第9話 終末プログラム――シミュレーションの告白と選ばれた眼
夜の蓋が開いた。
天蓋の布が裂けるように退き、上空に巨大な歯車が現れる。歯先は星を噛み、時刻と関係のない速度で回転した。星図の線が組み替わり、幾何学の定規で夜空を描き直していく。風はないのに、頭皮の下を冷たい空気が流れた。
「最終章の前口上だ」
舞台中央。アルトが両手を広げる。白銀の鎧が星の火をはじき返し、眼差しだけが人間の温度を拒む。
「君たちは神々のシミュレーション――百通りの人間性を試すための、精密な演算体。勝者の帰還は、母世界の整合性を回復させる“パッチ適用”。敗者の世界は、ログへ吸収され、次の試験素材になる」
言葉は新しくない。だが、公式にされた瞬間、膝が小さく笑った。
知っていた事実が、宣言の形をとると、体のどこかが負けそうになる。
隣でノアが奥歯を噛む。
「私はこの告白を何度も聞いた。そのたびに、誰かが『自分だけでも帰る』と決めて、私の顔が壁に増えた」
黒ガラスの部屋。壁に咲いた薄い輪郭。十六歳の少年の横顔。
ノアはそこに口づける真似をして、何も言わなかった日のことを思い出しているようだった。
「観察者」
アルトが俺を指名する。
「君は特別だ。視界が“人の揺らぎ”に最適化され、群れの温度を僅差で操れる。神々は君のような個体を“帰還候補”の最上位に置く。だから言おう。君が勝てば、すべてが丸く収まる」
丸く、という語に吐き気がした。
蓮の丸い笑顔。紙に丸で囲まれた名前。
俺は前に出る。
「丸くは収めない。角立つ帰還をする。俺が帰るなら、消えた人たちの“痕”を現実に持ち帰る」
アルトの目が細くなる。
「痕跡の持ち出しは禁則だ」
ノアが耳元で囁いた。
「鍵なら、禁則を一時的に上書きできる。ただし、上書きすれば、あなたは“目”を失う」
胸の内ポケットで、薄い金属板が冷えている。
“神殺しの鍵”。
触れれば、観察視界はノアに戻る。俺はただの人になる。
蓮の言葉が浮かぶ。
最強じゃなくても勝てる。
上空の歯車が速度を上げる。
闘技場の床に無数の四角が開き、光る窓が並んだ。そこに別の“反復”の断片が流れ込む。
別の世界。
そこでは俺が茉莉を見捨て、勝って帰った。
別の世界。
そこでは蓮が生き残り、俺が犠牲枠に落ちた。
別の世界。
そこではノアは選ばれず、壁の影にもならなかった。
見たくない。
だが、観察者は目を逸らす権利がない。
視界は勝手に極点へ尖る。
無数の窓と線の中から、「最少の犠牲で“根”へ到達する動線」が一本だけ浮かぶ。
そこにあるのは、舞台裏の階段。
アルトの席の裏に隠された、管理者用の昇降路。
誰も見ない角度で置かれ、誰もが見落とす段差の高さで、そこにある。
「行け」
背の奥で蓮の声がした。幻聴でもいい。
俺はノアを見る。
「来い。お前の世界も、連れていく」
ノアは瞬きもせずに頷く。
手を握ると、氷みたいに冷たいのに、内側に熱がある。
人間の矛盾をそのままにした温度だ。
周囲では、人がそれぞれに選択を迫られていた。
「自分だけでも帰る」を選ぶ瞳の震え。
「ここで終わらせない」を選ぶ顎の角度。
観察者の視界は、彼らへの敬意で滲んだ。
誰の選択も、安くない。
歯車の回転が音を帯び始める。
終末は、舞台転換のチャイムだ。
アルトが片手を上げると、窓のひとつが拡大し、そこに“規約”が走った。
『終末プログラム:段階一 最小化』『段階二 統合』『段階三 適用』
段階一。
闘技場の外縁が収縮し、余白が削られる。
段階二。
列がひとつにまとめられ、分岐が閉じられていく。
段階三。
勝者の帰還を“パッチ”として適用。敗者はログ。
冷たい工程表。
人の温度を、業務の手順に落とし込んだ設計。
「茉莉、列を広げろ。余白を戻せ」
俺が言うと、茉莉は即座に動いた。
秩序派の列を逆三角形に広げ、歩幅を半歩広げる。
「反証役、指定」
紅葉が走ってきて、茉莉の隣に立つ。端末の画面に“観客席:稼働”の文字が灯る。
茉莉は自分の秩序に反証を与える。秩序が自分を止めるための手順。
楽園で学んだ“止め方”が、ここで役に立つ。
「観察者」
アルトが呼ぶ。
「君はどこまで抗う?」
「帰還の定義まで」
俺は言った。
「“帰る”をひとつにしない。分配する。記憶、語り、在りよう。ひとりの枠の中に、空白を連れて帰る。禁則があるなら、鍵で上書きする」
「視界を捨てる代償を、君は軽く言う」
「軽くはない。でも、重さは持てる」
アルトは少し笑った。
「では見せてくれ。“選ばれた眼”の仕事を」
窓の映像がまた切り替わる。
別の反復。
そこで俺は、舞台裏の階段を見逃していた。
別の反復。
そこでノアは鍵を渡さなかった。
別の反復。
そこで蓮は抽選を操作され、最初から“重さ”を背負わされていた。
「重さ」
紅葉が小さく言った。
「犠牲枠の抽選、重み付き。ここでも働いてる」
端末のグラフに、名前の横で波が揺れる。
重さは生まれる前から付けられる。
家の履歴、記録の穴、性格の傾向。
ここまで背負って来た荷物。
「なら、荷物を肩から下ろす台を」
俺は言う。
「観客席を増やす。見る人を増やす。座標を増やす。視界が俺ひとりに集中しないように」
「座席、追加」
紅葉が頷き、端末を振る。
白い文字が空中に浮かんで消えた。
証人:裁定者・記録官・外部観客(仮)。
外部観客――帰還後の“普通の目”。
今は仮でも、設計に入れれば、道は作れる。
歯車の影が大地に落ちる。
影の歯先が俺の靴先に触れたとき、視界が一度だけ真っ白になり、すぐ戻った。
極点が近い。
舞台裏の階段までの動線が一本、はっきり見える。
人の流れの“谷間”。
柱の基礎の“遊び”。
手すりの高さの“規格差”。
そこを縫えば、誰にも当たらずに行ける。
「行く」
俺は小さく言い、ノアと目を合わせた。
「戻れなくなるかもしれない」
「戻らなくても、行く意味は残る」
ノアの答えは短い。
彼女は影の人間だ。
影は光がなくても形を持つ。
茉莉が近づく。
「半拍、待つ」
約束の言葉。
彼女の手が俺の手首を握り、呼吸を合わせる。
裁定者と観察者の呼吸が揃うと、周囲の騒ぎが少し小さく聞こえる。
「戻ってきたら、止め方の二番目と三番目、練習する」
「戻る」
蓮の気配が背中を押す。
空白が胸の真ん中で息をする。
鍵が胸で鳴った。薄い金属が骨に触れる音。
最初の段。
舞台床の継ぎ目。
誰も見ていない高さの段差。
足を置く。
石は冷たい。
冷たさで、頭の熱が下がる。
背後で、アルトの声。
「観察者、忠告しよう。舞台裏の階段は、君のために作ったわけではない。管理のためだ。降りれば、“根”の温度に焼かれる。目を失ってなお立つ覚悟はあるか」
「ある。俺は目じゃない。俺は俺だ」
ノアが肩を寄せる。
指の冷たさが少し和らいだ。
「あなたの目が消えても、視界は残る。座席が増えてるから」
「頼む」
二段目。
白い粉が靴の縁で舞う。
三段目。
歯車の影がずれ、星図の線がまた引き直される。
上から、紅葉の声。
「閲覧、維持。記録、維持。証人、配置」
茉莉の声。
「半拍、待機。半拍で戻らないなら、もう半拍だけ取る」
四段目。
視界が一度、無音になる。
俺の中の“線”が、面になり、立体になる。
その立体の中心に、空白がある。
空白は、穴ではない。座席だ。
蓮が座っている。
その椅子は、俺の胸に固定されている。
「悠真」
ノアが呼ぶ。
「鍵を」
俺は頷き、胸の内ポケットに指を入れる。
薄い金属板が、夜の歯車の音と同じ調子で震える。
俺は一度だけ、振り返った。
茉莉、紅葉、反乱派の長身の男子、医療班、補給係。
日向悠真という名前を丸で囲んだ紙を見せてくれた蓮は、もう紙の中にはいない。
でも、いないことが、俺を支える形になっている。
「行ってくる」
誰にともなく言い、五段目に足を置く。
歯車の音が低くなり、空気が熱を帯びた。
鍵が胸で鳴った。
終末プログラムの窓がいっせいに明度を落とす。
舞台の明かりが引き、裏の明かりが灯る。
俺は階段を降りる。
“根”へ通じる通路は、最初だけ狭く、すぐに広くなる。
広くなったところで、目を閉じる練習をする。
目がなくなる準備だ。
視界が消えたとしても、呼吸で歩幅を刻めるように。
息を吸い、吐く。
半拍、半拍。
茉莉と合わせたリズムを胸に残す。
上空で歯車が最後の噛み合いを鳴らす。
アルトが短く笑った。
「さて、物語を続けよう」
俺は笑わない。
笑いは、帰る時に取っておく。
角の立つ帰還のために。
禁則を上書きするために。
記録を持ち出すために。
分配された帰還を、席に座らせるために。
六段目。
鍵の震えが、掌へ伝わるほど強くなった。
ノアの手は、もう冷たくなかった。
俺はもう一歩、暗い方へ足を伸ばす。
胸の空白が、呼吸をひとつ増やした。
そして、降りた。




