第7話 ノアの真実――第零回戦の生存者と“神殺しの鍵”
蓮が粒になった翌日、闘技場の空は紙の裏側みたいな白さをしていた。色はあるのに輪郭がない。
眠れなかった。目を閉じると、石盤の上で崩れる背中が、延々と逆再生と早送りを繰り返す。どこで止めれば助かった。どこで割り込めば歯車がずれる。観察者の脳は問いを投げ続け、答えの欄だけが真っ白のまま朝になった。
炊事場の金属音が一度だけ鳴って、すぐ消えた。茉莉は配給表を書き直し、保護班と戦闘班の動線を半拍だけずらしていた。彼女の筆致はいつも通りの速さだが、無音のところで疲労がきしむ。
俺は回廊の柱にもたれ、拳の皮が乾いてつっぱるのを眺めていた。
「観察者」
黒が声を持った。柱の影から、喪服のような黒ワンピースが滑り出る。目は深海の色。
いつもの「誰でもない」顔に、今日は微かな迷いが乗っていた。
「名前を聞いても?」
俺が問うと、彼女は唇を整え、小さく答えた。
「ノア」
短い名は、海の底で鳴る鈴みたいに軽かった。
「ついてきて」
ノアは踵を返し、闘技場の縁の階段へ向かう。
途中で階段は途切れる。けれど、彼女の足は見えない段を降り続けた。俺が続くと、靴底は空気の弾力を踏み、次の瞬間には固い石に触れる。落ちていないのに、確かに降りている。
冷たい匂いが強くなる。
やがて開いたのは、黒ガラスの部屋だった。
壁一面、薄い輪郭が揺れている。粒にほどける直前の顔。笑いかけて止まった口角。誰かの掌に乗り切らないほど多い「失われたものたち」。声はないのに、耳の裏がざわめく。
「ここは?」
「“記録”の下層。格納された在りようが最初に通る場所。あなたの目なら焦点が合う」
ノアは壁に近づき、掌を当てた。表情は変わらない。けれど、指の腹だけが少し熱を持つ。
彼女が触れたガラスに、十六歳くらいの少年の輪郭が浮いた。
ノアはその輪郭に口づける仕草だけして、手を離した。
「私の、恋人」
声は淡々としているのに、言葉が出る時だけ、部屋の温度が半度ほど下がる。
俺は訊いた。
「君は……ここで何者なんだ」
ノアは振り返らずに言った。
「“第零回戦”の勝者」
時間が一度止まった。
勝者なら、帰還できる。
けれど彼女はここにいる。生きても死んでもいない影として。
「帰らなかったのか」
「拒んだ」
「なぜ」
「私が帰れば、他の世界が削除される。勝者の帰還は、敗者の世界の葬儀と同義だったから」
壁の輪郭がひとつ、ふっと小さくなって消えた。誰かの在りようが、より深い層へ沈んだのだろう。
ノアは続ける。
「“第零回”は、神々が代理戦争の原理を作るための試運転。勝者は現実へ戻り、すべて忘れる。敗者は“素材”にされ、観測のためのログになる。私はそれを拒否して、観測装置の中枢に自分を接続した」
「だから俺に見える」
「ええ。あなたの視界にだけ焦点が合うのは、そのせい」
喉が乾いた。
ノアは部屋の隅にしゃがみ、床石のひとつを外した。
中から薄い金属板を取り出す。掌より少し大きい、刻印のない扉の部品のような板。触れると冷たく、微細な振動が骨に染みた。
「“神殺しの鍵”。世界を生成・回収する“根”へ入るための通行片。第零回の優勝者が、唯一持てた仕様の穴」
仕様。工程。テスト。
アルトが嬉々として語る美学の裏に、現場のフローチャートの匂いが見えた。
誰か――いや、何かが、感情を勘定に変えている。
鍵は、その勘定台の引き出しに差し込むための薄い金属だ。
「これを使えば、あなたは“根”に降りられる。けれど代償がある」
「代償?」
「あなたの“観察視界”は、私に戻る。あなたはただの人間になる」
胸の真ん中が、ゆっくり凍っていく。
蓮が守ろうとした「目」。彼が「お前が目になれ」と言った、その目だ。
冗談じゃない、と本能が叫ぶ。
同時に、鍵の冷たさが蓮の掌の温度を上書きする。
最強じゃなくても勝てる――蓮はそう言った。
なら、最強の目を捨てても勝つ道を探す。それが理屈だ。
「いますぐ決めなくていい」
ノアは金属板を俺の手に載せた。軽い。軽いのに、持つと肩が重くなる。
「あなたは、まだ見なければならない」
ノアは立ち上がり、別の壁を指した。
黒ガラスの奥に、薄い通路。
視線を押し込むと、白く霞んだ階段が見えた。
その手前で、ノアが言った。
「観察者。あなたは、私の世界を一度、終わらせたことがある」
胃の位置が、またずれる。
ノアは淡々と続けた。
「別の“反復”で、あなたは勝って帰った。私はそこで、消えた。あなたはそれを覚えていない。勝者は忘れる。そういう設計だから」
吐き気が喉に上がる。
俺は目を逸らさなかった。
「なら、二度と同じ結末にはしない。帰るのはひとり、ではなく、帰る意味を“複数に分ける”。誰かの記憶に、語りに、生き方に、帰還を分配する」
ノアは微笑まないまま、頷いた。
「分配された帰還は、神の“効率”を壊す。それが唯一、私たちが神にできる暴力」
暴力、という言葉が意外にやさしく聞こえた。
丁寧に畳まれた紙を乱暴にくしゃくしゃにするみたいな、ささやかな破壊。
それでしか届かない場所があるなら、そうするしかない。
「上に戻ろう。時間がない」
ノアは踵を返す。
階段は途中でまた途切れる。
けれど、足は空気の弾力を踏み、次の瞬間には地上の石に触れた。
広場の光が白い。影は短い。
茉莉が秩序派を再編している。命令系統はすでに二重化され、“外敵認定”の条件が紙に記されていた。彼女の正しさは、躊躇を失って速度だけになっていた。
塔の上では、アルトが散歩をしている。見下ろす顔は相変わらず愉快そうだ。
制服の下で、鍵の重みを確かめる。
冷たい。
でも、温度には慣れる。
なにより、胸の空白はもう別の温度を持っている。
蓮のいない場所を抱える“第二の焦点”。
そこに触れると、視界の線が束に変わる。
「観客席、二脚。夜明け前の井戸。確保済み」
背後から紅葉の声。
記録官室の白い灯りに焼かれた目の色で、彼女は小さなメモを差し出す。
《閲覧座席:井戸側 二席/証人:裁定者(予定)》
「査問は続いてる。けど、座席を増やすことは“業務の外”の範囲でできる」
「ありがとう」
紅葉は頷いて去る。
秩序は秩序の仕事を続け、記録は記録の仕事を続けている。
俺は俺の仕事――鍵穴を探し、扉の縁を確かめる。
黒い影が、塔の階段の踊り場で足を止めた。
アルトではない。歩幅が違う。足音が軽い。
“審判の代行”。
昨日から追っている足音だ。
観察者の視界が、階段の石の欠け、踊り場の擦り跡、手すりの冷たさを結んで、薄い線の地図を描く。
鍵を使えば、これが見えなくなる。
けれど、目はひとつじゃない。
紅葉の記録。茉莉の秩序。ノアの影。
分配された視線を束ねれば、俺一人の目より広い地図が描ける。
「鍵を、いつ使うの?」
ノアが横で訊いた。
俺は答えた。
「“分配”が座る席が足りたとき。俺が目を失っても、視界が残るだけの席が」
ノアは薄く瞬きをした。
「慎重で、乱暴。あなたらしい」
鐘が鳴る。
次の試練の合図。
人の列が動き出す。
茉莉は紙を掲げ、号令を短く刻む。
アルトは踊り場で手すりに肘を置き、天気の話でもするみたいな顔でこちらを見た。
「観察者。休息は甘かったかい」
「甘いものは嫌いじゃない。でも、砂糖はすぐ溶ける」
「いい比喩だ。さあ、次は君の出番だ」
喉の奥で、別の声が返事をした気がした。
蓮の息だ。
胸の空白で呼吸がひとつ増える。
俺は鍵を制服の奥にしまい、列の最後尾に立つ。
最強じゃなくても勝てる。
勝つ形を、俺たちの方から定義し直す。
帰還を、分配する。
神の“効率”に穴を開ける。
そのために、今日も見る。
見るだけじゃない。見せる。
観客席は二脚。
秩序と記録が座り、空白が肩を寄せる。
そこに“暴力”の手順を置く。
薄く、確かに、扉の縁が光った。
鐘の余韻が消えるまでに、俺は一度だけ深く息を吸った。
鍵の冷たさと、蓮の温度が、胸の中で同じ色になった。




