第6話 親友の告白――“選ばれた家”と犠牲枠
午前の回廊は、薬草と焼いた布の匂いがまだ薄く残っていた。昨夜の火と血の手当てが、石の目地にまで沁み込んでいる。角灯は消えて、天井の孔から降りる光だけが床を四角く切っていた。人の声は遠く、鍋の蓋が触れる金属音だけが時々跳ねる。
「散歩」
蓮が短く言って、俺の袖を引いた。
言い方は軽いのに、指先の力はいつもより強い。ついていくと、物資庫と炊事場の間を抜け、見張りが少ない裏通路へ出る。石壁の裏、風がうまく通らない狭い路地。足音が吸い込まれる場所だ。
「ここなら、壁が聞き耳を立てにくい」
蓮は笑った。わずかに怯えた顔のまま。
「俺さ、こっちのこと、少し知ってた」
冗談みたいに始める。けれど、笑いに体温が伴っていない。俺は立ち止まり、壁にもたれた。
「どういう意味だよ」
「俺の家、古い宗教団体に繋がってる。祖父さんの代から“異界の記録”を集めるのが家業みたいなもんでさ。神話、儀式、召喚の逸話、ぜんぶ“残す”。最近、連中が拾ったんだ。“百人召喚の兆し”」
蓮はポケットから折りたたまれた紙切れを出した。角は汗で柔らかくなっている。
「“選ばれうる子供たち”のリスト。端の方に、俺の名前と――」
紙の中央、丸い印。
日向悠真。
薄い墨の丸で囲ってある。誰かが迷いなく付けた丸。震えがない。
「だから俺、準備した。塾とか部活とか、そういうのを一回ぜんぶ投げて、走る準備。道具の選び方。棒の握り方。息の整え方。もし本当に起きたら、お前の盾になるって、勝手に決めた」
冗談にしてしまいそうな言葉を、冗談にしない声で言った。
手が震えている。軽口を探して、見つからなかったみたいに、口元が一瞬だけ揺れる。
喉の奥で言葉が固まる。力ずくで押し流した。
「なんで俺なんだよ」
「お前の『見え方』。前から人と違った。クラス替えの初日に席替えの流れを読むとか、先生が当てる順番の呼吸を先回りするとか。体育祭の綱引きで、相手の足が揃う瞬間を言い当てるとか。祖父さんはそれを“観察者の徴”って呼んでた。『見える子は選ばれる。選ばれた子は、だいたい最後まで見続ける』って」
足元が少しだけ浮く。吐き気はないのに、胃の位置がずれる感じ。
選ばれていた、という感覚は、優越でも運命でもなかった。冷たい責務の形だけが掌に残る。
この丸印を付けた手が誰のものでも、丸の輪郭は今の俺の輪郭に重なる。
「怒る?」
蓮が訊く。
「言わないで来たこと。俺だけ知ってて、準備してたこと」
「怒らない。怒れない」
本音だった。
「言ってくれて、ありがとう。今、聞けてよかった」
「よかった」
蓮は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、続き。……“犠牲枠”って言葉、聞いたことある?」
「ない。嫌な予感しかしない」
「教団の古い記録に出てくる。均衡をとるための“穴”。召喚がうまくいくほど、穴がひとつ必要になる。穴に落ちるのは、抽選か、看過された不正か、あるいは――」
蓮の声がそこで切れた。
広場側から足音。軽い靴底が石を打つ音。
俺たちの隠れている路地の角で止まり、逆方向に消える。
気配だけで名前が浮かぶ。アルト。
風の向きが変わる。
「行こう。昼に集合がかかる」
蓮は紙切れを二度折り、ポケットに戻した。
歩き出す背中の肩甲骨が、いつもより少し高い位置で揺れていた。
俺は、壁に残った自分の手の熱を確かめてから、あとを追った。
*
昼過ぎ。石の広場に円形の石盤が据えられ、周囲に集まった生徒の呼吸がひとつの塊になった。
アルトは塔の踊り場に立ち、いつもより楽しそうに笑った。
「ボーナスラウンドだ。“犠牲枠”を抽選する」
言葉が投げられ、石畳に乾いた音で割れた。
ざわめきが波のように広がる。
茉莉が前へ出ようとし、俺が腕で止める。
アルトは軽く片手を上げただけだった。
円形の石盤が、勝手に回り始める。外周に刻まれた百の名前が白く点滅する。
回転は速く、目で追うことを最初から拒むみたいに、光が輪になる。
やがて、速度が落ちる。点滅がひとつずつになり、音が遠ざかる。
止まる。
そこに浮かんだ名前は、薄い光の中で何度も読めるほど鮮明だった。
水城蓮。
時間が粘土になった。
指で撫でれば形を変えられそうなのに、実際には何も動かない。
耳の奥で、音の高さが変わる。
茉莉の吸い込んだ息の音。誰かが小さく立てた椅子の軋み。石盤の回転が止まる重み。全部が遠く、全部が近い。
蓮は一瞬だけ目を細めた。
いつもの軽口を探すみたいに口元が動き、やめた。
静かに俺の肩を叩く。
「大丈夫。こうなるなら、ここに来た意味がある」
「ふざけるな」
喉が先に動く。頭が追いつかない。
観察者の視界が勝手に広がり、暴走する。
足場、距離、角度、門の位置、アルトまでのライン、黒ガラスの位置。
合流、遮蔽、投擲、突入、連結視界の切り替え。
網の目のように繋がり、全てが同じ結論に収束する。
――奪還の可能性、ゼロ。
「ルールは絶対さ」
アルトが笑う。
「犠牲枠は世界の均衡装置。壊せない。もし壊す力があるなら、見せてくれ。“観察者”」
蓮は石盤の中心へ歩く。
歩幅が一定。背中の筋肉の動きに迷いがない。
俺は叫ぶ。
「待て、何か方法が――」
袖を、黒い指先が掴んだ。
黒の少女。影を羽織ったまま、声だけが耳に滑り込む。
「今は無理。だけど、鍵穴は近い」
「鍵穴?」
「間に合わない話は、今するべきじゃない」
光。
蓮の輪郭が砂になる。
砂が崩れて、細かい粒になって、空へ昇る。
ログ格納:成功。
視界に無機質な文字が走る。
音はない。叫びも、泣き声も吸い込まれる。
膝が抜ける、という言い回しは嘘だと思っていた。
本当に、抜ける。
床が一瞬だけ遠くなり、戻ってくる。
声が出ない。
喉の奥で咆哮だけが暴れて、音にならない。
茉莉が肩に手を置こうとして、躊躇い、引っ込めた。
彼女の正しさも、助けにならない。
助けにならない正しさは、ただ硬い。
アルトが石盤を一瞥し、踵を返す。
「感謝しよう。“穴”は満たされた。次の局面に進める」
耳の奥で、何かが折れた音がした。
俺の中の柔らかいところにあった木の枝みたいなものが、乾いた音を立てて割れる。
割れたあとの隙間に、冷たい風が通った。
*
夜。
回廊の奥は人が来ない。角灯の火が遠くに二つ。
拳で壁を殴る。
痛みが遅れてくる。骨に響く痛みは、体がまだここにあることだけを知らせる。
黒ガラスがうっすらと震え、薄い波紋に蓮の笑顔が浮かぶ。
「お前が目になって、俺が足になる。最強じゃなくても、勝てる」
いくらでも思い出せる。
初めて棒を握った日。体育館裏で、俺の合図に合わせて蓮が一歩ずつリズムを覚えた日。
彼はいつも、前を見ていた。
拳が割れる。皮が剥け、血が石目地に塗られる。
痛みが濃くなるたび、頭の中の“線”がクリアになる。
観察者の視界が変質する。
情報が、線から面へ、面から立体へ。
これまで俺は、人の動きの矢印を“線”として見ていた。
今、矢印の先にある“空白”が見える。
蓮のいない空白。
埋めるのではなく、抱えて前に進むための“第二の焦点”。
「帰還って、なんだ」
声に出すと、言葉は石の壁に吸い込まれて、戻ってこない。
アルトは言った。“枠はひとつ”。
黒い少女はささやいた。“鍵穴は近い”。
犠牲枠は、均衡のための穴。
なら、穴の形を変えればいい。
穴そのものを塞げないなら、穴の“周囲”を組み替える。
茉莉が回廊に入ってきた。足音は静かだ。
俺の拳を見て、眉をしかめる。
「手を出して。消毒する」
「痛い」
「痛くしてるのはあなた」
当たり前のやり取り。
消毒液がしみる。
茉莉は手当てをしながら、目線だけで問いかけた。
責めでも慰めでもない。
ただ「次に、何をするの?」という、彼女にしかできない問い。
「壁の裏に、手を入れる。犠牲枠の“抽選”の手順。鍵穴。審判の代行。黒ガラスの扉。ぜんぶ繋げる」
「時間は?」
「ない」
「味方は?」
「作る。……紅葉の席をもうひとつ借りる」
茉莉は頷いた。
「あなたの“別の道”、半拍だけ待つ約束は有効。半拍しか待てないけど」
「半拍で足りる」
「なら、行って」
彼女は包帯を結び、背中を軽く叩いた。
それは“頑張れ”でも“行くな”でもない、真ん中の温度。
俺は立ち上がる。
足は震えている。
でも、前へ出る時に必要なのは、足の強さだけじゃない。
空白を抱える場所。
第二の焦点。
*
夜半。
記録官区画の手前に、紅葉が立っていた。
制服の襟を正し、髪を結い直している。
「査問は、朝いち。いまなら三分、自由になる」
彼女は淡々と告げ、ポケットから薄い鍵を一枚出した。
「観客席を、もう一脚。条件はひとつ。“見せること”。誰が見ても否定できない形で」
「見せる。犠牲枠の手順を。抽選と言いながら、あらかじめ敷いてある“溝”を」
紅葉は目を伏せた。
「抽選は抽選。そこに嘘はない。でも、溝はある。名前は同じ速度で回るけれど、“重さ”が違う。重さは、ここに来る前から付けられている。戸籍、家族構成、記録、傾向。均衡の装置は、最初から片側に傾いている」
「選ばれた家、か」
蓮の家。教団。丸印。
全部が直線で繋がるわけではない。けれど、点は増える。
点が増えれば、線は引ける。
「鍵穴を見せるには?」
「扉の前で息を合わせる。あなたの“観測”と、私の“記録”を重ねる。証人を一人、茉莉に」
「茉莉でいいのか」
「彼女は“秩序”。秩序が見たと言えば、秩序は自分で自分に嘘をつけない」
紅葉は鍵を渡した。
金属の軽さが手に移る。
「あなたの友だちは、ログの中にいる。格納の直後は、触れやすい。完全に沈む前に、ひと呼吸ぶんだけ、引き寄せられるかもしれない」
「戻せるのか」
「戻すのではない。“居場所を作る”。帰還の定義をずらす。ひとりの枠の中に、ひとり分の“空白”を連れて帰る。法の外ではなく、中で。記録官として、私はその形を“記録”できる」
それは救いではない。
けれど、光のない場所に白線を引くやり方としては、十分だ。
蓮を“復活”させるのではなく、蓮の“在りよう”が消えない形を、枠の中に持ち帰る。
彼が賭けた命を、無にしないやり方。
それなら、俺にもできるかもしれない。
「朝までに準備する。茉莉に話す。観客席を井戸に。扉は黒ガラスの中」
「三分、使い切った。行って。記録官室の灯りは、あなたにはいつも眩しすぎる」
紅葉は踵を返し、白い蛍光灯の廊下に消えた。
残した匂いは紙とインク。
俺は鍵を握り、裏通路へ戻る。
角で黒い少女が待っていた。
「鍵穴は、見える?」
「見えるようになった。空白を抱えたまま見るやり方も」
「いい目」
少女は短く言い、壁に溶ける。
その声は、慰めでも励ましでもない。
ただ、事実を置いていく。
*
夜明け前。
井戸の縁に、椅子が二脚。紅葉の“個人の裁量”。
茉莉が片方に座り、深く息を吐いた。
「見る。私の目で」
「ありがとう」
黒い水面が、薄く震えた。
鍵を落とす。沈む。
観察者の視界は“面”で井戸を捉え、黒ガラスの位置を“立体”で描く。
扉の縁が、一本の線として浮かび上がる。
紅葉が端末を開く。
「記録を開示する権限ではなく、“閲覧の席”を確保する。あなたの目と私の目を束ねる。茉莉、あなたは証人。合図で首を縦に振って」
茉莉は頷き、両手を膝に置く。
俺は息を吸い、空白を胸に抱えた。
蓮のいない場所。その形を、壊さずに持つ。
空白は冷たい。けれど、重くはない。
冷たさで体の熱が均され、視界がまっすぐになる。
「開け」
声に出した瞬間、井戸の底がひらく。
黒い板に、薄い筋。
扉は音を立てない。
ただ、水面の内側で空気が入れ替わる。
ログの粒が浮く。
粒のひとつが、俺の指先に触れた。
笑顔。
棒の先を磨く横顔。
走りながら振り向く目。
蓮の“在りよう”。
それは映像ではなく、質感だ。
握り拳の固さや、背中の汗の塩の感触や、息の短い切れ方。
全部が“粒”になって、指先に触れる。
「記録」
紅葉が呟き、端末の光が一度だけ脈打った。
「“在りよう”を座標化。犠牲枠:格納後、四八時間以内。観測者承認、裁定者証人、記録官署名」
茉莉が、短く首を縦に振る。
彼女は泣いていない。
泣かないために、目を閉じてもいない。
ただ、見ている。
秩序の目で。
空白が、俺の胸に深く入る。
第二の焦点が定まる。
視界の中の“線”が、空白に向かって収束する。
線は重ならず、束になる。
束は、扉の縁を掴む力になる。
「帰還の定義を――」
言いかけて、口を閉じた。
言葉は、ここで完成させるものではない。
ここで必要なのは、ひとつだけ。
“在りよう”を落とさないこと。
扉が再び閉じる。
鍵は井戸の底に残り、光は弱くなる。
紅葉は端末を閉じ、短く息を吐いた。
「座席を一脚、確保した。帰るとき、あなたの“枠”に空白を連れて帰れる。法律上の帰還者はあなたひとり。でも、座っているのは二つの“在りよう”」
「ありがとう」
声が掠れていた。
感謝は足りない。
でも、今言えるのはこれだけだ。
茉莉が立ち上がり、朝の色を見た。
「次の試練が来る。秩序は動く。あなたは?」
「動く。秩序にも、甘い救済にも寄らず、壁の裏側へ手を入れるルートを探す。蓮が賭けた命に、応えるために」
茉莉は頷き、肩を叩いた。
「半拍、待つ。半拍で足りないなら、もう半拍だけ取る努力をする。――できるだけ」
「十分」
朝の鐘。
闘技場の影が短くなる。
アルトが塔に姿を見せ、手を振った。
笑顔は相変わらず。
俺は見返さない。
見返す視線は、もっと別の場所に使う。
蓮。
お前がいない空白は、俺の胸の真ん中にある。
そこが第二の焦点。
空白を抱えて歩く。
抱えたまま、前に出る。
最強じゃなくても、勝てる。
勝つ形は、ひとつじゃない。
帰還の形も、ひとつじゃない。
その日の午後、観測網の地図に赤い点が増えた。
通風孔の上、黒ガラスの前、塔の階段の踊り場。
音が集まり、足が写り、影が編まれ始めている。
審判の代行は、そこを通る。
犠牲枠の“重さ”を付ける手は、そこに触れている。
茉莉は掲示板に新しい紙を貼り、紅葉は白い廊下で端末を抱える。
俺は回廊を走り、小隊に合図を送った。
二秒の遅れ。半拍の猶予。
それだけで、夜は別の形になる。
夕暮れの前、風が変わる。
世界の空気が、ほんのわずかに薄くなる。
空白が、新しい位置に馴染む。
胸の内側で、呼吸がひとつ増える。
俺はそれを確かめ、前を向いた。
蓮のぶんの息を連れて、次の鐘を迎えにいく。
観察者の目は、もう線だけを見ていない。
線と線のあいだの、誰もいない場所。
そこで、勝つ。
ここから、帰還の意味を書き換える。




