第5話 失われた町――守る試練の皮を被った内戦
木の匂いがした。切りたての板を急いで組んだときだけする、生乾きの匂いだ。
闘技場の外れに、柵と見張り台と簡易の門で囲われた“町”が出現していた。家は箱のようで、窓は絵の具みたいに平たい。道は直線で、井戸はやけに口が大きい。まるで誰かが「町」のピクトグラムをそのまま地面に立体化したみたいだ。
「第五の試練。“村を守れ”。夜ごと魔物の群れが来る。夜明けまで守り抜けば、参加者全員に加点」
アルトは塔の上で、日差しを背に受けていた。ひどく簡単に言って、肩で風を受ける。
紙のルールは優しい。だが、悠真の胸は最初の一呼吸で冷たくなった。資源の置き方、弓の矢束の数、干し肉と水の量、柵の補強に使える材の本数――どれも足りない。
つまり、守るための資源が足りない設計だ。さらに、周囲に四つほど、同じ柵の町が見える。距離は歩いて十五分から二十分。
アルトは説明しない。だが、地形が語る。
守ることを餌に、奪うことを誘発する試練だ。
「住民……いるにはいるけど、目が虚ろ」
蓮が家の扉を軽く叩き、出てきた男の顔を覗いた。
人形みたいな顔だ。受け答えはするが、語尾に感情が載らない。表情の筋肉が省エネで動く。
茉莉は迷わず保護を決め、柵の補強、弓兵の配置、物資の倉庫番を指示していく。
「住民は中央広場に集める。矢場は北西と南東。火の手は抑える。燃やすのは最後。矢は節約。火矢は最終段階」
悠真は頷きつつ、蓮を横手に呼んだ。
「偵察。隣の町の配置を見てきて。矢束、見張りの交代、火器の扱い、住民の集め方。帰りに追われたら、誘導しないで切れ」
「了解」
蓮は棒を背に、走っていった。
観察者の視界は、町全体に薄い線を引く。
矢を受ける角度の悪い柵、最初に崩れそうな門の蝶番、住民が逃げ足でつまづく石段。
赤い点が右柵に多い。風が右へ流れる。火が回れば、右から落ちる。
「右柵、内側に土嚢を二列。外側にぬらした布。水汲み二人を常時回す」
悠真が告げると、茉莉は短く「任せる」と返した。
彼女の指示は速い。迷いがない。
速さは安心を生む。だが、速さは熱も生む。熱が上がれば、人は言いにくくなる。
観察者の視界に、昨日から続く「言い出せない空気」が薄く流れ込んでくるのが見えた。
今はまだ、臨界ではない。
夕暮れ、蓮が戻った。息は整っているが、眉間に皺が寄っている。
「向こう、戦闘特化班が占拠してる。住民は最初から外に出されてた。『囮』にする気だ。矢も油も向こうの方が多い。あれ、たぶん俺らを餌にして、二夜目にこっちを削る。『守ってるふり』の配置だ」
喉の奥が冷えた。
茉莉は短く息を吐き、矢場の表を差し替えた。
「こっちはこっちを守る。向こうが来たら、追い払う。追ってはならない。距離を取る。『奪い返す』を口にした者は、私が止める」
「止め切れるかどうか、わからない」
悠真は正直に言った。
「『守る』の言葉は甘い。甘い言葉は、時々、刃より人を動かす。奪う側にも、守る言葉がある」
「わかってる」
茉莉は頷いた。
「だから、あなたの“観測網”を広げて。乱れの種を早めに摘む」
夜。
風が右へ流れる。草が右へ倒れる。
第一波。獣の群れは、最初から右柵に集まった。
矢の軌道が頭上を渡り、肩甲骨が開閉し、緊張で震える指先が放たれる。
観察者の視界は、矢の初速、弦の湿り、足の開き、狙いの癖――細かなずれを拾って合図に変える。
「二秒、遅らせろ」
蓮が頷き、突撃のタイミングを二秒遅らせる。
波の峰が柵にぶつかる直前、前に出て“押す”。倒すのではない。“ずらす”。
柵の角度が変わる。獣の重さが半身分だけ右に流れる。
蓮の棒が膝を打ち、戦闘班の男子が横から刈る。
矢は節約。火矢はまだ。
じわじわと夜が削られる。
右柵の赤い点は増えるが、土嚢が効く。水が布を重くし、火の舌が伸びても、布はすぐに黒い煙だけを吐いて沈む。
「左、回れ。右の視界を外から貸す」
連結視界を短くつなぎ、左から右を覗く。
死角が削れ、矢が一本分だけ賢くなる。
第一夜は、持ちこたえた。
柵の前に倒れた死骸が、夜明けの色で灰色に変わる。
住民は無表情に、しかし指示に従って家から出て、遺骸を引く。
茉莉の額に汗。舌打ちしそうな口元を、彼女は固いまま結んだ。
二夜目。
空気が昼から重かった。遠くの空に赤い筋。
夕暮れの前に、東の町が崩れた。
柵の向こうから人の群れが押し寄せる。
足音がバラバラ。泣き声。叫び声。
「入れてくれ」「お願い」「子どもが」「水を」
「入れたら守れない」「入れなかったら死ぬ」
柵の内側の空気が濁る。
茉莉の瞳が揺れた。
決断が、いつもの彼女の速さから半歩遅れる。
「一次隔離。井戸の南。配給は半量。夜間は出入り制限。明日、再配置」
それが彼女の判断だった。
正しい。だが、甘くはない。
誰もがそれを理解して、誰もが納得しきれない。
観察者の視界に、浅い赤が井戸の周りに広がる。
「自分の分が減る」と感じた者の肩に硬さ。
「自分の正しさが否定された」と感じた者の頬に熱。
小さなぶつかり合いが、柵の内側でいくつも生まれる。
その隙を、第三波が嗅ぎ取った。
火の手。風は変わらない。
右柵に再び重さが乗り、左から低い影が回り込む。
矢の初速が下がり、弦の湿りが増える。
慌てて張った布が、まだ水を飲みきっていない。
「二秒遅らせろ!」
悠真が叫び、蓮が動く。
だが、柵の内側で人と人の肩がぶつかった。
難民を隔離する役を割り振られた保護班の男子が、戦闘班の女子に吐き捨てる。
「外にばっか目を向けてるから、内側が崩れるんだ」
返す拳。
茉莉の叱責。
叱責の言葉が、外よりも内の熱に吸い込まれた。
混乱の縁で、人間同士の乱闘が始まる。
塔の上で、拍手。
アルトの手拍子は乾いていた。
「素晴らしい。守るとは、奪うより難しい。だから面白い」
吐き気がした。
悠真は走りながら、黒を探す。
この“町”にもあるはずだ。壁の裏。ログ。
目が井戸で止まった。
水面が黒い。
覗くと、黒ガラスが井戸の底に敷かれていた。
水が鏡になり、底が夜になっている。
映っているのは、今この瞬間ではなかった。
別の町の過去の守備だ。
同じ配置。
同じ炎上。
同じ絶叫。
画面の隅に、冷たい文字が走る。
『ログ再生:環境一致率 87%』『結果推定:右柵陥落、住民消失率 48%』
繰り返されている。
結果も、たぶん。
茉莉が右柵の前に立ち、盾を構えていた。
連結視界越しに、彼女の呼吸が見える。
荒い。速い。
正しさで走る人の呼吸だ。
「茉莉、二秒」
「わかってる!」
彼女は即座に命令を飛ばし、盾の角度を変え、柵の支えを外側へ一歩出させた。
波が滑る。重さが半歩流れる。
蓮の棒が膝を撃ち、矢が一本だけ賢く刺さる。
混戦は混線の一歩手前で踏みとどまった。
しかし、井戸の水面に再生される過去の“守る”は、変わらない。
火は柵を舐め、住民の半分が薄い泡になって底へ吸い込まれていく。
数字は、冷たい。
「切るぞ」
悠真は井戸の縁に手をかけ、一瞬だけ水面に触れた。
冷たい。
指の先に、記録の温度が移る。
観察者の視界が井戸の底に仄暗い扉を見つける。
“参照権限:審判”。
扉は固い。
今は開かない。
開ける鍵は、きっと別の場所にある。
ここに長居をすれば、内側の火が広がるだけだ。
夜明け、鐘。
風が止み、煙が遅れて上がる。
町は半分焼け、柵は右側が歪み、住民の半数が“ログ”に吸われていた。
参加者は六十を切った。
顔ぶれは、昨日まで知っていた班の形をしているのに、数が減ると誰もが少しずつ別人になる。
茉莉は膝をつき、嗚咽を飲み込んだ。
「正しいこと、してるはずなのに」
肩に手を置く。
慰めにはならない。責めにもならない。
その中間の温度で、手を置く。
自分が選んだ“第三の道”――秩序にも反乱にも寄らない線引きが、人を救えたのか。
答えはまだ出ない。
出たとしても、今日の分には届かない。
アルトが塔の上から告げる。
「よく耐えた。次は休息を与えよう。だが忘れないで。“帰還”の枠は、ひとつだ」
人の動きが止まった。
休息の言葉は甘い。
甘い言葉は、時々、刃より深く刺さる。
半分になった人数の中で、「ひとつ」という数字だけが鮮やかに浮いた。
茉莉は立ち上がり、乾いた唇を噛んだ。
「休む。けど、終わらせない。次は、同じを繰り返さない」
「同じを繰り返さないために、同じを見に行く」
悠真は井戸の方を見た。
水面は静かで、ただ青いだけだ。
けれど、底に扉はある。
黒ガラスは、今日を記録している。
音も、足も、火の回りも、誰が誰を殴ったかも。
そこに“審判”がいる。
アルトの肩代わりか、あるいは別の何かか。
「紅葉に、観客席を頼む」
悠真は小声で言った。
「ここで見せる。この“守れ”の設計の、裏側を」
茉莉は頷き、まっすぐこちらを見た。
正しさで走る瞳に、半拍の間だけ、違う光が入る。
疑いではない。
信じるでもない。
“委ねる”。
その光は、彼女には珍しい。
午後、瓦礫を片付けた。
誰がどこで倒れ、誰の腕がまだ温かいかを、淡々と確認した。
難民に水を配り、隔離を解いて、寝床を寄せた。
柵を立て直す。
蓮が黙って棒を削り、刃ではない先端を磨く。
「ずらす棒は、折れにくい方がいい」
「そうだな」
ふたりで笑って、すぐにやめた。
笑いの居場所が狭い日は、笑いがよく転ぶ。
けれど、転んだ笑いでも、拾えば役に立つことを、俺たちは知っている。
夕暮れ、紅葉から短い返事が届いた。
《観客席、一脚。夜明け前、井戸の縁》
《査問の返礼。私の“個人の裁量”で、そこだけ開ける》
字は整っていて、読みやすい。
茉莉に見せる。
「ありがとう、と伝えて」
「伝える」
夜が来る。
休息は与えられた。
与えられた休息は、罠にもなる。
油断の眠りは深く、目覚めは遅い。
交代で眠り、交代で見張る。
蓮は短く寝て、短く食べて、短く笑った。
茉莉は回廊を回り、決まりを整える。
俺は井戸の縁に立ち、黒い水面を見た。
観客席は、ここだ。
紅葉の“個人の裁量”で開く一脚。
そこに座って、見せる。
守るはずの設計が、どうやって人を奪い合いに向かわせるか。
“守る試練の皮を被った内戦”の、裏側を。
見せることで、やっとルールになることがある。
記録は、居場所を作る。
居場所が増えれば、刃の向きは少しだけ鈍る。
それで十分とは言わない。
けれど、十分の一秒、矢の初速を落とせるなら、今夜の右柵は昨日より賢い。
風の音。
柵が鳴り、夜鳥が短く叫んだ。
休息の鐘は、甘い。
甘いけれど、目は覚ましておく。
井戸の底では、黒い扉が静かに呼吸している。
扉の向こうに、明日の手がかりが眠る。
明日が同じにならないために、今日を見届ける。
観察者の目は、眠くても開いている。
その目の奥で、右柵の赤が薄くなった。
二秒の合図を、もう一度確かめる。
そして、息を揃える。
守ることは、奪うより難しい。
だから、俺たちは難しい方を選ぶ。
選び続ける。
明け方の前に、井戸の縁に一脚置かれた椅子が、薄明の色で白くなる。
観客席は、空いている。
そこに誰が座るのか――それが、次の夜の形を変える。
悠真は指先で柵に触れ、感触を覚え、ゆっくり手を離した。
夜はまだ、終わらない。
けれど、同じ夜にはしない。
そのための準備は、もう始まっている。




