言っているんだい? この方がカルデナ侯爵だよ」
メラーズ子爵の言葉に、エリサリナは目を白黒させた。
「は? えっ? いえ、彼はアイゼル・モルゲン。モルゲン子爵家の……」
「それについては、僕のほうから説明します」
これは、アイゼルが怒っているときの話し方である。普段より声色が低く、ゆっくり喋るのが特徴なのだ。
「ええと……では、あとは若い二人に任せてってことで、いいかな……?」
場の雰囲気が悪いと読み取ったメラーズ子爵は、部屋から逃げ出した。となれば、エリサリナはアイゼルと二人きり。いや、使用人が今、目の前でお茶を淹れている。
トポトポとお茶を注がれる音が永遠に続けばいいのにと願ってしまうくらい、エリサリナは緊張していた。
だが、その願いも虚しく、自分の仕事を終えた使用人は静かに去っていく。
室内がシンと静まり返り、淹れ立てのお茶からは白い湯気が立ち上る。
「あの……えっと、アイゼル? よね……?」
「まずは座ったらどうですか?」
その一声で、自分がまだ立ちっぱなしだったということにエリサリナは気づいた。それだけこの状況が飲み込めず、ぐるぐると考え込んでいた。
「あ、うん」
促され、彼の向かい側にそそっと腰を下ろす。
それを見届けたアイゼルは、鋭い目つきのまま小さく息を吐いた。
「あなたは薄情ですね。あれだけ騎士団で一緒にいたというのに、昔の仲間の顔も忘れてしまったのですか?」
「あ、いえ……そんなことはない」
んだけど……と、その言葉を言う前に、アイゼルにキリッと睨まれる。
「ち、違うの。ほら、二年も経ったから、アイゼルも大人になったなぁって……」
「二年……大人って……いつまで経っても僕を子ども扱いするんですね」
「子ども扱いなんてしてないから」
こんな大きな子どもは嫌だ。しかも不機嫌をまき散らして、まるでイヤイヤと暴れるリザリアのようだ。
と、娘を思い出したときに「あれ?」とエリサリナは違和感を覚えた。いや、既視感かもしれない。
「はぁ……もういいです。本当はこんなことを言いにきたわけじゃないんで……。あなたを見たら、感情が抑えられなかっただけです」
スーハーと大きく息をしたアイゼルは、白磁のカップに手を伸ばす。その一連の動作を、エリサリナはじっと見ていた。
さらに彼がカップをテーブルの上に戻したのを見計らって、話を切り出す。
「ところで、カルデナ侯爵って……」
「あぁ、そうでした。それを説明しなければなりませんね」
少し声色が明るくなったのを感じ取り、エリサリナはほっと胸をなでおろす。アイゼルの不機嫌度が、最大値から五パーセントくらい減ったらしい。
「先ほど、メラーズ子爵が言ったように、僕がカルデナ侯爵を継ぎました」
「ん?」
この地に来てからというもの、社交の場からはすっかり遠ざかり、母や義姉に教えてもらったあれこれすら忘れるような生活をしていたせいか、エリサリナにはアイゼルの言葉がピンとこなかった。
「その顔は、わかっていないと言っているようなものですね」
エリサリナは感情が顔に出やすいからか、すべてを言わなくてもアイゼルは状況を察してくれる。それは騎士団にいたときからそうだった。
だからエリサリナも、言葉がなくても八割方意思が通じるアイゼルと仕事をするのは嫌いではなかった。
「カルデナ侯爵は、父の兄なんです。結婚したものの子どもには恵まれず、我が家から養子をという話は前々から出ていました」
アイゼルには兄と弟がいる。となれば養子の話が出てもおかしくはないだろう。
「モルゲン子爵家は兄が継ぐことが決まっていましたし、本人もできれば子爵家に残りたいと。だから僕か弟が侯爵家にとは言われていたのですが、弟は神官になるとか言い出して……」
頭を抱えるアイゼルの様子を見れば、いろいろ大変だったんだろうなと察した。
「まぁ、とにかく。僕は伯父の養子になったんです。そうすれば、堂々とあなたの隣に立てると思ったから。それなのに――」
その先の言葉は、噛みしめられた唇の奥に閉じ込められた。
そんな彼を見て、エリサリナはなんて言ったらいいのかがわからなかった。
「すみません。こんなみっともない姿を見せたくないのに。あなたの前にいると、感情を制御できない……」
「落ち着くまで待っているから」
わざわざアイゼルがここまでやってきた理由も気になる。そして彼がカルデナ侯爵だとすれば、あのときの縁談の相手はもしかして? という考えも湧き起こってくる。
「あの……ちょっと確認なんだけど……」
言いにくそうに歯切れ悪くエリサリナが言い出せば「なんでしょう?」とアイゼルは興味を示す。
「縁談の相手のカルデナ侯爵って……」
「僕ですよ。まさか、伯父だと思っていたんですか? もしかして、それであの日、逃げ出した?」
「逃げてないから」
「冗談です。こう見えても僕、結構ショックを受けてるんですよ」
そわそわと居心地悪そうに身体を揺らし始めたのは、彼が恥ずかしがっているからだ。自分の内面を口にして、照れている。
「二年前も、待っていてほしいと言いましたよね?」
「二年前……」
そう言われてもそんな約束を彼とした記憶がない。
「だからすぐに爵位を譲りたがっていた伯父の養子になって、あなたと釣り合いの取れる身分を手に入れ縁談を申し込んだというのに……前日になって伯爵から、あなたが重い病気にかかったと連絡があって」
それについては、何も言い返せない。
「伯爵には、あなたの病状について何度も尋ねていたのに、はぐらかされ続け……。一年前には、伯爵が慌ててどこかに向かったとも聞いて……そのときはあなたに最悪のことが起こったのかと……気が気ではなかった……」
アイゼルは悲痛な声を絞り出す。
一年前といえばリザリアをここで出産したときだ。両親も兄夫婦も慌てて駆けつけてくれたのは記憶に新しい。
「だけど、しばらくして伯爵も何ごともなかったように、いや、以前よりも楽しそうに暮らしているという話も聞いて。いったい、あなたの身に何があったのかと思っていたんです」
先ほどから聞いていれば、彼はリュミエール伯爵を監視しているかのような口ぶりである。
「父のこと、詳しいのね」
「ええ、リュミエール伯爵家に、人を送り込んでいますから。それでも、あなたの情報は入ってこなかった。伯爵の情報隠匿はたいしたものです」
父を褒められるのは悪い気はしないのだが、いかんせん、アイゼルの行動がやりすぎている気もする。
「リナ」
急に愛称を呼ばれ、エリサリナの心臓はドキリと高鳴った。
「二年前、どうして待っていてくれなかったんですか? あなたがいると思ってあの部屋に向かったのに……あなたの姿がなかったあのときの僕の気持ち、わかりますか?」
先ほどからエリサリナの心臓は、ドキドキと忙しなく動いている。
(二年前……アイゼルと何かしたっけ……?)
「やはり、年下の僕では頼りありませんか?」
エリサリナを見つめる真剣な瞳は、まるで湖の底のように深い青。この眼差しをどこかで見た覚えはあるのだが、そのどこかを思い出せない。少なくとも彼と顔を合わせていたのは騎士団を辞める二年前まで。
ちょうどその辞める頃に、彼と何かあったらしいのだが。
「……ごめん。二年前、何があったのかをよく覚えていなくて……」
ガタガタっと激しい音がしたのは、アイゼルが勢いよく立ち上がったからだ。
「二年前……覚えていない……?」
「あ、うん。二年前って、ちょうど私が騎士団を辞めたときよね?」
「そうです。あのときの送別会で……」
それはまさしく、エリサリナが酔っ払って記憶をなくしたときだ。だったらなおのこと、覚えているわけがない。
「ごめん。送別会のことを言われると、ちょっと……」
アイゼルの顔色が、さっと青くなる。
「もしかして……あれは僕の思い上がりだった? 好きだから結婚してほしいって言いましたよね?」
「いつ?」
「だから、送別会の後。あなたを宿まで送ったとき。てっきり僕の気持ちを受け入れてくれたと思ったから……」
「ごめんなさい!」
エリサリナは勢いよく頭を下げた。これ以上、黙っているのは心苦しい。
「実は、送別会の後の記憶がなくて……気がついたら、朝だった」
「……は? うそだろ……?」
「うそじゃない。お酒を飲んで記憶をなくすって本当にあるんだなって思った。だからあれ以降、お酒は控えてるし……だけど、その夜、誰かと一緒だったっていうのはうっすら覚えてるんだけど……」
エリサリナは、呆然と立ち尽くすアイゼルを気まずそうに見やる。
「ごめんなさい。本当にごめん。そのとき、どんな約束をしていたかも覚えていないんだけど。約束を破ったとしたら、それは私の本心じゃないっていうか……えっと……意図的に破ったっていうわけじゃなくて、その……だから、覚えてなくて……」
そのまま後ろに倒れ込むようにしてアイゼルはもう一度ソファに腰を落とした。
「覚えてないって、どこから覚えてないんですか?」
呆れと諦めが交じったような声を絞り出したアイゼルは、項垂れる。
「うん、だから、送別会の後っていうか、途中から……? ご飯が美味しいなっていうのは覚えてるんだけど、その次の記憶は朝っていうか……」
「うわぁ……肝心なところを忘れてるし……」
軽い口調なのは、アイゼルの独り言だからだろうか。それとも本心か。
「だから、あの……よかったら、あの日、何があったか教えてくれない?」
「……はぁ、その件は、もういいです」
諦めたようにアイゼルはひらひらと手を振った。
その様子を目にしたら、なぜかエリサリナの心臓がぎゅっと鷲づかみされたように苦しくなった。
今、彼に対して何かを期待していた。
「それで、僕からの縁談から逃げるようにしてこちらに来たのは、本当に身体を壊したからなんですか?」
「……それは」
その件を正直に伝えるには、リザリアの存在を明かすしかない。そしてあのときの相手がアイゼルだとしたら、リザリアは彼の娘だろう。
しかし、その存在を明らかにすれば、彼は責任を感じるはず。まだリザリアがアイゼルの子だという確実な証拠だってないのに。
ただそうであってほしいと、エリサリナが望んでいるだけなのだ。
「言えないというのであれば、無理には聞きません。見たところ、今のあなたは、健康に問題はなさそうだ。となれば、僕との結婚も問題ありませんね」
「は? え? なんでそういう話になるわけ……?」
「僕は、リュミエール伯爵家に縁談を申し込みました。ですが、あなたが病気になったため、迷惑をかけられないという理由で断られました」
それが父の考えた角の立たない断り方だ。
「僕はあなたの病気が治るまで待つと言った。だけど、伯爵は迷惑をかけられないの一点張り」
そこでアイゼルは、エリサリナを観察するかのような視線をじっくりと這わせる。
「あなたの病気はすっかり治ったようですね。この地での療養のおかげだ。となれば、僕との結婚になんの支障もないわけです」
「えっと……なんでそんなに私との結婚にこだわるわけ?」
「大事な記憶をなくすような人には教えません」
アイゼルはぷいっと顔を背ける。
これは間違いなく怒っている。いや、記憶をなくした自分が悪いのはわかっているのだが。
「今日は、これで帰ります。あなたの元気な姿が見られて安心しました。もう僕から逃げようとは思わないでくださいね?」
立ち上がるアイゼルの姿を見て、エリサリナの胸は大きく鼓動する。なんのドキドキかはわからない。
「あの……見送る……ります」
慌ててしまったせいか、立ち上がったエリサリナは思わずよろめいてしまう。
「危ない」
すぐにアイゼルが素早く動き、倒れそうになるエリサリナの身体を支えた。
「だから、あなたから目を離せないんですよ。なんでも一人でやろうとして、誰かに頼ろうとしない。もっと僕を頼ってほしいのに……」
エリサリナをのぞき込む彼の瞳は、どこかもの悲しげに揺れている。
「僕はずっとあなたを追いかけていた。やっと手が届くと思ったら今度は逃げられた。だから、あなたを待ち伏せすることにしたんです」
そのままアイゼルは、唇を重ねてきた。それはほんの触れ合うだけの、わずかなものだというのに、エリサリナの記憶を刺激するのには十分だった。
「そういう眼で見るの、やめてくれません?」
「えっと……、もしかして目つきが悪かった?」
「いえ。もっとしてほしそうな顔をしてます」
羞恥のあまり、顔がかっと熱くなる。
「そ、そんなんじゃないから」
慌てて否定したのは、本心を見破られたと思ったからかもしれない。彼との口づけは、嫌ではなかった。むしろ心地よかった。
「この結婚は政略的なものだと思ってもらってかまいません。僕たちの身分であれば、結婚に気持ちが伴わないのも珍しくはないでしょう?」
なぜか胸が苦しくなった。アイゼルから突き放されたような気がした。
「だけど、断ることは許しません。今はまだ、僕のことを好きではないかもしれませんが、これから好きになってもらう予定ですから」
そう言った彼は、今度は軽く、ちゅっと額に口づけてきた。
「ダメだ……名残惜しいけれど、このままでは離れられなくなる……順番を守らないと……」
ぶつぶつと何か言いながら、アイゼルはエリサリナと距離を取った。
「また来てもいいですか? いや、また来ます」
許可を取るような言い方は、騎士団時代となんら変わりない。だけど、言い直したときの表情は、あのときとは違うもの。
気持ちを整えたエリサリナは、アイゼルを見送るため部屋を出た。
しかし、部屋の外ではリザリアを抱いたダフネが待っていたのだ。
「ま~ま~」
「ごめんなさい。リアにはママは大事な話をしているから、良い子で待ちましょうと言ったのに、暴れて手がつけられなくて。だからあなたの側で待っていたの」
「ありがとう、ダフネおばさま」
リザリアをダフネから受け取ったとき、鋭い視線を感じた。
「その子は……」
間違いなくこの場にいた誰もが、リザリアとアイゼルの血縁関係を確信している。それだけリザリアはアイゼルによく似ていた。こうやって並んだからこそ、意識してしまう。
これではもう彼との結婚は避けられないと、エリサリナは瞬時に悟った。と同時に、今、彼に対して抱く感情がなんなのか、正体を突き止めたいと、そう思うのだった――。
【おわり】
某サイトの姫初め用に書いた作品から濡れ場を削ったものです。
需要がありそうなら、長編にして騎士時代からのすれ違いっぷりとかわいそうなヒーロー視点を書きたいなぁ、とも思ってます。
おまえ、順番守ってないだろ!って思いながら書いていたけれど、この時点では知らなかったから仕方ないってことで。
今年の投稿は本作で最後となります。
少し早いですが、よいお年をお迎えください。
2026年も、よろしくお願いします。
それでは。
澤谷




